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――考察断片集 原稿『大地と十字架』に書き込んだ、ロレンスとニーチェとの関係についての考察 Lの推理が始まる。 ――最初にニーチェが、「逆というもの」、つまり反対の顔つきの仮面をつけたとき、それはニーチェが家族と親しい友人たちのあいだで暮らすための必死の必要事であった。というのも、彼は彼の出会った生の内的な危機とその克服という出来事を、彼の最も身近な親しい者にさえ、否、何よりもまずそれらの者に対してこそ、秘匿しなければならなかったからだ。彼の親しき人々も知る由がない生の内的な危機がニーチェを襲っただけではなかった。彼はそれを親しい人々のためにこそ隠さなければならなかった。なぜなら、その危機を彼らが見てしまえば、彼らは愛するニーチェのおぞましい変身に耐えられなくなり、彼ら自身が破滅するかもしれないからだ。彼らを絶望から救うために、そのときニーチェが被った仮面とは善良なキリスト教徒という仮面である。そうではなかったろうか? 次のことはよく知られている。ニーチェは少年期をとおして、彼が五歳のときに失った熱心なプロテスタントの牧師であった父を崇拝していた。ザロメはニーチェその人から直に聞いたこととして、こう書き残している。「むしろニーチェはくり返し強調していた、両親が住んでいた牧師館のキリスト教は、彼の内面的本質に――『健康な皮膚のように』、『ぴったりとしなやかに』合ってしまった、と」[i]。妹エリザベートの証言によれば、ニーチェはその頃周囲から「小さな牧師さん」[ii]との愛称を得ていた。彼の家族、隣人、親しき友、彼らはそういうニーチェこそを誇り、愛し、そうであるがゆえに幸福だった。 Lはこれらの証言を彼の手帳にメモすることを忘れていなかった。アンダーラインさえ引いていた。それからしばらくして、LはD.H.ロレンスの文字通り最後の作品『黙示録論』を読んだ。それはLをいたく刺激した。なぜなら、それは最後の一点を除けば、そしてその一点は決定的でもあるのだが、九分九厘ニーチェのキリスト教批判と軌を一にするものだったからだ。イエスの愛の思想とキリスト教を実際に駆動している憎悪と闘争心に燃え立つユダヤ的ルサンチマン欲動とを峻別したうえで、後者を前者の視点から糾弾するという構図を取る点で。しかもまた、そのキリスト教批判の根底には、古代ギリシアに継承されたオリエントの大地母神信仰に対する古代ユダヤ教が遂行した憎悪に満ち満ちた激越なる闘争を、ユダヤ的な父権的な攻撃性の起源に見るという視点が据えられていた点でも。 ただし、Lの見立てでは、ニーチェはそこからさらに一転し、今度はディオニュソス的な暴力に対する言祝ぎへと己を突入させる。明らかに自己の内なるイエスを亡き者にせんとする自虐の快楽に燃え立つ雄叫びをあげながら。他方ロレンスはイエスの愛の側に留まり、さらにそれを大地母神的愛へと転成させながら、第一次大戦がその序曲となり、彼が死に際にその開幕を見た二十世紀の全体主義的暴力――コミュニズムとファシズム――の狂風に最後まで抵抗を果たそうとする。『黙示録論』とはいわばこの決意をしたためた彼の遺言書だ。 その冒頭でロレンスはこう書く。「顧みるに聖書は、ごく幼少のおりからずっと成年期に至るまで…(略)…毎日のように私の無防備な意識のうえに灌がれつづけてきたもの」であったが、そのことで、「いまやそれはすっかり体内に浸透したあげく、ついに一つの力として情欲と思惟の全過程を左右するまでに至ったのである」[1]と。しかも、このことが逆説的にも彼の世代に次のような反抗気分を産み出しのだ、と。 「過程がみずからその目的を無効にする。ユダヤ人の詩が我々の情感と想像に貫入し、ユダヤ人の倫理が我々の本能にまで透徹してゆくうちに、精神はひとえにかたくなとなり、反抗的と化し、ついには聖書全体の権威をも拒否し、一種嫌悪の情をもって聖書に面を背けるに至る。これこそ、私と世代を同じくする多くの人々の精神状態でなくしてなんであろう」[2](傍点、L)と。 まさにニーチェこそはこうしたロレンスの自己認識の先駆けであり祖型である。そうであるがゆえに、彼はロレンスの世代の西欧知識人の胸の只中に、彼らの心臓を射るようにして舞い降りる。この精神史的文脈が理解されなければ、ニーチェの死の直後から西欧知識人のなかで始まる狂熱的なニーチェ発見・ニーチェ復興の理由を理解することはできない。そうした徹底的なる内面化と、それゆえの反抗は、石田英一郎風にいえば「父権的・遊牧民的・上天神的・合理主義的信仰圏」においてのみ引き起こされる精神史的事態なのだ[3]。こうした事情なぞ到底、これまた石田風にいえば、「母権的・農耕民的・大地母神的・多神的アニミズム的・カオス的信仰圏」に――しかも、異民族的他者との血で血を洗う争闘を経験することなく己の歴史を形成したという稀有なあり方で――帰属する日本人に到底は知りえないもの、想像の埒外にあるものだ。だからこそだ。このロレンスの証言は噛み締められなければならない。またそこから今度は、ニーチェの内的矛盾を、彼の仮面を被る決意というものを想像しなければならない。Lはそう確信する。彼はそのときニーチェとロレンスを繋ぐ精神史的な赤い糸を発見した[4]。いつか、彼はその追跡を始めるに違いない。 テクスト研究会シンポジウム(2011,08,26 甲南大学)での発言要旨
I. 「薔薇園の影」におけるimpersonalなもの u 結論的主張:このロレンスの短編の最重要な主題は、この短編のラストで主人公の夫婦が妻のかつての恋愛をめぐる諍いの果てにどこへと導かれたかという点に関して、次のように書かれるとき、そこに登場する「impersonal」という形容の孕む意味をどう掴むかという問題のなかにある。すなわちこう書かれる。「二人は余りに大きな衝撃を受けたために、個人の感情を失い、したがってお互いを、もう憎んでいなかった」(井上義夫訳、『ロレンス短篇集』ちくま学芸文庫p88) They were
both shocked so much, they were impersonal, and no longer hated each other p15。 ここで、「二人は余りに大きな衝撃を受けたため」と書かれるが、これは個人というものが抱えざるを得ない絶対的とも呼びうる孤独に、双方がその諍いの果てに突き戻されるということを指す。夫は、妻とかつての愛人とが結んだ関係への嫉妬から妻との諍いに導かれるが、しかしその果てに、妻がこの問題をめぐっていかに深い絶望を抱えているかを知り、その鋭さと重さを知って、到底自分が近づけない世界のうちに彼女がいることを思い知り、「二人を隔てる淵の大きさが、ようやく…(略)…理解できた」p87 At last he had learned the width of the breach between them. p15地点に進む。そして夫は、独り絶望を噛み締める妻の孤独を犯してはならないと感じだす。「接触することは、お互いを冒瀆することになる」p87と感じる。また、そこまでいって、彼は彼女への憎しみを捨てるし、彼女もまた――おそらくこの自分たちの諍いが夫に強いるに違いない絶望と孤独を想うことで――彼への憎しみを捨てる。He could not go near her. It would be violation to each of them to
be brought into contact with the other. つまり、彼らは自分たちの互いの絶対的な孤独を自覚することによってimpersonalになる、とそうロレンスは捉えているわけだ。また、少なくともそうなることによって、二人は「憎み合う」ことからは解放されるといわれる。 では、impersonalになって憎み合うことから解放されることは、この二人を、これまでとは違った次元であれ再び「愛」と呼ばれるべき関係へと進ませることなのであろうか? それとも、それはもはや両者互いに決定的に無関心となり、互いが己の絶対的孤独性のなかに引きこもるがゆえに憎しみとともに愛もまた捨て、ただその意味においもはや憎み合うこともない、ということなのであろうか? 短篇はこの問いには答えることなく、妻を残し部屋を出ていく夫の後姿をただ描いて終わる。では、この問いを携えて改めてわれわれがロレンスの他の諸作品やエッセイを振り返ったなら、どんな問題にぶつかることになるのだろうか? すると、われわれはこの問題が彼の「愛」の思想の中心的テーマとなっていることを見いだす。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用① Ø ところで、このimpersonalになるという問題には、もう一つ別な側面がこの短編には描かれていることに我々は注目しておかなければならない。それはこの短編の「薔薇園の影」というタイトルが暗示する問題にもかかわる事柄である。妻が、彼女にとって故郷と匹敵するほどの意味をもつこの旅行先の土地で、いまは狂人となったかつての愛人に再会する場所となる薔薇園は、ロレンス特有の著しく色彩性に富んだ濃厚な自然描写を通じてきわめて濃い存在の密度=強度を示すものとして登場する。そしてこの薔薇園での妻の逍遙は、この薔薇に自分を自己同一化し、自我という意識存在としての存在性を喪失することと引き換えに、逆に、いわばプラトン風にいえば「真実在」としての存在性を獲得する幸福な瞬間に接近する過程として描かれる。 Ø 「自分は一本の薔薇――それも完全に開ききっていない、固く張り詰めた薔薇の花だった」p73 と書かれ、そのさいの彼女の存在の様式は「もう自分というものがなかった」p73 She was not herself p8と書かれる。つまり、彼女が薔薇に自己を同一化して「真実在」的存在性を得ている状態もまたimpersonalな状態なのである。 Ø ここに至って、「薔薇園の影」というタイトルは次のような含意を孕んでいるのではないかと我々に推測させるものとなろう。プラトンの有名な「洞窟の比喩」をここに補助線として持ち出すなら、薔薇園は「真実在」の世界を表し、他方自己意識的・自我的存在である限りの人間は仮象的存在、真実在の「影」存在でしかないという理解、これがこの短編の基底に据えられているに違いないという推測である。 Ø そうであるなら、この短編においては人間がimpersonalな在り方を取る場合に二つの場面、つまり絶対的孤独性への引きこもりと自然への自己同一化との二つの場面が考えられていることが明白となる。 Ø すると、またもやここで新しい問いにわれわれは直面することになろう。つまり、この二つの場面は相互にどう関係するとロレンスによって把握されていたのか? またその問題は先のくだんの「愛」の可能性という問いとどのように関連するのか? という問いである。 u 予期される問いは次の諸問題ではないだろうか? Ø 自我同士が結び合う愛の関係は必ず双方を愛と憎悪のアンビヴァレンツの中へと引き入れ、愛を瓦解させてしまう必然性を人間に負わせる、この認識がまずロレンスにある。するとロレンスは、人間同士がimpersonalな在り方で互いに関係する場合にのみこのアンビヴァレンツから解放された愛の関係が可能となると、そう考えたのだろうか?という問いが立つ。