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   小思考断章Ⅰ 

 本には載せなかった論考やエッセーや最近のほやほやのそれらをここに集めました。朗読劇台本や小説断片などもあります。

    『超訳 ニーチェの言葉』批判

   2011年春に執筆、『唯物論研究』(全国唯物論研究協会年誌 )に寄稿の予定

  

 白取春彦氏が、重く暗いニーチェではなく、明るく生を肯定するニーチェを青年に届けたいと、いわばニーチェを「脱構築」(デリダ)的に「引用」(ベンヤミン)して再構成した『超訳 ニーチェの言葉』は100万部を超す売れ行きだそうだ。彼は、この「超訳」の出版のあと昨年『ニーチェ「超」入門』(Discover、2010年)を出し、つい最近、別冊宝島「ニーチェ」(副題「まんがと図解でわかる」、宝島社、2011年)を監修した。そこには、彼の「超訳」方針の土台にあるニーチェ解釈のありようが明確に述べられている。それを読んで、僕は考えたくなった。どのような意味で、このニーチェ流行は「ニーチェ問題」を提起することになるのだろう? と。

  

  ところで、最近僕は「ニーチェ的長編四部作を読む」という副題を添えた『村上春樹の哲学ワールド』(はるか書房)という本を出版し、そこで、次の論点を繰り広げた。僕の睨むところ、村上春樹の作品や発言の表面からはとても窺い知れないが、彼の文学の基底にはニーチェとの長年にわたる対話とそれが産む興味深い対決の関係が横たわっている。その対決の地点は突き詰めていえば次の二点である。

第一は、ニーチェのいわゆるパースペクティヴ主義との対決である。この対決は、ニーチェのパースペクティヴ主義が人間に投げかける問いの深刻なリアリティの承認から出発する。つまり、個々人が、なんらかの自己についての深い経験から産み出し、自らに与えるパースペクティヴがどのように各自をその内部に幽閉する作用力をもってしまうかという事情の承認から。しかしながら、そこから出発しながらも、村上文学が究極において試み狙うところは、この幽閉性からいかに人間が――他者との深い出会いを仲立ちとし梃子とすることで――脱出し、再び他者と生を共有し合う希望を手にするにいたるか、その生肯定の物語の提出である。この最終地点において、ニーチェと村上とのあいだに横たわる対決関係は歴然とその姿を現す。
 
他方、ニーチェのパースペクティヴ主義のほうは、幽閉性からの原理的な脱出不可能性を説くペシミズムと骨がらみになっており、かつまた、その唯一の脱出展望を自分の死をとおして宇宙的生命たる「根源的一者」の懐に自己融解を遂げることのなかに見いだす、「死への欲望」のマゾヒスティックな快楽主義と一つになっている。
 
第二は、ニーチェの「力への意志」思想との対決にほかならない。善悪の彼岸に向かう甘美にして恐るべき混沌エネルギーとしての「力への意志」に身を委ね尽くすことで、己の実存的空虚性を突破しようとする「自己劇化」(三島由紀夫風にいえば)の欲望に対して、村上文学はこの欲望が実存的空虚さに蝕まれた人間に対して放つ誘惑の強さを承認しながらも、それを拒絶するもう一つの生のヴィジョンを対置しようと試みる。すなわち、愛のプラトン的エロスの絆が、この絆を結びあう人間同士のあいだに産む《意味》と応答責任のモラルにこそ、自己の実存の支柱をあらためて据え直そうとする生のヴィジョンである。
 
この問題設定は次の問題とも深くかかわっている。ニーチェの立てた問題設定とは、人生に意味を与える《超越的根拠》の有無を問い、この超越的根拠の同義語である《神》の死を確認することによって生の無意味性を確言したうえで、無意味化した生を生き抜く力として「力への意志」とみなされた生命力の自己燃焼が生むいわば存在論(実存)的快楽を提案し、《意味》への問いを「力への意志」の快楽主義の強度如何の問いに置き換えることにあった。
 
このニーチェ的設問に対して、村上文学が対置するのは、人生の意味は決して神であれ何であれ如何なる《超越的根拠》によって産み出されるのではなく、人と人との愛のエロス的絆が担う必要とし‐必要とされる関係性によってこそ産み出されるのであり、この意味で人生はたえまない《意味》生成の過程であるとともに、また――ここで敢えてニーチェ的ボキャブラリーを使えば――生命力の自己享受と《意味》追求は決して対立関係にあるものではなく、本来深く統合的な関連を生きているものであるという視点であった。この視点から見れば、ニーチェ的な「力への意志」の快楽主義は徹底的に「単独者」的であって、そこには原理的に他者の存在は無用であるがゆえに不在でもある。そして、「力への意志」のこの単独者的性格は、そのナルシスティックな自己享受性それ自体が本質的に暴力肯定的性格を帯びていることを示唆するものでもある。
 
だからまた村上文学は、ニーチェの「力への意志」が人間の何であるにしろ復讐欲望に接続する時、いかに暴力への耽溺欲望となって立ち現われるかを良く認識している。「力への意志」の暴力肯定の性格こそが村上のニーチェ批判の眼目であり、その点で彼の文学は、最近作の『1Q84』のいわば世界観的視点となっている「リトル・ピープル的なものと反リトル・ピープル作用の対抗」という言葉をもじっていえば、《単独者的な自己劇化の欲望たる「力への意志」の暴力肯定主義と、反「力への意志」作用力としての愛のエロス的絆主義との対抗》の視点において現代の人間の物語を描こうとするものといえよう。
 
そして、第一と第二の点を結んでその両者の共通基盤として浮かび上がる、ニーチェと村上文学とのあいだにある対決軸とは、《「他者の不在」を徹底的に生きようとする単独者への意志》と《他者と共にあらんとする意志》との対決ということになろう。
 
以上が、村上春樹に関する僕の本が示そうとしたことの要約である。僕にとって実に興味深いのは、白取氏のニーチェ解釈とニーチェ推奨の理由がまさにこの二点においてちょうど僕の視点と正反対の位置に就くということだ。

 

 別冊宝島「ニーチェ」の裏表紙には、「ニーチェの言葉がいま、私たちの胸に響く」という言葉の下にこんな言葉が並んでいる。「決断するときは、人に聞くな、自分に聞け」、「誰もが認める『正しいこと』なんてひとつもない」、「しょせん、人間は自分の視点でしか物を見ることはできない」。「自分が一番。そこから生まれた価値観を大切にしよう」。これらはニーチェのパースペクティヴ主義のなから青年向けに白取氏が作り出した合い言葉である。そしてこれらの一連の言葉は、「自分の欲望を認めよう。それは自分のありのままを一番大切にすること。自分が尊いことを認めること」、「人生に目的なんてない」・「世界はすべてが無価値。それが永遠に続いている」という言葉と一つに繋げられている。この特集号は、「まんがと図解でわかる」と銘打っているが、そこで示される誠に分かりやすい図解を使っていえば、白取氏が呈示するのは次のような「力への意志」推奨の図式である。すなわち、「世界はすべてが無価値。それが永遠に続いている」「しかし、人は生きるしかない。」「力への意志」に身を完全に委ねきる勇気をもった「超人」の生き方を選ぶしかない。

この別冊には簡便な用語解説がついているが、それによれば「超人」とは「人間を超越した人間の最高のあり方のイメージ。徹底したニヒリズムの世界において、内なる欲望・情動を受け入れ、価値を見いだし、行動できる人。超人は価値の根拠を純粋に自身の内で働く力への意志にのみ求める。力への意志に染まり、欲望に染まって強く生きる人のことである」[]。あるいは「自己中心主義」という用語にはこういう解説がつく。「自分をもっとも価値があると位置づけ、自分の感情、欲望、利益を最優先する考え方のこと。利己主義。ニーチェにとっては、超人の生き方こそは自己中心主義であり、人間らしい生き方である」[]。また「力への意志」はこう解説されている。「ニーチェ思想の中心をなす概念の一つ。すべての存在は自らのうちに、より強く、より大きくなろうとする意志する能動性として力への意志を内包しており、それによって絶えず自己を乗りこえようとする。ニーチェは、生の本質は力への意志であるとし、世界は力への意志のせめぎあいで成立しており、諸活動すべては力への意志で説明できる、と考えた」[]
 
次のことが顕著である。ニーチェのパースペクティヴ思想について彼がおこなう解説には、それが村上春樹に関わって僕が問題にしたような幽閉性のペシミズムという問題と抱き合わせになっているということへの言及は全然ない。先ほど紹介した一連の合い言葉に関連して、では、彼は人間間のコミュニケーションの可能性と意義という問題をどう考えているかというと、彼は全然そんな問題を提起しない。実に彼の思考には苦悩の要素が欠けている。得々とまさにニーチェ的パースペクティヴの自己中心主義を称揚しているだけのことである。
 
なお、先の一連の合い言葉に関して僕は次のことを付言しておきたい。僕は、青年を包む今日の文化状況においてはまず自己中心主義から出発する必要が強調されるべきことを認めてもいいと思っている。というのも、今日の日本の青年はその自我形成の歴史的経過からあまりにも周囲の目を気にする「他者依存の心理状態」に追い込まれており、自己を主張し肯定することにおいて驚くほど臆病であり、そこからして、他者との深いコミュニケーションが誕生するための出発点となるべき自他の衝突・自他の葛藤そのものが極めて起きにくい、いわば《問題誕生不全》の状態に置かれているからだ。
 
だが、そのことは同時に次のことを意味している。つまり、白取型のニーチェ推奨のアッピールは青年をナルシスティックな独善主義へと鼓舞することにしかならず、決して彼らをより深いコミュニケーションに向かう契機としての自他の衝突へと鼓舞するものとはならない、ということを。というのも、それはいましがた述べたとおり、構造的に《他者とのコミュニケーションによる自己中心主義の乗りこえ》というテーマを欠いているからだ。

敢えて「自己中心主義」という言葉を援用すれば、出発点における自己中心主義の肯定は、そうであるからこそ、同時に次の課題に接続することが必定のものとして示されなければならない。すなわち、自己中心主義から出発しながらも、まさに他者とのコミュニケーションに入り込むことを通して、他者の視点を再発見することへと導かれ、あらためて自分の視点との齟齬に驚愕し、自他の関係性に傷つき(レヴィナス)、そのことで出発点となっていた自分のいわば認識論的自己中心主義を批判的に相対化せざるをえなくなる局面を迎えること、しかも、傷つくことを通してそれを積極的に迎えてこそ、われわれは自己認識を深めるとともに、試練を受けて深化し強められた自他の絆を獲得しうるようになること、こうした一連の問題が待ち受けることへの展望指示(パースペクティヴ)である。
 
一言でいうなら、白取氏のなかにはおよそブーバー=レヴィナス的観点から、ニーチェのパースペクティヴ思想には構造的に他者が不在であることを突く批判的観点がない。「単独者たれ!」のアッピールは、同時に「単独者を超えよ!」のアッピールと一つのものとして差し出されるべきである。ところが、白取氏には構造的に後者の契機が欠落している。何故か? そもそも彼のなかには自分の認識論的自己中心主義を懐疑し苦悩する自他の関係性の経験がないからであろう。

 

 白取氏のニーチェ解説には苦悩がない。まさに明るく生を肯定するニーチェを差し出そうとする解説だからだ。ところが、ニーチェ自身は真底苦悩していて、恐らく遂に彼は決着をつけることができなかったのである。決着とは、イエスへの愛を取るか、ディオニュソスへの愛を取るかをめぐる彼の実存の核心に置かれた深き動揺であった。
 
白取氏のニーチェ紹介には次のことが顕著である。ニーチェのいう「力への意志」とは何よりもまず恐るべき暴力の――それは快楽殺人までも含めたサディスティックな――肯定意志であるという暗黒の一点を、しかし全て削り取るという意志、これが白取氏のいわばニーチェへ向けた「解釈への意志」である。したがって、ニーチェ自身がこの暗黒の一点をめぐって激しい自己分裂に陥り、かつて彼にとって「最愛の遊び友達」であったイエスを自ら失うかもしれぬという内面の七転八倒の苦しみにのたうち、それは遂に決着がつかず、彼の発狂のなかで答えは宙吊りされた――発狂した彼は自分のことを「ディオニュソスであり十字架に掛けられし者」と呼んだ――という事情については、彼は一言も触れない。 ところが当のニーチェはこう書いていたのだ。たとえば『道徳の系譜』にはこうある。「生が本質的に、すなわちその根本機能において侵害的、暴圧的、搾取的、破壊的にはたらくものであって、かかる性格なしにはまったく考えられないものであるかぎりは、侵害も暴圧も搾取も破壊もそれ自体としてはなんら《不法なもの》でありえないことは勿論である」[]『善悪の彼岸』ではこうだ。「もし誰かが、憎悪・嫉妬・貪欲・支配欲などの情動を、生に必要な情動であるとみなし、それは生の全家政における極めて基礎的で本質的に必須の要素であり、されば生がいっそう高揚さるべきだとしたら、それもいよいよもって高揚されねばならないと主張するならば、──その者は、自己の見解のそうした方向を辿ることにおいて、船酔いに苦しむように苦しむであろう。さもあれ、この仮説とても、危険な認識のこの巨大な、まだ極めて新しい国においては、まだまだ決して最も苦痛なもの未知なものなのではない[]。恐らく、右の一節の最後の言葉に対応して、『権力への意志』に収録された断片にこうある。「人間の最も強力な最も危険な激情」とは「それで人間が最も容易に徹底的に没落するもの」であり、要するに「変態や迷妄でおぼえる快楽」[]だ、と。『ツァラトゥストラ』での「青白い犯罪者について」章を読めば、ニーチェが快楽殺人犯をこの点で最強の「力への意志」の持ち主として肯定していることは明らかだ。またこの点で、ニーチェは確信犯的犯罪者の野生性に関する最も重要な文学的心理学的記録としてドストエフスキーの『死の家の記録』を絶賛した[]

 とはいえ、ニーチェは実は苦悩していた。かかる暴力是認は、かつて幼少年時代、夢想的宇宙を生きる繊細なイエスの魂を唯一なる内面の友として、全宇宙との万能感に満ちた「絶対現在」の喜戯的な交信を生きていたニーチェ、その幼年期体験を至福と考えるニーチェにとって、その唯一なる友の喪失を意味することを。『ツァラトゥストラア』において、ニーチェはいかにキリスト教が彼のもとから最愛のイエスを簒奪したかを嘆き糾弾するが、これは事態を逆さまに描いているのだ。ニーチェのディオニュソス的暴力是認が必然的に彼からのイエスの離反を結果するのだが、そのような訣別を認めることに耐えられないニーチェは、イエスと自分との決裂をキリスト教のせいにして描き出しているのだ。そのことは、一方でイエスの絶対平和主義を異端に対するキリスト教の好戦的憎悪心と対比して「インドならざる地(つまりヨーロッパ、清)における仏陀」と讃え、他方では古代ギリシャ的=ゲルマン的な野獣的暴力性をキリスト教的平和主義に対置して、前者こそ真の人間的生の本質肯定だと称賛するニーチェの、その矛盾性と一つのものである。
 ところで、既に述べたように、白取氏のニーチェ紹介はこうした事情には口を括っているのだ。少なくともニーチェには自分を発狂に追い遣るほどの苦悩があった。白取氏にはそれがない。彼の用語辞典風の「力への意志」の解説が良く示すように。
 
彼のニーチェ論の驚くべき浅薄さは新自由主義の掲げる自己肯定主義に波打つ浅薄極まる強者主義と見事に対応している。このようないわば新自由主義的なニーチェ利用を、おそらくニーチェ自身は、かつてのナチズムによるニーチェ利用と並んで、嫌悪するとともに我が身を慨嘆したに違いにない。そのように利用されてしまう自分の思想の欠損性を。
 東日本大震災がもたらした人間的苦悩に呼応する言葉は白取氏のニーチェ称揚の数々の言葉のどこにも探し当てられない。だが、このことは紛れもなく今日の「ニーチェ問題」の一断面である。



[] 別冊宝島「ニーチェ」、宝島社、2011年、一五七頁 [] 同前、一五六頁 [] 同前、一五七頁 [] ニーチェ、信太正三訳『善悪の彼岸、道徳の系譜』ニーチェ全集11、ちくま学芸文庫、四五〇頁 [] ニーチェ『善悪の彼岸、道徳の系譜』、五一頁 [] 同前、三九〇頁 [] ニーチェ、原佑訳『偶像の黄昏、反キリスト者』、ニーチェ全集14、ちくま学芸文庫、一三八頁




  創作小品

     二つの朗読劇台本と一つの小説断片

 
 朗読劇台本「ブエノスアイレスノマリーア」は、ピアソラが作曲し、詩人ホラチオ・フェレールが作詞した現代アルゼンチンンの有名なタンゴオペレッタ『ブエノスアイレスのマリーア』を日がな一日聴きながら、シルクスクリーンでシリーズ「ブエノスアイレスのマリーア」を描いていたころ構想しだし、このシリーズ作品を描き終えたあと、本格的に執筆に入った。今度は、日がな一日何日も聴きながら、朗読劇の台本を創ったのだ。当時近畿大学の芸術学科舞台芸術コースの教授だった大橋他寸さんに手を入れてもらい完成させ、東梅田にあるギャラリーワイ・アートで個展をした際、大橋さんが紹介してくれた女優の馬さんと僕とで実際にこれを朗読した。
 朗読台本「子供の方へ――ドストエフスキーから」は、倫理学の授業でいじめ問題を扱っているうちに年来頭の中にあったドストエフスキーのなかの「受難した子供」というテーマを、彼の『カラマーゾフの兄弟』を軸にいくつかの短編からも台詞を抜き出し、再構成して、朗読劇の脚本に仕上げ、舞台芸術コースの学生数人を呼んで、かれらに実演してもらった。ドストエフスキーのこのテーマに関しては、僕は拙著『<受難した子供>の眼差しとサルトル』(御茶の水書房、1996年)の第Ⅲ部「ドストエフスキーにおける小説<受難した子供>の視線――ベンヤミンにも寄せて」で相当書いた。
 小説断片「ノイズ・ノイズ・ノイズ」は、2004年前後ゼミの学生を中心に大阪日本橋の音楽スタジオにときどきこもってノイズ遊びという遊びをやっていた経験を小説断片に仕立て、その意味を考察しようと試みた、その所産だ。これも朗読台本としても使い、何回かノイズ遊びの時朗読して遊んだ。






     ブエノスアイレスのマリーア  

2004、2、20  朗読テキストとして

 

 (男と女の掛け合い)

 

男:聴いた?

 

女:もちろん。

 

男:読んだ?

