突拍子もない言い方に聞こえるかもしれないが、暴力が経験されるのはもともと「死の飛び地」的な性格の空間のなかでだと、まずいってみたい。この空間イメージと暴力との関係をいわば導きの糸として今日私たちが直面している問題について考えてみたいのだ。
Ⅰ 世界における「死の飛び地」
隔絶と幽閉
「死の飛び地」といった。たとえば、TV画面の映し出す現在のイラクの人々のことを思い浮かべてみよう。まず彼らの置かれている状況とわれわれとの隔絶感がわれわれを襲う。この隔絶感には一つの直観が孕まれている。彼らはわれわれとはとんでもなく異なった関係性――まさに暴力という――の内部にいるという直観である。この直観には次の感情とイメージが貼りついている。彼らはそうした状況の内部に幽閉されていて、そこから出ることができないのだという、われわれの想いである。そこには実は、状況から脱出できない彼らの無念さへの想いとともに、見ている自分たちについての無力感も孕まれている。見ているしかない、助けることができないという感情である。TV画面を見ているという、本質的に傍観的な関係がここでのわれわれと彼らの基本関係だから、なおのこといっそうである。隔絶感と傍観的な無力感が幽閉性のイメージと感情を生む。
かつて、ハンナ・アーレントという哲学者が現代世界に渦巻く暴力の問題を論じて、「見捨てられているという孤独」が暴力を蒙る現代の大衆には貼りついているということをいった。それは二重の意味でだった。一方では、暴力の恐ろしさは、人々のあいだを恐怖によって引き裂き、各人を「見捨てられているという孤独」のなかに突き落とすことで、自分たちを共同で何事かをなしうる存在としてはもう感じることができなくさせてしまう点にある。そのことで、人々は行動不能に追い込まれてしまうのだ。暴力に抵抗できなくなってしまうのだ。
だが他方では、そうした孤独こそが人々を導いて暴力へと溺れこませる。「見捨てられているという孤独」を生きている人間が窮鼠猫を噛む行動に出た場合、それは必ず或るナルシスティックな自己絶対化をともなう暴力への溺れこみへと導かれる。絶望が、建設への意志ではなく、破壊の欲望へと人間を導き、また絶望が、問題を一刀両断に解決してくれるかに見える或る暴力的な解決の幻想、いってみればテロリズム的幻想への溺れこみを容易にする。
相互を理解しあおうとする議論の関係の粘り強い維持、この関係が織り上げていく地道で、《他者》の存在を承認するからこそリアリスティックでもある、妥協と寛容をきちんと含んだ協同の社会関係の組織と積み上げ、自分の観念のなかに自閉して《経験》のリアリズムを軽蔑するナルシスティックないわば原理主義者的態度の克服、――こうした態度こそが人間が他者と共に建設へと進むためには不可欠だが、世界と他者と自己に向き合うに際して、まさにこういった建設の態度とは正反対の態度に、つまり破壊の態度に人間は陥るのである。それが、暴力に飲み込まれるということなのだ。
「死の飛び地」というイメージには、明らかにこの「見捨てられているという孤独」が生みだす問題の黒々とした影が被さっている。
暴力と知覚変容
《暴力という関係性の内部》という言い方をした。たとえば、それはこういうことだ。さまざまな報道や兵士自身の証言が伝えるように、イラクに進駐した米英軍の兵士にとってイラク人はすべて――女・子供も含めて例外なく――自分に襲いかかる準備をした武装ゲリラに見えていることは確かだ。一種の知覚変容がそこでは起きているのだ。
「見れども見えず、聞けども聞こえず」という言葉がある。この言葉は、人間の知覚がつねに抱え込まざるをえない問題をずばり示している。かつてニーチェはこう指摘した。人間各自は、まるで蜘蛛が自分のまわりにはりめぐらした網の巣のなかにいて、その巣網にひっかかってくる獲物だけを食べ、その巣網の外には決して出ないのと同様に、自分の経験が自分につくりだしてしまった「遠近法」(いってみればアンテナ)のなかに閉じ込められている、と。つまり、そのアンテナがキャッチできるものしかキャッチせず、キャッチできないものはつねに見逃し、見落とし、あるいは無視する。そこに存在しているはずの現実も、そのアンテナに引っかからないならば、彼には存在しないもの、非存在に変えられてしまう。
自爆テロに襲われたという恐怖のトラウマ的経験は、イラク人を例外なくまず《敵》として疑えというアンテナを米英軍兵士の脳髄に植えつけてしまう。《敵》というフィルターをとおしてすべてのイラク人を見ることが無意識のうちに生じてしまうのだ。それ以降、イラク人それぞれ一人一人の表情、眼差し、仕草、彼らが生きているはずの家族や友人とのさまざまな関係、彼らの希望や愛情、あるいは悲哀や憎しみ、等々は、しかし、互いに千差万別のはずのもの、丁寧な理解の努力を要求するもの、あるいはまた国籍、性、身分、職業、世代、等の集団帰属性の違いを超えて裸形の人間の普遍的地平に立って共感的理解を可能にするもの、つまり《個人》のそれとしてはもはや知覚されず、集団存在としての《敵》というフィルターをとおしてだけ知覚され、意味解釈され、このフィルターを通過できないものは「見れども見えず、聞けども聞こえず」となってしまうのだ。
個人の非存在化=「敵」のもとへの無差別化
いうまでもなく、こうした知覚変容は逆にイラク人の米英軍兵士に対する関係においても起きる。まさに関係性とは相互的なものだからだ。相手がそう出るなら、それへのリアクションとして我の態度が決まる、と双方が考え、そのように振舞いだす。しかも、今や実に悲惨なことには、シーア派イラク人とスンニ派イラク人とのあいだでも、あるいはイラク人とクルド人とのあいだでも、こうした人間同士の相互的な「敵」化とそれがつくりだす知覚変容が起きだしている。昨日まで隣人として共生していたはずの人間たちが、また互いを《個人》として尊重しあうことをいろいろな衝突や人間関係の葛藤をとおして日々「生きる技術」として学んでいたはずの人間たちが、今日からは《敵》として殺しあいを始めることに追い込まれてゆくのだ!