と同時に、この推測は、すぐさま、次の問いを倍音の如く伴うことになろう。すなわち、impersonalとなった人間の間にはそもそももう「関係」ということ自体が消滅するのではないか? そして「関係」というものが消滅するなら「愛」もまたそもそも問題ではなくなるのではないか?という疑問である。 Ø すると、ここに次の問いもまた改めて浮上しよう。ロレンスは「関係」というテーマをそもそもどう考えていたのか? 先に「to be brought into contact with the other.」といわれる場合、それがviolationとならないcontactというものもロレンスは考えていたのか、それともcontact=violationと考えていたのか?という問題でも、それはある。(violationという問題の掴み方については➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑧) Ø 私の見当では、ロレンスは次のような思想を抱いていたと思われる。すなわち、愛し合う者同士が互いの絶対的孤独を相互承認するという次元にまで高まったcontactというものがあり、それが関係性を相互のviolationとさせない保証となると同時に、「愛」という関係性をイエス的レベル――『黙示録論』の言い方を使えば「大いなる優しさと穏和と没我の精神」・「諦念」・「瞑想の平和、無我奉仕の歓喜、野心からの離脱、智慧の悦楽」等々を成立条件にする愛のレベル――に高次化して実現することになろう、という展望である。つまり、彼は究極的には《violationとならないcontact》の可能性を追求した。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑨ Ø このことは、ロレンスが、他方では、人間の孤独化=他者とのcontactの喪失こそ人間をして破壊的暴力の激情のなかに身投げさせる最大の心理的要因であると認識していたことと深く関係していると思われる(典型的な作品は「英国、わが英国」)。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用②③ Ø では、以上のことと、宇宙的自然そのものとの一体化という意味での個人の存在のimpersonal化という、人間の存在実現にかかわるもう一つの展望とは、この問題においてどうクロスするのであろうか? おそらくこの問いにこそ、『翼ある蛇』から『チャタレー夫人の恋人』に至るロレンスの思想の展開を促す中核的な問題としてのセックスの問題、『翼ある蛇』での言い方を使えば「小さなセックス」と「大いなるセックス」との相対立し合う両面性において性の快楽経験が問題にされ、その経験を元手に如何なる実存実現の展望が思弁されたのか、という問題が据えられているに違いない。 Ø こうした問題は既にしてはるかに短編「薔薇園の影」をはみ出してしまう問題ではある。だが、この短編はそうした問題への通路をimpersonalという言葉を自らのキーワードとすることで展望しているといえよう。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用④⑤⑥⑦ II. 「ナポレオンと田虫」における非意志的な力への視座 u 結論的主張:この横光利一の短編の主題は、19世紀西欧において、近代西欧精神の原理となる「意志」と「個人」のいわばシンボル・メタファーであったナポレオンを次の風刺的な喜劇的な問題構造のうちに引き入れることで、「意志」と「個人」の二大原理からいわば存在論的権威を奪い、それらを虚妄化せしめることにある。すなわち、「意志」のメタファーたるナポレオンに非意志的なる力のメタファーとして「田虫」を対決させ、ナポレオンと田虫との闘争を「意志」と非意志的な力の闘争として戯画的に描き、さらにこの闘争を平民ナポレオンの皇女ルイザへのルサンチマンと怨恨的復讐心に貫かれた欲望のサド=マゾヒズム化を同時に帯電するものとして提出し、この下意識的欲望の複層構造体こそがナポレオンのロシア遠征の権力意志を《他所的な仕方で決定するもの》として示すことで、まさにナポレオンにメタファーを見いだした西欧近代の「意志」と「個人」の文化の虚妄性と破壊性を嘲笑するのだ。この横光の観点は、一方では昭和二年に改造社から出版された短篇集『春は馬車に乗って』のなかの「街に出るトンネル」のなかで「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」と呼ばれることになる心理分析理論に連結するとともに、他方では現代社会をつねにカタストローフのパースペクティヴのなかで問題にする視点、「蠅」、「街に出るトンネル」にも分有されながら「静かなる羅列」において決定的な表現に達する視点に繋がる。しかも、横光はこの西欧の「意志」と「個人」の文化への批判においてその対決者として「東洋」を意識していることが、ここに既に暗示されている。ナポレオンのヨーロッパ征服の戦域地図のパロディーとして登場する、ナポレオンの腹上に繰り広げられる田虫の白癬の支配図は、白癬に治療として「東洋の墨」を塗ることによって明示化されたと、この短編では書かれるのである。➩短篇集『春は馬車に乗って』からの諸引用 u この短編では冒頭ナポレオンは「奇怪な」・「恐るべき占いから逃れた蛮人のような、大きな哄笑」を笑う。その「奇怪な哄笑」とは、自分が前述の「下意識的欲望の複層構造体」の機構メカニズムの奴隷となったことの自虐的自己認知の笑いであると同時に、この機構メカニズムが、それの奴隷となった「意志」を嘲笑している笑いでもある。自虐的認知とそれが生む笑いは自己への距離化が初めて可能にするし、その距離化とは、自己を嘲笑する機構メカニズムの側にいわば主体転換を図ることである。視点を機構メカニズムの側へと移すことである。そこでは、ロレンスの愛用する言葉を援用するなら、impersonalなものが、己を信じようとする「意志」と「個人」に対して、その不可能性を嘲笑しているのであり、その嘲笑に自己同化して己を自虐的に笑う時、笑いの視座はこのimpersonalなものへと移動している。結論からいえば、その哄笑とは、突き詰めていけば、サルトルがフローベールの小説を貫く視点を形容して述べた言葉をそのまま援用すれば、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」(『家の馬鹿息子』邦訳第三巻)となる。(なお付言すれば、かくサルトルがいうとき、彼はこの言葉で暗にニーチェが「笑うことを学べ」と主張するさいの「哄笑」を指してもいる。) u ここでロレンスの「薔薇園の影」で問題となったimpersonalという概念を援用していうならば、「ナポレオンと田虫」はまさにナポレオンにおけるpersonalな力としての「意志」とimpersonalな力としての田虫との闘争的関係、ならびにそこに投影されてくるルサンチマン的復讐欲望と性欲との複層的混淆的なimpersonalな力とナポレオンの「意志」との闘争的関係、そこにおけるナポレオンの敗北、つまり「意志」と「個人」の敗北が、フランス国民を筆頭に全欧州の人間をカタストローフの奈落へと投げ込む事情を描くのである。 u 「薔薇園の影」と、「ナポレオンと田虫」とは直接にテーマを共有するものではないが、「意志」と「個人」の概念に支えられたpersonalな力とimpersonalな力との抗争というテーマがロレンスの思想全体のなかでもつ広がりを考慮に入れれば、両作品のあいだにいわばブーメラン的旋回の果てに結節を得る一点を設定することは意味あることだと思われる。それは一つには人間の歴史というものをまさにカタストローフへの没落という観点から問題にするという視座であり、もう一つは、そのような破壊的で暴力的な戦争意志というものが実は性的欲望の自己疎外的在りようによって誕生せしめられるという視点である。以下、その事情について次のⅢで述べたい。 III.
両作品の交差するトポスをどこに求めるか――私の場合 u 短篇「薔薇園の影」に登場する「impersonalなもの」というテーマがロレンスにおいてどのような諸問題を内包するテーマであったかを探索していくと、特に『翼ある蛇』から『黙示録論』へと至る彼の思索の線上において、それは次のテーマへと展開していくものであることがわかる。すなわち、ロレンスによれば、人間が古代においては生き生きと保持していた宇宙的生命との有機的結合の感情的絆が遮断され失われることによって、人間は己の実存にその生命的力の感情において深い欠乏・空虚を感じるようになる。この過程は西欧近代においてはいっそう加速せしめられる。そして、人間はこの内なる空虚化を補償的充填するものとして、いいかえれば宇宙的生命力の代理物として、破壊的暴力の力の感情を求め、かつそれに強く誘惑される。この暴力的な力の感情は、そもそも人間存在の「集団的自我」としての側面の原理をなす「権力意識」・「権力欲望」(ニーチェ風にいうなら「権力への意志」)が、その敗北経験をとおしてルサンチマン化するや、激情的な復讐欲望へと転成するという問題場面のなかに己の最高の発揮の場面、自己実現の場面を見いだす。つまり両者はそこで互いを最高のパートナーとして見いだす。ロレンスはこの事態の劇的な登場を第一次大戦の勃発とその後の経過のなかに見いだし、かつ第二次大戦の勃発の予感を得た。ハンナ・アーレント風にいえば、ファシズムとコミュニズムの「二つの全体主義」がその予兆にほかならなかった。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑪⑫ u 横光の「ナポレオンと田虫」はこの問題文脈に最も敏感に照応した、戦前日本の近代文文学における、見事な小作品として問題にすることができる。何よりも、そのカタストローフ感覚において期せずしてロレンスと呼応し合い(おそらくより直接的にはドイツ表現主義・ダダであったろうが)、このカタストローフを西欧近代精神の象徴・メタファーたる「意志」と「個人」のimpersonalなものの力に対する敗北として描き出すことにおいて、問題設定の共通性が見いだされる。 u そしてまた、この「意志」と「個人」の政治的ないし社会的な行動場面での敗北が、その表向きの政治的仮面の下に自己の内なる「性欲」の場面での敗北・ルサンチマン・復讐のサド=マゾヒズムをめぐる一連の問題群を隠し持つものであり、それの転写物という心理的関連に浸されているものだと見る、その視点においても、問題設定の共通性が見いだされる。 u しかしながら、ロレンスにあって横光にないものは、ロレンスを特徴づけるかの「大いなるセックス」の宇宙論的形而上学的ヴィジョンである。しかしながら、横光にはそういう宇宙論的形而上学的ヴィジョンをもたないが故に、昭和2年(1927年)に発表された短篇集『春は馬車に乗って』の横光の文体は、ロレンスよりもはるかに2011年の現代日本において新鮮であるともいえる。彼の文体は、クールで、打ち割られた鏡面の破片の如き鋭い短いセンテンスが映画のショットのような切断・弾み・スピード感溢れるリズムをもって物語を構成する。その文体は世界描写においても、登場人物の間の分裂的なすれ違いに弾むディアローグの構成においても、いかんなく発揮される。 文献資料 IV.