 

女:もちろん。詩もいい。すごく。マリーアを歌うアメーリタ・バルターラの声は好き。ダミアのように暗くて強くて退廃的だから。

 

男:マリーアはブエノスアイレスの娼婦。不思議な構成のタンゴ・オペレッタ。聖書のパロディーでもある。娼婦マリーアは、二日酔いの神様が、世界創造のある日手元が狂って間違ってつくってしまった出来損ない。

 

女:

娘は生まれた

神様が酔っていたある日、

だからその声のなかでは、

3本のねじれた釘が痛がっていた。

 

こんな風にマリーアは歌われる。

 

男:神から追っ払われた大天使が悔し紛れに変身した大悪魔ならぬ、ちんけな悪魔が登場する。ブエノスアイレスの安酒場から。賭け事、女狂い、泥酔、たちまちナイフを振りかざすこらえ性のない刃傷沙汰、男どもにとりついたちんけな悪魔どもはこの悪魔の分身。このやくざな悪魔がマリーアへのオマージュを歌う。

 

女:ブルースのようなオマージュ。痛みのオマージュ。マリーアは死んで影となってブエノスアイレスの夜をさまよう。ちんけな悪魔はこの影となったマリーアの子宮に神の子種ならぬ、安酒場の精液を送りこむ。

 

男:マグダナのマリーアは聖処女マリアとなって、神の子イエスならぬ、娼婦の子マリーアを生む。再び娼婦となるのか、それとも別な運命を切り開くのか、この娘のマリーアは。

 

女:その問いかけのなかで終わってゆく。このタンゴ・オペレッタは。女の痛みへのオマージュ。そのことで欲情する男へのいたわりでもあるオペレッタ。マリーアとはタンゴのことでもあるんだわ。これは。

 

 

 Ⅱ (途中から二人の声は重なり、また離れる)

 

女:あんたの声で聞きたい。好きな一節を読んで。『ブエノスアイレスのマリーア』から

 

男:このオペレッタのはじまりの歌から。

 

今がそのとき

蛇イチゴのざわめきが

夜を通してお前の沈黙にとどく

このアスファルトの気泡を通して

お前の声を聞かせてくれねばならぬ 

今がそのとき

お前を襲う

夜明けの生ぬるいミサをタンゴにしてしまおうと

だるいコントラアルトの淫らな娼婦の歌を伴奏に

 

二人:

お前の愛が砕け散った今

それもへまな、目のクマ

ジグザグに引いた眉、

お前の顔の暗黒に

燃えるワインの十字架

 

女:

今薄汚い海賊のみだらな高まりに

いかさまの手がかりがタンゴを叩く

お前の骨で、カインと娼婦の

眠れぬ手が

 

 Ⅲ(男と女の掛け合い)

 

男:こういう一節があっただろ。「夜明けの生ぬるいミサをタンゴにしてしまおうと。だるいコントラアルトの淫らな娼婦の歌を伴奏に」という。こういうのが好きなんだ。

 「淫らな娼婦の歌」でミサをタンゴにしてしまう」という冒涜的で攻撃的なコンテキスト、こいつにぶつかって、俺の心は弾ける。でも、もっといいのは、この淫らな歌が「だるい」ってこと。セックスの欲望がもともともってる攻撃性は実は「だるさ」と背中合わせなのさ。ミサを冒涜する攻撃性は自分が萎えてしまうことへの嘲笑を隠してる。自分への嘲笑があるんだ。そこがいい。

 しかも、「夜明けの生ぬるいミサ」っていうのがくせ者さ。一方では明らかに揶揄。一緒にシーツにくるまってた男と女が目を覚ましのろのろと這い出る。情事は終わった。夜がしらみだした。だけど、このフレーズには同時にミサへの熱情、誠実みたいなもんが込められているはずなんだ。『ブエノスアイレスのマリーア』はこれ全編聖書のパロディー。

 

女:パロディーは実はすごく誠実なもの、真摯なものを土台に置いてる。サンチョ・パンサはドン・キホーテをご主人にするからこそサンチョ・パンサ。すごく真面目なものが自分を嘲笑うからこそパロディー。

 

男:救いへの渇きとか希望、信仰がその自分を笑ってる。「淫らな娼婦の歌」で「ミサをタンゴにしてしまう」というすごく攻撃的でアンチな気分と、すごく真摯で敬虔な熱情、そして辛くて、でもいつもユーモアに包まれた自己批評、この三つがいつも一つになって回転してる。

 

女:「おれたちの神秘がみんなもっているこんなにだるくて、こんなにまじめな気分」って言葉もあるよ。それに「鼻ぺちゃ」ってのも好きみたい、この作詞者は。「鼻ぺちゃの川岸」、「この鼻ぺちゃの歌」、「鼻ぺちゃの中庭」、「それぞれのグラスの鼻ぺちゃの裏側」、ほらほら、こんなに。それは、捕まらないための仕掛けだと思う。ヒロイズムにも、攻撃性にも、まじめ臭さにも、自己嘲笑にも、なんにも捕まらないで、ある意味でその全部だからどれでもなくて、いつも動き続けてるってこと。

 

 

 Ⅳ (男と女の掛け合い)

 

女:私がまず好きなのはこの歌のなかにある廃墟感。潰されたもの、潰えたものの、まだ風の中にかすかに鳴っている痛みの叫びみたいなもの。

 

男:俺はノートにこう書きつけた。

 

そのザラザラした<アンチ>の気分。歯を剥いてるという感じ。だから、それはつねに言葉への暴行という表現の形をとる。横っ面をはる。けつまずかせる。強姦する。ペンキをぶっかける。つばを吐きかける。詩はもともとは称えるべきものをいっそう美しく輝かせることに使命をもってた。神を讃え、王を讃え、武勲を讃え、そしてエロスを讃える。詩の言葉は宝石の言葉、美の言葉であるという常識はこのもともとの詩の使命から生まれてくる。ところが<アンチ>というものが出現して、この常識を強姦する。そのことをとおして自分のポエジーを生み出す。スラム街のアトモスフェアー。なかば廃屋となった家屋。金臭い工場の跡地。錆びた地面に黄色いペンキをぶっかぶって息絶えた雑草。油の浮いたどぶの匂いのする運河。移民労働者。日雇い。あぶれもの。娼婦。アウトサイダーの代名詞としての変質者。逃亡者。隠れ住む者。一切の『まっとうな社会』へのアンチ。よれよれ、継ぎはぎ、イカサマ、インチキ、B級、汚れ、悪とつるんでるって感じ。夜や死の感覚。廃墟の感覚。その都市の路地の形がその人間の内部を流れる血の水路だってこと。現代都市の内臓に巣くってる死の感覚。夜の詩。われわれの都市論。

 

こんな風にね。

 

女:アンチこそ私は愛する。

男:読んでくれよ。おまえの好きなフレーズを。

 

女:

わたしの娘の瞳のなかに

べつの涙のビートがぶつかり

わたしは歩いてゆく、暗い郷愁のなか、

まだ過ぎ去っていないことどもの中を。

路地は娘にカードを投げつけた

憎しみの傷だらけのイカサマ札、

母親は「ものぐさ」を織っていた

父親は「しくじり」を飼っていた

泥棒部落のブルースの

昔ながらのみじめったらしさが

何だか知らぬがわたしのマリーアに与えた

カード

それから別の何かを彼女の猫に。

声は鹿の毛の色をした雌馬のそれ、腰も鹿毛の雌馬のそれ

垂れ髪も乳房も、

そいつの背中をどやしつけるのは

20匹の雄の欲望。

 

 

 Ⅴ (男と女の掛け合い

 

男:このタンゴ・オペレッタがすごいって、すぐわかる。いきなり聴き手を核心に導くんだ。俺がさっき読んだ歌詞のはじまりを覚えてる?

今がそのとき」、これが冒頭なんだぜ。「今」という時、つまり現在が「そのとき」、定められ予告されている時になるんだ。つまり、「今」という現在は過去の予言の成就なんだ。「今がそのとき」、すべての表現はそうだともいえるけど。時が満ち、やってくる、「今」を外してはもう何も生まれることのない誕生の時が、予告された時が。

 

女:たしか、エンディングは忘却と、それから……

 

男:そう、こうだ。――すべての女のうち、そは忘却の女、すべての女のうち、そは予兆

女:予兆は記憶の回復としてある、ってことかな?

 

男:そう思う。繰り返し忘れられ、だが、必ず戻ってくる、予兆として。

 

女:あっ、それは人生そのもののようなテーマね。ねえ、この詩は男が書いたものと思う、それとも女が。私は、男が書いたものだと思う。でも同時にこうも思うわ。もし、女が書いたものだったら、どんなにかそれは素敵なことだったろうって。

 

運命にあらがう激しいタンゴ、

ミロンガと運命と真実、

往生際の悪い低音を奏でる太い弦が、

おまえを泣くでもなく、おまえを愛するでもなく、おまえの孤独のなかで歌っていた。

 

 私は女の声のなかに男の響きを聴くのが好き。それは、女が男のように語るということではないわ。女が女がもつ威厳や大きさや熱情を表現するためには女の声のなかに男の響きを響かせる必要がある。そして、そのことで男より女の方がどんなにか運命に対して戦闘的かということを示す必要があるんだわ。

 

男:男が書いたに違いない。こんなに激しい性欲のあり方は男のものだ。死の予感に燃え立っているセックスへの欲望を俺は感じる。死は自分の死かもしれないし、自分が殺した相手の死かもしれない。たぶんその両方。一方からいえば、セックスは死をねじ伏せようとする絶望的な試み。焼き尽くすような性の快楽の中に死を忘れたいんだ。でも他方では、セックスはつねに死の確認なんだ。死がどうしてもねじ伏せることのできないものとしてそこに待ちかまえていることの。快楽は果てる。もう取り戻すことはできない。生と死は、愛と嫉妬に置き換えられる。愛と嫉妬、この大昔からの大衆芸能のテーマが、でもこの詩では一つの頂点を築いてる。

 

女:男はセックスについていつもそんな風に考える。でも女は反対かもしれない。

 

  Ⅵ(女)

 

女:あんたに読んであげるわ。あんたの好きな一節を。

 

春を売る魔女たちから盗んできて

人生を押し出す嫉妬でつくった

この悲嘆と喜びにみちた町のように。

マリーアは、首くくりの空っぽトランプの

狂った不眠症の一部であった

そのカードは、

負けの決まっている孤独に賭けられたもの、

彼女は、最初のしくじりの扉に立つ、腹立ちまぎれの欲情の詩であった

そして道化師の目に映るバラだった。

 

「道化師の目に映るバラだった」、ここは私のとても好きなところ。

 

 

  Ⅶ(男と女の掛け合い)

 

男:記憶の回復というテーマはこうも歌われてる。

 

このようにして、おまえの<さようなら>の中にある、

ブエノスアイレスの奥深い場末から、

あっさりとまたぎ越すことのできる生と死のやわな国境をこえて、

おれはおまえの暗い歌をつれてこよう……

神の年齢が刻まれた歌を、

ふたつの古傷が刻まれた歌を、

右手には憎しみ、左手には優しさ。

 

愛は嫉妬を産みだしてしまう。愛こそは優しさを産みだすはずのものなのに。でも、愛が嫉妬を産みだすのは、愛が「負けの決まっている孤独に賭けられたもの」だからだ。そこにこそ愛の絶望的な切実さがある。だから愛はいつも怯えている。すべての優しさをあげよう、だけど私から奪うな、私の愛する者を、と。すべての優しさをあげよう、だが、私を憎しみにかえるな、と。

 

女:この詩のテーマは愛の葬送と復活。

 

男:そう、たしかに、イエスの死と復活の物語をパロディーにするやり方でね。

 

女:カトリックの国、アルゼンチンの人たちは、繰り返しパロることのできるオリジナルテキストをもってるんだわ。イエスという。

もう一度読んでみて。

 

男:

お前の愛が砕け散った今

それもへまな、目のクマ

ジグザグに引いた眉、

お前の顔の暗黒に

燃えるワインの十字架

 

イエスの愛が一切の嫉妬から解き放たれた優しさだけの愛だというなら、人間の愛はつねに愛の挫折としてしか存在できない。人間の愛はつねに「お前の愛が砕け散った今」と歌い出される形でしか存在できない。あの優しさにあふれていた愛もいまは嫉妬の憎しみで一杯で、そのことで自分を台無しにしてしまう。しかし、それは愛が切実だったからだ。愛が「負けの決まっている孤独に賭けられたもの」だったからだ。

 

女:その事情は「神の年齢が刻まれている」ことなんだわ。「右手には憎しみ、左手には優しさ」、この「ふたつの古傷」は人間という存在に押された烙印なのよ。

 

 

 Ⅷ(男と女の掛け合い)

 

男:俺は一つのエピグラムを作ったんだ。この詩にインスピレーションを得て。

 

女:聞かせて。

 

男:We are so sad, because we are so poor as to need own enemy.

 We must create own enemy, because we are so poor as to protect ourselves. 

 

女:日本語で言ってみて。もう一度。

 

男:

ぼくらはひどく悲しい。自分の敵を必要とするほど心が貧しいから。

ぼくらは自分の敵をつくらねばならない。

自分を守らねばならないほど心が貧しいから。

 

女:汝の敵を愛するほどの愛は私たちには与えられていないのね。

 

男:しかも、俺たちはむしろ自分の敵を必要とする。いなければ、捏造してまでも。自分を守るためには敵がいるんだ。憎しみが俺たちを守ってくれるんだ。

 

女:私はいつもそれを超えてゆきたいと思ってる。

  女はいつもそれを越えてゆきたいと思ってる。

 



     子供の方へ――ドストエフスキーから

                       朗読劇台本として

  

 

アリョーシャ:みなさん、わたしはここで、・・・・この場で、みなさんにちょっと言っておきたいことがあります!

 かわいいみなさん。みなさんにはわたしの言うことはわからないかもしれません。わたしはときどきたいへんわかりにくいことを言うから。

しかし、それでもみなさんはいつかわたしの言葉を思い出して、納得されることがありましょう。何でも楽しい日の思い出ほど、ことに子供の時分、親のひざもとで暮らした日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全で有益なものはありません。みなさんは教育ということについて、いろいろやかましい話を聞くでしょう。けれど、子供のときから保存されている、こうした美しい神聖な思い出こそ、何よりもいちばんよい教育なのかもしれません。

 

コロス(男女):そんなふうにカラマーゾフの三兄弟の末の弟アリョーシャはイリューシャの埋葬の日、イリューシャのクラスの子供たちに語りかけたという。

 

アリョーシャ:過去にそういう追憶をたくさんあつめたものは、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも、わたしたちの心に残っておれば、その思い出はいつかわたしたちを救うでしょう。

 

コロス(女):アリョーシャ!アリョーシャ!アリョーシャ!

それは本当なの? 

それは本当なの?

 

 

  Ⅱ

 

コロス(男):おかしな男がいた。そいつは自殺しようと決心したそうだ。二ヶ月前に素晴らしいピストルを買い込んだそうだ。

 

おかしな男:通りで・・・ふと空を仰いだ。空は恐ろしく暗かった。だが、ちぎれ雲のあいだあいだに、底のない真っ暗な斑点をまざまざと見分けることができた。とつぜん、俺はこうした斑点の一つに、小さな星を見つけて、じっとそれを見つめだした。今晩だと、その星はささやいた。今晩だ、と俺は決心した。

 そのときなんだ。ふいにあの女の子が俺のひじをつかまえたのだ。通りはもうがらんとして、人っ子一人いなかった。だいぶ離れたところで、辻待ち馬車の御者が馬車のうえで居眠りをしていた。

 

コロス(女):八つぐらいの女の子。頭を布で包んで、着ているものは一枚きり、しかも体じゅうぐっしょり濡れていた。

 

おかしな男:俺はとくに濡れたぼろ靴が目についた。今でも覚えている。なんだか特別ちらっと俺の目に映ったのだ。

女の子はいきなり俺のひじを引っ張って、呼び始めた。彼女は泣きもしないで、妙に引きちぎった調子で、何か得たいの知れぬ言葉を吐き出すんだ。それもはっきり発音できないのだ。悪寒におそわれ、小刻みに全身をふるわしていたからだ。

 

コロス(女):「おっ母ちゃん!おっ母ちゃん!」と女の子は叫んでいた。その声には、一種の響きが、ひどくおびえた子供に絶望のしるしとしてあらわれるあの響きがあった。

 

おかしな男:俺はその響きを知っている。母親はどこかで死にかかっているにちがいない。誰かの助けを求めてるんだ。きっと。

俺は、しかし、一言もものをいわず、そのまますたすたと歩みを続けた。女の子は駆け出して、おれのひじを引っ張った。俺ははじめ彼女に巡査をさがしだすようにいった。けれど、彼女は突然、小さな両手を合わせて、しゃくりあげたり、息をつまらせたりしながら、たえず俺の横について走り続け、ちっとも離れようとしない。

 

コロス(女):「おっ母ちゃん!おっ母ちゃん!」と女の子は叫んでいた。その声には、ひどくおびえた子供に絶望のしるしとしてあらわれるあの響きがあった。

 

おかしな男:そこで俺は、威嚇するように足踏みして、どなりつけてやった。女の子はただ「旦那、旦那・・・」と叫んだばかりで、急に俺を棄てて、一目散に通りを横切って駆け出した。通りの向こうに誰か見つけたんだろう。助けを求める誰かを。

 

コロス(男女):おかしな男はアパルトマンの5階の自分の部屋へ上がっていった。彼は自分の机の前のいつもの安楽椅子に、彼に深々とした孤独を与えてくれる安楽椅子に腰をおろし、考え出した。引き出しから素敵なピストルを取り出し、机の上に置き。

おかしな男は考え始めた。なぜなんだろうと?

 

おかしな男:俺はきっと間違いなく、あの子供を助けてやるところだった。今でも覚えている。あれはまったくかわいそうでたまらなかった。なにかしら不思議な痛みを感じるほどだった。俺の立場としては、今晩自殺しようと決心した俺の立場としては、実際、あるまじきことと思われるほどだった。

 

コロス(男):なぜ急におかしな男は無関心でなくなって、あの女の子をかわいそうに思ったのだ? 二時間後に自殺するはずのおかしな男は、いっさいに無関心になったはずのこの男は、なぜかわいそうに思ったのだ?

 

おかしな男:俺はあの女の子をどなりつけ、追っ払った。二時間たてば、俺は自殺している。いっさいが消滅してしまうのだ。生活も世界も、いわば俺次第でどうにでもなるのだということが、はっきり頭に浮かんできた。それどころか、今では世界は俺一人のために造られたものだ、とさえいうことができる。俺がどんと一発やったら、世界もなくなってしまう。少なくとも俺にとってはそうなのだ。実際、おれの死んだ後は、いっさいが誰のためにも存在しなくなるかもしれないのだ。俺の意識が消えるが早いが、全世界はさながら俺一人の意識の付属物かなんぞのように、幻のごとく消えてなくなってしまうかもしれないのだ。

 

コロス(女):おかしな男は本当におかしな男。彼は考え込んだ。なぜなんだと。いっさいがどうでもよくなっているはずの自分なのに、なぜ自分はあの女の子がかわいそうでたまらないと感じたのか、と。なぜ急に無関心でなくなってしまったのか、と。その「なぜ」に、おかしな男は夢中になった。その「なぜ」が解けなければ、もう死ぬことさえできないような気がするほどに。

 

おかしな男:一口にいえば、あの女の子が俺を助けたのだ。なぜなら、俺はさまざまな疑問で、引き金をおろす瞬間を延ばしたからだ。そして俺は眠り込んでしまった。決心は眠り込んでしまった。そして夢を見た。不思議な夢を。人類の黄金時代の夢を。鹿は獅子のそばに幸せな寝息をたて、万物と万人は互いに愛で結ばれ、そこには永遠の調和があった。殺されるものの苦悶と殺すものの苦悶との、その両方の苦しみの謎が解き明かされる調和が黄金の海のさざなみとなってきらめいていた。次の日、俺は目覚め、ピストルを棄て、伝道の旅に旅立った。謎が解けたことを伝えるための。そうしていまもこのように旅を続けている。

  

   
 

イヴァン:おまえは子供が好きかい?アリョーシャ? 

わかってる、好きなのさ。だからいまぼくがどういうわけで子供のことばかり話そうとするか、おまえにはちゃんと察しがつくだろう。で、もし子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それは、もちろん、自分の父親の身代わりだ。知恵の実を食べた父親の代わりに罰せられるのだ。

だが、これはあの世人の考え方であって、この地上に住む人間の心には不可解だ。罪なき者が他人の代わりに苦しむなんて法があるもんか。ことに、その罪なき者が子供であってみれば、なおさらのことだ!

こう言えば、驚くかもしれないが、アリョーシャ、ぼくもやはり子供が好きなんだよ。

 

コロス(男女):アリョーシャのすぐ上の兄イヴァンはたくさんのおぞましい虐待された子供の話をした。イヴァンは毎日の新聞から子供の虐待の記事だけを切り抜き、膨大な資料を蓄えたという。イヴァンは何度も何度も繰り返した。子供をいじめることには人間の秘密の情欲が隠されているということを。そこにはとてつもない暗い快楽が潜んでいることを。だから人間は子供をいじめつづけているということを。

コロス(女):イヴァンは神を憎んでいる。イヴァンは神を許さない。それでもイヴァンは言う。いつの日か神の国が開かれて、「鹿が獅子のそばに寝ているところや、殺されたものがむくむくと起きあがって、自分を殺した者と抱き合うところを、自分の目で見届けたい、自分のその場に居合わせたい」と。

コロス(男):イヴァンは言った。「地上におけるすべての宗教はこの希望の上に建てられているのだ」と。そしてこうも言った。「ぼくは信仰する」と。

 

イヴァン:ところで、また例の子供だ。いったいわれわれはそんな場合、子供をどうしまつしたらいいだろう?これがぼくの解決できない問題だ。うるさいようだが、もう一度、繰りして言う。いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和をあがなうためだとしても、なんのために子供がそこへ引き合いに出されるのだ。

アリョーシャ! お願いだから聞かしてくれないか? なんのために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか! どういうわけで、子供までもが材料の中へはいって、どこの馬の骨だかわからないやつのために、未来の調和の肥やしにならなけりゃならないのだろう!