《異者》は《異者》を生産する。米英軍という《異者》に加担するイラク人はもはや同胞イラク人ではなく、憎むべき《異者》であり、あるいは逆に、そのように我らをイラクへの裏切り者とみなし《異者》として暴力的に排除しようとするイラク人は同様にもはやイラク人同胞ではなく、たとえば「クルド人」とか「スンニ派」という《異者》である。
米英軍の戦闘行為も、またイスラム原理主義者たちのテロ行為も、その「無差別攻撃」の性格のゆえに非難されてきた。だが、もともと戦争という暴力は人間同士の相互的な《敵》化をとおして、人間のあいだに次のことをもたらすことなのである。すなわち、相互に相手をその《個人》性において捉え、互いに《個人》としてかかわり交流すること、このことを不可能にさせ、相手方をすべて一緒くたにして《敵》化し、そのようにして集団存在化し、《個人》としては「無差別」化してしまうということを。
「先に手を出した者」と自己免責回路
《暴力という関係性の内部》に人間が組み込まれてしまうということは、こうした《個人》の非存在化と人間の《敵》のもとへの無差別化という関係性の内部に組み込まれるということだ。そして、ここから暴力の連鎖、いうならばその地獄的循環性が誕生する。暴力は、つねに相手こそ「先に手を出した者」であり、挙げて責任は相手にあり、自分の暴力はやむをえざる自衛と反撃の「対抗暴力」であって、「先に手を出した者」の侵略的暴力とは性格を異にするという自他の関係意識を生みだす。またこの関係意識に担われてこそ暴力は人間にとって遂行可能となる。鶏が先か卵が先かの循環論がこうして暴力に特有な地獄的循環性となって発動する。
先に関係性とは本質的に相互的だといった。だが、この場合、相互性は自己免責的に働く。激昂して振り上げた拳をおずおずと降ろし、伏し目となって自分の非もまた認めないわけにはいかないとの自己批判に向かうのではなく、反対にますますおのれの正当性を確信し、相手の暴力もまた「対抗暴力」としてある事情はこれを認めず、ただ自分の側だけにそれを認めるのである。(ここで強調しておきたい。自分たちの間柄を議論ということができる関係と感じる前提には、必要ならば自己批判をする用意が自分にはあるという自己感情が不可欠である)。
暴力の恐ろしさは、人間をこの自己免責の回路に引きずり込んでしまうことにあるし、またそうすることなしには暴力を十全に発揮することはできないという点にある。人間というものはいったん自己免責の回路に自分を委ねてしまえば、後は自動機械化するものだ。暴力へのストッパーが外れるのだ。残念ながらこれまで人間はつねに両面的であった。「異者」への暴力性と「同胞」への相互理解性の両面をつねに生きてきた。だから、暴力を行使できるためには暴力へのストッパーを外さねばならない、つまり、相手へ相互理解的態度をとることをやめなければならない。二つの軌道のうち暴力の軌道へとハンドルを切ってしまわなければならない。「対抗暴力」の自己免責回路に自分を預けてしまわなければならないのだ。「良心の疚しさ」を是が非でもなくしてしまわなければならない。だから暴力とは、本質的に手加減しないもの、自分を手加減させなくしてしまうものなのだ。
ゲットー化とグローバリゼイション、そして問いの反転 人々はこの地獄的循環性の内部に幽閉され、そこから脱出できない。「死の飛び地」というイメージはこの幽閉性のイメージなのだ。別な言葉を使えば、「ゲットー化」である。暴力はつねにゲットー化され、また人をゲットー化する、ということができる。そういう意味で二〇世紀のアウシュヴィッツ経験は暴力の問題を考えるうえで一個の歴史的象徴であろう。
とはいえ、アウシュヴィッツ経験はアーレントのいう「見捨てられているという孤独」を象徴している点でゲットー化の象徴であるとはいえ、その経験は世界全体の戦争化としての第二次大戦と結びついていた。この点でいうと、情報と市場的競争原理と投資資金の一元化=世界化としての今日のいわゆるグローバリゼイションのもとでこそ、暴力の「死の飛び地」的性格は純化して実現されるに到ったというべきに違いない。
TV画面の向こう側にある暴力の「死の飛び地」は、グローバリゼイションの「勝ち組」としてのいわゆる「先進諸国」と「負け組」としての後進諸国、そのなかでも「負け組」中の「負け組」としての悲惨な内戦地帯あるいは飢餓やエイズに蝕まれた超貧困地帯との著しい非対称性を背景として、このグローバリゼイションの構造的な負性の象徴として立ち現れてくるのだ。われわれが感ずる隔絶感と幽閉性という感覚印象は、実は明らかに現在のわれわれが世界的に見ればグローバリゼイションの「勝ち組」の側にいる人間だということをバックグラウンドにして生ずる感情なのだ。
だが、まさにこの点で、問いが反転されて、われわれ自身に向けられねばならない。「死の飛び地」の経験はたんにTV画面の向こう側、「見捨てられているという孤独」を生きるグローバリゼイションの悲惨な「負け組」の地帯だけにある経験なのか、と。
これまで「死の飛び地」という空間イメージに導かれながら述べてきた、暴力という関係性の内部をかたちづくる諸側面、――隔絶感と傍観的な無力感、「見捨てられているという孤独」と暴力との切っても切れない関係、個人の非存在化=「敵」のもとへの無差別化という知覚変容、「先に手を出した者」と自己免責回路、等々――が、いくつかの点で形態上の大きな違いがあるにしろ、本質的な点でほとんど同じ問題を投げかける、そういう「死の飛び地」的な空間は、この現代日本のうちにも発見されるのではないだろうか? また、われわれはそれを発見しなければならないのではないだろうか? しかも、それは一般的にいって人間がその世界観=人間観の礎となる「基礎経験」を獲得する子供時代の、しかも、その痛切さにおいてもっとも普遍的な性格を帯びた否定的な「基礎経験」として現代の日本の青年と子供を掴んでいるのではないだろうか?
Ⅱ 現代日本における「死の飛び地」経験
恐怖とともに成長してきた現代日本の青年と子供
私はここ数年大学で倫理学の授業を「イジメと倫理学」というタイトルのもとでおこない、毎回最初の時間に学生に「私のいじめ経験」というレポートを書かせてきた。イジメられた経験にしろ、イジメた経験にしろ、自分自身に関して、あるいはごく身近なところで経験したイジメ経験について振り返らせ、レポートさせるのである。ごく身近なところで誰かが自殺した、あるいは自分が自殺しかけた、長期にわたる不登校になった、リストカットをおこなった、いまもそのトラウマで同年代の相手との対人関係に極度の不安を覚える、こういったレベルのイジメ経験を深刻度Aの経験とランクづけるならば、私の見るところAランクの経験を報告するレポート数は受講生の8パーセントから10パーセントになる。受講生はまったく平均的な学生だから、この割合はおそらく今日の学生に例外なく当てはまるものと私は思う。そのレポートから二つだけ例を引こう。
「わたしのいとこは高校二年の17歳のときいじめを苦に飛び降り自殺をした。…(中略)…私には自殺願望はいっさいなかった。そのかわりイジメた奴らを殺したいという感情が強くあった。それとともに自分を周りに適応させよう、いたるところを変えようとした。他人に不快をあたえないように目をつけられないようにと。その結果自分という内面は死んだようなものだった。自分は精神的に無になったのである。それとは違いいとこは自分の内面を生かした代わりに外体を殺した」(2003年、近畿大学商経学部)。
深刻度Aランクのイジメの周囲には、その圏外にいるようで暗黙裡に敏感にそれに反応している分厚い中間地帯があると考えるべきだろう。この中間地帯を支配する暗黙の意識は、「自分はイジメのターゲットになることを恐れて自分を《グループ》によって保護すべく、《グループ》につねに同調し、自分をつねに目立たせまいとして、《ふつう》の存在であることを演じてきた」という自己認識である。私が思うに、このような形での自己意識こそ今や現代日本の青少年が抱いてきた自己意識の中心的な基本形態となっている。
強調したいことは、このような自己意識はその中核に仲間への恐怖をもち、かつまた自己への自信と誇りの喪失(恐怖に屈し友を裏切るという)、したがってまた仲間という関係性への深い不信を置いているという点である。彼らにおいて友情の物語はたいていの場合裏切りの物語である。親友とみなしていた人間に裏切られた、ないしは裏切ってしまったという、内面的な道徳的挫折の経験はいじめ経験の本質的要素である。
ア―レントのいう「見捨てられているという孤独」はその暴力への本質的な関連性とともに、親しく、現代日本の青少年の「基礎経験」なのである。今や彼らは、この「基礎経験」の上にこそ、世界・他者・自己自身へと向き合う際の彼らの態度を構築することとなった世代なのである。
だから、端的にいって、今日の日本の子供たち・青年は恐怖とともに成長してきたというべきだと私は思う。この世界に類稀なる平和な戦後六〇年間を生きてきた日本社会にあって、子供たち・青年たちは恐怖とともに成長してきたのである。ここには、物理的=肉体的暴力と区別される心理的暴力の遍在性という問題が姿を現わしている。私の意見では、今日のイジメ経験の中核を形成するのは、先の深刻度Aランクの経験をほぼ同年齢集団の一割の範囲で生み出すほどの心理的暴力の存在である。戦後の少年非行の形態の歴史的推移を見れば、物理的=肉体的な顕在化した暴力行為の数は集団的暴力行為の数とともに顕著に減少しているが、このことといわば反比例して実は今日的な心理的暴力の水位は高まっているのではないだろうか。
イジメの心理的暴力の特徴点 私の見るところ、今日のイジメ経験を顕著に特徴づける心理的暴力の性格は次の諸点にある。
第一に、それは《1対他の全部》という圧倒的な孤立化を生みだす暴力として経験されるということ。いいかえれば、集団と集団が衝突するという局面はほぼ消滅しているのであり、対立の基軸は個と全体との対立として構成されるに至っており、そのことが圧倒的な恐怖とトラウマを生み出すのである。
この点は、先のⅠ節「世界における『死の飛び地』」で述べた暴力の様相が集団対集団の関係性を基礎においている点で大きく違う点である。明らかにこの点にこそ、現代日本の状況の特異性がある。とはいえ、この特異性はグローバル化した現代世界の構造的負性のもう一方の極の純粋化という問題意義を担っているのではないか? 「負け組」地帯の被抑圧の集団性は「勝ち組」地帯の被抑圧の極端な孤独性と非対称的な相関性をかたちづくってはいないか? この点で現代日本はまさに「先進的」ではないのか?