当該問題に関連するロレンスからの諸引用 ① 「impersonalになる」という問題の環は、ロレンスの自己認識の核心にかかわる問題である。羽矢謙一訳『愛と生の倫理』(南雲堂、1957年)で彼は自分をこう述懐している。「つまりわたしには、わたしと社会とのあいだに、あるいはわたしと他の人たちとのあいだに、何ら心からの、または根本的な接触があるとは思えないということである。みぞがあるのだ。だからわたしが接触する相手は人間的なものではない。わたしの接触は非人間的な、言葉に頼らない接触なのである」(傍点、引用者 p8) ② 「英国、わが英国」:イーヴリンはその「抽象的」な存在の仕方のゆえに空虚であったが、戦争の勃発によってその空虚を生きるための唯一の方法を見出した。それが破壊欲望に身を投じるということであった。戦争の勃発は彼の魂に「戦慄」を走らせる。啓示が来る。絶対的無関心という「中立的な立場」を、いまや彼は捨て「魂は…(略)…明確な形をとるようになった」(p252)「ヒースの荒野の谷間で木々につつまれ、ゆるやかに傾斜した彼の庭、その絶対的平和のなかで、彼はある破壊的活動が進行していることに気づいた。軋轢の渦、破壊の大波と、前進する軍隊に気づいた」(p253)「破壊することだけが、最も深いところにある彼の欲望を充たした」(p257) ③ 「抽象的」存在であること=孤独:「孤立した状態、宙吊りになった状態で、…(略)…それらすべてとの間に物理的な関係はあるが、霊的な接触というものはない。彼自身の現実は、完璧な孤独と抽象のなかにある」(p258)「他と関わりのない、混じり気のない抽象物、至福の砲術操作の権化」(p259) ④ 大きい性と小さい性 (『翼ある蛇』角川文庫、上p214):ケイトはインディオたちの古代的な踊りの輪に参加する。その時の様子はこう書かれる。「男たちも女たちも、同じように顔をうつむけ、無表情に、心を奪われたように踊った。男たちは大いなる男性のなかへ、女たちは大いなる女性のなかへ、深く心を吸収されていたのだった。それはセックスにちがいなかったが、大いなるセックスであって、小さいほうのセックスではなかった。」いわば宇宙的な男性性と女性性(男の大我と女の大我)とのあいだに誕生するセックスの「大海」のなかへと、ケイト自身が溶解し、ケイトは宇宙的「女性性」へと同化し解消され、「彼女は彼女自身ではなく、消えうせてしまい、彼女自身の欲情は大いなる浴場の大海に没入してしまっていた」と描写される。それは「欲情を越えた欲情」ともいわれる。つまり、くだんの問題である「lmpaersonal」という概念を援用すれば、「大いなるセックス」のなかでは男女は互いに大我的男女となっているが故にlmpaersonalとなっており、そのセックスはlmpaersonalなsexになっている。 ⑤ 他方、「小さいほうのセックス」は通常思い浮かべられる性的快楽である。ロレンスは次のように描く。「摩擦的なもので、刺激の焔と摩擦的な官能的快感の痙攣」(下p303)、「燐光のような官能的狂喜の輪になってめらめらと燃えあがり、最後に狂おしげな痙攣となり、無意識的な叫び、断末魔の叫びのような、愛の交わりの最後の叫を放たせる痙攣」(下p304)と。そして、ケイトにとっても、これが彼女のセックスにおける快楽経験であり、欲望目標であった。「それはこれまで彼女が『満足』と呼びなれていたものだった」(下p303 )だが、シプリアーノはその状態へとケイトを導くこと、ないし追い込むことを意識的に回避する。ケイトがそこへと向かおうとすることを察知するや退く。ケイトは、そのように彼がそれをつねに回避しようとしていることに気づくことによって、自分がこれまではそれを追い求めていたことに逆に気づかされる。その事情はこう書かれる。「シプリアーノは、そのようなことを彼女と共にすることを拒み、奇妙にそれを彼女にとって外部的なものにした。彼女の異様な、わきかえるような女性的な意志や欲望は、彼女の内部で静まり、消し去られて、彼女はやわらかく、たくましく力強くなった。あたかも、温泉の湯が音もなく、やわらかくわき出ながらも、秘めた力をもって、きわめて強力であるのに似ていた」(下p303)。こちらのほうが「大いなる性」における快楽である。温泉のようなやわらかの温もり、抱擁的な暖かな浸透性、沈黙的静謐、「わき出る」とか「ひらく」という開闢的な存在感覚、これらによって特徴づけられる。 ⑥ 『愛と生の倫理』では「小さなセックス」と「大いなるセックス」との関係はこう書かれる。「両者のこの上なく烈しい性愛の焔によって、摩擦し合うすさまじい破壊的な焔によって、わたしは破壊され、女の本質的な『他者』の中に吸収されてしまうのだ。これこそまさに破壊的な焔と言うべきであり、つまりは穢れた愛に他ならぬ。しかし、またこの穢れた愛の焔によってはじめて、二人は浄化されて『独り』となり、混沌の状態から逃れて、宝石のような、唯一なる個別的存在へと融け変わることができるのである」(傍点、引用者 p20)「そこには、共に融けあい融かしあって一つになろうとする運動としての愛と、灼きおとし、灼きはなして、それこそ互いに全くの『他者』となってしまった、純粋な個別存在だけを残す、凄まじい、摩擦的な官能の充足としての愛とがあるのだ」(p20) ⑦ ここでは「小さなセックス」の燃焼の頂点が初めて「大いなるセックス」への転入口となり、「大いなるセックス」では「宝石のような、唯一なる個別的存在」がもつ本来的な互いの絶対的孤独性の相互承認という形での奇しき一体性が実現される、そのようにロレンスは展望しているように思える。 ⑧
凌辱と被凌辱のサド=マゾヒズム p下48~53:ロレンスは、現代の人間の抱える中心問題を、サルトル的にいえば「我有化」欲望を戦わせることによって結局《凌辱と被凌辱のサド=マゾヒズム》関係に墜ち込むことのなかに見ている。そして、この「我有化」欲望の最も普遍的でかつ凝縮された場面は男と女の性愛の欲望の舞台なのである。私としては、ここに「凌辱」という性的欲望に強く関係づけられる言葉が、現代の人間関係一般を叙述する際のキーワードとして使われていることの意義について一考しないわけにはいかない。 ⑨
「一つの結合がなくては、よくありません。男が女を辱めるのもいけないし、女が男を辱めるのも絶対にいけません。それは一つの罪悪です。世には罪悪というものがありますが、それこそその中心なのです。男たちと女たちとたがいに辱しめ合いつづけるということがです。」この凌辱という問題は、「わがままを押し通すのは、辱めるか辱しめられるか、どちらかになる」というレベルで捉えらえている。(傍点、引用者 下p49) ⑩
私の視点からいえば、先にいったように、自我が自我たらんとする欲望に本質的に内属している「我有化」という欲望の地平で、ということだ。この人間存在の根源性において、「現在われわれはみんな、辱めたり辱しめられたりする崩壊作用」によって、宇宙的生命との生命力授与の回路を断ち切られつつあるといわれる。下p52 ⑪ 集団的自我の基軸としての「権力意識」:「黙示録は…(略)…達成しそこねた《優越》目標と、その結果惹起されたインフェリオリティ・コンプレックスの表れなのである」p59 「挫かれ抑圧された集団的自我、すなわち心中の挫かれた権力意識の危険な呻吟が復讐的な響きを伝えている」(『黙示録論』ちくま文庫p59) ⑫
二つの全体主義とロレンス:「人間の地上的権力を打倒して、そのかわりに大衆の否定的権力を樹立しようというクリスト教共同体の旧い意志が復活したのである。この戦いは今日なお惨害のかぎりを尽くして荒れ狂っている。ロシアにおいては、地上的権力に対する勝利が完遂され、レニンを頭とする聖徒政治が実現された」p55。「この全地上的権力打倒に向って、いまや吾々は漸進しつつあるのだ。殉教者の寡頭政治はレニンに始まった。そしてムッソリーニのごときは、明らかにその殉教者である。…(略)…アポカリプスは依然として巫術の書たる面目を失わぬ」p207 V. 短篇集『春は馬車に乗って』からの諸引用 ① 意志と非意志的力:「田虫には意志がなかった」p2.(p80)。この田虫と、他方「全世界を震撼させた」と形容される「ナポレオンの一個の意志」との闘争が問題となっている。つまり、意志と意志ならざるもの(自然、無意識、あるいは運命として構成される或る関係性)との闘争における、意志の敗北の風刺劇。「しかし、最後にのた打ちながら屈服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった」p2(p80)。 ② 相互メタファー:「それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているようであった」p3(p81) ③ ルサンチマンと復讐欲望:「ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮蔑を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上がると…(略)…ハプスブルグの娘の後姿を睨んだ」p7(p89) ルイザを引っ掴まえ、「ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性は、ルイザが藻掻けば藻掻がくほど怒りと共に昂進した」p7(p90)「この古今未曾有の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑せしめんとしている必死の戯れのようであった」p9(p92) ④ カタストローフへの視座:「しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。…(略)…朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。」 ⑤ 「静かなる羅列」のラスト:一大争闘がデルタの上で始った。/集団が集団へ肉迫した。/心臓の波濤が物質の傲岸へ殺到した。物質の閃光が肉体の波濤へ突撃した。/市街の客観が分裂した。/石と腕と弾丸と白刃と。/血液と爆発と喊声と悲鳴と咆哮と。/疾走。衝突。殺戮、転倒。投擲。氾濫。/全市街の立体は崩壊へ、―――――/平面へ、―――――/水平へ、―――――/没落へ、―――――/色彩の明滅と音波と黒煙と。/そうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現した。/大市街の重力は大気となった。/静かな羅列は傷つける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と水と油と川と。/ ⑥ 「蠅」のラストはよく知られている。馬車は馭者の居眠りによって崖下へ人馬まるごと墜落し、全員が死亡し、ただ馬の背に止まっていた「眼の大きな蠅」だけが、「今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった」と結ばれる。 ⑦ 「街に出るトンネル」の第一節は、主人公が次のような場面を幻視するところから始まる。「ふと彼はそこから崖の下へ墜落したトロッコの有様を眼に浮かべた。満載された人々の身体が一斉に口を開け、岩角に弾動しながら渦の中へ突き刺さるように降り込んでいった。だが、彼には人々の落ちる赤い口だけが、蝶々のようにいつまでも眼に映った」(短篇集『春は馬車に乗って』近代文学館復刻版p188) ⑧
「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」:お品は街に隠れている。計介は会いに行きたい。会って抱くという性欲が絶えず彼のなかで疼く。トンネルを峡谷を突き抜けさせ街に届かせるという目論見を計介に推進させる、誰も伺い知れない、実は最深の動機をなすものは、お柳とお品二人の女に抱いた性的イマージュ、「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」のイマージュなのだ。瀬川は、お品を、彼女の逃亡をそそのかした或る誰かの腕のなかでその性的イマージュを実現しているその姿態において想像し、それによってこそ気も狂わんばかりの嫉妬に陥り、なんらかの判断ミスに導かれるに違いない。他方、自分のほうはこのイマージュがいっそう自分のやる気を掻き立て、いっそう自分を戦術的合理性の追求においてクールにする。計介は作戦を凝らしてお品を奪う側であり、瀬川は隙を突かれて奪われる側だ。そう考えて、計介はこう考える。「つまる所、お品の一疋の線が街へトンネルを押し出す線であったのだ」(p222)。これを計介=横光は「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」(p222)と呼ぶ。
*「ナポレオンと田虫」以外の短篇集『春は馬車に乗って』からの引用はpp**で示す) 昭和二(1927年)に改造社から出版された『春は馬車に乗って』(以下『春は…』と略)は11の短編からなる短篇集であるが、これを分類するに、「病妻」篇(ただし、ここでいう「妻」には「妹」もはいる。「春は…」、「蛾はどこにでもゐる」、「園」、「慄える薔薇」、「妻」)と敢えていえば「機構的人間観察」篇(「ナポレオンと田虫」、「街の底」、「無礼な街」、「街へ出るトンネル」、「静かなる羅列」ならびに「表現派の役者」)の二つに大別しうるであろう。 ここでは、「機構的人間観察」篇に焦点を絞って、論じてみよう。そこでまず「ナポレオンと田虫」から入ろう I.