人間同士の間における罪悪の連帯関係は、ぼくも認める。しかし、子供との間に連帯関係があるとは思えない。もし子供も父のあらゆる悪行にたいして、父と連帯の関係があるというのが真実ならば、この真理はあの世に属するもので、ぼくなんかにはわからない。中にはひょうきんなやつがいて、どっちにしたって、子供もそのうちに大きくなるから、まもなくいろんな悪いことをするさ、などと言うかもしれない。

だが、じっさいのところ、その子供はまだ大きくなっていないじゃないか。まだ八つやそこいらのものを、犬で駆り立ててかみ殺させたりして。

 おおアリョーシャ! ぼくは決して神を誹謗するわけじゃないよ!

もし天上・地下のものがことごとく一つの賛美の声となって、すべて生あるものと、かつて生ありしものとが声をあわして、「主よ、なんじの言葉は正しかりき。なんとなれば、なんじの道はひらけたればなり!」と叫んだとき、全宇宙がどんなにふるえおののくかということも、ぼくにはよく想像できる。また母親が自分の息子を犬に引き裂かした暴君と抱き合って、三人のものが涙ながらに声をそろえて、「主よ、なんじの言葉は正しかりき!」と叫ぶときには、それこそもちろん、認識の勝利のときが到来したので、いっさいの事物はことごとく明らかになるのだ。

  ところが、またそこへ、コンマがはいる。ねぇ、アリョーシャ!

ぼくはそのとき「主よ」と叫びたくないよ。ぼくは急いで自分を防衛する。神聖なる調和は平にご辞退申し上げる。

なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸を叩きながら、あがなわれることのない涙を流して、「神ちゃま」と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら価しないからだ!

なぜ価しないか? それはこの涙が永久に、あがなわれることなくして棄てられたからだ。でなければ、調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなうというのだ? それはそもそもできることだろうか? それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか? しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか! 

いったいこの世界に、許すという権利を持った人がいるだろうか? ぼくは調和なぞはほしくない。つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。

 ねぇ、アリョーシャ。ぼくは神さまを承認しないのじゃない。ただ「調和」の入場券をつつしんでお返しするだけだ。

 

  Ⅳ

 コロス(女):イリューシャは自分で自分の病気を重くして死んでしまった。イリューシャは自分が許せなかった。イリューシャは邪悪なスメルジャコフにそそのかされて、犬のジューチカにピン入りのパンを投げ与え、ジューチカはそれを食べて苦しんだ。苦しんだ果てに死んでしまったかもしれない。イリューシャはコーリャに泣きながら抱きついて、「駆けながらないてるんだ、駆けながらないてるんだ」とばかり言っていたという。

コロス(男):イリューシャは年上のコーリャが大好きだった。コーリャはずっと年上の子で、強かったし、とても子供とは思えない考えと強い意志をもっていた。クラスの誰もコーリャには逆らえなかった。イリューシャはコーリャに心服していた。コーリャはイリューシャを守ってくれたし、なにか大きな考えの持ち主だったからだ。

イリューシャの父は「へちま」と呼ばれてクラスじゅうの子供たちから馬鹿にされていた。イリューシャの父は世間から道化のように扱われていたし、じっさい道化のように振舞っていた。アリョーシャはいつかコーリャにイリューシャの父についてこう言った。「世の中には深い感受性をもちながらも、ひどく押さえつけられているような人があるものです。そういう人の道化じみた行為は、他人にたいする憎悪に満ちた一種の皮肉なんです。長いことしいたげられた結果、臆病になってしまって、人の前では面と向かってほんとうのことが言えないのです」と。

コロス(女):イリューシャは父のことがいちばんわかっていた。父を守っていた。クラスの子供たちはいつもイリューシャをいじめていた。いつもみじめな格好していたから。なによりもあの道化の「へちま」の子供だったからだ。言葉に出してクラスじゅうの子供が父をばかにしたとき、イリューシャはクラスじゅうを敵にまわしても父の名誉を守ろうとした。喧嘩を挑んだイリューシャはクラスじゅうの子供から石を浴びせられた。イリューシャはぼろ雑巾のようになって倒れた。

コロス(男):コーリャはそんなイリューシャを愛していた。クラスの誰もコーリャだけには逆らえなかった。コーリャはいつもイリューシャを守っていた。

コロス(女):イリューシャがスメルジャコフにそそのかされて犬のジューチカにピン入りのパンを食わせたとき、コーリャはイリューシャをひどく軽蔑した素振りをした。おまえとは絶交だと言った。本当は愛していたのだ。少しイリューシャをお灸をすえた後、許してやるつもりだった。

コロス(男):イリューシャはコーリャに心服していた。イリューシャはコーリャだけには軽蔑されたくなかった。でも、イリューシャは軽蔑に価することをしてしまった。

コロス(女):「駆けながらないてるんだ、駆けながらないてるんだ」とイリューシャは泣いた。自分を許せなかった。そしてコーリャを失ったと思い込んだ。まるで恋人を失ったようにイリューシャは絶望した。イリューシャは父にこう言ったという。「お父さん、ぼくが病気になったのはね、あのときジューチカを殺したからだよ、それで神さまはぼくに罰をお当てになったんだよ」と。

コロス(男):イリューシャがぼろ雑巾のようになって石つぶての嵐のなかに倒れたのはその後のことだ。

 

アリョーシャ:みなさん、わたしはここで、・・・・この場で、みなさんにちょっと言っておきたいことがあります!

  もしかしたら、わたしたちは悪人になるかもしれません。悪行をさけることができないかもしれません。人間の涙を笑うようになるかもしれません。さっき、コーリャ君が「すべての人のために苦しみたい」と、叫ばれましたが、そういう人に向かって、毒々しい嘲笑を浴びせかけるようになるかもしれません。もしわたしたちがそういう悪人になったとしても、こうしてイリューシャを葬ったことや、死ぬまえの幾日かのあいだ彼を愛したことや、今この石のそばでお互いに親しく語り合ったことを思い出したら、もしかりにわたしたちが残酷で皮肉な人間になったとしても、今のこの瞬間にわたしたちが善良な人間であったということを、内心嘲笑するような勇気はないでしょう!それどころか、この一つの追憶がわたしたちを大なる悪からまもってくれるでしょう。

 何でも楽しい日の思い出ほど、ことに子供の時分、親のひざもとで暮らした日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全で有益なものはありません。過去にそういう追憶をたくさんあつめたものは、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも、わたしたちの心に残っておれば、その思い出はいつかわたしたちを救うでしょう。

 

コロス:ねぇ、アリョーシャ

ねぇ、アリョーシャ

ねぇ、アリョーシャ

・・・

(一人一人、さまざまな声と調子で)




   小説的スタイルによるノイズ論

    ノイズ・ノイズ・ノイズ

            

  1

  ブンに会うやいなやアイズは勢い込んでいった。

 「ブンが歌うなんて信じられない!あんなに自分は音痴だっていい張ってたじゃないの。それに何のことかわからへん。あのメモを書き殴ったような葉書は。『手前にあることを生きる、それがノイズ』って?『へたくその可能性』って?」

 ブンはビーたちに街角で出っくわした一昨日の出来事から説明を始めた。

 「ビーは肩にギターケースをかついでた。ゾンはジャンベをアジア風の布にくるんで脇に抱いてた。練習?ってきいたら奴らニヤって笑って答えた。『その手前、ただ楽器をがなるだけ』って」

 アイズはビーやゾンが楽器をやっているとは聞いたことがなかった。ましてバンドを組んだという話は聞いたことがなかった。きっと始めたんだと、思った。

 「おまえもこいや、っていうのさ」

 「どこへ」

 「スタジオに。地下ストリートの30番口を上に出ると後ろがオ大きなパチンコ屋、その界隈は場末の風俗がこじんまりと集まっていて、小さなラブホテル街へと続いてく。キャバクラや覗きの店の横に潰れかけた不動産屋があって、その二階と三階が貸しスタジオ。といっても、ちっぽけなアパートの二部屋に一応防音を施してスタジオに改造しましたっていう顔つき。靴を脱いでカーペットの床に上がると、アンプ一台にスピーカが二台、ドラムセット一つにキーボードが一台、マイクが三つ。壁に張り紙があって、時にはドラムをめちゃくちゃたたきたい人、時にはギターをボリューム一杯できしらしてわめきたい人は当店へ、みたいな文句。バンドやってる奴らの練習スタジオってゆうより、なんかストレス発散のわめきの場所って感じ」

 「そういうのあるって、アイズも聞いたことある。近所の中学生でカラオケ行くより面白いっていってるのがいた」

 「三人であがってゆくと、先に二人の男の学生と二人の女の学生が待ってた。男の方は見たことがあって、ビーとゾンの友達。話を聞くと女のほうもそうだった。みんな俺たちぐらい。ビーが紹介してくれて、一応音楽やってるといえばやってるけど、やってないのと同じ、やりたいけど全然技術がついていかない奴らばかり、っていうんだ」

 「それじゃ練習ってわけでもないんや」

 「そう、バンドを組んでるわけでもないし、練習の曲をもってるわけでもない。ビーがいったとおり。ただ楽器をがなるだけ。ギターだって弾けるってもんじゃない、せいぜいコードを押さえて、ジャーン、ジャーンってひっかくだけ。最後は手が疲れたっていって、ある奴なんか、アンプにつないだギターのコードを上からドラムスティックでたたいてた」

 「でも、なんかいいやん、それ。音出すだけで楽しいって、可愛い奴らだね」

 「そう、いいんだ。それが大発見だったんだ」

 「どんな風に、何が始まるの?」

 「ゾンがいった。この前やったら次の日の夕方もまだ耳の底が鳴ってた、って。アンプのボリュームを馬鹿みたいにあげるんだ。挨拶もそこそこに、自分の楽器をアンプにつないだり、マイクの調整をした後で、一応ビーが音頭とって少し覚えたコードを鳴らすと、後はでたらめに他の奴らが勝手に自分の楽器を鳴らしたり、ドラムをたたいたり、キーボードの鍵盤を腕で一度に押さえて端から端まで滑らせたり、マイクに向って絶叫したりする。いってみればそれだけ。幼児のやるどろんこ遊びを音でやる。ペットボトルのなかのお茶が音の振動で電磁波のように揺れてうなりを発してるんだぜ。ボトルをもってると手に直に響いてくるんだ。

 脳みそに音波が直接入り込んできて、中枢神経を解体したりねじり上げたり、そのうねりで気が変になりそうになる。音量の波で船酔いになるみたいなんだ。脳がねじれだして吐き気がやってくる、そんなになるまで音量を上げてゆく。音量を上げ続けるともう止められないところまで自分たちは来てしまって、自分で自分の脳を破壊して、もう戻れなくなるんじゃないかと怖くなる。会話なんてできないよ。声なんてまったく聞こえないんだから」

 「じゃあ、歌ったって、どういうこと。曲もなかったわけだし、歌う歌があったわけでもないんでしょ。でもそれがあったら、ブンはとても歌えなかっただろうな。ブンはどっか極度に反身体的なとこあるもんな」

 「ゾンがいうんだ。ブン、おまえもなんかわめけよ。おまえは楽器をもってきてないんだから、声が楽器代わりさ、って」

 「それで?」

 「それで、まずタン・タン・タンっていう声を思いついた。ドラムのスティックからの連想。舌で口蓋の下を短く蹴って強いリズムを出すには、タン・タン・タンっていう声がいいな、って。それでタン・タン・タンで音の洪水のなかに入っていったんだけど、タン・タン・タンってやってるうちに、それに返す形で、自然に今度は鼻の奥からナン・ナン・ナンって声が呼応し始めたんだ。タン・タン・タンの語尾のンが自然にナの音に反って、今度はナン・ナン・ナンってこだまのように返るんだ。それでタン・タン・タン、ナン・ナン・ナンの繰り返しで、音のなかを泳いでゆくことになった」

 「それにしてもブンにそれができたなんて革命的ね。だって音痴だし、リズム感もだめっていってたよ。」

 「な、アイズ、それが『へたくその可能性』ってことなんだ。もし連中がうまかったら、到底ぼくはやる気にならなかった。ビーがいったとおり、連中がみんな音楽の『手前』にいる、馬鹿馬鹿しいぐらいにへたくそだったから、ぼくもやる気になった。それにあの音量がぼくを半分壊していた。一種の酩酊状態に入り込んでいて、羞恥心が吹っ飛んでた。

 もうひとつは、リズム。たしかにへたくそな連中だけど、ドラムとリズムギターをやった奴は一応リズムはとれてた。リズムは単純でビートが利いていて強烈なリードがあればリズム感がない奴でもついていけるようになるもんなんだ。それがリズムなんだ。そのリズムに合わせるっていうんじゃないんだ。あの大音量で意識が半分吹っ飛んでるから、リズムは耳から意識の前に入ってくる音ではなくて、体全体を包んで気がついたらもう勝手に身体をゆすってるもんなんだ。だから意識はやってくるリズムに注意を向けてるんじゃなくて、自分に注意を向けてるんだ。外からきたリズムに揺すられて自分のどっか奥からやってくる自分のリズムにね。外から耳を伝わって意識の前にやってくるリズムに自分のリズムを合わせようとしてるんじゃなくて、体がリズムで揺すられていることが、外に合わそうとしていた意識の姿勢を崩してしまって、それが崩されたから初めて意識は自分のリズムに集中しようとしだすんだ。そしてね、実は大音量のなかでその自分の奥からやってきたリズムが外からきたリズムと合ってるかどうかってことはもうどうでもよくなってるんだ」 

「かっこいいよ。その言い方」

「ちょっとね、まとめすぎだけど。でも、そうなんだと思う」

「タン・タン・タン、ナン・ナン・ナン、一本でいったの?」

「ちがう、ちがう。そこからもう一歩の発見に進んだ。次に『悲鳴』って言葉が頭に浮かんだ。キーボードに両手でしがみついて鍵盤に頬をすり寄せたり、頭突きをくらわしてるザギ、そいつとはそこで初めて知りあったんだけど、ザギを見てて、奴は悲鳴をあげてると感じた。するとムンクの『叫び』という絵、あれが浮かんだ。叫びはみんな悲鳴。自分じゃどうにもできないものが悲鳴となって体を突き抜けてゆく。アイズ、君ならわかるだろ。嬉しい悲鳴だって悲鳴、驚きの叫びだって、怒りのどうま声だって悲鳴、だけど悲鳴が全部に共通して悲鳴なのは、それが自分を突き抜けていく、自分ではどうにもできない力だってこと。空気はぐらぐら燃えるように渦を巻いて頭は弾けそう。悲鳴なんだ、生きてるってことは。この直観がぼくを掴んだ。だから、今度は悲鳴の『ワァー』でやろうと決めた。この一音、この一声だけでいくんだ。あらゆるバリエーションを自分の奥から引き出す、そう決めた」

「たとえば」

「ワッ、ワッ、ワッ、こういう風に短く小さく入る。やってくるリズムにそうやってウオーミングアップする」

「可愛い悲鳴ね」

「いろんな悲鳴があるってことに気づくよ」

「ムンクの叫びは世界の全体を歪めるほどだった」

「ぼくが発見したことの一つは」

「それは」

「悲鳴は遡及的にもなれるってこと。ワァーって発声してゆくだろ、それは声を前に出すようでいて、声を生きてるぼくの内面では方向は逆なんだ。ワァーっていう発語をできる限り長く引っ張ってゆく。どこまで長くワァーって発声できるかなって思いながらワァーアーアーってやっていくと、それを可能にする息の持続は息が透明になってくることなんだと感じる。息が透明になるってことはどどんどん奥へ帰ってゆくということなんだ。井戸の奥の奥に帰るほど声は透明になり、息はどこまでもどこまでも途切れることなく続く細い絹糸になって、奥の奥の源へと伸びてゆくんだ」

「悲鳴は帰還なんだね」

「こういうこともある。悲鳴をあげる快楽は自分のなかの女の声を聞きたいってことなんじゃないか、って」

「たぶんブンはどうま声のような悲鳴はあげなかったにちがない。だってブンの好きな声は男のなかの女のように高い声だもん」

「たしかにね。悲鳴をあげること自体が男らしくない。そして男が思わず悲鳴をあげるとき声は女の声になっている。そして男はそれを恥じる」

「ところが、実はそれは快楽。そして声の力はこの<男女>性にある。声の不思議な神秘的な深さは男の声のなかの女の調べにある、そしてたぶん逆のことが女の声についてはいえる」

「君は以前吐く息と吸う息ということをいったろ。今思い出した。悲鳴がどこまでもどこまでも内部に遡及してゆけるって感じ方には君のいう吐く息に近い感覚があるかもしれない」

「そう、吐く息は透明化ということとつながってる。肺が空っぽになりきるまで深く深く吐いてゆく。空っぽになりきるまで。それは透明化っていってもいいわ。

 私は、吐く息と吸う息という二つの息の仕方で世界というものを考えてきた。人が息を吐くときの世界と吸う息のときの世界、それは二つの違う世界、いえ、一つの同じ世界の二つの顔。息を吸う、それは世界を吸い込むってこと、内部にできる限りたくさん。できる限り深く。たいてい人は深呼吸ってことをしない。短く浅く慌てて吸って急いで吐く。せかせか呼吸するだけ。世界はちょとしか吸い込まれない。人は世界のほんの表面、その小さい小さい部分を生きるだけ。そして、ちょっとしか吐けないから人は自分を透明にすることができない。大きく吸うためには深く吐かなければならない。二つは一つのことだけど、でも、それぞれは互いに異なってる。お互いが相手を必要とするけど、でも、それぞれは反対」

「それで、吐く息で自分を定義する人間と吸う息で自分を定義する人間と二通りの人間がいる、そして自分は吐く息の人間だ、それが君の考えだった」

「そう、私は息を吐くときがいちばん好き。自分をどんどん空っぽにしていって、終いには世界と自分の境が消えてしまうまで自分を空っぽにすることが、私の望み」

「悲鳴を内部へとどこまでもどこまでも遡及してゆくと君のいう空っぽに近づくかもしれない。少なくとも不思議な透明化に向かってゆくことは確か。何といってもぼくの発見は、あのワァーァーァーって発語をどこまでも長く引っ張れるという感覚に出会ったことだし、まるでそれは自分の奥の奥に向かう透明な細いトンネルができて、そこへと通じてゆくという感覚、それを伝わって悲鳴を支える透明な息がその奥の彼方から途切れることなくやってくるという感覚だった」

「ブン、聞きたいんだけど、『手前にあることを生きる』、そう葉書に書いてあったね。ビーが最初にいった言葉だったんだね。『手前』って」

「奴らはチョーへたくそだった。だから奴らのがなる音は見事な音楽の手前にあるものでしかなかった。そして、ぼくのワァーは、ぼくの悲鳴は、あらゆる言葉の手前にあった」

「あらゆる悲鳴はつねに言葉の手前にあるもんだわ」

「そうだろ、問題はそのことさ、アイズ。悲鳴は既に形になりつつあるけど、まだなってしまってはいない。自分に言葉を与えようとしているが、まだできないまま。だからこそ悲鳴なんだ、ということがそこにある。奴らのへたくそな音は音楽になりたいとわめいてる。だけどまだそれができないから、がなってる。がなるしかない切実さはこの苦痛にある」

「悲鳴がまさに悲鳴であるしかないように」

「そう。その切実さこそが可能性なんだ」

「それはわかる、よくわかるは。私たちはすぐ言葉に飛びついてしまおうとする。それは見事な言葉がもうそこに模範として置かれているからだわ。音を少し出せるようになるとすぐ私たちは音楽に飛びつこうとする。同じことね。私たちは致命的に出来が悪いくせして、すぐ出来の良い生徒として振る舞いだす。可能性は悲鳴のなかにこそあったのに、悲鳴を乗り越えることだけを考え出す。掴んだと思った言葉にもう掴まれている。言葉に掴まれてしまった私たちからは悲鳴が消えてしまっている」

「だとしたら、悲鳴の可能性に自分の身を浸しておく特別な方法が必要になる」

「ノイズをノイズとして維持するということがそれなんだね」

「悲鳴はノイズを抱え込んだままで言葉になろうとしている声。へたくそな奴らのがなる音はノイズそのものだけど、それがノイズであるのはそれが音楽になりたがって痙攣しているノイズだから。この運動を停止しないこと、中断はあっても停止はないこと、それが実現されねばならない。方法という問題は必ず生まれてくる」