アーレントのいう「見捨てられているという孤独」と暴力への本質的な関連性はその独自形態のもとに、しかし、日増しに、現代日本の心理的な中核的問題としてせりあがってきているのではないか?
第二に、今日のイジメは一方では従来と同じ或る特定の人間によるボス支配の構造をとるイジメの形態を存続させているが、従来にない新形態をも出現させている。後者を特徴づけるのは、《誰でもがイジメのターゲットになる》という恐怖の遍在性と《突如自分が理由なく今日からイジメのターゲットに変身させられている》という、いわばカフカ的恐怖のもつ理解不可能性と応答不在性であり、またイジメられる者とイジメる者とのめまぐるしい交代である。この後者の形態においては、ボスは消滅し、権力と人格との共属性は消滅し、イジメは誰の手からも離れたいわば非人格的な自立化したシステムとして作動しだす。《グループ》はいわばイジメをつねに生理的に排出することによって、つまり、その成員を順繰りにイジメることによっておのれを《グループ》として維持する。《グループ》という《他者》によってすべての成員は監視され、それに同調することを誓わされるが、しかし、この《他者》は「誰でもない誰か」としての無人格化した集団的《他者》なのである。イジメの暴力は、そうした無人格化した《他者》への集団同調によって駆動される暴力として現れる。
ここにもまた、独自の形態のもとであるとはいえ、個人の非存在化=「敵」のもとへの無差別化という力学が作動しているのであり、この《個人の非存在化》という事態が現代日本の青少年のいわば実存的な空洞化と自信喪失を決定づけていることは、先に紹介したレポートがあげている生々しい悲痛の叫びに見られるとおりだ。
第三に、今日のイジメは、《圧倒的に劣等な異者》という架空の想像的存在(キモイ・キショイ・バイキン、等)を自分たちの集団意識のなかに捏造することをとおして、自分たちを同等的仲間集団へと構成する、きわめてフィクティヴでヴァーチャルな想像力的な暴力として駆動されてゆくものとして現れる。この点でもまたそれはその暴力性の核心をディス・コミュニケイションのもつ暴力性に置いている。
ここでもまたその独自の形態のもとで、われわれは暴力を本質的に特徴づける知覚変容の力学を見いだす。その変容はここでも双方的である。イジメられる者へ絶望的な孤独の刑を強いる、《圧倒的に劣等な異者》という架空の想像的存在の捏造が生みだす知覚変容は、彼からその《個人》性を剥奪することによって暴力を特徴づける《「先に手を出した者」と自己免責回路との関連性》を作動させることになるし、他方、イジメられた者はそのトラウマ的記憶の力によってつねに彼を他者恐怖に導く知覚変容のうちへと幽閉されてしまうのである。
紙数が尽きた。最後に一言。
イジメの暴力は《1対他の全部》という圧倒的な孤立化を生みだす暴力として経験される、といった。また、それはいわばカフカ的恐怖のもつ理解不可能性と応答不在性を伴う、といった。「私のどこがいけなかったの? 指摘してくれたら直すから、いって」と懇願しても、応答は返ってこない。ただ無視と無言の拒絶の壁が築かれるのである。だから、イジメられるという経験をこよなく特徴づけるのはまさしく「死の飛び地」に置かれたという絶望である。そして「死の飛び地」が「死の飛び地」であるのは、それが傍観の分厚い中間地帯によって囲まれているからである。
私は、たとえばイラクの人々が今生きている「死の飛び地」経験と現代日本のイジメられる者が生きている「死の飛び地」経験の本質的な相同性に注目し、いわばその非対称的な相関性に注目することが、この傍観の分厚い中間地帯に細いとはいえ、彼と我とをつなぐ、一筋の通路、或る連帯の感情の通路、他人事ではないという感情の通路を穿つことへとつながると考える。
――二冊の本を媒介者にして
一 きっかけ
「季論21」の編集部から二冊の本の書評をしないかと誘いがあった。なんなら、書評というより、書評に君が大阪について常々考えていることを重ねあわせるような評論ないしエッセーでもよいと。二冊の本というのは、昨年(二〇一一年)に出てどちらも評判になった酒井隆史『通天閣――新・日本資本主義発達史』(青土社)と井上律子『さいごの色町 飛田』(筑摩書房)だ。
僕は以前から「ブルース・シティ大阪」という視点から大阪を問題にする仕事をしたいものだと思っていた。それで渡りに船とばかりに引き受けた。というのも、この二冊の本がそれぞれテーマとする通天閣と飛田とは、僕の視点にとってもいわばそのシンボル性においてコア・スポットとなる場だからだ。たぶん、この二冊は僕の視点を僕自身にあらためて映し返すための鏡の役目を果たす媒介者となるにちがいない。そういう期待がたちどころに湧いた。「ブルース・シティ」という形容の言葉は「移民社会」と読み替えてもよい。あるいは「外部者社会」と。ブルースが、アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられた黒人たちがその自分のデラシネ性をアメリカという場で生きぬくための魂の武器として誕生した事情、これをもじって、ブルースと類似した魂の武器を誕生させないことには生き延びられない都市として大阪をまなざす。そういう意味を僕はこの「ブルース・シティ大阪」に込めた。
僕の世代に即してもう少し砕いていえば、一九六〇年代後期にアメリカの学生たちのフォーク運動が日本に伝播したとき、それは関西エリアでは――アメリカ・フォークのカバーが中心であった「東京フォーク」に対して――「関西フォーク」と呼ばれた独特の展開を示した。そのとき、「関西フォーク」は音楽的にも、だからまたそのスピリットにおいてもブルースに多大な親愛感を寄せることをとおして自分を形成した。そこでは関西の社会的政治的現実を反映するオリジナル歌詞が歌われ、同時にそのいわゆる「社会派」的な内容はブルース的なテイストに色濃く包まれたそれであった。ブルース的というのは、たとえ社会派的であろうと、けっして自分を社会正義の使徒として描き出すようには歌わないということであろう。個人を個人たらしめる孤独と、孤独が成り立つうえで必須な自己批評が、そしてまた悲壮感に酔いしれる英雄主義やナルシスティックな抒情主義への醒めた塩辛い拒絶と、この拒絶と一つになった自己諧謔の嗤う精神がそこに疼いていた。実際のところ「関西フォーク」がどこまでの達成を成し遂げ得たかは別にして、とにかくそこにはそういう要素がつねに疼いていたのであり、それがまた気取りを嫌い、単刀直入な会話を好み、嘘がない物言いを愛する関西弁のヴォーカルな力と一体であった[1]。僕にいわせれば、「関西フォーク」の誕生もまた「ブルース・シティ大阪」をコアにもつ関西の社会的現実の為せる業なのだ。
二 大阪をいかなる視点において問題化し全体化するか
――酒井隆史との対話
視点とは、或る対象を一個の総合的な有機化された全体として眼前に浮かび上がらすための視覚的な梃子のようなものだ。視点は、対象のなかに孕まれている特定の要素を眼前に引き出し前景化すると同時に、それら取り出された諸要素を生動的に関連し相互作用を演じ合っている諸要素として掴み直し、繋げる。いままでバラバラに断片というあり方しか取っていなかった諸要素が、視点を得るや、俄かに有機的に結合し、その有機的な関連こそが或る問題なり或るエネルギーなりをまさに一個の生命のように活きづかせてきたのだということが見えてくる。こういう認識の過程を指して「全体化」と呼ぶ哲学用語もある。視点を得るとは或る対象を或る独自な視角から全体化することである。
だが、大阪に長年住んでいるからといって大阪を「ブルース・シティ大阪」として全体化する視点をもつというわけではない。むしろ、長年住んでいることで、その視点をもつことがかえって難しくなるということがあるかもしれない。いや、実際ある。
ここで、いきなりだが、まず僕は『通天閣』の著者酒井の次の視点に満腔の賛意を与えたい。
酒井は第二章「王将――阪田三吉と『ディープサウス』の誕生」のなかで阪田三吉を描き出すにあたって北条秀司の提出した「王将」物語を批判しながら、まずこう書き出す。大阪という大都市が「東京以上に国内外の移民からなるモザイク都市であることと、それにもかかわらず、『土着性』による支配的な大阪についてのイメージによってその事態が意識から消されがちであることのギャップ」(同書二七一頁、傍点は引用者)、実はこれこそ問題である、と。一言でいうなら、大阪はつねに東京への対抗においていわゆる「浪花文化の大阪」として表象され、この「浪花文化」は東京よりはるかに古い歴史と洗練性と土着性をもつ商人文化として大阪人気質の根幹を形成し、それこそが大阪の文化的アイデンティティだと称揚されてきた。だが、そのような類型対置が覆い隠してしまう大事な問題が実はあるというのだ。
そして酒井は、この隠された問題の環を突く「おそらくこれまで大阪について書かれてきたもののなかでも際立って重要なもの」という絶賛に近い評価を栄哲平という無名の金属労働者に与えつつ、彼が書いた「我々の文化闘争――南大阪を民衆の文化闘争の砦に」と題された文章を紹介する。では、栄は何を問題提起したのか?