「ナポレオンと田虫」 n 意志と個人の近代的人間観への風刺的批判 冒頭で、「お前はヨーロッパを征服する奴は何者だと思う」というナポレオンの問いに、それは御自身だというネーの追従的答えに、再度ナポレオンは「いや。余よりもよく知っている奴がいそうに思う」と答える。p1(以下、この括弧内は岩波文庫『日輪・春は馬車に乗って』の頁数を指す。p77) 短篇が示す答えは、《それは田虫だ》という答えである。ここにこの短編の主題がある。 n また、このナポレオンにおける自嘲的な自覚は、彼に「奇怪な」・「恐るべき占いから逃れた蛮人のような、大きな哄笑」をもたらすと描かれる。P1(p78) Ø ナポレオンは19世紀においては「個人」と「意志」の、そのいわば超人的水準におけるシンボルであった。 Ø また、それは世界征服とそのための巨大な軍事力の行使の先駆け的シンボルであった。しかし、そのナポレオンの行動は、視点を換えれば、「それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているようであった」p3(p81)。ナポレオンの意志が頂点に立って産み出す、巨大な人間の行動地図は、同時に田虫が生む白癬の地図であった。 n 「田虫には意志がなかった」p2.(p80)他方、「全世界を震撼させた」と形容される「ナポレオンの一個の意志」との闘争が問題となっている。つまり、意志と意志ならざるもの(自然、無意識、あるいは運命として構成される或る関係性)との闘争における、意志の敗北の風刺劇。「しかし、最後にのた打ちながら屈服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった」p2(p80)。しかも、横光は、この白癬の地図は、治療のために東洋の墨をこの白癬に塗布したことによって表示されるようになったものと描き出すことによって、ナポレオンの意志が体現するヨーロッパ的精神を批判するものとして、「東洋」の視点というものを対置しようとしているのかもしれない。 n ナポレオンが象徴するヨーロッパ文化の原理である「意志」と「個人」に対して、田虫が生む白癬が象徴するもの、「東洋」が象徴するものとは何か? Ø 自然:田虫 Ø 無意識:平民ナポレオンの貴族王族へのコンプレックスと憎悪 ² ナポレオンは皇帝となるべくジョセフィーヌを捨て新たな皇后として迎えたハプスブルグの皇女ルイザに彼の腹の上に広がる白癬を見られてしまう。そのことを横光は、平民が貴族に抱くコンプレックスと、そこから生まれる復讐欲望、それが生むサド=マゾヒズムの視点から描く。 ² ナポレオンは、はじめそれを隠そうとし、次いで、その隠そうとした自分のコンプレックスを憎悪し、今度はルイザに見せつけようとし、それがセックスの欲望と織り交じり、性欲はレイプ欲望となって展開する。 ² ルイザは逃げる。「ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮蔑を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上がると…(略)…ハプスブルグの娘の後姿を睨んだ」p7(p89) ² ルイザを引っ掴まえ、「ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性は、ルイザが藻掻けば藻掻がくほど怒りと共に昂進した」p7(p90) ² p9(p92)この古今未曾有の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑せしめんとしている必死の戯れのようであった) Ø 意志それ自体を生産する動機の複層構造 ² 田虫への憎悪の転写・投射としてのロシア戦役 ² 美醜をめぐる平民的コンプレックスの転写・投射としてのロシア戦役 ² 侮辱され拒否された性欲は復讐的なレイプ欲望となり、阻止されたレイプ欲望は戦争欲望へと転写される。 ² 階級的憎悪心の深層性――皇帝ナポレオンを深層で規定している貴族階級への階級的憎悪と復讐心 Ø こうした動機の複層的構造は、一種の機構的メカニズムを形成し、関係性の力学が形成され、個人はもはやこの機構的メカニズムを支配するどころか、反対にその奴隷となる。 n ナポレオンの放つ「奇怪な哄笑」とは、しかし、あらためて問うに、一体誰がする哄笑なのか? ナポレオンには違いないが、さらにいってナポレオンのなかに住まう誰か? という問題になる。 Ø その「奇怪な哄笑」とは、自分がこの機構メカニズムの奴隷となったことの自虐的自己認知の笑いであると同時に、この機構メカニズムが、それの奴隷となった「意志」を嘲笑している笑いでもある。自虐的認知とそれが生む笑いは自己への距離化が初めて可能にするし、その距離化とは、自己を嘲笑する機構メカニズムの側にいわば主体転換を図ることである。視点を機構メカニズムの側へと移すことである。 Ø そこでは、ロレンスの愛用する言葉を援用するなら、impersonalなものが、己を信じようとする「意志」と「個人」に対して、その不可能性を嘲笑しているのであり、その嘲笑に自己同化して己を自虐的に笑う時、笑いの視座はこのimpersonalなものへと移動している。 Ø 結論からいえば、その哄笑とは、突き詰めていけば、サルトルがフローベールの小説を貫く視点を形容して述べた言葉をそのまま援用すれば、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」(『家の馬鹿息子』邦訳第三巻)となる。(なお付言すれば、かくサルトルがいうとき、彼はこの言葉で暗にニーチェが「笑うことを学べ」と主張するさいの「哄笑」を指してもいる。) Ø あとでもう一度取り上げるが、それは「無礼な街」のラストに描き出されるシーン、人間界全体のメタファーとなった「街」がまるで一個の人間の如く「俺は何物をも肯定する」と語り出し、それに主人公が「お前は錯誤の連続した結晶だ」と同じく傲然と言い返す、きわめてニーチェ的な気分を横溢させたシーンに自ずと浮上してくる、横光のニーチェ的な「全肯定主義」がもたらす「哄笑」ともいいうる。そのシーンとは以下の如きものである。(蛇足となるが、この場面で主人公は「街」――人間界――全体を「脚下」に置く、超越的位置に立っているのである。この「街」と主人公の言い合いは、こういう関係を指示している。「俺は何物をも肯定する」➩「まさしく『錯誤の連続した結晶』にほかならないお前を、しかし、俺は肯定してやる」➩そのようにして、俺の方がお前(街)よりもさらに上位にあって、お前を呑みこみ、わが胸に抱き、肯定する。) Ø Pp185 『俺は何物をも肯定する。』と、街は後に残ってひとり傲然として云った。 私はその無礼な街に対抗しようとして息を大きく吸い込んだ。 『お前は錯誤の連続した結晶だ。』 私は反り返って威張り出した。街が私の脚下に横たわってゐると云うことが、私には晴れ晴れとして爽快であった。私は樹の下から一歩出た。と、朝日は私の胸を眼がけて殺到した。 n 短篇集『春は…』においては「ナポレオンと田虫」に最もダイレクトに連接する他の短編は「街へ出るトンネル」と「静かなる羅列」だと思われる。次に、そのニーチェ的でもある、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」の視座という点では、一種ドストエフスキーの「地下室人」的主人公が、物語の最終場面でニーチェ的「超人」の視座へと舞い上がるという構造を取る「無礼な街」である。 n 戦争に体現される、ロレンス風にいえば「集団的自我」の本質的核心としての「権力意識」・「黙示録的欲動」への風刺p9(p93) 「ナポレオンと田虫」のラストは次のような描写のなかに結ばれてゆく。今やロシアとの戦役に突入してゆくナポレオン軍について横光はこう書く。 「しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。…(略)…朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線造って、潮のように没落へと溢れていった。」 Ø 「連戦連勝の栄光の頂点」は実は「没落」へと反転する。「潮のように」没落へと「溢れて」いく反転の踏切板であった。この勝利が敗北へ、死刑執行人が死刑囚へと反転するカタストローフの弁証法こそ、横光の関心を捉えて離さないテーマであった。 Ø この点で、われわれはまず「静かなる羅列」に注目しなければならない。 II. 「静かなる羅列」 n カタストローフに雪崩れ込む、機構へと己を疎外する人間の行為の挫折のイマージュ Ø 「ナポレオンと田虫」において描き出される歴史的イマージュ、つまり無謀なロシア遠征によるフランス軍の壊滅的な巨大なる死を引き起こすナポレオンのウルトラ個人的な意志と決断は、しかし、意志と個人のシンボルたるナポレオンの己の身体にとりついた非意志的な田虫との闘争における敗北の結果であったというシニカルなイマージュは、短篇集が出版された1927年において、実に鋭い予言的イマージュとなった。 Ø p3(p81)「この間、彼のこの異常な果断のために戦死したフランスの壮丁は、百七十万人を数えられた。国内には廃兵が充満した」云々、しかもいまやナポレオンはさらなる大破滅をフランスにもたらすロシア遠征を、彼の最も有能な部下の将軍らの反対をも顧みず、決断するに至る。 Ø いうまでもなく、それは第二次大戦をとおしての現代人の自己自身をめぐるの惨憺たる敗北を予言するものであった。日本に特に関連付ければ、最近のNHKのドキュメンタル番組「日本人はなぜ戦争へとむかったのか 戦中編」が印象的に描き出したように、かの太平洋戦争において300万にのぼる日本軍の死傷者の大半は連合国軍との戦闘行為によるのではなく、その大半が戦闘以前の餓死病死であったという、眼を覆うばかりの死の巨大さと惨めさがもたらされたのは次のことによる。すなわち、この戦争遂行の指導過程が実は戦争指導部が自らその指導性を無効化し、まさしく「意志」と「個人」の二つの近代的人格概念の中核を無意味化し失効せしめ、カタストローフへとひたすらに進行する機構的メカニズムのなかへと彼等が自己を疎外せしめていく過程となったことによる。 Ø 昨今、今日の日本の政治状況に関して「リーダーシップの不在」という議論が大流行であり、また前述のNHK特番もその視点から太平洋戦争指導部を批判したものであるが、作家として、横光が打ち出した視点は或る意味で根底的なものであり、あらゆる「リーダーシップ」なるものの不可能性・虚妄性・フィクショナル性の暴露という視点なのであった。 Ø この点では、横光のいわゆる「新感覚派」の作品は当時そのライバルと目されたいわゆる「プロレタリア文学」よりも、この現代史の本質的テーマをはるかに鋭く、真正面から、しかもこのテーマを語るにふさわしい詩的文体を駆使して、主題化しえたものなのだ。 Ø というのも、おそらく当時の「プロレタリア文学」は己の階級闘争を道徳的に正当化するという視点に自分を括り付けていたので、このようなシニカルな自己批評性なしには到底切り開けない機構論的人間観察の鳥瞰的視座に原理的に立ち得なかったのだ。 Ø この点で「静かなる羅列」は極めて前衛的な作品であり、その現代性は、その発表から90年たった今でも全然衰えていないどころか、むしろいっそう輝きを増しているといいうる。この短編においては、もはや主人公として「個人」は登場しない。そこでは文学と社会科学とが融合する。主人公はQ川とS川の二つの川であり、この川を己の生存基盤とする人間集団が形づくるQ社会とS社会なのである。そこでは所与の自然環境とそれを改変する人間の生産活動、この生産活動が産み出す社会関係性と、それのいっそうの政治的発展としての国家権力の成立と階級闘争の発生、これらのトータルな関係性の全体が、そこにカタストローフに向かう如何なる疎外と倒立の弁証法を形成するかという問題が、叙事詩的形象のもとに文学化されるのである。この作品は、敢えていえば、本来ドライで非情であるとともに弁証法的な全体化的な思考――なによりも勝利が次の局面では敗北となり、敗北が勝利と反転し、死刑執行人が死刑囚となり、またその逆が起きるという「反対の現象」p256の力学への注視からなる――を土台に置くマルクスの思考を、いわば一篇の現代のおとぎ話風の叙事詩へと文学化したものなのである。 Ø その最後は次のような詩で結ばれていた。p270~271 … 一大争闘がデルタの上で始った。 集団が集団へ肉迫した。 心臓の波濤が物質の傲岸へ殺到した。物質の閃光が肉体の波濤へ突撃した。 市街の客観が分裂した。 石と腕と弾丸と白刃と。 血液と爆発と喊声と悲鳴と咆哮と。 疾走。衝突。殺戮、転倒。投擲。氾濫。 全市街の立体は崩壊へ、――――― 平面へ、――――― 水平へ、――――― 没落へ、――――― 色彩の明滅と音波と黒煙と。 そうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現した。 大市街の重力は大気となった。 静かな羅列は傷つける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と水と油と川と。 Ø このドイツ表現主義的な詩的現代性にあふれた結びも、「ナポレオンと田虫」の結び「潮のように没落へと溢れていった」と同様、カタストローフへ魅惑される感覚に満ち溢れているのである。 Ø そして繰り返すなら、このような視点を横光が取れたのは、ここでサルトルがフローベールの視点を評して述べた表現を援用するなら、横光が「シリウス星の視座に立つホメロス的哄笑」の視点から、歴史を人間の諸々の意志的行為の総体が誰の手にも及ばぬ、かえって命令者となって彼等を使役し、運命となって彼等を押し潰す、一個の疎外の所産として鳥瞰するからなのである。 III.