「方法という問題は再生と反復という欲求に結びついてると思う。まず最初にあるのは<出来事>よ。ブンが一昨日思いがけなくスタジオでの出来事に放り込まれたように。出来事は突然降って湧く。偶然ということがどうしても外せない。その思いがけない出来事にもう一度再生したい何か、もう一度味わい試してみたい何か、それどころか何度でも反復したい何かが孕まれているなら、そこで方法が問題となる。それを使えば必ずそれが生じるはずの方法が」

「方法は既に出来事のなかに与えられている」

「そうよ、方法は既にあって見出されることを待っているもの。決して頭がこね上げて発明するもんじゃないわ」

「ぼくはね、そのぼくが『ノイズ』って名づけた方法が必然的に『遊び』という方法を孕んでいると考えてる」

「手前に留まって、そこに集中するってことはただ遊びという形でだけ可能だってこと?」

「そのとおりさ、アイズ。遊びは真剣な芸術創作へと乗り越えられねばならない、ノイズは音楽へと、悲鳴は詩へと乗り越えられねばならない、こういった観念のベクトルを断ち切ることが、ここでの方法なんだ。遊びという時空の自立的な価値が、あらゆるまじめな目的追求精神へのノイズとして自立する遊びの権利が、方法として把握されるべきなんだ」

「へたくその権利宣言」

「そう、そう。うまくなろうとすることは罠なんだ」

 

  2

 

 アイズは考え始めた。ブンに会うために乗ってきた電車のなかで読みふけっていた本のいくつかの節がふいに甦った。それは、大学の演劇科で舞踊の教師をしているウーナが貸してくれた舞踊の練習技法についてアメリカ人の舞踏家が書いた本だった。アイズがウーナに舞踊について知りたいというと、彼女は「知りたければ、するしかないね」と素っ気なかった。それでもウーナはとりあえずといってその本を貸してくれた。

 舞踊に取り組む者が最初におこなう練習で中心的な役割を果たすのは即興であった。それでこの本の最初の章は即興論として始まっていた。奇しくも、即興ということは今日のブンの話の中心に置かれたものでもあったが、同時にそれはずっと以前からアイズとブンの間に置かれたテーマでもあった。

 ブンがあの横丁の朗読ライブを横丁に隠れ棲む地霊の助けを借りて実現しようと意気込んだとき以来、即興というテーマはつねに彼ら二人の念頭を離れたことがなかった。アイズは即興ということを料理というメタファーで考えることが好きだった。彼女は料理が好きだったからだ。料理は、ブンがつねづねアイズという人間を定義するものとして使う「プレゼント」という言葉を借りるなら、それは彼女にとってはつねにプレゼントであった。料理する楽しさはプレゼントする楽しさであった。そしてアイズのなかではこの贈与の喜びは即興の喜びと切り離しがたく結びついていた。あげるということには放つという喜びがあった。そして放つという喜びは即興ということの本質のなかにもあった。放つことなしに即興はなかった。また放つことなしにプレゼントする喜びはなかった。心が即興に踊って放つ喜びに溢れたとき人はいちばん大きなプレゼントができると、アイズはつねに考えた。

 だから彼女は次の一節をその本のなかに見つけたとき、ウーナに借りた本であることを忘れて、後で何度も読み返えし、そこからもっと深い自分の即興の思想を創り出そうと、思わずその頁の縁を折ってしまった。この程度の観察に対して自分はもっと本質的な即興の思想を産みだすことができると感じたのだ。その一節は著者が彼の尊敬する或る有名な演劇家の本から引用した一節であった。そこにはこうあった。

 「演出というのは料理に似たところがある。料理人はお客が来る前に、すべての材料を細かくきざんで十分な準備をする。お客が来ると、それをフライパンでいれてさっと炒める。味は料理人が作るのではなく、材料それ自身が他の材料と混ざり合って、熱いフライパンと油の中で作っていくのだ。だから料理人にとっては、味は出たとこ勝負。いくらはじめから計画しても、材料が溶け合ってくれなければどうしようもない」

 十分な準備、それがあったうえで、しかし、「味は料理人が作るのではない」。もちろんそうだわ。そこにお客が来る、この「来る」ということがそこに<>を開く。<>は初めてそこで開く。どんなお客が来るか料理人は知らない。いや仮によく知っている馴染みのお客でも、今日この日そのお客がどんな心をもった客としてくるかはその場になってみなければわからない。その客に出会って、その客の空気が自分のなかに何を産みだすのか、そのことも料理人はその場になってみなければわからないんだわ。

 十分な準備は最後の一点でどうしようもなく切断されている。どうやっても準備できないものによってそれは切断されている。十分な準備がその努力の際果てでこの切断に出会ってる。「熱いフライパンと油」、それがこの切断の向こうから、この切断を架橋するものとしてやってくるもの。つまり、それがお客が来て、初めてそこに誕生する<>なんだわ。たしかに、味は「材料それ自身が他の材料と混ざり合って」誕生する。でもそれは「熱いフライパンと油」のなかで。そしてやっぱり、そこに混ざり合うべき材料についての十分な準備がなければどうにもならない。十分な準備があってもどうにもならないけど、十分な準備がなければやっぱりどうにもならない。どうにもならない、後は放つだけ、放ってまかせるだけ、もう私の所有物でもあんたの所有物でもなく、両方の手から放たれて、そこに誕生したもの、それを祝福することしか、あんたにも私にもできないよ!、そういうとこまで自分を連れていって放つ、そういうことなんだわ。そういうことまで、この一節はいってるかしら。そこまでいわなければ、即興と演劇と料理を重ね合わすことはできない、私はそう感じる。アイズはそんな風に考えていたのだ。

 彼女はこの即興というテーマをブンの話に繋げてもよかった。

 だが、そのとき彼女が選んだのはこの本のなかでつい先程、駅に着く直前に出会った次の一節だった。著者の舞踏家はいかにもアメリカ人らしくこう書いていた。「舞踏においてもその表現行為を通じて何を表現したいかの意図は明確でなければならない。往々人は、舞踏が舞踏であるのは表現しがたいものを表現しようとするからであって、だから舞踏に表現意図の明確な把持を要求するのはそもそも間違っているという。だが、かかる言辞は一個の逃げ口上にすぎない。それは舞踊者の無思想を覆い隠すための偽りの言葉である」と。そして続けてこうあった。

 「混沌であることと、混沌を意図していることとは全く異なる二つの事柄である。表現者は明晰な方法的自覚に立って混沌を意図するのであって、作品創造者の自己責任を解体することを意図した混沌への自己放棄は忌むべきものである」と。

 この一節に触れたとき、アイズのなかには「違う」と首を横に振る声と「なるほど」と頷く声とが両方沸き起こった。彼女はそのことを認めた。だが、それではその相反する二つの声が互いにどう繋がるのかということになると彼女の思考は進みあぐねた。電車は駅に着いた。そして彼女はブンのもとへと急がねばならなかった。思考は中断せざるをえなかった。

 今、その中断されていた思考が一つの接続点を得て、再開したのだ。彼女は自分のなかの思考を辿り直すためにアメリカ人の舞踊家の言葉をなぞるようにしてブンにこういった。

 「方法って問題にうちらはぶつかった。ところでブン、ノイズであるということと、方法としてノイズであり続けるということとは同じことかな。それとも違うこと?どう思う?遊びであるということと、方法として遊びであるということとはどっか違ってない。違ってることと連続してることとの微妙なあわいみたいなもん、そこが気になる。そこが隠された問題のポイントだと感じる」

 しかし、アイズがそういったとき、彼女に成案があったわけではなかった。なかばそれは言葉の勢いが生んだ思いつきの論理だった。論理はつねに先駆ける。内容は後からついてゆく。論理によって引き出される形で。そうであるのは論理が論理だからだ。たしかブンもそんな風なことを時々いっていたなと思い出しながら、アイズはこの思いつきの論理がブンとの会話のなかでどう埋まるのか、埋まらないのか、見てみようと思った。

    
                                   リンク 小思考断章Ⅱ


     

       D.H.ロレンスとニーチェ

               ――考察断片集


  原稿『大地と十字架』に書き込んだ、ロレンスとニーチェとの関係についての考察

 

 Lの推理が始まる。

――最初にニーチェが、「逆というもの」、つまり反対の顔つきの仮面をつけたとき、それはニーチェが家族と親しい友人たちのあいだで暮らすための必死の必要事であった。というのも、彼は彼の出会った生の内的な危機とその克服という出来事を、彼の最も身近な親しい者にさえ、、何よりもまずそれらの者に対してこそ、秘匿しなければならなかったからだ。彼の親しき人々も知る由がない生の内的な危機がニーチェを襲っただけではなかった。彼はそれを親しい人々のためにこそ隠さなければならなかった。なぜなら、その危機を彼らが見てしまえば、彼らは愛するニーチェのおぞましい変身に耐えられなくなり、彼ら自身が破滅するかもしれないからだ。彼らを絶望から救うために、そのときニーチェが被った仮面とは善良なキリスト教徒という仮面である。そうではなかったろうか? 

次のことはよく知られている。ニーチェは少年期をとおして、彼が五歳のときに失った熱心なプロテスタントの牧師であった父を崇拝していた。ザロメはニーチェその人から直に聞いたこととして、こう書き残している。「むしろニーチェはくり返し強調していた、両親が住んでいた牧師館のキリスト教は、彼の内面的本質に――『健康な皮膚のように』、『ぴったりとしなやかに』合ってしまった、と」[i]。妹エリザベートの証言によれば、ニーチェはその頃周囲から「小さな牧師さん」[ii]との愛称を得ていた。彼の家族、隣人、親しき友、彼らはそういうニーチェこそを誇り、愛し、そうであるがゆえに幸福だった。

Lはこれらの証言を彼の手帳にメモすることを忘れていなかった。アンダーラインさえ引いていた。それからしばらくして、LはDH.ロレンスの文字通り最後の作品『黙示録論』を読んだ。それはLをいたく刺激した。なぜなら、それは最後の一点を除けば、そしてその一点は決定的でもあるのだが、九分九厘ニーチェのキリスト教批判と軌を一にするものだったからだ。イエスの愛の思想とキリスト教を実際に駆動している憎悪と闘争心に燃え立つユダヤ的ルサンチマン欲動とを峻別したうえで、後者を前者の視点から糾弾するという構図を取る点で。しかもまた、そのキリスト教批判の根底には、古代ギリシアに継承されたオリエントの大地母神信仰に対する古代ユダヤ教が遂行した憎悪に満ち満ちた激越なる闘争を、ユダヤ的な父権的な攻撃性の起源に見るという視点が据えられていた点でも。

 ただし、Lの見立てでは、ニーチェはそこからさらに一転し、今度はディオニュソス的な暴力に対する言祝ぎへと己を突入させる。明らかに自己の内なるイエスを亡き者にせんとする自虐の快楽に燃え立つ雄叫びをあげながら。他方ロレンスはイエスの愛の側に留まり、さらにそれを大地母神的愛へと転成させながら、第一次大戦がその序曲となり、彼が死に際にその開幕を見た二十世紀の全体主義的暴力――コミュニズムとファシズム――の狂風に最後まで抵抗を果たそうとする。『黙示録論』とはいわばこの決意をしたためた彼の遺言書だ。

 その冒頭でロレンスはこう書く。「顧みるに聖書は、ごく幼少のおりからずっと成年期に至るまで…(略)…毎日のように私の無防備な意識のうえに灌がれつづけてきたもの」であったが、そのことで、「いまやそれはすっかり体内に浸透したあげく、ついに一つの力として情欲と思惟の全過程を左右するまでに至ったのである」[1]と。しかも、このことが逆説的にも彼の世代に次のような反抗気分を産み出しのだ、と。

「過程がみずからその目的を無効にする。ユダヤ人の詩が我々の情感と想像に貫入し、ユダヤ人の倫理が我々の本能にまで透徹してゆくうちに、精神はひとえにかたくなとなり、反抗的と化し、ついには聖書全体の権威をも拒否し、一種嫌悪の情をもって聖書に面を背けるに至る。これこそ、私と世代を同じくする多くの人々の精神状態でなくしてなんであろう」[2](傍点、L)と。

まさにニーチェこそはこうしたロレンスの自己認識の先駆けであり祖型である。そうであるがゆえに、彼はロレンスの世代の西欧知識人の胸の只中に、彼らの心臓を射るようにして舞い降りる。この精神史的文脈が理解されなければ、ニーチェの死の直後から西欧知識人のなかで始まる狂熱的なニーチェ発見・ニーチェ復興の理由を理解することはできない。そうした徹底的なる内面化と、それゆえの反抗は、石田英一郎風にいえば「父権的・遊牧民的・上天神的・合理主義的信仰圏」においてのみ引き起こされる精神史的事態なのだ[3]。こうした事情なぞ到底、これまた石田風にいえば、「母権的・農耕民的・大地母神的・多神的アニミズム的・カオス的信仰圏」に――しかも、異民族的他者との血で血を洗う争闘を経験することなく己の歴史を形成したという稀有なあり方で――帰属する日本人に到底は知りえないもの、想像の埒外にあるものだ。だからこそだ。このロレンスの証言は噛み締められなければならない。またそこから今度は、ニーチェの内的矛盾を、彼の仮面を被る決意というものを想像しなければならない。Lはそう確信する。彼はそのときニーチェとロレンスを繋ぐ精神史的な赤い糸を発見した[4]。いつか、彼はその追跡を始めるに違いない。

 

 



[1] DH.ロレンス、伊藤恒存訳『黙示録論』ちくま学芸文庫、二九頁

[2] 同前、三二頁

[3] 石田英一郎「

[4] 参照。



[i] ザロメ『ニーチェ 人と作品』、七〇頁

[ii] 西尾幹二『ニーチェ』ちくま学芸文庫、一六三頁に引用されてあるニーチェの妹の証言。


   非意志的な力への視座

 

             テクスト研究会シンポジウム(2011,08,26 甲南大学)での発言要旨

 

 

I.   「薔薇園の影」におけるimpersonalなもの

 

u  結論的主張:このロレンスの短編の最重要な主題は、この短編のラストで主人公の夫婦が妻のかつての恋愛をめぐる諍いの果てにどこへと導かれたかという点に関して、次のように書かれるとき、そこに登場する「impersonal」という形容の孕む意味をどう掴むかという問題のなかにある。すなわちこう書かれる。「二人は余りに大きな衝撃を受けたために、個人の感情を失い、したがってお互いを、もう憎んでいなかった」(井上義夫訳、『ロレンス短篇集』ちくま学芸文庫p88)  They were both shocked so much, they were impersonal, and no longer hated each other p15

 ここで、「二人は余りに大きな衝撃を受けたため」と書かれるが、これは個人というものが抱えざるを得ない絶対的とも呼びうる孤独に、双方がその諍いの果てに突き戻されるということを指す。夫は、妻とかつての愛人とが結んだ関係への嫉妬から妻との諍いに導かれるが、しかしその果てに、妻がこの問題をめぐっていかに深い絶望を抱えているかを知り、その鋭さと重さを知って、到底自分が近づけない世界のうちに彼女がいることを思い知り、「二人を隔てる淵の大きさが、ようやく…(略)…理解できた」p87 At last he had learned the width of the breach between them. p15地点に進む。そして夫は、独り絶望を噛み締める妻の孤独を犯してはならないと感じだす。「接触することは、お互いを冒瀆することになる」p87と感じる。また、そこまでいって、彼は彼女への憎しみを捨てるし、彼女もまた――おそらくこの自分たちの諍いが夫に強いるに違いない絶望と孤独を想うことで――彼への憎しみを捨てる。He could not go near her. It would be violation to each of them to be brought into contact with the other.

 つまり、彼らは自分たちの互いの絶対的な孤独を自覚することによってimpersonalになる、とそうロレンスは捉えているわけだ。また、少なくともそうなることによって、二人は「憎み合う」ことからは解放されるといわれる。

 では、impersonalになって憎み合うことから解放されることは、この二人を、これまでとは違った次元であれ再び「愛」と呼ばれるべき関係へと進ませることなのであろうか? それとも、それはもはや両者互いに決定的に無関心となり、互いが己の絶対的孤独性のなかに引きこもるがゆえに憎しみとともに愛もまた捨て、ただその意味においもはや憎み合うこともない、ということなのであろうか?

 短篇はこの問いには答えることなく、妻を残し部屋を出ていく夫の後姿をただ描いて終わる。では、この問いを携えて改めてわれわれがロレンスの他の諸作品やエッセイを振り返ったなら、どんな問題にぶつかることになるのだろうか? すると、われわれはこの問題が彼の「愛」の思想の中心的テーマとなっていることを見いだす。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用①

Ø  ところで、このimpersonalになるという問題には、もう一つ別な側面がこの短編には描かれていることに我々は注目しておかなければならない。それはこの短編の「薔薇園の影」というタイトルが暗示する問題にもかかわる事柄である。妻が、彼女にとって故郷と匹敵するほどの意味をもつこの旅行先の土地で、いまは狂人となったかつての愛人に再会する場所となる薔薇園は、ロレンス特有の著しく色彩性に富んだ濃厚な自然描写を通じてきわめて濃い存在の密度=強度を示すものとして登場する。そしてこの薔薇園での妻の逍遙は、この薔薇に自分を自己同一化し、自我という意識存在としての存在性を喪失することと引き換えに、逆に、いわばプラトン風にいえば「真実在」としての存在性を獲得する幸福な瞬間に接近する過程として描かれる。

Ø  「自分は一本の薔薇――それも完全に開ききっていない、固く張り詰めた薔薇の花だった」p73 と書かれ、そのさいの彼女の存在の様式は「もう自分というものがなかった」p73  She was not herself p8と書かれる。つまり、彼女が薔薇に自己を同一化して「真実在」的存在性を得ている状態もまたimpersonalな状態なのである。

Ø  ここに至って、「薔薇園の影」というタイトルは次のような含意を孕んでいるのではないかと我々に推測させるものとなろう。プラトンの有名な「洞窟の比喩」をここに補助線として持ち出すなら、薔薇園は「真実在」の世界を表し、他方自己意識的・自我的存在である限りの人間は仮象的存在、真実在の「影」存在でしかないという理解、これがこの短編の基底に据えられているに違いないという推測である。

Ø  そうであるなら、この短編においては人間がimpersonalな在り方を取る場合に二つの場面、つまり絶対的孤独性への引きこもりと自然への自己同一化との二つの場面が考えられていることが明白となる。

Ø  すると、またもやここで新しい問いにわれわれは直面することになろう。つまり、この二つの場面は相互にどう関係するとロレンスによって把握されていたのか? またその問題は先のくだんの「愛」の可能性という問いとどのように関連するのか? という問いである。

 

u  予期される問いは次の諸問題ではないだろうか?