彼は「大阪の文化の中央性」という問題提起をおこなった。この「中央性」という概念は何か中央集権的志向性を感じさせるようで、僕には誤解を生みやすいと感じられる。だが、栄自身がこの概念でいいたいことは次のことだ。酒井から孫引きすればこうだ。大阪は「沖縄、奄美、九州、四国と西日本の各地から、農村を追われ、炭鉱を追われて、集団就職で、首切りによって、この大阪に来ざるを得なかった人間の集まり」、そういう人間たちが「最終的な拠点として、自らを賭けざるをえない所として形成してきた」都市、そういう意味での「移民社会」である(同書、二七二頁)。つまり、かかる意味での「中央性」こそが大阪という都市の特質だということだ。酒井は、この栄からの引用にかかわって、こうした「中央性」の不可欠なる構成要素として在日コリアンの存在を付け加えるべきはいうまでもないと、栄の議論を補っている。勿論のことである。
実に僕が「ブルース・シティ大阪」という言葉で指し示したかった視点もまたこのことなのだ。
そして、急いで僕は次のことを付け加えておきたい。
『通天閣』にしろ井上の『飛田』にしろ、最初僕はその詳細を極めようとする探偵的情熱に感心し、それを高く評価したいと思いながらも、或る危惧の念が自分のなかに次第に膨れ上がってくることを抑えがたかったのだ。その危惧の念とは、通天閣なり飛田なりのスポットを詳細を極めるやり方で徹底的に追究しようとする姿勢が、あまりに各々の対象スポットに問題記述を特化させることで、まさに栄的にいえば移民社会大阪の「文化の中央性」をむしろ見えなくさせる危険があるのではないか、という点にあった。
たとえば、『飛田』の場合でもそうであった。そこには確かにこう指摘されていた。飛田の娼婦には「四国や九州」(同書、一四二頁)あるいは「九州や沖縄」(同書、二〇七頁)から売られてきた女子が多かったこと、かつて西成の筆頭暴力団鬼頭組を瓦解させその後二千人の組員を擁する暴力団にのし上がった柳川組が当初はわずか八名の若者の愚連隊であり、そのリーダー柳川次郎は「九州・中津にいた十代の時在日の同胞が韓国人というだけで日本人の集団暴行を受けることに“憤激”し」愚連隊結成に至ったこと(同書、一三九~一四〇頁)、あるいは飛田の夜を賑やかす門付芸人の「法界屋」は「被差別部落の人たちの生業だったこと」や「飛田から一キロも離れていないところに、西浜や渡辺という被差別部落があった」(同書、一一八頁、なお大正期の西浜は全国最大の被差別部落であったと酒井は指摘している。『通天閣』、五一七頁)こと、等々、そこには栄の問題提起に呼応する事実が実にいろいろ書かれている。
しかし、それらが部分の断片化した事実としてではなく、「ブルース・シティ大阪」という視点のもとに全体化され、まさにこの全体の有機的関連性の独特な現象態としてこそ通天閣なり飛田なりが把握し直されるべきではないか、そう僕は感じたのだった。(この全体性は大阪の貧困度の次の突出性にいかんなく表現されてもいる。二〇一二年三月の時点で、大阪市は生活保護受給者が全国最多の市であり、人口に占める割合を示す保護率は全国平均のなんと三倍の五、七%であり、西成区に到っては住民の四人に一人が受給者なのである。)
この危惧が杞憂であったことはいまでは明白だが、しかし、この全体化された全景がまさに「大阪の中央性」としてどこまで既に描き出されたかといえば、まだその作業は緒に就いたばかりだといわねばならないのではないか? またこの点では、確かにいま見たように酒井はこの視点を把持しているとはいえ、必ずしも『通天閣』はそれを十全に描きだしているとはいい難い。否、かかる批評は不当かもしれない。移民社会たるブルース・シティ大阪の全景を提示することは、これからのいわばオッデセイ的課題であるから、『通天閣』はその確固たるシンボリックな船出だと評価されるべきなのかもしれない[2]
どのように大阪がブルース・シティであるか?