「街に出るトンネル」 n 「蠅」と「街に出るトンネル」――カタストローフへの視線 Ø 「蠅」のラストはよく知られている。馬車は馭者の居眠りによって崖下へ人馬まるごと墜落し、全員が死亡し、ただ馬の背に止まっていた「眼の大きな蠅」だけが、「今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった」と結ばれる。 Ø 「蠅」は、このラストのカタストローフに突然急転回するまでの各章では次のことを傑作映画がその冒頭、ドラマに登場する人物たちの背景や性格をほんの数シーンの映像で適確に描出するが如く、この馬車に乗り込むそれぞれの客が――息子危篤の報に接して死に目に間に合うべく居ても立ってもおられぬ気持ちで馬車の出発を待つ老婆を筆頭に――、自分の或る切実な必要から馬車に乗り込む姿を描き出し、あるいはまたその馭者が自己の特殊な欲望に頑ななまでにこだわって馬車の出発に一つの規則を与える様子を描き出す。「馬車」を様々な動機と己の掟をもった諸個人がその行動の結果として一つの進行方向に互いをもはや解きがたい関係の中に無意識のうちに織り込みながら、実は知らず知らずのうちに共同の軌道を歩むことになる、社会的存在者としての人間の悲喜劇的な運命のメタファーであるとするなら、この馬車のようやく待たれた出発と進行が、次の最終章に突如として一挙に馬車墜落のカタストローフに向かうということは、横光のテーマの所在を象徴してあまりあろう。つまり、横光の最大関心は、この社会的存在者たる人間の運命が、ヘーゲルの弁証法的歴史哲学が示そうとするような絶対精神の最終的自己実現といったキリスト教的なオプティミスムにあるのではなく、その正反対の暗黒の展望、つまりカタストローフへ心にあるということだ。 Ø 「街に出るトンネル」の第一節は、主人公が次のような場面を幻視するところから始まる。「ふと彼はそこから崖の下へ墜落したトロッコの有様を眼に浮かべた。満載された人々の身体が一斉に口を開け、岩角に弾動しながら渦の中へ突き刺さるように降り込んでいった。だが、彼には人々の落ちる赤い口だけが、蝶々のようにいつまでも眼に映った」p188 Ø この二つの節は一方の「馬車」が他方では「トロッコ」になり、また一方の「蠅」の視点が「蝶々」の視点と変わっただけで、本質的に同一である。こういうと、「街に出るトンネル」の方では視点はあくまで主人公の「彼」に据えられているとの反論が出るかもしれないが、非業の死を遂げる鉱員たちの存在をまるで「蝶々」のようにみえる「赤い口」としてだけ記憶する視点は、鉱員の悲劇と自分のあいだに共感共振の絆をもつ人間の視点ではなくして、仮に人間の目であっても、むしろ非人間化し、いわば蝶々と共感共振しえるもう一匹の虫の視点であるといいうる。 Ø このことは次の二つのことをわれわれに強く印象付ける。第一に、横光は人間たちが一塊となってまるごと破滅へと墜落するカタストローフのイマージュのもとに人間世界を見いだすことを、彼の小説美学の視点としている作家だということである。そこでは「馬車」と「トロッコ」は実は人間たちの形成する一個の「社会」という宇宙の全体を指すメタファーである。つまり、その墜落とは、社会という全体世界そのもの破滅を意味する。つまりカタストローフという世界大の事態がつねに横光という作家の脳裏にはある、ということである。あとで述べるように、「街」もこうした人間社会の全体性のメタファーとしての意味をもつ。第二点は、このように事態をカタストローフの相において見る視点とはつねに、ここでロレンスの愛用する概念を援用するならば、「非人間的 impaersonal imhuman」な視点だということだ。つまり、たとえばここでは「蠅」や「蝶々」といった、一切人間に対して共感共振の絆をもたぬ、一個の非情性として成立する虫の視点が、このカタストローフを見つめる視点として打ち出される。 n 「街に出るトンネル」の主題と「ナポレオンと田虫」とを結ぶ環 Ø 粗筋:炭坑経営者の父をもつ計介は、父と抗夫頭の瀬川、そして抗夫たちとの間に立って、きわめてクールに、この小さな炭坑世界におけるいわば小さな「階級闘争」に自分の身を守るという極めて個人的利害の立場から介入しようとする。過酷な炭鉱経営の状況は、父や自分がいつ何時抗夫らによって殺害されかねないとの危機意識を計介にもたらすほどのものであった。 Ø 横光は、計介を、この炭坑世界の「階級闘争」を形づくっている複雑な力関係をきわめてクールに分析しうる人間として登場させる。 Ø と同時に印象的なのは、横光の視点が次の点に据えられていることだ。すなわち、そうした階級闘争の分析とそこから編み出される計介の介入行動に、しかしながら、一見無関係と思われる性的欲望の問題が実は看過すべからぬ規定作用を発揮すること、この問題に注目しているのである。 u まず土台にこういう問題の関連への注目がある。 トロッコ事故が起き、計介は、その事故が引き起こす自分と抗夫たちとの対立の濃化への不安も含めて、恐怖を感じる。そしてこの自分の体内に、自分の心臓に湧き起ってくる恐怖について思いを巡らしているうちに、この恐怖は「トンネルの意志」が自分のなかに産み出したものではないかという奇妙に転倒した考えに導かれる。Pp206「此の恐怖に自分の収縮している一個の心臓の血圧は、峡谷の中を進んでいるトンネルの直線にどれほどの影響を与えて行くか、それを考えると、彼は自分の恐怖の進行の形が俄かに面白くなって来た。自分の心臓から恐怖を要求することは、トンネルの意志なのだ。トンネルは自分の成長する養分として、その横たえた身体に付着して生活している人間の群れから、絶えず適宜の感情の食物を吸収する。さうして彼が街まで延びたとき、街は二倍の光度をもって凛然と輝くのだ」。 Ø この最後の一行にいう「彼」とはこの場合いうまでもなく「トンネル」のことである。トンネルが落石によって切断されかけたことがもたらした、心臓を波打たせるほどの恐怖と、「トンネルの直線」性との相互影響関係を考えるという、一種の離人症的な思考空間に導かれる。すると、自分の感情がいかに自分が今決定的に依拠させられている――生死を分かつほどに――この物質的基盤たるトロッコに規定されているかという発見に導かれる。「トンネルは自分の成長する養分として、その横たえた身体に付着して生活している人間の群れから、絶えず適宜の感情の食物を吸収する」という認識に至る反省がそこに生じる。峡谷を走る長い直線の軌道をトロッコに乗って進まねばならないことは恐怖を産み出す。まるでそうなることが「トロッコの意志」であると感じるほどに。だから、この恐怖からの解放をともなう街への到着は、街をして「二倍の光度をもって凛然と輝く」ことへと導く。知覚ならびに感情という精神の基底それ自身が実は物質的環境によってこそ如何に規定されているか、このいわば唯物論的視点が、横光の心理学的洞察の土台となる。 Ø ここで敢えてロレンスの表現を借用すれば、「personalなもの」が「impersonalなもの」によってこそ規定されていることへの発見の興奮がある。 u そしてこの土台の上に次の問題が重なる。それが冒頭に述べた問題、人間の行動意志を決定する要因として、一見その行動目標とは無関係と思われる性欲的動機が強力な規定作用を発揮するという問題である。この問題が描き出される経過はこうである。 ² ダイナマイトは炭坑作業にとってだけでなく、この小さな炭坑世界における小さな階級闘争が今や極度に対立の色を濃くしだした状況にあっては、犯行と殺人の決定的な武器ともなるものであった。そのダイナマイトのうち100本が行方不明となる。計介は不安な思いのなかでこの行方不明となったダイナマイトのことを考えている。そのときたまたま妹がラ・パロマをバイオリンで弾く音が耳に届き、彼の意識は突然お柳とキスを交わした記憶に投げ返される。横光はこう描く。「すると忽ち行方不明の百本のダイナマイトは彼の頭の中で踊り出した。…(略)…彼は不意に街のお柳をとらえて、こっそりキスしたときの煌めく欲情を思い出した」pp、201 ² 計介は百本のダイナマイトは瀬川の小屋に隠されていると見当をつけている、瀬川の女房のお品に彼は性的関心を以前からもっている。瀬川の小屋を探索しようと近づいた機会に彼はお品と口を交わすこととなり、お品が瀬川から逃亡しようとしていることを知り、それを助けてやろうとする。そのさいその動機の中核にはお品への性欲がある。逃亡への協力を約束したあと、彼はお品を抱く。その時の感触は、お柳を抱いた時の性欲の煌めきが再度燃えあがったような感触でもある。この連関を示すべく、横光は始めにお柳とのエピソードをもってきたのだ。「お品の胸が芳香を放って反り返った」ときの感触、それは「お品の胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」pp221という感覚的イマージュとして、そのあと計介のなかに保存されつづけられることとなる。 ² ダイナマイトというテーマは、それ以降、お柳-⇔お品と繋ぐ性的欲望の記憶イマージュとなった女の「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」と、計介のなかではつねに連想作用をもつ結合関係を結ぶ。「それは昨夜から絶えず彼の胎内に入り浸っている新鮮な吸盤をもった生物」pp221となる。 ² お品は街に隠れている。計介は会いに行きたい。会って抱くという性欲が絶えず彼のなかで疼く。トンネルを峡谷を突き抜けさせ街に届かせるという目論見を計介に推進させる、誰も伺い知れない、実は最深の動機をなすものは、「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」の性的イマージュなのだ。瀬川は、お品を、彼女の逃亡をそそのかした或る誰かの腕のなかでその性的イマージュを実現している彼女を想像し、それによってこそ気も狂わんばかりの嫉妬に陥り、なんらかの判断ミスに導かれるにちがいない。他方、自分のほうはこのイマージュがいっそう自分のやる気を掻き立てる。そう考えて、計介はこう考える。Pp222「つまる所、お品の一疋の線が街へトンネルを押し出す線であったのだ」。 ² これを計介=横光は「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」pp222と呼ぶ。 n 「街に出るトンネル」と「ナポレオンと田虫」とを結ぶ環はまさにこの「一本の新鮮な理論」なのだ。どういうものであるにせよ、その個人に固有な或る欲望イマージュ、――多くの場合性的であるか、ルサンチマンの復讐欲望イマージュ、そしてこの両者は往々絡み合っている――が、その行動が表向き取る社会的に了解される目的性を越えて、いっそう深層的動機となっており、人間の行動は、それが包まれている客観状況から推して一般に了解されているその目的性と、その行動の個人的特異性を構成している内的な欲望イマージュが誕生させる目的性との、その相互的ないわば投射関係・「相互メタファー」関係において、複層的に決定されるという「新鮮な理論」の観点である。 n この「新鮮な理論」の観点でナポレオンを観察した場合の認識が「ナポレオンと田虫」の前述の問題であり、「街へ出るトンネル」の場合が今述べてきた問題であった。 n なお付言すれば、岩波文庫『春は馬車に乗って』につけられた川端康成の解説にしても保昌正夫の解説にしても、一切このような僕の問題視点と重なりをもつ論考の要素は存在していない。