Ø  自我同士が結び合う愛の関係は必ず双方を愛と憎悪のアンビヴァレンツの中へと引き入れ、愛を瓦解させてしまう必然性を人間に負わせる、この認識がまずロレンスにある。するとロレンスは、人間同士がimpersonalな在り方で互いに関係する場合にのみこのアンビヴァレンツから解放された愛の関係が可能となると、そう考えたのだろうか?という問いが立つ。と同時に、この推測は、すぐさま、次の問いを倍音の如く伴うことになろう。すなわち、impersonalとなった人間の間にはそもそももう「関係」ということ自体が消滅するのではないか? そして「関係」というものが消滅するなら「愛」もまたそもそも問題ではなくなるのではないか?という疑問である。

Ø  すると、ここに次の問いもまた改めて浮上しよう。ロレンスは「関係」というテーマをそもそもどう考えていたのか? 先に「to be brought into contact with the other.」といわれる場合、それがviolationとならないcontactというものもロレンスは考えていたのか、それともcontactviolationと考えていたのか?という問題でも、それはある。(violationという問題の掴み方については➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑧)

Ø  私の見当では、ロレンスは次のような思想を抱いていたと思われる。すなわち、愛し合う者同士が互いの絶対的孤独を相互承認するという次元にまで高まったcontactというものがあり、それが関係性を相互のviolationとさせない保証となると同時に、「愛」という関係性をイエス的レベル――『黙示録論』の言い方を使えば「大いなる優しさと穏和と没我の精神」・「諦念」・「瞑想の平和、無我奉仕の歓喜、野心からの離脱、智慧の悦楽」等々を成立条件にする愛のレベル――に高次化して実現することになろう、という展望である。つまり、彼は究極的には《violationとならないcontact》の可能性を追求した。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑨

Ø  このことは、ロレンスが、他方では、人間の孤独化=他者とのcontactの喪失こそ人間をして破壊的暴力の激情のなかに身投げさせる最大の心理的要因であると認識していたことと深く関係していると思われる(典型的な作品は「英国、わが英国」)。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用②③

Ø  では、以上のことと、宇宙的自然そのものとの一体化という意味での個人の存在のimpersonal化という、人間の存在実現にかかわるもう一つの展望とは、この問題においてどうクロスするのであろうか? おそらくこの問いにこそ、『翼ある蛇』から『チャタレー夫人の恋人』に至るロレンスの思想の展開を促す中核的な問題としてのセックスの問題、『翼ある蛇』での言い方を使えば「小さなセックス」と「大いなるセックス」との相対立し合う両面性において性の快楽経験が問題にされ、その経験を元手に如何なる実存実現の展望が思弁されたのか、という問題が据えられているに違いない。

Ø  こうした問題は既にしてはるかに短編「薔薇園の影」をはみ出してしまう問題ではある。だが、この短編はそうした問題への通路をimpersonalという言葉を自らのキーワードとすることで展望しているといえよう。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用④⑤⑥⑦

 

II. 「ナポレオンと田虫」における非意志的な力への視座

 

u  結論的主張:この横光利一の短編の主題は、19世紀西欧において、近代西欧精神の原理となる「意志」と「個人」のいわばシンボル・メタファーであったナポレオンを次の風刺的な喜劇的な問題構造のうちに引き入れることで、「意志」と「個人」の二大原理からいわば存在論的権威を奪い、それらを虚妄化せしめることにある。すなわち、「意志」のメタファーたるナポレオンに非意志的なる力のメタファーとして「田虫」を対決させ、ナポレオンと田虫との闘争を「意志」と非意志的な力の闘争として戯画的に描き、さらにこの闘争を平民ナポレオンの皇女ルイザへのルサンチマンと怨恨的復讐心に貫かれた欲望のサド=マゾヒズム化を同時に帯電するものとして提出し、この下意識的欲望の複層構造体こそがナポレオンのロシア遠征の権力意志を《他所的な仕方で決定するもの》として示すことで、まさにナポレオンにメタファーを見いだした西欧近代の「意志」と「個人」の文化の虚妄性と破壊性を嘲笑するのだ。この横光の観点は、一方では昭和二年に改造社から出版された短篇集『春は馬車に乗って』のなかの「街に出るトンネル」のなかで「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」と呼ばれることになる心理分析理論に連結するとともに、他方では現代社会をつねにカタストローフのパースペクティヴのなかで問題にする視点、「蠅」、「街に出るトンネル」にも分有されながら「静かなる羅列」において決定的な表現に達する視点に繋がる。しかも、横光はこの西欧の「意志」と「個人」の文化への批判においてその対決者として「東洋」を意識していることが、ここに既に暗示されている。ナポレオンのヨーロッパ征服の戦域地図のパロディーとして登場する、ナポレオンの腹上に繰り広げられる田虫の白癬の支配図は、白癬に治療として「東洋の墨」を塗ることによって明示化されたと、この短編では書かれるのである。➩短篇集『春は馬車に乗って』からの諸引用

u  この短編では冒頭ナポレオンは「奇怪な」・「恐るべき占いから逃れた蛮人のような、大きな哄笑」を笑う。その「奇怪な哄笑」とは、自分が前述の「下意識的欲望の複層構造体」の機構メカニズムの奴隷となったことの自虐的自己認知の笑いであると同時に、この機構メカニズムが、それの奴隷となった「意志」を嘲笑している笑いでもある。自虐的認知とそれが生む笑いは自己への距離化が初めて可能にするし、その距離化とは、自己を嘲笑する機構メカニズムの側にいわば主体転換を図ることである。視点を機構メカニズムの側へと移すことである。そこでは、ロレンスの愛用する言葉を援用するなら、impersonalなものが、己を信じようとする「意志」と「個人」に対して、その不可能性を嘲笑しているのであり、その嘲笑に自己同化して己を自虐的に笑う時、笑いの視座はこのimpersonalなものへと移動している。結論からいえば、その哄笑とは、突き詰めていけば、サルトルがフローベールの小説を貫く視点を形容して述べた言葉をそのまま援用すれば、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」(『家の馬鹿息子』邦訳第三巻)となる。(なお付言すれば、かくサルトルがいうとき、彼はこの言葉で暗にニーチェが「笑うことを学べ」と主張するさいの「哄笑」を指してもいる。)

u  ここでロレンスの「薔薇園の影」で問題となったimpersonalという概念を援用していうならば、「ナポレオンと田虫」はまさにナポレオンにおけるpersonalな力としての「意志」とimpersonalな力としての田虫との闘争的関係、ならびにそこに投影されてくるルサンチマン的復讐欲望と性欲との複層的混淆的なimpersonalな力とナポレオンの「意志」との闘争的関係、そこにおけるナポレオンの敗北、つまり「意志」と「個人」の敗北が、フランス国民を筆頭に全欧州の人間をカタストローフの奈落へと投げ込む事情を描くのである。

u  「薔薇園の影」と、「ナポレオンと田虫」とは直接にテーマを共有するものではないが、「意志」と「個人」の概念に支えられたpersonalな力とimpersonalな力との抗争というテーマがロレンスの思想全体のなかでもつ広がりを考慮に入れれば、両作品のあいだにいわばブーメラン的旋回の果てに結節を得る一点を設定することは意味あることだと思われる。それは一つには人間の歴史というものをまさにカタストローフへの没落という観点から問題にするという視座であり、もう一つは、そのような破壊的で暴力的な戦争意志というものが実は性的欲望の自己疎外的在りようによって誕生せしめられるという視点である。以下、その事情について次のⅢで述べたい。

 

III.   両作品の交差するトポスをどこに求めるか――私の場合

u  短篇「薔薇園の影」に登場する「impersonalなもの」というテーマがロレンスにおいてどのような諸問題を内包するテーマであったかを探索していくと、特に『翼ある蛇』から『黙示録論』へと至る彼の思索の線上において、それは次のテーマへと展開していくものであることがわかる。すなわち、ロレンスによれば、人間が古代においては生き生きと保持していた宇宙的生命との有機的結合の感情的絆が遮断され失われることによって、人間は己の実存にその生命的力の感情において深い欠乏・空虚を感じるようになる。この過程は西欧近代においてはいっそう加速せしめられる。そして、人間はこの内なる空虚化を補償的充填するものとして、いいかえれば宇宙的生命力の代理物として、破壊的暴力の力の感情を求め、かつそれに強く誘惑される。この暴力的な力の感情は、そもそも人間存在の「集団的自我」としての側面の原理をなす「権力意識」・「権力欲望」(ニーチェ風にいうなら「権力への意志」)が、その敗北経験をとおしてルサンチマン化するや、激情的な復讐欲望へと転成するという問題場面のなかに己の最高の発揮の場面、自己実現の場面を見いだす。つまり両者はそこで互いを最高のパートナーとして見いだす。ロレンスはこの事態の劇的な登場を第一次大戦の勃発とその後の経過のなかに見いだし、かつ第二次大戦の勃発の予感を得た。ハンナ・アーレント風にいえば、ファシズムとコミュニズムの「二つの全体主義」がその予兆にほかならなかった。➩当該問題に関連するロレンスからの諸引用⑪⑫

u  横光の「ナポレオンと田虫」はこの問題文脈に最も敏感に照応した、戦前日本の近代文文学における、見事な小作品として問題にすることができる。何よりも、そのカタストローフ感覚において期せずしてロレンスと呼応し合い(おそらくより直接的にはドイツ表現主義・ダダであったろうが)、このカタストローフを西欧近代精神の象徴・メタファーたる「意志」と「個人」のimpersonalなものの力に対する敗北として描き出すことにおいて、問題設定の共通性が見いだされる。

u  そしてまた、この「意志」と「個人」の政治的ないし社会的な行動場面での敗北が、その表向きの政治的仮面の下に自己の内なる「性欲」の場面での敗北・ルサンチマン・復讐のサド=マゾヒズムをめぐる一連の問題群を隠し持つものであり、それの転写物という心理的関連に浸されているものだと見る、その視点においても、問題設定の共通性が見いだされる。

u  しかしながら、ロレンスにあって横光にないものは、ロレンスを特徴づけるかの「大いなるセックス」の宇宙論的形而上学的ヴィジョンである。しかしながら、横光にはそういう宇宙論的形而上学的ヴィジョンをもたないが故に、昭和2年(1927年)に発表された短篇集『春は馬車に乗って』の横光の文体は、ロレンスよりもはるかに2011年の現代日本において新鮮であるともいえる。彼の文体は、クールで、打ち割られた鏡面の破片の如き鋭い短いセンテンスが映画のショットのような切断・弾み・スピード感溢れるリズムをもって物語を構成する。その文体は世界描写においても、登場人物の間の分裂的なすれ違いに弾むディアローグの構成においても、いかんなく発揮される。

 

 

     文献資料

IV.    当該問題に関連するロレンスからの諸引用

   impersonalになる」という問題の環は、ロレンスの自己認識の核心にかかわる問題である。羽矢謙一訳『愛と生の倫理』(南雲堂、1957年)で彼は自分をこう述懐している。「つまりわたしには、わたしと社会とのあいだに、あるいはわたしと他の人たちとのあいだに、何ら心からの、または根本的な接触があるとは思えないということである。みぞがあるのだ。だからわたしが接触する相手は人間的なものではない。わたしの接触は非人間的な、言葉に頼らない接触なのである」(傍点、引用者 p8

      「英国、わが英国」:イーヴリンはその「抽象的」な存在の仕方のゆえに空虚であったが、戦争の勃発によってその空虚を生きるための唯一の方法を見出した。それが破壊欲望に身を投じるということであった。戦争の勃発は彼の魂に「戦慄」を走らせる。啓示が来る。絶対的無関心という「中立的な立場」を、いまや彼は捨て「魂は…(略)…明確な形をとるようになった」(p252)「ヒースの荒野の谷間で木々につつまれ、ゆるやかに傾斜した彼の庭、その絶対的平和のなかで、彼はある破壊的活動が進行していることに気づいた。軋轢の渦、破壊の大波と、前進する軍隊に気づいた」(p253)「破壊することだけが、最も深いところにある彼の欲望を充たした」(p257

      「抽象的」存在であること=孤独:「孤立した状態、宙吊りになった状態で、…(略)…それらすべてとの間に物理的な関係はあるが、霊的な接触というものはない。彼自身の現実は、完璧な孤独と抽象のなかにある」(p258)「他と関わりのない、混じり気のない抽象物、至福の砲術操作の権化」(p259

      大きい性と小さい性 (『翼ある蛇』角川文庫、上p214):ケイトはインディオたちの古代的な踊りの輪に参加する。その時の様子はこう書かれる。「男たちも女たちも、同じように顔をうつむけ、無表情に、心を奪われたように踊った。男たちは大いなる男性のなかへ、女たちは大いなる女性のなかへ、深く心を吸収されていたのだった。それはセックスにちがいなかったが、大いなるセックスであって、小さいほうのセックスではなかった。」いわば宇宙的な男性性と女性性(男の大我と女の大我)とのあいだに誕生するセックスの「大海」のなかへと、ケイト自身が溶解し、ケイトは宇宙的「女性性」へと同化し解消され、「彼女は彼女自身ではなく、消えうせてしまい、彼女自身の欲情は大いなる浴場の大海に没入してしまっていた」と描写される。それは「欲情を越えた欲情」ともいわれる。つまり、くだんの問題である「lmpaersonal」という概念を援用すれば、「大いなるセックス」のなかでは男女は互いに大我的男女となっているが故にlmpaersonalとなっており、そのセックスはlmpaersonalsexになっている。

      他方、「小さいほうのセックス」は通常思い浮かべられる性的快楽である。ロレンスは次のように描く。「摩擦的なもので、刺激の焔と摩擦的な官能的快感の痙攣」(下p303)、「燐光のような官能的狂喜の輪になってめらめらと燃えあがり、最後に狂おしげな痙攣となり、無意識的な叫び、断末魔の叫びのような、愛の交わりの最後の叫を放たせる痙攣」(下p304)と。そして、ケイトにとっても、これが彼女のセックスにおける快楽経験であり、欲望目標であった。「それはこれまで彼女が『満足』と呼びなれていたものだった」(下p303 )だが、シプリアーノはその状態へとケイトを導くこと、ないし追い込むことを意識的に回避する。ケイトがそこへと向かおうとすることを察知するや退く。ケイトは、そのように彼がそれをつねに回避しようとしていることに気づくことによって、自分がこれまではそれを追い求めていたことに逆に気づかされる。その事情はこう書かれる。「シプリアーノは、そのようなことを彼女と共にすることを拒み、奇妙にそれを彼女にとって外部的なものにした。彼女の異様な、わきかえるような女性的な意志や欲望は、彼女の内部で静まり、消し去られて、彼女はやわらかく、たくましく力強くなった。あたかも、温泉の湯が音もなく、やわらかくわき出ながらも、秘めた力をもって、きわめて強力であるのに似ていた」(下p303)。こちらのほうが「大いなる性」における快楽である。温泉のようなやわらかの温もり、抱擁的な暖かな浸透性、沈黙的静謐、「わき出る」とか「ひらく」という開闢的な存在感覚、これらによって特徴づけられる。

      『愛と生の倫理』では「小さなセックス」と「大いなるセックス」との関係はこう書かれる。「両者のこの上なく烈しい性愛の焔によって、摩擦し合うすさまじい破壊的な焔によって、わたしは破壊され、女の本質的な『他者』の中に吸収されてしまうのだ。これこそまさに破壊的な焔と言うべきであり、つまりは穢れた愛に他ならぬ。しかし、またこの穢れた愛の焔によってはじめて、二人は浄化されて『独り』となり、混沌の状態から逃れて、宝石のような、唯一なる個別的存在へと融け変わることができるのである」(傍点、引用者 p20)「そこには、共に融けあい融かしあって一つになろうとする運動としての愛と、灼きおとし、灼きはなして、それこそ互いに全くの『他者』となってしまった、純粋な個別存在だけを残す、凄まじい、摩擦的な官能の充足としての愛とがあるのだ」(p20

      ここでは「小さなセックス」の燃焼の頂点が初めて「大いなるセックス」への転入口となり、「大いなるセックス」では「宝石のような、唯一なる個別的存在」がもつ本来的な互いの絶対的孤独性の相互承認という形での奇しき一体性が実現される、そのようにロレンスは展望しているように思える。

   凌辱と被凌辱のサド=マゾヒズム p4853:ロレンスは、現代の人間の抱える中心問題を、サルトル的にいえば「我有化」欲望を戦わせることによって結局《凌辱と被凌辱のサド=マゾヒズム》関係に墜ち込むことのなかに見ている。そして、この「我有化」欲望の最も普遍的でかつ凝縮された場面は男と女の性愛の欲望の舞台なのである。私としては、ここに「凌辱」という性的欲望に強く関係づけられる言葉が、現代の人間関係一般を叙述する際のキーワードとして使われていることの意義について一考しないわけにはいかない。

   一つの結合がなくてはよくありません。男が女を辱めるのもいけないし、女が男を辱めるのも絶対にいけません。それは一つの罪悪です。世には罪悪というものがありますが、それこそその中心なのです。男たちと女たちとたがいに辱しめ合いつづけるということがです。」この凌辱という問題は、「わがままを押し通すのは、辱めるか辱しめられるか、どちらかになる」というレベルで捉えらえている。(傍点、引用者 下p49

   私の視点からいえば、先にいったように、自我が自我たらんとする欲望に本質的に内属している「我有化」という欲望の地平で、ということだ。この人間存在の根源性において、「現在われわれはみんな、辱めたり辱しめられたりする崩壊作用」によって、宇宙的生命との生命力授与の回路を断ち切られつつあるといわれる。下p52

      集団的自我の基軸としての「権力意識」:「黙示録は…(略)…達成しそこねた《優越》目標と、その結果惹起されたインフェリオリティ・コンプレックスの表れなのである」p59 「挫かれ抑圧された集団的自我、すなわち心中の挫かれた権力意識の危険な呻吟が復讐的な響きを伝えている」(『黙示録論』ちくま文庫p59

      二つの全体主義とロレンス:「人間の地上的権力を打倒して、そのかわりに大衆の否定的権力を樹立しようというクリスト教共同体の旧い意志が復活したのである。この戦いは今日なお惨害のかぎりを尽くして荒れ狂っている。ロシアにおいては、地上的権力に対する勝利が完遂され、レニンを頭とする聖徒政治が実現された」p55。「この全地上的権力打倒に向って、いまや吾々は漸進しつつあるのだ。殉教者の寡頭政治はレニンに始まった。そしてムッソリーニのごときは、明らかにその殉教者である。…(略)…アポカリプスは依然として巫術の書たる面目を失わぬ」p207

 

 

V.   短篇集『春は馬車に乗って』からの諸引用

      意志と非意志的力:「田虫には意志がなかった」p2.(p80)。この田虫と、他方「全世界を震撼させた」と形容される「ナポレオンの一個の意志」との闘争が問題となっている。つまり、意志と意志ならざるもの(自然、無意識、あるいは運命として構成される或る関係性)との闘争における、意志の敗北の風刺劇。「しかし、最後にのた打ちながら屈服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった」p2p80)。

      相互メタファー:「それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているようであった」p3p81

      ルサンチマンと復讐欲望:「ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮蔑を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上がると…(略)…ハプスブルグの娘の後姿を睨んだ」p7(p89) ルイザを引っ掴まえ、「ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性は、ルイザが藻掻けば藻掻がくほど怒りと共に昂進した」p7(p90)「この古今未曾有の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑せしめんとしている必死の戯れのようであった」p9(p92

      カタストローフへの視座:「しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。…(略)…朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。」

      「静かなる羅列」のラスト:一大争闘がデルタの上で始った。/集団が集団へ肉迫した。/心臓の波濤が物質の傲岸へ殺到した。物質の閃光が肉体の波濤へ突撃した。/市街の客観が分裂した。/石と腕と弾丸と白刃と。/血液と爆発と喊声と悲鳴と咆哮と。/疾走。衝突。殺戮、転倒。投擲。氾濫。/全市街の立体は崩壊へ、―――――/平面へ、―――――/水平へ、―――――/没落へ、―――――/色彩の明滅と音波と黒煙と。/そうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現した。/大市街の重力は大気となった。/静かな羅列は傷つける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と水と油と川と。/

      「蠅」のラストはよく知られている。馬車は馭者の居眠りによって崖下へ人馬まるごと墜落し、全員が死亡し、ただ馬の背に止まっていた「眼の大きな蠅」だけが、「今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった」と結ばれる。

      「街に出るトンネル」の第一節は、主人公が次のような場面を幻視するところから始まる。「ふと彼はそこから崖の下へ墜落したトロッコの有様を眼に浮かべた。満載された人々の身体が一斉に口を開け、岩角に弾動しながら渦の中へ突き刺さるように降り込んでいった。だが、彼には人々の落ちる赤い口だけが、蝶々のようにいつまでも眼に映った」(短篇集『春は馬車に乗って』近代文学館復刻版p188

      「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」:お品は街に隠れている。計介は会いに行きたい。会って抱くという性欲が絶えず彼のなかで疼く。トンネルを峡谷を突き抜けさせ街に届かせるという目論見を計介に推進させる、誰も伺い知れない、実は最深の動機をなすものは、お柳とお品二人の女に抱いた性的イマージュ、「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」のイマージュなのだ。瀬川は、お品を、彼女の逃亡をそそのかした或る誰かの腕のなかでその性的イマージュを実現しているその姿態において想像し、それによってこそ気も狂わんばかりの嫉妬に陥り、なんらかの判断ミスに導かれるに違いない。他方、自分のほうはこのイマージュがいっそう自分のやる気を掻き立て、いっそう自分を戦術的合理性の追求においてクールにする。計介は作戦を凝らしてお品を奪う側であり、瀬川は隙を突かれて奪われる側だ。そう考えて、計介はこう考える。「つまる所、お品の一疋の線が街へトンネルを押し出す線であったのだ」(p222)。これを計介=横光は「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」(p222)と呼ぶ。




  横光利一『春は馬車に乗って』ノート

 

  *「ナポレオンと田虫」以外の短篇集『春は馬車に乗って』からの引用はpp**で示す

 

 昭和二(1927年)に改造社から出版された『春は馬車に乗って』(以下『春は…』と略)は11の短編からなる短篇集であるが、これを分類するに、「病妻」篇(ただし、ここでいう「妻」には「妹」もはいる。「春は…」、「蛾はどこにでもゐる」、「園」、「慄える薔薇」、「妻」)と敢えていえば「機構的人間観察」篇(「ナポレオンと田虫」、「街の底」、「無礼な街」、「街へ出るトンネル」、「静かなる羅列」ならびに「表現派の役者」)の二つに大別しうるであろう。

 ここでは、「機構的人間観察」篇に焦点を絞って、論じてみよう。そこでまず「ナポレオンと田虫」から入ろう

 

 

I.   「ナポレオンと田虫」

n  意志と個人の近代的人間観への風刺的批判

冒頭で、「お前はヨーロッパを征服する奴は何者だと思う」というナポレオンの問いに、それは御自身だというネーの追従的答えに、再度ナポレオンは「いや。余よりもよく知っている奴がいそうに思う」と答える。p1(以下、この括弧内は岩波文庫『日輪・春は馬車に乗って』の頁数を指す。p77

短篇が示す答えは、《それは田虫だ》という答えである。ここにこの短編の主題がある。

n  また、このナポレオンにおける自嘲的な自覚は、彼に「奇怪な」・「恐るべき占いから逃れた蛮人のような、大きな哄笑」をもたらすと描かれる。P1(p78

 

Ø  ナポレオンは19世紀においては「個人」と「意志」の、そのいわば超人的水準におけるシンボルであった。

Ø  また、それは世界征服とそのための巨大な軍事力の行使の先駆け的シンボルであった。しかし、そのナポレオンの行動は、視点を換えれば、「それは丁度、彼の腹の上の奇怪な田虫が、黙々としてヨーロッパの天地を攪乱しているようであった」p3p81)。ナポレオンの意志が頂点に立って産み出す、巨大な人間の行動地図は、同時に田虫が生む白癬の地図であった。

 

n  「田虫には意志がなかった」p2.(p80)他方、「全世界を震撼させた」と形容される「ナポレオンの一個の意志」との闘争が問題となっている。つまり、意志と意志ならざるもの(自然、無意識、あるいは運命として構成される或る関係性)との闘争における、意志の敗北の風刺劇。「しかし、最後にのた打ちながら屈服しなければならなかったものは、ナポレオン・ボナパルトであった」p2p80)。しかも、横光は、この白癬の地図は、治療のために東洋の墨をこの白癬に塗布したことによって表示されるようになったものと描き出すことによって、ナポレオンの意志が体現するヨーロッパ的精神を批判するものとして、「東洋」の視点というものを対置しようとしているのかもしれない。

n  ナポレオンが象徴するヨーロッパ文化の原理である「意志」と「個人」に対して、田虫が生む白癬が象徴するもの、「東洋」が象徴するものとは何か?