大阪を知らない読者のためにいささかの解説をおこなおう。
否、実は大阪に住んでいたって知らない人は知らない。居住とは一般にそういうものだ。居住するとは、ほとんどの場合自分を自分の「日常生活」圏の内にーー無意識化のプロセスを経ながらーー幽閉することに等しい。都市社会学が考察を集中するのは、この都市の各市民の「日常生活」圏が「自由なる市民たちの交流自由な無障壁的な透明なる市民社会」という虚偽幻想で自分をくるみながら、実はいかに階級的、階層的、職域的、性的、出身地域的、民族的、等々によって相互排他的に分断され、格差化され、交流遮断的構造のなかに相互に自閉化させられているかの問題であろう。
実にいまなお暗黙の公然たる買売春街である飛田は、昔は大門というたった一つの門をもつ高さ七メートルのコンクリート壁で囲まれ、外部の大阪市民社会と目に見える形で遮断されていたそうだ。しかしいうまでもないことだが、たとえ今日コンクリート壁がなくなったとしても、いまなお実質的には飛田は外部の大阪市民社会とのあいだにアンタッチャブル(不可触)という相互幽閉の関係性を形づくっている。井上の『飛田』はこの相互幽閉性を十年かけて打ち破ろうと苦心した女性ルポ作家の記録である。その苦心の末の彼女の結論はこうだ。「人に話を聞くのは難しい、特に、飛田では難しい。…(略)…『さわらんといて』『そっとしておいてほしんや』『うるさいんじゃ』それが飛田の人であり、飛田という町なのだ」(同書、あとがき)と。
通天閣は、それが創建された時点(一九一二年、明治末年・大正元年)から数十年は大阪のルナパークとして大阪市民社会のシンボル塔だったかもしれないが、おそらくその時ですら、人々はそのモダン性に或るいかがわしさを感じていたにちがいない。なにしろ、通天閣を包む新世界の裏口はそのまま飛田や、日本最大のスラム街釜ヶ崎、関西最大の被差別部落地域の象徴である鶴見橋や津守の世界、そこを抜けてすぐにぶつかる木津川をさらに渡れば、今度はそのまま沖縄・奄美出身者の密集地である大正区泉尾にまで繋がっていたからだ。そして新世界や飛田の造成がいかにヤクザ組織の暗躍によって織り上げられた事業であったかを酒井の『通天閣』は可能な限りの資料を渉猟する趣で描き出している。実にこの点で、同書の試みとは通天閣のシンボル性の二義性(浪花大阪と大阪ディープサウスとの)を抉り出し、その相互否定関係を解明することであるといいうる(同書、六六三、六六九頁)。
まず図Aを見てほしい。東京の環状線である山手線と大阪の中央環状線を同じ標尺のもとで重ねあわせてみた。時計廻りで、山手線の北の頂点(田端の少し手前)と最南の地点(大崎の少し手前)間の垂直的距離はおよそ一三、二キロだ。これを縦軸とし、東京駅を真西に進んで代々木駅の少し南に出る線を横軸にすれば、そのあいだの距離はほぼ六キロである。
他方、大阪の中央環状線の場合は、北の頂点(天満駅の手前)と最南端の地点(寺田町を過ぎたあたり)を結ぶ縦軸の距離は六、四キロほど。また、山手線での横軸にほぼ相当する線を鶴橋と大正とするなら、両駅間の距離はほぼ四、五キロである。僕は一度鶴橋から大正までを自転車で走ってみたが四〇分弱であった。ついでにいえば、両駅は「千日前通り」という大通りで横一文字に結ばれ、ちょうどその真ん中あたりが大阪南部の最大の盛り場である難波と日本橋、北に心斎橋、いわゆる「ミナミ」である。
両者を重ねあわせるとおおよそ東京の山手線区域は大阪の二倍(東京都区内約六一七平方キロ、大阪市約二二二平方キロ)といえよう。しかも、東京の場合この横軸をなす地帯は皇居から始まり日比谷公園・明治神宮・代々木公園・新宿公園と延々と接続してゆく大緑地公園地帯である。他方、大阪の場合は緑地といえる緑地はこの横軸地帯には全然ない。歌「大阪で生まれた女」にある。「振り返れば、そこは灰色の街」と。
さて、ここで図Bを見て欲しい。大阪の中央環状線の南半分は、鶴橋駅を起点に時計廻りで半円を描けばこうだ。鶴橋⇀桃谷⇀寺田町⇀天王寺⇀新今宮⇀今宮⇀芦原橋⇀大正。ちなみにいえば、鶴橋‐大正を三角形の底辺と考え天王寺をその頂点とするなら、この逆三角形の底辺と頂点とのあいだの距離はわずか二キロである。類似した三角形を東京駅‐代々木駅‐北品川駅の三点で設定すれば、底辺と頂点とのあいだは七、二キロで、いかに大阪のこの逆三角形地帯が小さく密集したエリアであるかがわかる。
実はこの逆三角形の地帯とそれに沿った外縁のエリアこそ、僕の「ブルース・シティー大阪」という視点を支えるコア・エリアなのだ。
鶴橋を起点に話を始めよう。JR中央環状線上の隣駅は桃谷、難波から発し鶴橋を通る近鉄線上の隣駅は今里である。この鶴橋‐今里‐桃谷を結ぶ三角形のエリアが一言でいえば在日コリアン(韓国・朝鮮人)が密集して住んでいるエリアとして名高い生野地域である。鶴橋駅に隣接する市場には小規模店舗がひしめき合うように軒を連ね、生鮮食品と衣料との問屋街を形づくっているが、そこを訪れた韓国人観光客は市場の造りと雰囲気が韓国とそっくりだと一様に驚く。その市場の「国際市場」と呼ばれる区画には韓国料理の食材を扱う店やチマ・チョゴリなどコリアンの伝統的な式服を扱う衣料店がひしめいている。そして、鶴橋と桃谷のあいだにあって環状線から少し東に外れた場所に、日本名では御幸森商店街と呼ばれるのだが、現在は「コリアン・タウン」という通称のほうが行き渡っている店のほとんどが在日コリアンの経営である商店街がある。その一方の端は平野川に接し橋が架かっているが、そのもう一つ北には「猪飼野新橋」という名の橋がかかっている。日曜日などは関西全域から韓国料理の食材の買い付けとコリアン・タウンの観光・遊歩を兼ねて人々が集まる。一般に町々の本通り商店街が寂れシャッター街に変わるという憂き目に会っているのが通例であるこの頃、日曜のコリアン・タウンは異色の活気を見せている。
生野の在日コリアン社会は、明治期の終り済州島と大阪とを直行で結ぶ汽船が開通し、生野を流れる平野川の改修工事に大量の朝鮮人の出稼ぎ労働者が済州島からやってきて、昔「猪飼野」と呼ばれていた今のコリアン・タウン周辺のエリアに定住するに至ったことより始まる。
さて桃谷の次は寺田町である。寺田町は在日とか部落とか日雇い労働者スラムとか買売春街とか、そうした特化したテーマを抱え込んでいるエリアではなく、様々な出自の人々が混在し穏和に暮らす庶民性に溢れた典型的な南大阪の下町として有名だ。そして逆三角形の頂点をなす天王寺が来る。天王寺駅前の大交差点を渡って西側に天王寺公園が広がりその端に動物園があり、道路一本隔てて新世界が始まる。いうまでもなく新世界の真ん中に通天閣が立つ。天王寺の次は新今宮。JR新今宮駅には難波と高野山を結ぶ南海高野線がクロスし、その南海線上の隣駅が萩之茶屋である。ごく大雑把にいって、この新今宮と萩之茶屋を結ぶ距離を一辺とした正方形のエリアが日本最大のスラム街釜ヶ崎である。そして、このエリアの東端に今池駅(路面電車の阪堺線)があり、それを越えて阪神高速松原線の高架下をくぐると飛田がある。
逆に、萩之茶屋を西に進んで花園町商店街を抜け鶴見橋交差点に出ると、その先は鶴見橋商店街の入り口だ。鶴見橋商店街は天神商店街ほどではないにしろとても長い。一直線に突き進んで出口に到るや道路を挟んで、その向こうは津守商店街の入り口である。津守から南海高野線の支線に乗ると次の駅が木津川でその次が芦原橋だ。芦原橋には大阪人権博物館(いまや橋下徹市長御補助金打ち切りで潰されようとしている)があるが、そのことはこの近辺が大阪最大、否、全国最大の被差別部落地区であることを暗示する。芦原橋駅周辺はこれが中央環状線の駅かと目を疑うほどに今は寂れている。商店街も飲み屋街もほとんどないといってよいほどだ。そして、木津川駅のすぐそばにある北津守で木津川を向こう岸に渡れば大正区であり、そこを少し西に歩けば泉尾地域である。泉尾は沖縄・奄美出身者が密集して居住してきたコア地域として名高い。
四 貧困者の混在
酒井の『通天閣』が、通天閣に隣接する恵須美町に拠点をおいた「借家人同盟」を率いた大正期アナキストの逸見直造に焦点を当て、膨大な第四章「無政府的新世界」を書きあげたのはさすがである。まさにそれは視点の問題だ。