――フローベールにおける『否定的無限』に寄せて フローベールの世界観とニーチェとのあいだの共振関係? 邦訳『家の馬鹿息子』第三巻(原著の第二巻)が出版されたのは二〇〇六年である。この出版によって原著全体の約三分の二(つまり、原著での第一巻と第二巻)が日本語で読めるようになった、と訳者たちを代表して海老坂武は述べている。とはいえ、この出版は当初の予定から大幅に遅れるものであった。原著の刊行からは出版の時点で既に三五年が経過し、また訳者中三名の翻訳原稿が出揃った段階からも一七年が経過していたのだ。この邦訳第三巻は二段組でなんと七二〇頁を越える(訳注を除く)。海老坂は、「『家の馬鹿息子』にふれない<サルトル思想>の解説はほとんど意味をもたない」1と解題のなかで述べている。しかし、遺憾ながら二〇一一年の時点でも『家の馬鹿息子』を本格的な主題にしたサルトル論は、著作としては、私の知るかぎり柴田芳幸の『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル――エクリチュールと<反創造>の欲望』(近代文芸社、二〇〇五年)だけであり、この邦訳第三巻のそれなりに立ち入った紹介すら実は柴田の本以外は存在しないといってよい。 他方、かのレヴィの大著『サルトルの世紀』には『家の馬鹿息子』へのさまざま言及が随所に渡って繰り広げられている。そのことは、いかにレヴィがサルトルのこの著作を、したがってまたサルトルのフローベールへの関係を重要視しているかを物語る。事実、彼はこの著作をほとんど絶賛するかのような次の言葉を記している。「彼がそれを書き、それが素晴らしい本であることは変わらない。多くの点で、それは彼の傑作であり、彼のあらゆる才能の結集であり、マルクスとフロイトが混ざり合い、プルーストが再び見出され、彼の<倫理学>がついに完成し、彼の<政治学>、彼の<詩学>という風に、あらゆるものの結集であり、彼の小説のうちの最高の到達点であることは変わらない」2と。 とはいえ、このレヴィの同書への評価は、本書の補論Ⅰで批判した彼の視点、サルトルのなかに初期サルトルによって代表されるニーチェ的サルトルと、後期において色濃くなるマルクス的=ヘーゲル的な終末論的革命主義者のサルトルとの、「ほとんど互いに戦闘状態にある二人のサルトルがいる」3という観点からの評価である。つまり一言でいえば、レヴィにとって同書は後期サルトルにあってもこの「戦闘状態」が実は熄むことなく継続していることの最も雄大な告白なのである。同書はたとえサルトル自身によってフローベールに対する「憎悪の書」であるといわれようと、実はそれを仮面とする「オマージュの書」なのだ4。 だが、僕からいわせれば、既に補論Ⅰで述べたように、かかる観点からのレヴィのサルトル称賛は実はサルトル断罪にほかならない。復権ではなくして追放である。僕はあとで、レヴィの観点と僕の観点が『家の馬鹿息子』を挟んでいかに対立するかについて素描するであろう。こうして、たとえレヴィの『サルトルの世紀』にどのように『家の馬鹿息子』についての言及が盛られていようと、同書の真の内容は実はまだほとんど知らしめられていないといってよい。 とはいえ、本書を読んできた読者ならば次のことに同意してくれるであろう。想像的人間をテーマにしてサルトルとニーチェとの関係を論じる本書第一部において、僕がこのテーマを追ううえでいかに『家の馬鹿息子』を重視し、三島由紀夫にもかかわらせながら、サルトルの想像力論を知るうえで『聖ジュネ』と並ぶ決定的な著作として取り上げているということに。しかしながら、本書でのこの著作への言及も邦訳第三巻にまで及ぶものではなかった。 いまあらためてこの邦訳第三巻をひもといてみると、本書のテーマであるサルトルのニーチェに対する《継承者にして対決者》という関係性にまさにかかわる問題として、僕はこの第三巻に出てくる「否定的無限」5の概念に深甚なる関心を向けざるをえない。この「否定的無限」という概念は同書において極めて重要な意義を担っている。なぜならそれは、フローベールにおける想像力の働き、まさに《現実を非現実化するために非現実を現実化する》という働きがそこから繰り出されてくる彼の世界態度・宇宙観を指す概念として現れてくるからだ。またそれは、フローベールの「世界観Weltanscaung」6に本質的にサド=マゾヒスティックな性格を与える彼の世界態度(関与形式)の特質を示す概念だからである。 ところで僕の見るところ、この概念が担う「無限」(《存在》あるいは宇宙的全体性)と「有限」(具体的に規定された種々の現実相と個々人の実在)との関係性は、『聖ジュネ』において現実に対する「想像的態度」の典型として批判された、ニーチェの「永遠回帰」思想における「永遠」と「いまとここ」での現実性とが取り結ぶ関係性と極似しているのだ。また本書第二部で取り上げた『道徳論手帳』における「力のモラルの諸原理」やそれと深い関連をもつ断章に「パルメニデス的球体」という概念となって登場してくるニーチェ的な《存在》概念と重なるものだ(本書第二部「ニーチェに関する二つの断片」節、***頁参照)。 この邦訳第三巻のどこを探しても、『聖ジュネ』のときのようにはニーチェの名前は出てこない。これまでの邦訳第一巻にも邦訳第二巻にも出てこない。総じて『家の馬鹿息子』にはニーチェの名前は全然出てこない。とはいえ第三巻には、まさに「否定的無限」の概念にかかわって「超人」7や「権力意志」8という概念が登場する。また第二部で取り上げた『道徳論手帳』に出てくる「パルメニデス的球体」と極似した「パルメニデス的実体」9という概念も登場する。さらに、人間に対する「超人の差別意識を表現する」笑い10、ないし「ホメロス的な長い笑い」11という概念も登場する。そもそもフローベールが立つサド=マゾヒスティックな<悪>肯定のサタン的立場は「道徳壊乱」遂行の立場であり、それは従来の善悪に関するキリスト教の「価値表の転覆」12から始まるといわれる。あるいはまた、それはサドと同じく、「本当のコミュニケーションがいっさい存在しない場合、基本的な人間同士の関係は、権力の関係であること...(略)...考え得る唯一の絆、それは死刑執行人と犠牲者の絆である」13との観点から、「貴族的長所」として「獰猛さ」の徳を称揚する立場に立つとされる14。また、それらの諸要素からなるフローベール的「世界観Weltanschaung」は、総じてロマン派の「枢要な美徳」である「死への願望」・「死への欲望」を生きる立場である15、とサルトルによって繰り返し総括される。 かくて僕の観点からすれば、明らかにこれらの言葉は、サルトルがフローベールの「世界観」とニーチェのそれとのあいだに――ニーチェの名を出さずとも――重要な類似性を見いだしていることを示すものだ。 直接的な事実として、サルトルがフローベールの「否定的無限」という世界態度(関与形式)を分析するさいにニーチェをどれほどまで意識したかは調べようがない。とはいえ、これらの言葉や表現が示すフローベールの「否定的無限」の概念とニーチェとのあいだに見いだせる共振関係は、その内容の実質において、フローベールの抱えた問題とニーチェが抱えた問題、さらにいえば十九世紀ロマン派の抱えた問題とのあいだに期せずして成立した問題の共通性、同時代的な共有性を指し示すものだ。同時にそれは、これらの共通する問題群を向こうにまわして、まさにその対決者としてサルトルがいかなる立場に立とうとするかを反照的に浮かび上がらす。 そこで補論という形で、僕はここで右の問題の関連を素描しておきたい。 「否定的無限」の観念作用 そもそも「否定的無限」とはどういう問題の文脈のなかから登場してくるのか? 『家の馬鹿息子』邦訳第三巻が示すところによれば、父が卒業したルーアンの中学校に進学した少年フローベールは、第三者の目からみればおよそ劣等生などではなかったにもかかわらず、彼自身が自分に与えた規準から劣等感の塊りとなってしまう。というのも、フローベールは是が非でも兄の秀才伝説どころか父のそれをすら超える栄光をこの中学で勝ちとることで、ライバルの兄をまたぎ越して、崇拝する父から真の後継者として認められ、いっそうの愛護を得るという幸福を渇望していたからだ。勝ち得るべきこの父からの愛護は、母から得ることができなかった自己の存在肯定の補償的代理物となるはずのものであった。 ところが、彼はこの目論見を実現できなかった。その挫折には、文学的で全体直観的な「合成的思考」16の能力には優れているが、自然科学的な分析的思考は不得意とするという彼の精神的資質も与かっていた。否、たんに実現できなかったどころか、当時のブルジョワ階級の唯物論的で分析的理性中心的な「啓蒙主義」の支配する文化環境のなかでは、彼のロマン派的な精神的資質のさまざまな側面は級友や教師の嘲笑の対象とはなっても、ほとんど評価の対象とはなりえなかった。こうして彼は自分と級友とをひたすら「競争」という闘争関係の下で見いだすほかなく、繰り返し敗北や嘲笑されるという屈辱の経験を積み重ね、怨恨の心性に凝り固まり、とどのつまり、そのような自分の生の現実に耐えられなくなる。 彼の少年期を映す初期作品『狂人の手記』からサルトルは次の一節を引用している。「ぼくは十歳の年から中学にいた。そしてそこで早くから人間に深い嫌悪を覚えた。子供たちのこの社会は、もう一つの小社会である大人たちの社会と同じほど、犠牲者に対して残酷である......。群衆の同じ不正、偏見と力との同じ専制、同じエゴイズムが支配していた。......学校でぼくの趣味は何もかもけなされた。教室ではぼくの思想が、休み時間のときはぼくの孤独好きの付き合い嫌いの性向が......教師からはいじめられ、級友からは嘲られた」17と。 彼が自分にあてがった基準からすれば、彼の現実は何一つ肯定というものを彼の存在にもたらさない。父からの愛護なぞ夢のまた夢となり、もともと父の極度のエリート主義を内面化した産物である彼の怪物化した「自尊心」は粉々に打ち砕かれる。しかも既に述べたように、彼の他者経験はすべて闘争的であり、そこには連帯というような共同性の関係は何一つなかった。彼は自分ならびに周囲のブルジョワ的人間を人間一般と誤認するほかなかった。人間はもともと彼のように孤独であり、かつ彼が経験したように闘争的で、ただただ権力意志に駆動されるだけの残酷な本性の持ち主である、と。だからフローベールにとってサドの『閨房の哲学』との出会いは決定的であった18。先に紹介したサドの観点、そもそも人間同士の連帯というものはなく「基本的な人間同士の関係は、権力の関係であること...(略)...考え得る唯一の絆、それは死刑執行人と犠牲者の絆である」(前出)という見方は、サルトルによれば、フローベールの人格形成を規定した基礎経験にほかならなかった。それは必然的にフローベールのなかに「死への欲望」の観点、世界と人間を「生の観点」からではなく「死の観点」から見る態度を醸成した。 結局、想像的人間が共通して抱えるくだんの問題、「生きることの不可能な状況を生きうるものとする脱出口」の想像的な創出、ニーチェのいうかの「窮境」を非現実化することによる生の可能化、そのための非現実的なものの現実化という想像力の力技の遂行が、少年フローベールにも生死を分かつ課題として持ち上がるのだ。 サルトルの示すところによれば、この「窮境」からの脱出、いいかえれば「窮境」の非現実化は、人類そのものを嘲笑する「ホメロスの長い笑い」、「超人」のみが為しうる笑いをフローベール自身が笑えるようになることによって果たされる。明らかにここで問題にされている笑いとは、ニーチェが「重力の精」と闘うための唯一の武器として推奨したあの哄笑、イエスが学び損なったと後々までもツァラトゥストラ=ニーチェが悔やんだ笑い、「窮境」に捕らわれている人間にそこを脱する力を唯一与えることのできる笑い、それと同質の笑いにほかならない。 実に邦訳第三巻は、この笑いの問題を少年フローベールの実存構造を表示する問題として捉え、それに「<ガルソン>の根源的構造としての笑いについて(ないしマゾヒストのサディズムについて)」という意味深長なるタイトルの長い節を当てているのだ。 では、いかにすればこの笑いを笑えるようになるのか? そのためには、残酷かつ惨めに打ち倒され敗北した自分の存在からまず自分の意識を「この無という最高の切断」19によって切断し、いわば幽体離脱化(「重要なのは彼が宙に浮いていることである」20)し、次のような「上空飛行の意識」21の境位へと意識を飛翔させねばならない。すなわち、「ぼくはアトラス山の頂上にいて、そこから世界を、その黄金とその泥濘を、その美徳と傲慢とを眺めていた」という高み、そこでは「同じく、その高みからするともはや自分が何ものでもなく、その自分があらゆるものを軽蔑する、そのような高みの苦悩がある」、そう述べることが可能となる高みへと。