Ø  自然:田虫

Ø  無意識:平民ナポレオンの貴族王族へのコンプレックスと憎悪

²  ナポレオンは皇帝となるべくジョセフィーヌを捨て新たな皇后として迎えたハプスブルグの皇女ルイザに彼の腹の上に広がる白癬を見られてしまう。そのことを横光は、平民が貴族に抱くコンプレックスと、そこから生まれる復讐欲望、それが生むサド=マゾヒズムの視点から描く。

²  ナポレオンは、はじめそれを隠そうとし、次いで、その隠そうとした自分のコンプレックスを憎悪し、今度はルイザに見せつけようとし、それがセックスの欲望と織り交じり、性欲はレイプ欲望となって展開する。

²  ルイザは逃げる。「ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮蔑を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上がると…(略)…ハプスブルグの娘の後姿を睨んだ」p7(p89

²  ルイザを引っ掴まえ、「ナポレオンの腕は彼女の首に絡まりついた。彼女の髪は金色の渦を巻いてきらきらと慄えていた。ナポレオンの残忍性は、ルイザが藻掻けば藻掻がくほど怒りと共に昂進した」p7(p90

²  9(p92)この古今未曾有の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑せしめんとしている必死の戯れのようであった)

Ø  意志それ自体を生産する動機の複層構造

²  田虫への憎悪の転写・投射としてのロシア戦役

²  美醜をめぐる平民的コンプレックスの転写・投射としてのロシア戦役

²  侮辱され拒否された性欲は復讐的なレイプ欲望となり、阻止されたレイプ欲望は戦争欲望へと転写される。

²  階級的憎悪心の深層性――皇帝ナポレオンを深層で規定している貴族階級への階級的憎悪と復讐心

Ø  こうした動機の複層的構造は、一種の機構的メカニズムを形成し、関係性の力学が形成され、個人はもはやこの機構的メカニズムを支配するどころか、反対にその奴隷となる。

n  ナポレオンの放つ「奇怪な哄笑」とは、しかし、あらためて問うに、一体誰がする哄笑なのか? ナポレオンには違いないが、さらにいってナポレオンのなかに住まう誰か? という問題になる。

Ø  その「奇怪な哄笑」とは、自分がこの機構メカニズムの奴隷となったことの自虐的自己認知の笑いであると同時に、この機構メカニズムが、それの奴隷となった「意志」を嘲笑している笑いでもある。自虐的認知とそれが生む笑いは自己への距離化が初めて可能にするし、その距離化とは、自己を嘲笑する機構メカニズムの側にいわば主体転換を図ることである。視点を機構メカニズムの側へと移すことである。

Ø  そこでは、ロレンスの愛用する言葉を援用するなら、impersonalなものが、己を信じようとする「意志」と「個人」に対して、その不可能性を嘲笑しているのであり、その嘲笑に自己同化して己を自虐的に笑う時、笑いの視座はこのimpersonalなものへと移動している。

Ø  結論からいえば、その哄笑とは、突き詰めていけば、サルトルがフローベールの小説を貫く視点を形容して述べた言葉をそのまま援用すれば、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」(『家の馬鹿息子』邦訳第三巻)となる。(なお付言すれば、かくサルトルがいうとき、彼はこの言葉で暗にニーチェが「笑うことを学べ」と主張するさいの「哄笑」を指してもいる。)

Ø  あとでもう一度取り上げるが、それは「無礼な街」のラストに描き出されるシーン、人間界全体のメタファーとなった「街」がまるで一個の人間の如く「俺は何物をも肯定する」と語り出し、それに主人公が「お前は錯誤の連続した結晶だ」と同じく傲然と言い返す、きわめてニーチェ的な気分を横溢させたシーンに自ずと浮上してくる、横光のニーチェ的な「全肯定主義」がもたらす「哄笑」ともいいうる。そのシーンとは以下の如きものである。(蛇足となるが、この場面で主人公は「街」――人間界――全体を「脚下」に置く、超越的位置に立っているのである。この「街」と主人公の言い合いは、こういう関係を指示している。「俺は何物をも肯定する」「まさしく『錯誤の連続した結晶』にほかならないお前を、しかし、俺は肯定してやる」そのようにして、俺の方がお前(街)よりもさらに上位にあって、お前を呑みこみ、わが胸に抱き、肯定する。)

 

Ø  Pp185

『俺は何物をも肯定する。』と、街は後に残ってひとり傲然として云った。

私はその無礼な街に対抗しようとして息を大きく吸い込んだ。

『お前は錯誤の連続した結晶だ。』

私は反り返って威張り出した。街が私の脚下に横たわってゐると云うことが、私には晴れ晴れとして爽快であった。私は樹の下から一歩出た。と、朝日は私の胸を眼がけて殺到した。

 

n  短篇集『春は…』においては「ナポレオンと田虫」に最もダイレクトに連接する他の短編は「街へ出るトンネル」と「静かなる羅列」だと思われる。次に、そのニーチェ的でもある、「シリウス星の視座に立つホメロス的な哄笑」の視座という点では、一種ドストエフスキーの「地下室人」的主人公が、物語の最終場面でニーチェ的「超人」の視座へと舞い上がるという構造を取る「無礼な街」である。

 

n  戦争に体現される、ロレンス風にいえば「集団的自我」の本質的核心としての「権力意識」・「黙示録的欲動」への風刺p9(p93

「ナポレオンと田虫」のラストは次のような描写のなかに結ばれてゆく。今やロシアとの戦役に突入してゆくナポレオン軍について横光はこう書く。

「しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。…(略)…朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線造って、潮のように没落へと溢れていった。」

 

Ø  「連戦連勝の栄光の頂点」は実は「没落」へと反転する。「潮のように」没落へと「溢れて」いく反転の踏切板であった。この勝利が敗北へ、死刑執行人が死刑囚へと反転するカタストローフの弁証法こそ、横光の関心を捉えて離さないテーマであった。

Ø  この点で、われわれはまず「静かなる羅列」に注目しなければならない。

 

 

II. 「静かなる羅列」

n  カタストローフに雪崩れ込む、機構へと己を疎外する人間の行為の挫折のイマージュ

Ø  「ナポレオンと田虫」において描き出される歴史的イマージュ、つまり無謀なロシア遠征によるフランス軍の壊滅的な巨大なる死を引き起こすナポレオンのウルトラ個人的な意志と決断は、しかし、意志と個人のシンボルたるナポレオンの己の身体にとりついた非意志的な田虫との闘争における敗北の結果であったというシニカルなイマージュは、短篇集が出版された1927年において、実に鋭い予言的イマージュとなった。

Ø  3(p81)「この間、彼のこの異常な果断のために戦死したフランスの壮丁は、百七十万人を数えられた。国内には廃兵が充満した」云々、しかもいまやナポレオンはさらなる大破滅をフランスにもたらすロシア遠征を、彼の最も有能な部下の将軍らの反対をも顧みず、決断するに至る。

Ø  いうまでもなく、それは第二次大戦をとおしての現代人の自己自身をめぐるの惨憺たる敗北を予言するものであった。日本に特に関連付ければ、最近のNHKのドキュメンタル番組「日本人はなぜ戦争へとむかったのか 戦中編」が印象的に描き出したように、かの太平洋戦争において300万にのぼる日本軍の死傷者の大半は連合国軍との戦闘行為によるのではなく、その大半が戦闘以前の餓死病死であったという、眼を覆うばかりの死の巨大さと惨めさがもたらされたのは次のことによる。すなわち、この戦争遂行の指導過程が実は戦争指導部が自らその指導性を無効化し、まさしく「意志」と「個人」の二つの近代的人格概念の中核を無意味化し失効せしめ、カタストローフへとひたすらに進行する機構的メカニズムのなかへと彼等が自己を疎外せしめていく過程となったことによる。

Ø  昨今、今日の日本の政治状況に関して「リーダーシップの不在」という議論が大流行であり、また前述のNHK特番もその視点から太平洋戦争指導部を批判したものであるが、作家として、横光が打ち出した視点は或る意味で根底的(ラジカル)なものであり、あらゆる「リーダーシップ」なるものの不可能性・虚妄性・フィクショナル性の暴露という視点なのであった。

Ø  この点では、横光のいわゆる「新感覚派」の作品は当時そのライバルと目されたいわゆる「プロレタリア文学」よりも、この現代史の本質的テーマをはるかに鋭く、真正面から、しかもこのテーマを語るにふさわしい詩的文体を駆使して、主題化しえたものなのだ。

Ø  というのも、おそらく当時の「プロレタリア文学」は己の階級闘争を道徳的に正当化するという視点に自分を括り付けていたので、このようなシニカルな自己批評性なしには到底切り開けない機構論的人間観察の鳥瞰的視座に原理的に立ち得なかったのだ。

Ø  この点で「静かなる羅列」は極めて前衛的な作品であり、その現代性は、その発表から90年たった今でも全然衰えていないどころか、むしろいっそう輝きを増しているといいうる。この短編においては、もはや主人公として「個人」は登場しない。そこでは文学と社会科学とが融合する。主人公はQ川とS川の二つの川であり、この川を己の生存基盤とする人間集団が形づくるQ社会とS社会なのである。そこでは所与の自然環境とそれを改変する人間の生産活動、この生産活動が産み出す社会関係性と、それのいっそうの政治的発展としての国家権力の成立と階級闘争の発生、これらのトータルな関係性の全体が、そこにカタストローフに向かう如何なる疎外と倒立の弁証法を形成するかという問題が、叙事詩的形象のもとに文学化されるのである。この作品は、敢えていえば、本来ドライで非情であるとともに弁証法的な全体化的な思考――なによりも勝利が次の局面では敗北となり、敗北が勝利と反転し、死刑執行人が死刑囚となり、またその逆が起きるという「反対の現象」p256の力学への注視からなる――を土台に置くマルクスの思考を、いわば一篇の現代のおとぎ話風の叙事詩へと文学化したものなのである。

Ø  その最後は次のような詩で結ばれていた。p270271

一大争闘がデルタの上で始った。

集団が集団へ肉迫した。

心臓の波濤が物質の傲岸へ殺到した。物質の閃光が肉体の波濤へ突撃した。

市街の客観が分裂した。

石と腕と弾丸と白刃と。

血液と爆発と喊声と悲鳴と咆哮と。

疾走。衝突。殺戮、転倒。投擲。氾濫。

全市街の立体は崩壊へ、―――――

平面へ、―――――

水平へ、―――――

没落へ、―――――

色彩の明滅と音波と黒煙と。

そうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現した。

大市街の重力は大気となった。

静かな羅列は傷つける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と水と油と川と。

 

Ø  このドイツ表現主義的な詩的現代性にあふれた結びも、「ナポレオンと田虫」の結び「潮のように没落へと溢れていった」と同様、カタストローフへ魅惑される感覚に満ち溢れているのである。

Ø  そして繰り返すなら、このような視点を横光が取れたのは、ここでサルトルがフローベールの視点を評して述べた表現を援用するなら、横光が「シリウス星の視座に立つホメロス的哄笑」の視点から、歴史を人間の諸々の意志的行為の総体が誰の手にも及ばぬ、かえって命令者となって彼等を使役し、運命となって彼等を押し潰す、一個の疎外の所産として鳥瞰するからなのである。

 

III.     「街に出るトンネル

n  「蠅」と「街に出るトンネル」――カタストローフへの視線

Ø  「蠅」のラストはよく知られている。馬車は馭者の居眠りによって崖下へ人馬まるごと墜落し、全員が死亡し、ただ馬の背に止まっていた「眼の大きな蠅」だけが、「今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった」と結ばれる。

Ø  「蠅」は、このラストのカタストローフに突然急転回するまでの各章では次のことを傑作映画がその冒頭、ドラマに登場する人物たちの背景や性格をほんの数シーンの映像で適確に描出するが如く、この馬車に乗り込むそれぞれの客が――息子危篤の報に接して死に目に間に合うべく居ても立ってもおられぬ気持ちで馬車の出発を待つ老婆を筆頭に――、自分の或る切実な必要から馬車に乗り込む姿を描き出し、あるいはまたその馭者が自己の特殊な欲望に頑ななまでにこだわって馬車の出発に一つの規則を与える様子を描き出す。「馬車」を様々な動機と己の掟をもった諸個人がその行動の結果として一つの進行方向に互いをもはや解きがたい関係の中に無意識のうちに織り込みながら、実は知らず知らずのうちに共同の軌道を歩むことになる、社会的存在者としての人間の悲喜劇的な運命のメタファーであるとするなら、この馬車のようやく待たれた出発と進行が、次の最終章に突如として一挙に馬車墜落のカタストローフに向かうということは、横光のテーマの所在を象徴してあまりあろう。つまり、横光の最大関心は、この社会的存在者たる人間の運命が、ヘーゲルの弁証法的歴史哲学が示そうとするような絶対精神の最終的自己実現といったキリスト教的なオプティミスムにあるのではなく、その正反対の暗黒の展望、つまりカタストローフへ心にあるということだ。

Ø  「街に出るトンネル」の第一節は、主人公が次のような場面を幻視するところから始まる。「ふと彼はそこから崖の下へ墜落したトロッコの有様を眼に浮かべた。満載された人々の身体が一斉に口を開け、岩角に弾動しながら渦の中へ突き刺さるように降り込んでいった。だが、彼には人々の落ちる赤い口だけが、蝶々のようにいつまでも眼に映った」p188

Ø  この二つの節は一方の「馬車」が他方では「トロッコ」になり、また一方の「蠅」の視点が「蝶々」の視点と変わっただけで、本質的に同一である。こういうと、「街に出るトンネル」の方では視点はあくまで主人公の「彼」に据えられているとの反論が出るかもしれないが、非業の死を遂げる鉱員たちの存在をまるで「蝶々」のようにみえる「赤い口」としてだけ記憶する視点は、鉱員の悲劇と自分のあいだに共感共振の絆をもつ人間の視点ではなくして、仮に人間の目であっても、むしろ非人間化し、いわば蝶々と共感共振しえるもう一匹の虫の視点であるといいうる。

Ø  このことは次の二つのことをわれわれに強く印象付ける。第一に、横光は人間たちが一塊となってまるごと破滅へと墜落するカタストローフのイマージュのもとに人間世界を見いだすことを、彼の小説美学の視点としている作家だということである。そこでは「馬車」と「トロッコ」は実は人間たちの形成する一個の「社会」という宇宙の全体を指すメタファーである。つまり、その墜落とは、社会という全体世界そのもの破滅を意味する。つまりカタストローフという世界大の事態がつねに横光という作家の脳裏にはある、ということである。あとで述べるように、「街」もこうした人間社会の全体性のメタファーとしての意味をもつ。第二点は、このように事態をカタストローフの相において見る視点とはつねに、ここでロレンスの愛用する概念を援用するならば、「非人間的 impaersonal imhuman」な視点だということだ。つまり、たとえばここでは「蠅」や「蝶々」といった、一切人間に対して共感共振の絆をもたぬ、一個の非情性として成立する虫の視点が、このカタストローフを見つめる視点として打ち出される。

 

n  「街に出るトンネル」の主題と「ナポレオンと田虫」とを結ぶ環

Ø  粗筋:炭坑経営者の父をもつ計介は、父と抗夫頭の瀬川、そして抗夫たちとの間に立って、きわめてクールに、この小さな炭坑世界におけるいわば小さな「階級闘争」に自分の身を守るという極めて個人的利害の立場から介入しようとする。過酷な炭鉱経営の状況は、父や自分がいつ何時抗夫らによって殺害されかねないとの危機意識を計介にもたらすほどのものであった。

Ø  横光は、計介を、この炭坑世界の「階級闘争」を形づくっている複雑な力関係をきわめてクールに分析しうる人間として登場させる。

Ø  と同時に印象的なのは、横光の視点が次の点に据えられていることだ。すなわち、そうした階級闘争の分析とそこから編み出される計介の介入行動に、しかしながら、一見無関係と思われる性的欲望の問題が実は看過すべからぬ規定作用を発揮すること、この問題に注目しているのである。

u  まず土台にこういう問題の関連への注目がある。

トロッコ事故が起き、計介は、その事故が引き起こす自分と抗夫たちとの対立の濃化への不安も含めて、恐怖を感じる。そしてこの自分の体内に、自分の心臓に湧き起ってくる恐怖について思いを巡らしているうちに、この恐怖は「トンネルの意志」が自分のなかに産み出したものではないかという奇妙に転倒した考えに導かれる。Pp206「此の恐怖に自分の収縮している一個の心臓の血圧は、峡谷の中を進んでいるトンネルの直線にどれほどの影響を与えて行くか、それを考えると、彼は自分の恐怖の進行の形が俄かに面白くなって来た。自分の心臓から恐怖を要求することは、トンネルの意志なのだ。トンネルは自分の成長する養分として、その横たえた身体に付着して生活している人間の群れから、絶えず適宜の感情の食物を吸収する。さうして彼が街まで延びたとき、街は二倍の光度をもって凛然と輝くのだ」。

Ø  この最後の一行にいう「彼」とはこの場合いうまでもなく「トンネル」のことである。トンネルが落石によって切断されかけたことがもたらした、心臓を波打たせるほどの恐怖と、「トンネルの直線」性との相互影響関係を考えるという、一種の離人症的な思考空間に導かれる。すると、自分の感情がいかに自分が今決定的に依拠させられている――生死を分かつほどに――この物質的基盤たるトロッコに規定されているかという発見に導かれる。「トンネルは自分の成長する養分として、その横たえた身体に付着して生活している人間の群れから、絶えず適宜の感情の食物を吸収する」という認識に至る反省がそこに生じる。峡谷を走る長い直線の軌道をトロッコに乗って進まねばならないことは恐怖を産み出す。まるでそうなることが「トロッコの意志」であると感じるほどに。だから、この恐怖からの解放をともなう街への到着は、街をして「二倍の光度をもって凛然と輝く」ことへと導く。知覚ならびに感情という精神の基底それ自身が実は物質的環境によってこそ如何に規定されているか、このいわば唯物論的視点が、横光の心理学的洞察の土台となる。