生活費のなかで家賃が占める割合を考えれば、貧困と差別の問題はなによりもまず居住地の問題としてその姿を現すことは理の当然だ。格安の家賃で住める場所とは地理的ないし社会的に(両者はほとんど有機的に関連する)環境劣悪であるがゆえに地代が格安の場所に決まっている。たとえば酒井はこう報告している。第一次大戦後の日本での好景気は大阪への低賃金労働力の大量流入を引き起こし、これがたちまち住宅の絶対的不足という都市問題を引き起こすことになるが、次の局面で一九二一年(大正一〇)頃から安価な貸家新築の大ブームを巻き起こす。実にこの現象が集中的に生じた場所が僕のいう「ブルース・シティ」界隈なのである。だが、それは民衆にとっては粗悪であると同時に暴利的な家賃の新築貸家の押し付けにほかならなかった。民衆の抗議の当時の代表例は鶴橋町猪飼野の「千軒同盟」の家賃値下げ闘争である。逸見直造の「借家人同盟」はこうした闘争の援助者として出現する。
そこに視点を据えることは、酒井のいう、国家ならぬ「社会的なもの」の生成の論理を探ることにほかならない。当初「社会」という言葉は「社会主義」を連想させるという理由で政府から毛嫌いされたが、都市の抱える貧困問題を解決するにあたって、たんに経済的諸施策に還元できない諸々の「社会政策」の必要性が広汎に自覚されだし、否応なく政府にもこの言葉の認知と採用を迫る。そこにいわば回収と自立・対抗の接線が切り結びあう「社会的なもの」の問題場が誕生する。問題解決の「社会」的イニシャチブが結局国家へと回収されてしまうのか、国家からの自立という反権力的志向を強化し、住民自治(「部落自治」)の理念がはっきりと無政府社会主義的方向性を獲得するか、それが実は逸見らの「借家人同盟」の追求テーマであった。
酒井は、このイニシャチブの帰趨をめぐる問題で当時いかに「侠客」の役割がこのディープサウスエリアで重大であったかを強調しつつ[3]、国家認可の「社会政策」のラインを代表する「方面委員会」と、右翼大物コネクションを通じて結局は国家へと回収される「侠客」ラインと、「借家人同盟」のアナルコサンディカリズムとの「都市に埋め込まれた三つの調停機能」が、或る場合は互いに浸潤しまた或る場合は意は明確に対抗しつつ複雑な抗争劇を演じたことを読み解くことこそ、この「社会的なもの」の問題場がかかえる問題であることを明確にしている(同書、五一九~五二八頁)。
酒井によれば、「借家人同盟」の掲げた綱領的命題には次のサンジカリズム的一節があった。「しこうして、全借家人は来るべき新社会に於ける労働者の工場自治と同じく部落自治を養って置かねばならない」との(同書、四九二頁)。
他方、『飛田』の「あとがき」で井上はこう慨嘆している。同書を書き終わってつくづく思うのは「飛田とその周辺に巣食う、貧困の連鎖であり、自己防衛のための差別がまかり通っていることである」と。「自己防衛のための差別」とはそれぞれ出自を異にする貧困者が、自分たちを共通に抑圧する体制に対してその出自を越えて連帯するどころか、逆に「自分が“上”の位置にいるとの誇示」をしたいばかりに、より“下”に位置するように思える他者を差別する、あるいは差別することで自分の“下”を創ろうとすることである。「あいつは朝鮮や」「あいつは部落や」「あいつは(生活)保護をもらう奴はクズや」といった「耳を疑う」「幼稚な言動」がまかり通っているのが現実だと(同書、あとがき)[4]。
最近或る友人から聞いた話をしておこう。今里を抜けると大阪市は終り、行政区画は布施とか八尾を代表的な盛り場にする東大阪市に変わるが、東大阪市も昔から在日コリアン問題と同和問題に揺れ動いてきた市である。彼はそこに生まれ育った人間だが、彼によれば大阪の庶民世界の裏側では「八ちゃん、四ちゃん、三ちゃん」という隠語がよく使用されてきた。「八ちゃん」はヤクザを、「四ちゃん」は「四足」(=屠殺業と皮革業)から被差別部落民を、「三ちゃん」は「第三国人」(かつての第三等国民=被植民地民)から在日コリアンを意味し、ヤクザの構成員のおおむねは後二者からなるという認識を表す。
また奄美の徳之島出身者でありながら大阪の部落解放同盟の付属団体の事務局員をしている知人が僕にこういったことがあった。「なぜ徳之島の人間が解放同盟の専従か不思議に思うかもしれへんけど、低階層は結局住んでるところが同じになるんですわ。混ざって暮らしてるうちに友達にもなるし、そのうち、あんたやれへん?って話にもなりますわ」と。
貧困者は昔から、とにもかくにも家賃の格安の――それはほとんどの場合まず地理的環境において劣悪であった――土地にしか住めないのである。必然的にそこには貧困世帯の密集化が起きる。いかんともしがたい貧困は、それぞれ自分の集団的アイデンティティーを異にしていたはずの各貧困層を混在に、少なくとも隣接に導く。元々の出自の違いがどうしようもなく作りだす互いの根深い反目と、しかし、共存共生の貧民的生活的必要性とが、それこそ共生せざるを得なくなる。
一言でいうなら、井上の見た「自己防衛のための差別」と、逸見らの「借家同盟」の抱いた「部落自治」という希望とが共存共生しているのが「社会的なもの」の生成の磁場なのだ。
この視点からいえば、「八ちゃん、四ちゃん、三ちゃん」は差別の言葉ではあるが、その言葉には、差別という形をとりながらも、実は民衆世界の最重要の問題への直観的認識が孕まれているということになるかもしれない。互いの根深い反目と共存共生の生活的必然性との葛藤が、反目と差別というアイデンティティの持ち方(政治)を内部から掘り崩す作用力となってはたらき、その隘路をとおしてこそ「部落の自治」を促すより高次のアイデンティティ感情が生まれるにちがいないという希望、これはそれに賭けるしか手がないという意味で、なかば信仰に類する撤回不可能な希望だと。
五 再び視点の問題へと
視点とは問題対象の全体化の梃子であった。すると、必然的に次のことが問題となる。僕の言葉を使えばこうだ。「ブルース・シティ大阪」という客観的問題状況を全体化するということは、この問題状況の特殊性に一番リアルに対応する能力をもった主体をさまざまな諸主体のなかから選び出し、前景化し、その主体の特質と状況の特質とのあいだに生まれる主‐客の相互関係を有機的に把握する(=全体化する)認識作業に必然的に向わざるをえないと。
この観点からいえば、『通天閣』はそのような主‐客の全体化作業の執拗な試みであるといいうる。そこにいかなる主体(主役)を、誰を登場せしめ、その個人をどう了解し把捉するか、つまり物語るか、この点に酒井は実に才能をもっていると感心せざるをえない。第一章は小野一三郎、第二章は坂田三吉、第三章は川島雄三、第四章は逸見直造、その補論は宮武外骨というよりは吉弘茂義か、そして第五章は田中登ないし彼の映画作品「㊙色情めす市場」であろう。
ほとんど紙数が尽きかけているいま、僕は第四章の主役である逸見直造、彼への酒井の注目の仕方、つまり視点だけを取り上げておこう。ぼくはこう思う。酒井が逸見の社会運動家としての体質的「陽性」さに視点を当てたことは見事であると。
酒井によれば、その陽性さは逸見が「『存在と意識』の不一致をあら探しして、倫理的一貫性の側から攻撃するというこの社会ではよくみられる、ケチくさい道徳からはなから無縁であった」ことを示す。言い換えれば、「組織性の刷新、関係性の発展、戦術、理論の生産や創造に心を砕くよりも、近い立場の人間の『不一致』や『欠落』をするどくかぎとり、そこにあるかもしれない生産や創造をくじき、その非難や糾弾となるとひときわ活性化するたぐいの『陰性』の要求から、かれらを遠ざけたのである」(同書、四一五頁)。