(ともにサルトルによるフローベールからの引用22) このいわば離人症的な幽体離脱的な意識喪失的恍惚への意識の自己超出、それがもう一方の地上的《世界》の戦争化とでも呼べる経験と並んで、フローベールの決定的な《存在》経験・実存経験となる。現下にはサディズムを己の本性とする人間たちの戦争世界、天上の高み、宇宙そのものへの帰属地点においては、人間の闘争的現実に対する離人症的な絶対的等価・無差別・無感動・無関心の意識の誕生。この後者の意識の誕生を指してサルトルはこう特徴づける。「シリウス星の観点、よりよく言えば<絶対>の観点からすると、悪徳と美徳、才能と無能、名門と平民、幸運と不運とは平等になる」23と。 この時、この高みに駆け上がり、絶対あるいは無限への側への帰属を果たした意識についてサルトルはこういう。なるほどそれは確かにフローベールたち人間の意識であるにせよ、「本質的に人間とは別のもの、言うならば類人猿の水準におとしめられることは決してない超人」の意識へと「変質」しているのだ、と24。サルトルによれば、この「変質」とは現実的意識の想像的意識への跳躍、「非現実性への跳躍」にほかならない25。そして、こういう形で意識が絶対・無限・宇宙的全体性・《存在》への帰属を果たすこと、逆にいえば、後者がこういう形で意識化されるということを指して、サルトルは「否定的無限」と呼ぶのだ。 なぜそう呼ぶのか? それは、これまで有限の側に立ち無限に対立していた主体の立場から、無限の側に立つ主体、いわば無限の代理人的主体へと自分を転換させることは、意識が、現実の事物と人間たちの有限性そのものにほかならない具体的規定性を無視し、それら一切に無関心となり、等価的(インディファレント)態度を取り、そういう意味でそれらに対して否定的となることだからである。 サルトルは次の点に注目するよう読者に訴えている。フローベールが「シリウス星の観点」いいかえれば「<絶対>の観点」に立つという場合、彼はいまや自分は「部分なき全体としての無限の<実体>」いいかえれば「パルメニデス的実体la substance parmenidienne」26にしか関係をもたぬと主張しているのであり、このような「全体主義的認識conaissance totalitaire」27においては、「もろもろの有限の差異は呑み込まれ、規定も真理も持たない」仕儀となる、このことに注意せよ、と28。こういう言い方もしている「純粋な肯定である全体は、部分化する否定を見る視線を持たないのだ29」と。 ここで僕は読者に本書第二部第二章の「ニーチェに関するサルトルの二つの断片」節を振り返ることをお願いしたい。そこにはまさにこうあった。「絶対的な《存在》はまったき肯定性であるからそれ自身のうちであらゆる区別を廃してしまう。それは純粋な存在である。不動で、峻厳で、非時間的で、性質づけられないものである。パルメニデス的球体。あらゆる破壊は特殊なもの規定されたものの無化として肯定性であり、それは《存在》の無差別への還帰をなさしめる」(傍点、引用者)。 右の断片は一九四七年から四八年にかけて執筆された『道徳論手帳』にあったものであり、僕はそれを右の節ではニーチェの「根源的一者」の宇宙観と関連づけた。いまここで明らかとなることは、この断片で披瀝された《存在》に関する議論、《存在》の側に帰属しその立場に立とうとする世界観に対するサルトルの批判は、その約二〇年後に執筆された『家の馬鹿息子』(原著のフランスでの出版は一九七〇年)では、無限へのフローベールの帰属の仕方を表す「否定的無限」をめぐる議論、それが現実の非現実化作用を発揮することへの批判としてそっくりそのまま返り咲くということである。 既に僕は本書第一部第三章の「『永遠回帰』思想批判に向かうサルトルの視角」において次のことを強調した。 すなわち、『聖ジュネ』におけるサルトルによるニーチェの「永遠回帰」思想への批判の核心は、「永遠回帰」の観点が何よりも現実の非現実化を導くところの導体(非現実的なるものの現実化)という役割を果たしていることの暴露にあった。もともと現実の人間の意識にとっては想像的対象でしかない「永遠回帰」という事態を、あたかも現実的過程であるかの如く意識の前に現前化(=現実化)する言説の展開によって、ニーチェは自分自身ならびにこの言説に魅入られた意識をいわば篭絡し、この非現実的なものの現実化をとおして現実を非現実化する。 つまり、「永遠回帰」という遠近法のなかでは、「今とここ」に生じる只今の焦眉の現在は、無限大の過去と無限大の未来が円環的に連結して成立する運命的に定められた「無限小の瞬間」として描き出される。そのことによって、そこでは過去から未来へという不可逆的な直線的時間性の観念が意味を失う。永遠という、現実の人間にはただ想像することしかできぬ茫漠たる無限の宇宙的全体性から出発する立場にとっては、現在は可能性を実践に転化する不可逆的な選択と決断の瞬間とはもはや扱われない。現在は既にその未来の帰結が先取りされているものとして、またそのことが過去からの運命的な帰結であるとも示される。永遠の側に自らの身を置くことで実現されるこの遠近法(パースペクティヴ)のなかでは、現在の焦眉の現実性はその実践的な切迫性を失う。 『家の馬鹿息子』に登場する言葉を使えば、まさに「永遠回帰」の観念はそれに魅入られた諸個人に対しては彼らに「脱状況化」30をもたらすものとして作用する。彼らのそれまでの実践的な生は観想的な生へと移行し、「変質」する。彼らの生は、生々しい過去を引継ぎながら、その過去が現在のなかに産み落とした新たな可能性を行為の実践的課題として敢えて選び取ることで、同時に失敗・挫折・敗北のリスクを身に引き受けつつ、賭けに打って出るという性格を失う。もはや現在はそのように未来へと受苦的に進出する行為の時間的瞬間としては現れない。現在が担っていたはずの焦眉の実践的性格は意味的に空無化されてしまうのだ。 まさにそのことによって「シリウス星の観点」が実現され、その観点の下ではあらゆる人間間の残酷な心を痛める争闘も、そこで痛めつけられる自分自身も含めて、まるでアリたちの闘争のように現実感のない戯画に変わってしまうのだし、そうなれば、それは悲劇であるどころか、闘争する当人たちの必死さ・真剣さ・気真面目さ(シリアスネス)こそが哄笑を誘う出来の悪い惨め極まる喜劇に変換されてしまうのである。 かくて『家の馬鹿息子』に立ち戻れば、サルトルはこう書くことになるのである。「フローベールが非現実の名において現実に挑んだ容赦のないたたかいのなかでは、現実からその主要な武器を奪い取ることが問題なのだ。現実に対しては鈍い物質的な一種の現存性、不透明性、人間を押しつぶすおそろしい力が認められるが、それだけである」31(傍点、引用者)と。 「窮境の転回」(『ツァラトゥストラ』)と「否定的無限」の論理 内容的には既にこれまでの論述が孕んでいることだが、『家の馬鹿息子』に潜むニーチェ問題を鮮明にするために、敢えて次の二点を繰り返しを恐れず強調しておきたい。 第一点。僕は本書第一部でニーチェのいう「永遠回帰への意志」をもってする「窮境の転回」に関して、それを『悲劇の誕生』以来の「根源的一者」の思想と結びつけ、主体転換の論理をそこから抉り出した。 繰り返すならこうである。――孤立した断片としては謎であり恐ろしい偶然であった《私の現実》あるいは《私の過去の出来事》も、宇宙の全体性の部分として把握し返されるならば、謎は解け、偶然は必然として開示され直され、恐怖は去り、運命の受容が来る。これが「永遠回帰への意志」の立脚する論理であった。だが、このように事態の再把握をおこなう主体とは、もはやかつての《私》、自己の一回的な実存の個別性から発する《私》ではない。そこでは主体変換が起きており、《私》とは宇宙的全体性がそこへと化体したところの、あるいは逆にいって前者へと化体したところの《私》にほかならない。《私》の立ち位置は絶対的個別性から宇宙的全体性へと変換されている。この主体変換は、ニーチェの理解では、『悲劇の誕生』が悲劇の悦楽性の根拠として持ち出した主体変換の姿を変えた現れである32。 フローベールにおける「外面的全体化」によって実現される「否定的無限」の境位の実現とは、右のニーチェの主体転換と本質的には同一の主体転換の論理を表している。このことは明白であろう。サルトルは次のことを強調していた。繰り返そう。フローベールという主体、あるいはより一般的にいって人間主体が己の残酷なる闘争的現実を見る「視線の関係」を高度化していった果てに、「シリウス星」の高所にまで到達し「否定的無限」への参入を果たすや、そこには「量から質への移行」あるいは「変質」が起きる33。移行以前の高度化の過程を生きていた主体はまだ人間であったが、移行が成し遂げられるや、主体は「本質的に人間とは別のもの」たる「超人」となっており34、そうであってこそ現実界から想像界・非現実性への「跳躍」が可能となる35、と。 第二点。僕は本書第一部で次のことも強調した。『ツァラトゥストラ』においてニーチェは『悲劇の誕生』を自己批判し、こう主張する。後者においては「窮境」からの解放が「芸術」が与えてくれる美的仮象の王国への逃避に求められたが、いまや『ツァラトゥストラ』が提出するのは、「永遠回帰への意志」によって残酷なる大地の道を「わきに逃げたりせずに」まっすぐに歩き通すことによって「窮境の転回」を図る新しい道である、と。だが、この新提案自体が本質的には想像界への逃避ではないのか? それ自体、「永遠回帰」という非現実の現実化による残酷なる現実界の非現実化ではないのか? サルトルによれば、フローベールによって「否定的無限」はもはや「詩」によってではなく、「詩」と対置してフローベールが「芸術」と呼ぶ、「宇宙的主題」に取り組む「反省的かつ批評的な文学」たる「小説」という想像的空間においてのみ顕現できるとされる36。 かかる「否定的無限」の本質をサルトルはこう特徴づける。 「かつての詩的な態度は、現実から想像界への逃避にすぎなかった。一方、芸術的な活動は、想像的なものを実現することによって、現実の価値を剥奪するところに成立する。...(略)...フローベールは世界を空無化するために、世界に立ち返っていくだろう。そしてそれは、世界を全体化することによってしかなし得ないだろう」37(傍点、引用者)。 右の一節にいう「想像的なもの」ないしは「世界を全体化すること」とは「否定的無限」のことである。繰り返すなら、ニーチェにとって「永遠回帰への意志」とは「かつてあったすべてのものを、――創造によって救済すべきこと」を意味するが、ここでいう「創造」とは「人間において断片であり謎であり恐ろしい偶然であるところのものを、凝集し総括して一つのものにすること」(前出)だといわれた。つまり、サルトルのいう「全体化」によって過去の出来事がこれまでその人間にとって帯電していた《意味》を、新たに「無限」の観点に立つことで耐えうるものへと変更することであった。それが「救済」であった。サルトルがフローベールについて述べた「外面的全体化」が、さらにいえば「外面的全体化」と「内面全体化」との結合による最も全体的な全体化が、そこでの問題であった。 こう見てくれば、サルトルのフローベール解釈がいかに『聖ジュネ』や『道徳論手帳』に示された彼のニーチェ解釈と連結し重なり合っているかが明白となろう。 さて、七二〇頁を超える邦訳第三巻の孕むサルトルの豊富な考察をこれ以上追ってゆくことはこの小論の為しうるところではない。とはいえ、次のことだけは確かである。すなわち、この膨大極まる考察の束は、しかし、まさにたった一つの主題に捧げられているということは。かの《現実を非現実化するために非現実を現実化する》という想像力の作用のフローベールにおける展開形態を、サルトルはまずフローベールの中学時代を反映する初期作品のなかに詳細に跡付けた後、いかにフローベールが詩人から小説家へと転進し、まさに想像力の「芸術家」へと自己を形成するかを示すのである。