Ø  ここで敢えてロレンスの表現を借用すれば、「personalなもの」が「impersonalなもの」によってこそ規定されていることへの発見の興奮がある。

 

u  そしてこの土台の上に次の問題が重なる。それが冒頭に述べた問題、人間の行動意志を決定する要因として、一見その行動目標とは無関係と思われる性欲的動機が強力な規定作用を発揮するという問題である。この問題が描き出される経過はこうである。

²  ダイナマイトは炭坑作業にとってだけでなく、この小さな炭坑世界における小さな階級闘争が今や極度に対立の色を濃くしだした状況にあっては、犯行と殺人の決定的な武器ともなるものであった。そのダイナマイトのうち100本が行方不明となる。計介は不安な思いのなかでこの行方不明となったダイナマイトのことを考えている。そのときたまたま妹がラ・パロマをバイオリンで弾く音が耳に届き、彼の意識は突然お柳とキスを交わした記憶に投げ返される。横光はこう描く。「すると忽ち行方不明の百本のダイナマイトは彼の頭の中で踊り出した。…(略)…彼は不意に街のお柳をとらえて、こっそりキスしたときの煌めく欲情を思い出した」pp201

²  計介は百本のダイナマイトは瀬川の小屋に隠されていると見当をつけている、瀬川の女房のお品に彼は性的関心を以前からもっている。瀬川の小屋を探索しようと近づいた機会に彼はお品と口を交わすこととなり、お品が瀬川から逃亡しようとしていることを知り、それを助けてやろうとする。そのさいその動機の中核にはお品への性欲がある。逃亡への協力を約束したあと、彼はお品を抱く。その時の感触は、お柳を抱いた時の性欲の煌めきが再度燃えあがったような感触でもある。この連関を示すべく、横光は始めにお柳とのエピソードをもってきたのだ。「お品の胸が芳香を放って反り返った」ときの感触、それは「お品の胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」pp221という感覚的イマージュとして、そのあと計介のなかに保存されつづけられることとなる。

²  ダイナマイトというテーマは、それ以降、お柳-お品と繋ぐ性的欲望の記憶イマージュとなった女の「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」と、計介のなかではつねに連想作用をもつ結合関係を結ぶ。「それは昨夜から絶えず彼の胎内に入り浸っている新鮮な吸盤をもった生物」pp221となる。

²  お品は街に隠れている。計介は会いに行きたい。会って抱くという性欲が絶えず彼のなかで疼く。トンネルを峡谷を突き抜けさせ街に届かせるという目論見を計介に推進させる、誰も伺い知れない、実は最深の動機をなすものは、「胸から股へうねった芳醇な熱い一疋の線」の性的イマージュなのだ。瀬川は、お品を、彼女の逃亡をそそのかした或る誰かの腕のなかでその性的イマージュを実現している彼女を想像し、それによってこそ気も狂わんばかりの嫉妬に陥り、なんらかの判断ミスに導かれるにちがいない。他方、自分のほうはこのイマージュがいっそう自分のやる気を掻き立てる。そう考えて、計介はこう考える。Pp222「つまる所、お品の一疋の線が街へトンネルを押し出す線であったのだ」。

²  これを計介=横光は「此の突如として峡谷の中からめくれ上がった一本の新鮮な理論」pp222と呼ぶ。

 

n  「街に出るトンネル」と「ナポレオンと田虫」とを結ぶ環はまさにこの「一本の新鮮な理論」なのだ。どういうものであるにせよ、その個人に固有な或る欲望イマージュ、――多くの場合性的であるか、ルサンチマンの復讐欲望イマージュ、そしてこの両者は往々絡み合っている――が、その行動が表向き取る社会的に了解される目的性を越えて、いっそう深層的動機となっており、人間の行動は、それが包まれている客観状況から推して一般に了解されているその目的性と、その行動の個人的特異性を構成している内的な欲望イマージュが誕生させる目的性との、その相互的ないわば投射関係・「相互メタファー」関係において、複層的に決定されるという「新鮮な理論」の観点である。

n  この「新鮮な理論」の観点でナポレオンを観察した場合の認識が「ナポレオンと田虫」の前述の問題であり、「街へ出るトンネル」の場合が今述べてきた問題であった。

n  なお付言すれば、岩波文庫『春は馬車に乗って』につけられた川端康成の解説にしても保昌正夫の解説にしても、一切このような僕の問題視点と重なりをもつ論考の要素は存在していない






    

 



補論Ⅱ 邦訳『家の馬鹿息子』Ⅲにおけるニーチェ問題

     ――フローベールにおける『否定的無限』に寄せて
  
 フローベールの世界観とニーチェとのあいだの共振関係?

 邦訳『家の馬鹿息子』第三巻(原著の第二巻)が出版されたのは二〇〇六年である。この出版によって原著全体の約三分の二(つまり、原著での第一巻と第二巻)が日本語で読めるようになった、と訳者たちを代表して海老坂武は述べている。とはいえ、この出版は当初の予定から大幅に遅れるものであった。原著の刊行からは出版の時点で既に三五年が経過し、また訳者中三名の翻訳原稿が出揃った段階からも一七年が経過していたのだ。この邦訳第三巻は二段組でなんと七二〇頁を越える(訳注を除く)。海老坂は、「『家の馬鹿息子』にふれない<サルトル思想>の解説はほとんど意味をもたない」1と解題のなかで述べている。しかし、遺憾ながら二〇一一年の時点でも『家の馬鹿息子』を本格的な主題にしたサルトル論は、著作としては、私の知るかぎり柴田芳幸の『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル――エクリチュールと<反創造>の欲望』(近代文芸社、二〇〇五年)だけであり、この邦訳第三巻のそれなりに立ち入った紹介すら実は柴田の本以外は存在しないといってよい。
 他方、かのレヴィの大著『サルトルの世紀』には『家の馬鹿息子』へのさまざま言及が随所に渡って繰り広げられている。そのことは、いかにレヴィがサルトルのこの著作を、したがってまたサルトルのフローベールへの関係を重要視しているかを物語る。事実、彼はこの著作をほとんど絶賛するかのような次の言葉を記している。「彼がそれを書き、それが素晴らしい本であることは変わらない。多くの点で、それは彼の傑作であり、彼のあらゆる才能の結集であり、マルクスとフロイトが混ざり合い、プルーストが再び見出され、彼の<倫理学>がついに完成し、彼の<政治学>、彼の<詩学>という風に、あらゆるものの結集であり、彼の小説のうちの最高の到達点であることは変わらない」2と。
 とはいえ、このレヴィの同書への評価は、本書の補論Ⅰで批判した彼の視点、サルトルのなかに初期サルトルによって代表されるニーチェ的サルトルと、後期において色濃くなるマルクス的=ヘーゲル的な終末論的革命主義者のサルトルとの、「ほとんど互いに戦闘状態にある二人のサルトルがいる」3という観点からの評価である。つまり一言でいえば、レヴィにとって同書は後期サルトルにあってもこの「戦闘状態」が実は熄むことなく継続していることの最も雄大な告白なのである。同書はたとえサルトル自身によってフローベールに対する「憎悪の書」であるといわれようと、実はそれを仮面とする「オマージュの書」なのだ4。
 だが、僕からいわせれば、既に補論Ⅰで述べたように、かかる観点からのレヴィのサルトル称賛は実はサルトル断罪にほかならない。復権ではなくして追放である。僕はあとで、レヴィの観点と僕の観点が『家の馬鹿息子』を挟んでいかに対立するかについて素描するであろう。こうして、たとえレヴィの『サルトルの世紀』にどのように『家の馬鹿息子』についての言及が盛られていようと、同書の真の内容は実はまだほとんど知らしめられていないといってよい。
 とはいえ、本書を読んできた読者ならば次のことに同意してくれるであろう。想像的人間をテーマにしてサルトルとニーチェとの関係を論じる本書第一部において、僕がこのテーマを追ううえでいかに『家の馬鹿息子』を重視し、三島由紀夫にもかかわらせながら、サルトルの想像力論を知るうえで『聖ジュネ』と並ぶ決定的な著作として取り上げているということに。しかしながら、本書でのこの著作への言及も邦訳第三巻にまで及ぶものではなかった。
 いまあらためてこの邦訳第三巻をひもといてみると、本書のテーマであるサルトルのニーチェに対する《継承者にして対決者》という関係性にまさにかかわる問題として、僕はこの第三巻に出てくる「否定的無限」5の概念に深甚なる関心を向けざるをえない。この「否定的無限」という概念は同書において極めて重要な意義を担っている。なぜならそれは、フローベールにおける想像力の働き、まさに《現実を非現実化するために非現実を現実化する》という働きがそこから繰り出されてくる彼の世界態度・宇宙観を指す概念として現れてくるからだ。またそれは、フローベールの「世界観Weltanscaung」6に本質的にサド=マゾヒスティックな性格を与える彼の世界態度(関与形式)の特質を示す概念だからである。
 ところで僕の見るところ、この概念が担う「無限」(《存在》あるいは宇宙的全体性)と「有限」(具体的に規定された種々の現実相と個々人の実在)との関係性は、『聖ジュネ』において現実に対する「想像的態度」の典型として批判された、ニーチェの「永遠回帰」思想における「永遠」と「いまとここ」での現実性とが取り結ぶ関係性と極似しているのだ。また本書第二部で取り上げた『道徳論手帳』における「力のモラルの諸原理」やそれと深い関連をもつ断章に「パルメニデス的球体」という概念となって登場してくるニーチェ的な《存在》概念と重なるものだ(本書第二部「ニーチェに関する二つの断片」節、***頁参照)。
 この邦訳第三巻のどこを探しても、『聖ジュネ』のときのようにはニーチェの名前は出てこない。これまでの邦訳第一巻にも邦訳第二巻にも出てこない。総じて『家の馬鹿息子』にはニーチェの名前は全然出てこない。とはいえ第三巻には、まさに「否定的無限」の概念にかかわって「超人」7や「権力意志」8という概念が登場する。また第二部で取り上げた『道徳論手帳』に出てくる「パルメニデス的球体」と極似した「パルメニデス的実体」9という概念も登場する。さらに、人間に対する「超人の差別意識を表現する」笑い10、ないし「ホメロス的な長い笑い」11という概念も登場する。そもそもフローベールが立つサド=マゾヒスティックな<悪>肯定のサタン的立場は「道徳壊乱」遂行の立場であり、それは従来の善悪に関するキリスト教の「価値表の転覆」12から始まるといわれる。あるいはまた、それはサドと同じく、「本当のコミュニケーションがいっさい存在しない場合、基本的な人間同士の関係は、権力の関係であること...(略)...考え得る唯一の絆、それは死刑執行人と犠牲者の絆である」13との観点から、「貴族的長所」として「獰猛さ」の徳を称揚する立場に立つとされる14。また、それらの諸要素からなるフローベール的「世界観Weltanschaung」は、総じてロマン派の「枢要な美徳」である「死への願望」・「死への欲望」を生きる立場である15、とサルトルによって繰り返し総括される。
 かくて僕の観点からすれば、明らかにこれらの言葉は、サルトルがフローベールの「世界観」とニーチェのそれとのあいだに――ニーチェの名を出さずとも――重要な類似性を見いだしていることを示すものだ。
 直接的な事実として、サルトルがフローベールの「否定的無限」という世界態度(関与形式)を分析するさいにニーチェをどれほどまで意識したかは調べようがない。とはいえ、これらの言葉や表現が示すフローベールの「否定的無限」の概念とニーチェとのあいだに見いだせる共振関係は、その内容の実質において、フローベールの抱えた問題とニーチェが抱えた問題、さらにいえば十九世紀ロマン派の抱えた問題とのあいだに期せずして成立した問題の共通性、同時代的な共有性を指し示すものだ。同時にそれは、これらの共通する問題群を向こうにまわして、まさにその対決者としてサルトルがいかなる立場に立とうとするかを反照的に浮かび上がらす。
 そこで補論という形で、僕はここで右の問題の関連を素描しておきたい。

 
「否定的無限」の観念作用

 そもそも「否定的無限」とはどういう問題の文脈のなかから登場してくるのか?
『家の馬鹿息子』邦訳第三巻が示すところによれば、父が卒業したルーアンの中学校に進学した少年フローベールは、第三者の目からみればおよそ劣等生などではなかったにもかかわらず、彼自身が自分に与えた規準から劣等感の塊りとなってしまう。というのも、フローベールは是が非でも兄の秀才伝説どころか父のそれをすら超える栄光をこの中学で勝ちとることで、ライバルの兄をまたぎ越して、崇拝する父から真の後継者として認められ、いっそうの愛護を得るという幸福を渇望していたからだ。勝ち得るべきこの父からの愛護は、母から得ることができなかった自己の存在肯定の補償的代理物となるはずのものであった。
 ところが、彼はこの目論見を実現できなかった。その挫折には、文学的で全体直観的な「合成的思考」16の能力には優れているが、自然科学的な分析的思考は不得意とするという彼の精神的資質も与かっていた。否、たんに実現できなかったどころか、当時のブルジョワ階級の唯物論的で分析的理性中心的な「啓蒙主義」の支配する文化環境のなかでは、彼のロマン派的な精神的資質のさまざまな側面は級友や教師の嘲笑の対象とはなっても、ほとんど評価の対象とはなりえなかった。こうして彼は自分と級友とをひたすら「競争」という闘争関係の下で見いだすほかなく、繰り返し敗北や嘲笑されるという屈辱の経験を積み重ね、怨恨の心性に凝り固まり、とどのつまり、そのような自分の生の現実に耐えられなくなる。
 彼の少年期を映す初期作品『狂人の手記』からサルトルは次の一節を引用している。「ぼくは十歳の年から中学にいた。そしてそこで早くから人間に深い嫌悪を覚えた。子供たちのこの社会は、もう一つの小社会である大人たちの社会と同じほど、犠牲者に対して残酷である......。群衆の同じ不正、偏見と力との同じ専制、同じエゴイズムが支配していた。......学校でぼくの趣味は何もかもけなされた。教室ではぼくの思想が、休み時間のときはぼくの孤独好きの付き合い嫌いの性向が......教師からはいじめられ、級友からは嘲られた」17と。
 彼が自分にあてがった基準からすれば、彼の現実は何一つ肯定というものを彼の存在にもたらさない。父からの愛護なぞ夢のまた夢となり、もともと父の極度のエリート主義を内面化した産物である彼の怪物化した「自尊心」は粉々に打ち砕かれる。しかも既に述べたように、彼の他者経験はすべて闘争的であり、そこには連帯というような共同性の関係は何一つなかった。彼は自分ならびに周囲のブルジョワ的人間を人間一般と誤認するほかなかった。人間はもともと彼のように孤独であり、かつ彼が経験したように闘争的で、ただただ権力意志に駆動されるだけの残酷な本性の持ち主である、と。だからフローベールにとってサドの『閨房の哲学』との出会いは決定的であった18。先に紹介したサドの観点、そもそも人間同士の連帯というものはなく「基本的な人間同士の関係は、権力の関係であること...(略)...考え得る唯一の絆、それは死刑執行人と犠牲者の絆である」(前出)という見方は、サルトルによれば、フローベールの人格形成を規定した基礎経験にほかならなかった。それは必然的にフローベールのなかに「死への欲望」の観点、世界と人間を「生の観点」からではなく「死の観点」から見る態度を醸成した。
 結局、想像的人間が共通して抱えるくだんの問題、「生きることの不可能な状況を生きうるものとする脱出口」の想像的な創出、ニーチェのいうかの「窮境」を非現実化することによる生の可能化、そのための非現実的なものの現実化という想像力の力技の遂行が、少年フローベールにも生死を分かつ課題として持ち上がるのだ。
 サルトルの示すところによれば、この「窮境」からの脱出、いいかえれば「窮境」の非現実化は、人類そのものを嘲笑する「ホメロスの長い笑い」、「超人」のみが為しうる笑いをフローベール自身が笑えるようになることによって果たされる。明らかにここで問題にされている笑いとは、ニーチェが「重力の精」と闘うための唯一の武器として推奨したあの哄笑、イエスが学び損なったと後々までもツァラトゥストラ=ニーチェが悔やんだ笑い、「窮境」に捕らわれている人間にそこを脱する力を唯一与えることのできる笑い、それと同質の笑いにほかならない。
 実に邦訳第三巻は、この笑いの問題を少年フローベールの実存構造を表示する問題として捉え、それに「<ガルソン>の根源的構造としての笑いについて(ないしマゾヒストのサディズムについて)」という意味深長なるタイトルの長い節を当てているのだ。
 では、いかにすればこの笑いを笑えるようになるのか? そのためには、残酷かつ惨めに打ち倒され敗北した自分の存在からまず自分の意識を「この無という最高の切断」19によって切断し、いわば幽体離脱化(「重要なのは彼が宙に浮いていることである」20)し、次のような「上空飛行の意識」21の境位へと意識を飛翔させねばならない。すなわち、「ぼくはアトラス山の頂上にいて、そこから世界を、その黄金とその泥濘を、その美徳と傲慢とを眺めていた」という高み、そこでは「同じく、その高みからするともはや自分が何ものでもなく、その自分があらゆるものを軽蔑する、そのような高みの苦悩がある」、そう述べることが可能となる高みへと。(ともにサルトルによるフローベールからの引用22)
 このいわば離人症的な幽体離脱的な意識喪失的恍惚への意識の自己超出、それがもう一方の地上的《世界》の戦争化とでも呼べる経験と並んで、フローベールの決定的な《存在》経験・実存経験となる。現下にはサディズムを己の本性とする人間たちの戦争世界、天上の高み、宇宙そのものへの帰属地点においては、人間の闘争的現実に対する離人症的な絶対的等価・無差別・無感動・無関心の意識の誕生。この後者の意識の誕生を指してサルトルはこう特徴づける。「シリウス星の観点、よりよく言えば<絶対>の観点からすると、悪徳と美徳、才能と無能、名門と平民、幸運と不運とは平等になる」23と。
 この時、この高みに駆け上がり、絶対あるいは無限への側への帰属を果たした意識についてサルトルはこういう。なるほどそれは確かにフローベールたち人間の意識であるにせよ、「本質的に人間とは別のもの、言うならば類人猿の水準におとしめられることは決してない超人」の意識へと「変質」しているのだ、と24。サルトルによれば、この「変質」とは現実的意識の想像的意識への跳躍、「非現実性への跳躍」にほかならない25。そして、こういう形で意識が絶対・無限・宇宙的全体性・《存在》への帰属を果たすこと、逆にいえば、後者がこういう形で意識化されるということを指して、サルトルは「否定的無限」と呼ぶのだ。
 なぜそう呼ぶのか? それは、これまで有限の側に立ち無限に対立していた主体の立場から、無限の側に立つ主体、いわば無限の代理人的主体へと自分を転換させることは、意識が、現実の事物と人間たちの有限性そのものにほかならない具体的規定性を無視し、それら一切に無関心となり、等価的(インディファレント)態度を取り、そういう意味でそれらに対して否定的となることだからである。
 サルトルは次の点に注目するよう読者に訴えている。フローベールが「シリウス星の観点」いいかえれば「<絶対>の観点」に立つという場合、彼はいまや自分は「部分なき全体としての無限の<実体>」いいかえれば「パルメニデス的実体la substance parmenidienne」26にしか関係をもたぬと主張しているのであり、このような「全体主義的認識conaissance totalitaire」27においては、「もろもろの有限の差異は呑み込まれ、規定も真理も持たない」仕儀となる、このことに注意せよ、と28。こういう言い方もしている「純粋な肯定である全体は、部分化する否定を見る視線を持たないのだ29」と。
 ここで僕は読者に本書第二部第二章の「ニーチェに関するサルトルの二つの断片」節を振り返ることをお願いしたい。そこにはまさにこうあった。「絶対的な《存在》はまったき肯定性であるからそれ自身のうちであらゆる区別を廃してしまう。それは純粋な存在である。不動で、峻厳で、非時間的で、性質づけられないものである。パルメニデス的球体。あらゆる破壊は特殊なもの規定されたものの無化として肯定性であり、それは《存在》の無差別への還帰をなさしめる」(傍点、引用者)。
 右の断片は一九四七年から四八年にかけて執筆された『道徳論手帳』にあったものであり、僕はそれを右の節ではニーチェの「根源的一者」の宇宙観と関連づけた。いまここで明らかとなることは、この断片で披瀝された《存在》に関する議論、《存在》の側に帰属しその立場に立とうとする世界観に対するサルトルの批判は、その約二〇年後に執筆された『家の馬鹿息子』(原著のフランスでの出版は一九七〇年)では、無限へのフローベールの帰属の仕方を表す「否定的無限」をめぐる議論、それが現実の非現実化作用を発揮することへの批判としてそっくりそのまま返り咲くということである。
 既に僕は本書第一部第三章の「『永遠回帰』思想批判に向かうサルトルの視角」において次のことを強調した。
 すなわち、『聖ジュネ』におけるサルトルによるニーチェの「永遠回帰」思想への批判の核心は、「永遠回帰」の観点が何よりも現実の非現実化を導くところの導体(非現実的なるものの現実化)という役割を果たしていることの暴露にあった。もともと現実の人間の意識にとっては想像的対象でしかない「永遠回帰」という事態を、あたかも現実的過程であるかの如く意識の前に現前化(=現実化)する言説の展開によって、ニーチェは自分自身ならびにこの言説に魅入られた意識をいわば篭絡し、この非現実的なものの現実化をとおして現実を非現実化する。
 つまり、「永遠回帰」という遠近法のなかでは、「今とここ」に生じる只今の焦眉の現在は、無限大の過去と無限大の未来が円環的に連結して成立する運命的に定められた「無限小の瞬間」として描き出される。そのことによって、そこでは過去から未来へという不可逆的な直線的時間性の観念が意味を失う。永遠という、現実の人間にはただ想像することしかできぬ茫漠たる無限の宇宙的全体性から出発する立場にとっては、現在は可能性を実践に転化する不可逆的な選択と決断の瞬間とはもはや扱われない。現在は既にその未来の帰結が先取りされているものとして、またそのことが過去からの運命的な帰結であるとも示される。永遠の側に自らの身を置くことで実現されるこの遠近法(パースペクティヴ)のなかでは、現在の焦眉の現実性はその実践的な切迫性を失う。
『家の馬鹿息子』に登場する言葉を使えば、まさに「永遠回帰」の観念はそれに魅入られた諸個人に対しては彼らに「脱状況化」30をもたらすものとして作用する。彼らのそれまでの実践的な生は観想的な生へと移行し、「変質」する。彼らの生は、生々しい過去を引継ぎながら、その過去が現在のなかに産み落とした新たな可能性を行為の実践的課題として敢えて選び取ることで、同時に失敗・挫折・敗北のリスクを身に引き受けつつ、賭けに打って出るという性格を失う。もはや現在はそのように未来へと受苦的に進出する行為の時間的瞬間としては現れない。現在が担っていたはずの焦眉の実践的性格は意味的に空無化されてしまうのだ。
 まさにそのことによって「シリウス星の観点」が実現され、その観点の下ではあらゆる人間間の残酷な心を痛める争闘も、そこで痛めつけられる自分自身も含めて、まるでアリたちの闘争のように現実感のない戯画に変わってしまうのだし、そうなれば、それは悲劇であるどころか、闘争する当人たちの必死さ・真剣さ・気真面目さ(シリアスネス)こそが哄笑を誘う出来の悪い惨め極まる喜劇に変換されてしまうのである。
 かくて『家の馬鹿息子』に立ち戻れば、サルトルはこう書くことになるのである。「フローベールが非現実の名において現実に挑んだ容赦のないたたかいのなかでは、現実からその主要な武器を奪い取ることが問題なのだ。現実に対しては鈍い物質的な一種の現存性、不透明性、人間を押しつぶすおそろしい力が認められるが、それだけである」31(傍点、引用者)と。