まさにこの「陽性」への視点が酒井に次の諸点を鮮やかに浮かび上がらせることを可能にさせる。すなわち、アナ・ボル決裂以前の大正期アナルコサンディカリズムの日本化の営為において、大阪のディープ・サウス(僕のいうブルース・シティ)での逸見らの「借家人同盟」や「野武士組」の左翼活動が――大杉栄との密接なる連携を横軸に――いかんに全国において抜きん出ていたか、また、この大阪型アナルコ・サンディカリズムがフランスを中心とする当時のヨーロッパのアナキストやサンディカリストとの接触によってでなく、何よりもアメリカのIWW(世界産業労働者同盟)の活動家(「ウォブリーズ」と呼ばれた)の思想と行動様式に学ぶことによってこそ形成されたということ、そしてこの両者の繋がりの基底をなしたのは、まさにIWWが「移民社会」アメリカにおける移民労働者と非熟練労働者の立場を代表するものだったということのなかに、大阪ディープ・サウスの闘争的現実に深く棹さす逸見らが大いなる共感を抱いたという問題の関連であったこと、これらのことを前景化し全体化することを。
『通天閣』は「新・日本資本主義発達史」という副題をもつが、僕としては「新・日本社会主義運動発達史――その挫折と再発見」とでも名付けたくなる。国家権力を描くとkした社会主義運動は「社会」主義を全然実現できなかったどころか、逆に「国家」主義に成り果て、その結果民衆の信頼を失って瓦解してしまったという二〇世紀の結末の後を生きる今のわれわれにとって、そしてITグローバル新自由主義が産み出す世界恐慌的破局へと一歩一歩近づきつつあり、また新たな三大帝国主義の三つ巴の争闘に世界史の行く末を委ねつつある今日、われわれにとって資本主義のいわば「闇の兄弟」たる社会主義の思想と運動経験の一九世紀以来の発達史の根本的かつ大規模な見直しの作業は、われわれの陣容建て直しにとって不可欠な思想課題であろう。
この日本の地における作業再開において「ブルース・シティ大阪」が東京をはるかに上回るいかに特権的位置に立つか、それを酒井の『通天閣』は示唆してくれる。 あと一点、指摘だけしておきたい。『通天閣』第三章と第五章の酒井の映画論を媒介とするディープサウス(ブルース・シティ大阪)へのアプローチ、その全体化の試みは実に彼の才能を感じさせる。
『通天閣』と『飛田』は或る点で両極的である。前者はいわば第二次資料(文献、文学、映画)の徹底的な分析と読解から構築される。後者は、筆者の直の聞き書きが生み出す新たな第一次資料の提示である。この両極性は相互補完的役割を果たすであろうし、果たすべきである。酒井の手並みには感嘆するが、いつしかそれは知的手練への感嘆へと傾斜し、それが描き出す一種《華麗》なる知的物語に自足する危険を読者にもたらすかもしれない。他方、井上は聞き書きというものが原理的に抱え込む限界にぶつかり、遂にそこにーー読者を道連れにーー停止してしまうかもしれない危険をつねに抱える。まさしく「人に話を聞くのは難しい、特に、飛田では難しい」(前出)。聞き出せたことのあいだに横たわる《聞き出せなかったこと》という空白を埋めるのは知的想像力以外にはない。
想像力とリアライゼーション(実感と実現=現前化)はつねに葛藤を孕んだ相互補完性として手に手を携え進行する必要がある。書くことにおいても、読むことにおいても。両書はそのことをあらためて痛感させてくれる。いいかえれば、ブルース・シティ大阪に生きることのかけがえのない実感を、方法を。
『飛田』は現大阪市長橋下徹氏がかつて飛田新地料理組合の顧問弁護士をしていたことに触れている。彼の父親がヤクザ組員であり自殺をもって人生を閉じたことは今ではよく知られている。彼は彼自身の幼少年期の体験を通じても、また成人後の弁護士活動を通じても「ブルース・シティ大阪」の現実をよく知っている人間である。だが、よく知っているからといって、その者の心性がかつての逸見の「借家人組合」の追求する「部落自治」や「社会的なもの」へと向かうとは限らない。井上が「自己防衛のための差別」という問題を提示しその一端を指摘したように。彼をいかなる心性が打ち抜いているのか、この問題もいまや「ブルース・シティ大阪」問題の不可欠なる構成契機となった。
[1] たとえば、岡林信康の「山谷ブルース」の背景には釜ヶ崎があることは歴然としていたし、「チューリップのアップリケ」は滋賀の被差別部落を背景にしていた。フォーク・クルセイダースの「帰って来たヨッパライ」にもこうした地域のいわば「酔っ払い文化」の影がちらつくし、「イムジン河」は関西の強固な在日コリアン社会の存在あっての誕生であった。高田渡と加川良の逆説の韜晦に満ちた反英雄主義的な反戦テイスト、在日コリアン青年の結成した憂歌団(まさに「ブルース・バンド」を意味する)の存在、等々、挙げればきりがない。
[2] この観点から振り返った場合、『通天閣』第一章の「ジャンジャン町パサージュ論」の実質をなす興味深い小野十三郎論は、しかし、移民社会大阪の「中央性」への視点が小野のなかにどの程度の深さであったのかを問うという点でまだ徹底性を欠いていると映る。詩集『大阪』が描き出す津守を入り口とする葦原大工業地帯とは実のところ――僕の言葉を使えば――「ブルース・シティ大阪」全体と背中合わせになっているのであり、そこに住む移民的住人のデラシネ性と詩集『大阪』の極度の抽象性(「葦の地方のモチーフは……(略)……もはや土地の固有性をほぼ喪失してしまうまでに抽象度を高めつつ展開をみせていく」酒井、三八頁)とは相呼応しあいながら、大阪の伝統的な「浪花文化」主義的なアイデンティティの持ち方に自覚的に対抗しているものとして読解されねばならないかもしれないのだ。こういう点での問題の突き詰め方というものをまだ第一章は実現していなかったと思える。
[3] 井上は、かつて西成は「ヤクザのメッカ」で「七〇何軒の組があった」との証言を引き出しているし、ユニークな西成の街づくり運動機関誌「なび」の二〇一〇年12月号では、大阪市大の水内俊雄教授が次の興味深い「仮説」を披瀝している。すなわち、昨今の西成の困窮状況を生み出した原因の一端に、かつては「地縁・血縁を離れた人々を」吸収してきたヤクザ・テキヤ等の「インフォーマル・アンダーグランドなセーフティーネット」が昨今崩壊したことがあると(同誌2頁)。
[4] もっとも、かかる事態は「耳を疑う」ことでも「幼稚」なことではあるまい。むしろそれは、民衆底辺にわだかまる、やり場ばがないがゆえに吐け口を付狙うルサンチマン的激情の重さを示す。井上も述べていることではあるが。そして、この事情こそ、実は橋下徹人気の特殊大阪的事情の一端なのだ。
暴力といかにむきあうか
Ⅰ 二一世紀の黙示録的ヴィジョン
テロルという言葉が緋徊しだした。かつての、あのマルクスをもじって言えば、テロリズムという亡霊がわれわれの「市民社会」(一国の、そしてまたグローバリゼーションをとおして世界化された)の暗い縁から這い上がり、気がつけばすでにわれわれはそれに取り憑かれている。いつからだろう。二〇〇一年九月一一日のニューヨークの惨劇からだろうか。否、たぶんもう少し前から。
テロルの暴力は孤独な暴力である。一人、二人、三人、だが五人を超えることはあるまい。それは分隊すら構成しない。だが、いまやその効果は甚大なものとなった。一方の端には手に握られた小さなカッターナイフ、他方の端にはニューヨーク世界貿易センタービルの嘘のような瞬時の瓦解。この信じがたい非対称性。裏返しにされた非対称性(その後アメリカ合衆国がおこなったハイ・テク報復攻撃における彼我の戦死者の驚くべき非対称性!)。
この非対称性の両端を繋ぐものは勝ち誇った現代の巨大なテクノロジーである。テロリストに最大の武器を提供したのはこのテクノロジーである。また、それによって支えられもし、またそれを稼動可能にもする日々グローバル化してゆく現代資本主義のシステムである。それがテロリストそれ自身を生みだし、同時に彼らに信じがたい破壊のチャンスを与え、そうやって自らをブーメラン的に破壊する。巨大な恐竜が自らの重みで足を挫き自滅するように。そういう仕方の自滅のプロセスがこの世界のなかで開始されたのではないかという悪夢的予感に多くの入間かとらわれだした。そういうものとして黙示録的象徴性をそれは獲得した。