しかもそのさい、この想像力の芸術家的展開とは無限・絶対・宇宙的全体性・《存在》という形而上学的地平での《現実を非現実化するために非現実を現実化する》想像力の力技を遂行することにほかならなかった。その事情をフローベールの野心作であった『スマール』の徹底分析をとおして示し、もって次なる『ボヴァリー夫人』解釈の前提・土台を打ち固めること、これが第邦訳三巻(原著第二巻)の内容なのだ。 まさにこの問題展開のフローベールにおける宇宙論的規模が、いいかえればその形而上学的野心が、彼をして期せずしてニーチェと共振させることとなろう。「否定的無限」は「永遠回帰」と見事に共振する。さらに次のことも付け加えておこう。ニーチェの世界観を包んでいる根本気分はサド=マゾヒズムであることは、僕が本書において幾度となく強調した事柄であった。邦訳第三巻においてサルトルはフローベールの世界感情・根本気分がサド=マゾヒズムであることを何度となく強調する。二人の世界観の照合はもちろんこの点においても成り立つ。実にサド=マゾヒステッィクな世界気分こそは「否定的無限」と「永遠回帰」とのあいだに共振性が誕生するさいのいわば主体的根拠・主観母胎だからである。 レヴィの『家の馬鹿息子』論について 最後にレヴィの『家の馬鹿息子』論について触れておこう。 まず、次のことをいいたい。彼の『サルトルの世紀』にはこれまで僕が縷々述べてきたような「否定的無限」をめぐる議論は毛一筋ほども存在しないことである。否、そもそも想像的人間の実存的精神分析的解明というテーマへの注目自体がない。あれほどサルトルにおけるニーチェ的要素を喧伝するレヴィにもかかわらず、『聖ジュネ』におけるニーチェ批判への言及もない。だが、それもレヴィの観点からは当然といえよう。要するに彼の議論は『家の馬鹿息子』のなかのフローベールに対するサルトルの批判の部分、またその批判を支えている彼の根本的な哲学的立場をことごとく無視し、あるいは議論に取り上げるほど価値の無いものとみなし、むしろサルトルの真髄をフローベールとの同一性のなかに見ようとするからである。「かつては決裂、分裂、個別性の爆発、意識の拡散しか愛することのなかったサルトル」38はいまやフローベールに投射される形をとって、『家の馬鹿息子』のなかで逆説的に肯定されているのだ、と。 だから、本書第三部「母なるものをめぐって」において僕がサルトルのフローベール論との関連で取り上げたテーマは、真剣な考察に値しない非本質的なものとしてほとんどことごとくレヴィによって退けられているといってよい。つまり、サルトルがきわめて重視していたテーマ、フローベールにおける母性愛経験の剥奪、それが彼に刻み込んだ「受動的能動性」ならびに身体と意識との肥大化し過剰化した反省的分裂、《受難した子供》というテーマ、フローベールの怨恨的世界観とサド=マゾヒズム、それが産み出す反ヒューマニズムとしての「相互性」感覚の根本的欠落、そこから生まれる彼の単独者主義、等々。僕の言い方をもってするなら、フローベールにおいて期せずして誕生する「ニーチェ的なるもの」の一切、これがレヴィにおいては真に価値あるサルトル的思考にとっては考察に値しない外在的で非本質的なものとみなされる。 レヴィの議論において特徴的なのは、これら諸テーマの土台となるフローベールの幼年期問題へのサルトルの観点を、ほとんど絵空事に近い「お伽話」39ないしは自分の理論のために捏造した「事実」=小説的創作物とみなすことである。そのさいレヴィは、サルトルの発言、すなわち、自分は資料なきフローベールの幼年期を彼の書き残した作品とさまざまな書簡から文学的想像力をもって推測する(いわば小説化する)という発言を逆手にとることで、その証拠とするのだ。 しかし僕からいわせれば、実際にレヴィがおこなうことは、そういう揶揄をもって、人間の幼年期が普遍的に抱える「実存精神分析」的諸問題に関する長年にわたるサルトルの並々ならぬ考察の全実質を議論の圏外に追い出してしまうことでしかない。 究極の問題はフローベールにあるのではなく、フローベールをとおして人間について考えることにあり、実証主義的な意味でサルトルのフローベール論に仮説的要素があり過ぎるとしても、だからといってこの『家の馬鹿息子』の人間学的意義が減殺されることはありえない。一見レヴィもまた同じ判断を下しているかのように見えるところもあるが、肝心の『家の馬鹿息子』で展開される人間学的諸洞察の真摯な紹介も肯定も彼にはない40。 またレヴィは、サルトルが幼年期を《子供=無垢なる自然の天使》風の楽園として語ることを拒否して、つねに――僕の言い方をすれば――《受難した子供》の暗黒の状況として問題にしてきたことをいわば逆手にとる。彼はそうすることで、返す刀で、だから「デカルトが動物に無関心だったように、同じ理由から、サルトルは子供にほとんど関心を示さない」41と結論づける。また、サルトルを特徴づけるのは幼少期への「憎悪」であるとも結論づける。 だが、本書(特に第一部第二章「《受難した子供》の眼差しに立つ、存在欲望の減少額としての実存的精神分析学」節、第三章「『ツァラトゥストラ』における《受難した子供》の眼差し」節、等)を読んでくれた読者ならば、いかにサルトルの思索が、何よりもその実存的精神分析の方法が実に深く《受難した子供》の問題に関心付けられたものであるかを了解してくれると思う。しかも、レヴィはこの論法をもってサルトルをあらゆる「ヒューマニズム」的な人間解放論的言説を浸している「全体主義」に対立させるのだ。というのも、レヴィにとっては抑圧と疎外からの人間の解放を説くほとんど全ての思想は、「人間の条件に張り付いた呪いから解放された『善き共同体』の夢」を志向するものであるり、それゆえに実は「全体主義というものの徹底的な形態」であるからだ42。この観点からすれば、幼年期における人間の疎外や抑圧を問題にする議論自体がこの「全体主義」に加担するものとみなされる43。 このレヴィの――あるいはフランス現代思想に共通する――「全体主義」観は本質的に反社会主義の立場にあったニーチェと等しい。なぜならそれは、人間解放を掲げる一切の社会運動を、まず「善の共同体」主義――単独者的悪を、また人間の生のエネルギーのそもそもの悪性を頭ごなしに否認し、そのひたすらなる排除を追求する道徳主義を核心とする――であると決めつけておいて、それゆえに本質的に「全体主義」だと結論づける立場だからである。いいかえると、その「社会主義」観には僕が補論Ⅰで述べた「相互性」の友愛の社会主義の観点は不在化させられている。いいかえれば、「独自的普遍・単独的普遍」の両義的思考を粘り強く推し進める観点がない。 僕にいわせれば、レヴィはこうした詐術的なやり方で、サルトルのフローベール論のなかからフローベール批判の全要素を追放しつつ、サルトルが批判するフローベール的なものこそがニーチェ的サルトルの真髄であり、その逆説的投影だとみなし、『家の馬鹿息子』こそ後期サルトルにおけるニーチェ主義の最後の信条告白だと論定する。つまり、繰り返しいえば、そのようにして――僕の言い方を使えば――サルトル的思考の最も価値ある生命力、その両義性が担う運動性、その矛盾的ダイナミックスを追放してしまうのだ。 1 サルトル、平井啓之・鈴木道彦・海老坂武・蓮見重彦訳『家の馬鹿息子』Ⅲ、人文書院、二〇〇六年、七五三頁 2 同前、七七〇頁 3 同前、五六七頁 4 同前、七七〇頁 5 同前、八五、八八、九五頁、等々 6 同前、八三頁、サルトルは、ニーチェ的にいえば「パースペクティヴ」と呼ばれる、個人の特異な世界観の構造を問題にしたドイツの解釈学からの問題意識の継承を示すために、ここでわざわざ独語を使用している。 7 同前、八七頁、一七二頁 8 同前、七二頁 9 同前、一七三頁 10 同前、一七二頁 11 同前、一七四頁 12 同前、七五頁 13 同前、五一二頁 14 同前、七八頁 15 同前、一八〇、一八一、三〇二、三〇九~三一一、三一七頁、等々 16 同前、三五、三五八頁 17 同前、一二頁 18 同前、五一二頁 19 同前、八二頁 20 同前、九〇頁 21 同前、五一四~五一七頁 22 同前、八四頁 23 同前、八六頁 24 同前、八七頁 25 同前、八八頁 26 『家の馬鹿息子』Ⅲ、一七三、二一六頁、ldiot de la famille,2, TEL gallimard p.1265 27 同前、九四頁、ldiot de la famille,2, p.1189 28 同前、九三~九四頁 29 同前、一七三頁 30 同前、九一頁 31 同前、二一六頁 32 この点にかかわって柴田芳幸の『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル』について若干のコメントを記しておきたい。柴田は『家の馬鹿息子』を論じるにあたって、まず『シチュアシオンⅠ』と『シチュアシオンⅡ』とを繋ぐ思想的連続性を、モーリヤックのごとく「神の視点」あるいは「超越者の視点」から小説を書いてはならないとする有名なサルトルの立場の一貫性のなかに跡付け、この観点がそのまま『家の馬鹿息子』にまで引き継がれていることを示す。たとえば『シチュアシオンⅠ』の「新しい神秘家」が示すところによれば、モーリヤックのみならずバタイユのいう「非‐知の視点」あるいは「夜の視点」もまた実は「超越者の視点」にほかならない。この連続性への注目は卓見である。柴田は、『シチュアシオンⅠ』のパラン論のなかから「人間以外の種の目で自分を見ようとする努力、つまりは主体であるという苦しい義務を逃れて休息につこうとするこの努力、...(略)...それは<神の死>の帰結の一つを表している」という一節を引用しているが、バタイユの「夜の視点」もまた、ニーチェのいう<神の死>によって「非‐知」の暗闇と変わったにしろ、それでもかつて神が占めていた超越者の側に立ち、超越者の視点から人間の現実界を見下ろしたいという欲望を表している。いうまでもなく、この補論Ⅱで僕が取り上げるフローベールの「否定的無限」の視点もまたこの<(不在の)神の視点>を表すものだ。柴田によれば『家の馬鹿息子』の根本的位置づけは、実はそれがサルトルにおいてはマラルメ論の序曲をなすという点にあった。すなわち、フローベールはサルトルによって、「世紀の後半にその理論家にして英雄マラルメに至るまで豊かになって発展し、象徴主義的退廃の後に老衰で死ぬことになる<客観的精神>の新しい決定因」として位置づけられ、そういう問題意義において分析された(柴田の書からの孫引き、一四九頁、原著L'Idiot de la famille,tome3 .Gallimard.1972.p.18 )。そして、マラルメはサルトルによって「ニーチェよりもさらに勝れて<神の死>を生きた」詩人(『シチュアシオンⅨ』、人文書院、一九七四年、一五九頁。柴田の書、二九九頁)として問題にされたのである。 この柴田の提示する見取り図は正確である。ただし、柴田の問題意識は、こうしたサルトルの一貫した視点が同時にニーチェとの対決を意味していることを明らかにすることにあるわけではないから、『聖ジュネ』におけるニーチェ批判と『家の馬鹿息子』における「否定的無限」批判とを関連付ける試みは彼の本のなかではなされていない。 33 同前、八七頁 34 同前、八七頁 35 同前、八八頁 36 同前、一九〇~一九一、五三六,五四二頁、ならびに四〇七頁、等 37 同前、四〇九頁 38 同前、六五九頁 39 同前、一〇〇~一〇一、六七八頁 40 この点で、柴田芳幸は、サルトルのフローベール分析の実証的妥当性をめぐるジャン・ブリュノーとミッシェル・リバカルの興味深い論争を丹念に紹介している(前掲書、一二六~一二九頁)。またフローベールに関するサルトルの実存的精神分析の独創性を称賛しているハゼル・バーンズの見解を共感を込めて紹介している(一二一~一二三頁)。 41 レヴィ『サルトルの世紀』、四二〇頁 42 同前、四一七頁 43 同前、四一七頁 |
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