 「窮境の転回」(『ツァラトゥストラ』)と「否定的無限」の論理

 内容的には既にこれまでの論述が孕んでいることだが、『家の馬鹿息子』に潜むニーチェ問題を鮮明にするために、敢えて次の二点を繰り返しを恐れず強調しておきたい。
 第一点。僕は本書第一部でニーチェのいう「永遠回帰への意志」をもってする「窮境の転回」に関して、それを『悲劇の誕生』以来の「根源的一者」の思想と結びつけ、主体転換の論理をそこから抉り出した。
 繰り返すならこうである。――孤立した断片としては謎であり恐ろしい偶然であった《私の現実》あるいは《私の過去の出来事》も、宇宙の全体性の部分として把握し返されるならば、謎は解け、偶然は必然として開示され直され、恐怖は去り、運命の受容が来る。これが「永遠回帰への意志」の立脚する論理であった。だが、このように事態の再把握をおこなう主体とは、もはやかつての《私》、自己の一回的な実存の個別性から発する《私》ではない。そこでは主体変換が起きており、《私》とは宇宙的全体性がそこへと化体したところの、あるいは逆にいって前者へと化体したところの《私》にほかならない。《私》の立ち位置は絶対的個別性から宇宙的全体性へと変換されている。この主体変換は、ニーチェの理解では、『悲劇の誕生』が悲劇の悦楽性の根拠として持ち出した主体変換の姿を変えた現れである32。
 フローベールにおける「外面的全体化」によって実現される「否定的無限」の境位の実現とは、右のニーチェの主体転換と本質的には同一の主体転換の論理を表している。このことは明白であろう。サルトルは次のことを強調していた。繰り返そう。フローベールという主体、あるいはより一般的にいって人間主体が己の残酷なる闘争的現実を見る「視線の関係」を高度化していった果てに、「シリウス星」の高所にまで到達し「否定的無限」への参入を果たすや、そこには「量から質への移行」あるいは「変質」が起きる33。移行以前の高度化の過程を生きていた主体はまだ人間であったが、移行が成し遂げられるや、主体は「本質的に人間とは別のもの」たる「超人」となっており34、そうであってこそ現実界から想像界・非現実性への「跳躍」が可能となる35、と。
 第二点。僕は本書第一部で次のことも強調した。『ツァラトゥストラ』においてニーチェは『悲劇の誕生』を自己批判し、こう主張する。後者においては「窮境」からの解放が「芸術」が与えてくれる美的仮象の王国への逃避に求められたが、いまや『ツァラトゥストラ』が提出するのは、「永遠回帰への意志」によって残酷なる大地の道を「わきに逃げたりせずに」まっすぐに歩き通すことによって「窮境の転回」を図る新しい道である、と。だが、この新提案自体が本質的には想像界への逃避ではないのか? それ自体、「永遠回帰」という非現実の現実化による残酷なる現実界の非現実化ではないのか?
 サルトルによれば、フローベールによって「否定的無限」はもはや「詩」によってではなく、「詩」と対置してフローベールが「芸術」と呼ぶ、「宇宙的主題」に取り組む「反省的かつ批評的な文学」たる「小説」という想像的空間においてのみ顕現できるとされる36。
 かかる「否定的無限」の本質をサルトルはこう特徴づける。
「かつての詩的な態度は、現実から想像界への逃避にすぎなかった。一方、芸術的な活動は、想像的なものを実現することによって、現実の価値を剥奪するところに成立する。...(略)...フローベールは世界を空無化するために、世界に立ち返っていくだろう。そしてそれは、世界を全体化することによってしかなし得ないだろう」37(傍点、引用者)。
 右の一節にいう「想像的なもの」ないしは「世界を全体化すること」とは「否定的無限」のことである。繰り返すなら、ニーチェにとって「永遠回帰への意志」とは「かつてあったすべてのものを、――創造によって救済すべきこと」を意味するが、ここでいう「創造」とは「人間において断片であり謎であり恐ろしい偶然であるところのものを、凝集し総括して一つのものにすること」(前出)だといわれた。つまり、サルトルのいう「全体化」によって過去の出来事がこれまでその人間にとって帯電していた《意味》を、新たに「無限」の観点に立つことで耐えうるものへと変更することであった。それが「救済」であった。サルトルがフローベールについて述べた「外面的全体化」が、さらにいえば「外面的全体化」と「内面全体化」との結合による最も全体的な全体化が、そこでの問題であった。
 こう見てくれば、サルトルのフローベール解釈がいかに『聖ジュネ』や『道徳論手帳』に示された彼のニーチェ解釈と連結し重なり合っているかが明白となろう。
 さて、七二〇頁を超える邦訳第三巻の孕むサルトルの豊富な考察をこれ以上追ってゆくことはこの小論の為しうるところではない。とはいえ、次のことだけは確かである。すなわち、この膨大極まる考察の束は、しかし、まさにたった一つの主題に捧げられているということは。かの《現実を非現実化するために非現実を現実化する》という想像力の作用のフローベールにおける展開形態を、サルトルはまずフローベールの中学時代を反映する初期作品のなかに詳細に跡付けた後、いかにフローベールが詩人から小説家へと転進し、まさに想像力の「芸術家」へと自己を形成するかを示すのである。しかもそのさい、この想像力の芸術家的展開とは無限・絶対・宇宙的全体性・《存在》という形而上学的地平での《現実を非現実化するために非現実を現実化する》想像力の力技を遂行することにほかならなかった。その事情をフローベールの野心作であった『スマール』の徹底分析をとおして示し、もって次なる『ボヴァリー夫人』解釈の前提・土台を打ち固めること、これが第邦訳三巻(原著第二巻)の内容なのだ。
 まさにこの問題展開のフローベールにおける宇宙論的規模が、いいかえればその形而上学的野心が、彼をして期せずしてニーチェと共振させることとなろう。「否定的無限」は「永遠回帰」と見事に共振する。さらに次のことも付け加えておこう。ニーチェの世界観を包んでいる根本気分はサド=マゾヒズムであることは、僕が本書において幾度となく強調した事柄であった。邦訳第三巻においてサルトルはフローベールの世界感情・根本気分がサド=マゾヒズムであることを何度となく強調する。二人の世界観の照合はもちろんこの点においても成り立つ。実にサド=マゾヒステッィクな世界気分こそは「否定的無限」と「永遠回帰」とのあいだに共振性が誕生するさいのいわば主体的根拠・主観母胎だからである。

 レヴィの『家の馬鹿息子』論について

 最後にレヴィの『家の馬鹿息子』論について触れておこう。
 まず、次のことをいいたい。彼の『サルトルの世紀』にはこれまで僕が縷々述べてきたような「否定的無限」をめぐる議論は毛一筋ほども存在しないことである。否、そもそも想像的人間の実存的精神分析的解明というテーマへの注目自体がない。あれほどサルトルにおけるニーチェ的要素を喧伝するレヴィにもかかわらず、『聖ジュネ』におけるニーチェ批判への言及もない。だが、それもレヴィの観点からは当然といえよう。要するに彼の議論は『家の馬鹿息子』のなかのフローベールに対するサルトルの批判の部分、またその批判を支えている彼の根本的な哲学的立場をことごとく無視し、あるいは議論に取り上げるほど価値の無いものとみなし、むしろサルトルの真髄をフローベールとの同一性のなかに見ようとするからである。「かつては決裂、分裂、個別性の爆発、意識の拡散しか愛することのなかったサルトル」38はいまやフローベールに投射される形をとって、『家の馬鹿息子』のなかで逆説的に肯定されているのだ、と。
 だから、本書第三部「母なるものをめぐって」において僕がサルトルのフローベール論との関連で取り上げたテーマは、真剣な考察に値しない非本質的なものとしてほとんどことごとくレヴィによって退けられているといってよい。つまり、サルトルがきわめて重視していたテーマ、フローベールにおける母性愛経験の剥奪、それが彼に刻み込んだ「受動的能動性」ならびに身体と意識との肥大化し過剰化した反省的分裂、《受難した子供》というテーマ、フローベールの怨恨的世界観とサド=マゾヒズム、それが産み出す反ヒューマニズムとしての「相互性」感覚の根本的欠落、そこから生まれる彼の単独者主義、等々。僕の言い方をもってするなら、フローベールにおいて期せずして誕生する「ニーチェ的なるもの」の一切、これがレヴィにおいては真に価値あるサルトル的思考にとっては考察に値しない外在的で非本質的なものとみなされる。
 レヴィの議論において特徴的なのは、これら諸テーマの土台となるフローベールの幼年期問題へのサルトルの観点を、ほとんど絵空事に近い「お伽話」39ないしは自分の理論のために捏造した「事実」=小説的創作物とみなすことである。そのさいレヴィは、サルトルの発言、すなわち、自分は資料なきフローベールの幼年期を彼の書き残した作品とさまざまな書簡から文学的想像力をもって推測する(いわば小説化する)という発言を逆手にとることで、その証拠とするのだ。
 しかし僕からいわせれば、実際にレヴィがおこなうことは、そういう揶揄をもって、人間の幼年期が普遍的に抱える「実存精神分析」的諸問題に関する長年にわたるサルトルの並々ならぬ考察の全実質を議論の圏外に追い出してしまうことでしかない。
 究極の問題はフローベールにあるのではなく、フローベールをとおして人間について考えることにあり、実証主義的な意味でサルトルのフローベール論に仮説的要素があり過ぎるとしても、だからといってこの『家の馬鹿息子』の人間学的意義が減殺されることはありえない。一見レヴィもまた同じ判断を下しているかのように見えるところもあるが、肝心の『家の馬鹿息子』で展開される人間学的諸洞察の真摯な紹介も肯定も彼にはない40。
 またレヴィは、サルトルが幼年期を《子供=無垢なる自然の天使》風の楽園として語ることを拒否して、つねに――僕の言い方をすれば――《受難した子供》の暗黒の状況として問題にしてきたことをいわば逆手にとる。彼はそうすることで、返す刀で、だから「デカルトが動物に無関心だったように、同じ理由から、サルトルは子供にほとんど関心を示さない」41と結論づける。また、サルトルを特徴づけるのは幼少期への「憎悪」であるとも結論づける。
 だが、本書(特に第一部第二章「《受難した子供》の眼差しに立つ、存在欲望の減少額としての実存的精神分析学」節、第三章「『ツァラトゥストラ』における《受難した子供》の眼差し」節、等)を読んでくれた読者ならば、いかにサルトルの思索が、何よりもその実存的精神分析の方法が実に深く《受難した子供》の問題に関心付けられたものであるかを了解してくれると思う。しかも、レヴィはこの論法をもってサルトルをあらゆる「ヒューマニズム」的な人間解放論的言説を浸している「全体主義」に対立させるのだ。というのも、レヴィにとっては抑圧と疎外からの人間の解放を説くほとんど全ての思想は、「人間の条件に張り付いた呪いから解放された『善き共同体』の夢」を志向するものであるり、それゆえに実は「全体主義というものの徹底的な形態」であるからだ42。この観点からすれば、幼年期における人間の疎外や抑圧を問題にする議論自体がこの「全体主義」に加担するものとみなされる43。
 このレヴィの――あるいはフランス現代思想に共通する――「全体主義」観は本質的に反社会主義の立場にあったニーチェと等しい。なぜならそれは、人間解放を掲げる一切の社会運動を、まず「善の共同体」主義――単独者的悪を、また人間の生のエネルギーのそもそもの悪性を頭ごなしに否認し、そのひたすらなる排除を追求する道徳主義を核心とする――であると決めつけておいて、それゆえに本質的に「全体主義」だと結論づける立場だからである。いいかえると、その「社会主義」観には僕が補論Ⅰで述べた「相互性」の友愛の社会主義の観点は不在化させられている。いいかえれば、「独自的普遍・単独的普遍」の両義的思考を粘り強く推し進める観点がない。
 僕にいわせれば、レヴィはこうした詐術的なやり方で、サルトルのフローベール論のなかからフローベール批判の全要素を追放しつつ、サルトルが批判するフローベール的なものこそがニーチェ的サルトルの真髄であり、その逆説的投影だとみなし、『家の馬鹿息子』こそ後期サルトルにおけるニーチェ主義の最後の信条告白だと論定する。つまり、繰り返しいえば、そのようにして――僕の言い方を使えば――サルトル的思考の最も価値ある生命力、その両義性が担う運動性、その矛盾的ダイナミックスを追放してしまうのだ。


  
 

1 サルトル、平井啓之・鈴木道彦・海老坂武・蓮見重彦訳『家の馬鹿息子』Ⅲ、人文書院、二〇〇六年、七五三頁
2 同前、七七〇頁
3 同前、五六七頁
4 同前、七七〇頁
5 同前、八五、八八、九五頁、等々
6 同前、八三頁、サルトルは、ニーチェ的にいえば「パースペクティヴ」と呼ばれる、個人の特異な世界観の構造を問題にしたドイツの解釈学からの問題意識の継承を示すために、ここでわざわざ独語を使用している。
7 同前、八七頁、一七二頁
8 同前、七二頁
9 同前、一七三頁
10 同前、一七二頁
11 同前、一七四頁
12 同前、七五頁
13 同前、五一二頁
14 同前、七八頁
15 同前、一八〇、一八一、三〇二、三〇九~三一一、三一七頁、等々
16 同前、三五、三五八頁
17 同前、一二頁
18 同前、五一二頁
19 同前、八二頁
20 同前、九〇頁
21 同前、五一四~五一七頁
22 同前、八四頁
23 同前、八六頁
24 同前、八七頁
25 同前、八八頁
26 『家の馬鹿息子』Ⅲ、一七三、二一六頁、ldiot de la famille,2, TEL gallimard p.1265
27 同前、九四頁、ldiot de la famille,2, p.1189
28 同前、九三~九四頁
29 同前、一七三頁
30 同前、九一頁
31 同前、二一六頁
32 この点にかかわって柴田芳幸の『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル』について若干のコメントを記しておきたい。柴田は『家の馬鹿息子』を論じるにあたって、まず『シチュアシオンⅠ』と『シチュアシオンⅡ』とを繋ぐ思想的連続性を、モーリヤックのごとく「神の視点」あるいは「超越者の視点」から小説を書いてはならないとする有名なサルトルの立場の一貫性のなかに跡付け、この観点がそのまま『家の馬鹿息子』にまで引き継がれていることを示す。たとえば『シチュアシオンⅠ』の「新しい神秘家」が示すところによれば、モーリヤックのみならずバタイユのいう「非‐知の視点」あるいは「夜の視点」もまた実は「超越者の視点」にほかならない。この連続性への注目は卓見である。柴田は、『シチュアシオンⅠ』のパラン論のなかから「人間以外の種の目で自分を見ようとする努力、つまりは主体であるという苦しい義務を逃れて休息につこうとするこの努力、...(略)...それは<神の死>の帰結の一つを表している」という一節を引用しているが、バタイユの「夜の視点」もまた、ニーチェのいう<神の死>によって「非‐知」の暗闇と変わったにしろ、それでもかつて神が占めていた超越者の側に立ち、超越者の視点から人間の現実界を見下ろしたいという欲望を表している。いうまでもなく、この補論Ⅱで僕が取り上げるフローベールの「否定的無限」の視点もまたこの<(不在の)神の視点>を表すものだ。柴田によれば『家の馬鹿息子』の根本的位置づけは、実はそれがサルトルにおいてはマラルメ論の序曲をなすという点にあった。すなわち、フローベールはサルトルによって、「世紀の後半にその理論家にして英雄マラルメに至るまで豊かになって発展し、象徴主義的退廃の後に老衰で死ぬことになる<客観的精神>の新しい決定因」として位置づけられ、そういう問題意義において分析された(柴田の書からの孫引き、一四九頁、原著L'Idiot de la famille,tome3 .Gallimard.1972.p.18 )。そして、マラルメはサルトルによって「ニーチェよりもさらに勝れて<神の死>を生きた」詩人(『シチュアシオンⅨ』、人文書院、一九七四年、一五九頁。柴田の書、二九九頁)として問題にされたのである。
 この柴田の提示する見取り図は正確である。ただし、柴田の問題意識は、こうしたサルトルの一貫した視点が同時にニーチェとの対決を意味していることを明らかにすることにあるわけではないから、『聖ジュネ』におけるニーチェ批判と『家の馬鹿息子』における「否定的無限」批判とを関連付ける試みは彼の本のなかではなされていない。
33 同前、八七頁
34 同前、八七頁
35 同前、八八頁
36 同前、一九〇~一九一、五三六,五四二頁、ならびに四〇七頁、等
37 同前、四〇九頁
38 同前、六五九頁
39 同前、一〇〇~一〇一、六七八頁
40 この点で、柴田芳幸は、サルトルのフローベール分析の実証的妥当性をめぐるジャン・ブリュノーとミッシェル・リバカルの興味深い論争を丹念に紹介している(前掲書、一二六~一二九頁)。またフローベールに関するサルトルの実存的精神分析の独創性を称賛しているハゼル・バーンズの見解を共感を込めて紹介している(一二一~一二三頁)。
41 レヴィ『サルトルの世紀』、四二〇頁
42 同前、四一七頁
43 同前、四一七頁