われわれ日本人はその予感をニューヨークでのテロに先立つあのオウム真理教の未完に終わった地下鉄サリンテロで得た。大都市に不可欠な地下鉄という交通テクノロジー装置が一瞬にして信じがたい大量殺人を可能にする処刑装置に暗転するはずであった。かつてのナチのように強制収容所という殺人工場を建設する必要はない。空を覆う爆撃機の大編隊をくりだす必要もない。それはすでに出来ているのであり、後はテロリストの意表を突く天オ的なアイデアの誕生と殉教者的決断を待つだけなのだ。しかもこの場合にはテロリストは古典的な貧困と剥き出しの戦争の暴力のなかからでなく、われわれの「平和」と「繁栄」のただなかから「透明な」眼差しをもつ信じがたい童顔をおのれの顔として現れた。そこにも一つの非対称性があった。若いオウム真理教徒の生きている空問や意識やそのいでたちが醸し出す非現実性の気配と彼らがおこなった犯罪結果のもつ現実性との、感覚の混乱を引き起こす非対称的な落差。
深刻な犯罪結果にはそれに釣り合うほどの現実感受性が、あるいは「物語=歴史」が対応しているとは思われなかった。テロ遂行者の譫言めいた宙に浮いた意識が深刻な犯罪結果それ自体に悪夢的非現実性の隈取りを与えた。
巨大な現代テクノロジーの自壊というこのわれわれの二一世紀の壁頭を飾る黙示録的ヴィジョンはもう一つのイメージも伴っている。それをわれわれに与えたのはかのチェルノブイリでの原発事故であった。「死の飛び地」というイメージがそれだ。あの事故によってチェルノブイリは死の飛び地に変わった。だが、そこが大量の放射能汚染によって確実な死を住民にもたらす土地だということがわかっていても住民はそこを放棄できない。そこを放棄し別な場所で生活することを彼らに可能にする経済的条件=システムはこの世界にはない。世界に蓄えられた巨大な富は彼らの救済のためにはけっして使用されない。富は「市民社会」のなかに囲われ、そこでだけ蕩尽される。人々は死の飛び地に囲われ癌に犯されながらもそこから出ることはできない。そしてわれわれは遠くからそれをテレビで見る。そこにも一つの悪夢性がある。目撃撃している以上そこにはすでに関係というものが誕生しているにもかかわらず、彼我の現実が極端に異なるのでわれわれは関係のうちにあっても現実感をもてないのだ。ここにも一つの極端な非対称性がある。暗所という欠如的現実性が紛れもなくわれわれの現実の本質的一側面をかたちづくっている。アフガニスタンで、パレスチナで、アフリカ、中南米、中近東、アジアのあちこちでさまざまな形の死の飛び地・暗所が形成される。
死の飛び地はアメリカ合衆国の内部にすらある。否、あの国はたんに外部を非対称性として構成する一方の極であるばかりか、その内部の編成が極端な非対称性によって織り上げられた稀有な国だ。あの国はつねに内部の暗所的なテロリスト的暴力で脅かされつづけている国だ。途絶えることのない学校での青少年による銃乱射事件の連鎖はそれを象徴するものだ。アメリカ社会は彼らが外部にたいして構成する非対称性をいわば内面化し、自分自身のなかにテロリスト的暴力の無数の暗所を囲っているのだ。
「市民社会」は難民という暗い縁をもっている。そして難民は死の飛び地をおのれの故郷とする人間たちである。彼らはそこを後にしてきた人間たちであり、そこには難民にすらなることができず死のなかに囲われた人間たちがいる。そしてテロリストはこの死の飛び地・暗所から誕生するのだ。ルサンチマンに燃え、復讐の殉教者となって。
こうしたヴィジョンが、おそらくわれわれの現実を理解する際の基本的な解釈図式となった。
この図式をもっとわれわれのもとに引き寄せよう。たとえば、〈いじめ〉だ。
〈いじめ〉とは何か。もちろん、さまざまな定義が、言い方が可能だ。ここではこう言ってみる。それは、ある一人の子どもから彼の〈生きる場〉を剥奪することである。そしてすぐさまこう付け加えよう。人間にとって他者とのコミュニケーション関係を系統的かつ全面的に剥奪されることは〈生きる場〉を剥奪されることなのだと。こう言ってもいい。〈いじめ〉とはある子どもを絶望的な孤独の刑に処することであると。
転校してきた彼は言葉遣いがおかしいといじめられ、また転校していった。彼女は学校にもう二度と現れなくなった。彼女は「自殺してやる!」と叫んで教室の窓から飛び降りようとした。すべてそこには〈場所〉という問題が姿を現している。こう言ってもいい。〈いじめ〉とは、その子どもの場所だけが教室のなかで「死の飛び地」に変わることであると。
すると、この視点は反転して、次の視点をも生み出すことになろう。教室とは、ある子どもの場所を「死の飛び地」に変える場所であると。つねにその可能性を宿している場所だと。あるいはもっと言って、それを必要としている〈場〉だと。そういう場所とはいかなる〈場〉なのか? 言い換えれば、いかなる関係性の磁場なのか? そしてこの場合、場所という観念には「死の飛び地」というイメージに内臓されている本質的な要素がすでにいわば反照的に浸透している。逃れることのできない場、閉じ込められている場というイメージが。ぼくと同様、実は君らもまた閉じ込められているのだ! と。〈場〉のなかに閉じ込められているのは、実は〈いじめ〉という「死の飛び地」に閉じ込められている〈いじめられている子ども〉ばかりではない。〈いじめている子ども〉も実は〈いじめ〉を構造的に必要とする教室という〈場〉に閉じ込められている。
たくさんのことを論じたいし、論じるべきだが、紙数の制約から、一つの問題文脈だけを指摘しておこう。それはルサンチマン(怨恨)的衝動の形成磁場としての教室という視点だ。問題の文脈を形成する連結の環だけをテーゼ風に――敢えて単純化の危険をおかしながら――提示しておこう。
暴力には二種類ある。あからさまな支配の優越的暴力と怨恨的暴力との二種類が。そのいずれとも対決することが必要だが、怨恨的暴力との対決は今日ある特殊なアクチュアリティーをもっている。〈いじめ〉の暴力、またいずれそれへの復讐として誕生させられるテロリスト的暴力、両者はいずれも怨恨的暴力である。怨恨は、ニーチェの洞察からマックス・シェーラーが学びとって強調したように、本質的に自分が蒙った屈辱にたいしてすぐさま反撃できない自己の無力性・劣等性の意識が育む、深く潜在化してゆく自家中毒的憎悪心である。それは自分に屈辱を与えた特定の対象にたいする復讐欲望の地平からいわば離陸して、むしろ自分を持続させるために次々と復讐対象を自分のために「発見」し「創造」するようになる。この発見=創造によるいわば自己、再生産回路こそが怨恨的暴力を特徴づける執拗性や陰湿性を説明するものであり、この点でそこにはつねにサド=マゾヒズム的快楽性の契機が、つまり自己享受という契機が突き刺さっている。
怨恨的人問の生誕の母胎をなすのは、あるいはその前身をなすのは〈他者〉に譲り渡された人間の群れである。人間が自己肯定に到達する上での二つの様式に関するルソーにおける真の「自己愛」と悪しき「自尊心」の区別がすでに明瞭に問題を描き出していたように、自己肯定の支柱をおのれの存在の奥底から湧き出してくる生命的自発性の充足のなかに見出す人間とは根本的に異なって、怨恨的人間へと至る人間は〈他者〉と自己との比較のなかで自己の優越性を確認することによってしか、もはや自己肯定の感情を調達することができなくなった人間、その意味で完全に他律化した人聞である。彼らは一方では〈他者〉への優越を確保すべく、不断に自分が劣等的存在へと降格されることに怯え、また事実屈辱的な敗北的経験を積み重ねながら、だからこそ劣等的他者を是が非でも自分のためにつくりださねばならない。だが他方では、ニーチェがすでに鋭く洞察していたように、この苛酷な「自尊心」競争での不安と敗北を回避すべく、自分を「同等者」の仲間集団に組み込むことによって自己を防衛しようともする。「同等者」は一人の〈異他存在〉をスケープゴートとすることによって自分たちを「同等者」として組織し、そこでは表面上「自尊心」競争は抑制され自己隠蔽化されるが、この互いに慎重に抑制され隠蔽化された怨恨的=「自尊心」的心性の攻撃性は異他存在にたいする集団的=共犯的暴力として実現されることでいわば一時的昇華を達成する。
ところで、右に述べた怨恨的暴力の生成回路の視点から教室を振りかえった場合、今日の教室(つまり〈学校的世界〉)とは、その空間を統べなう絶え間ない比較=競争の論理の跋扈によって不断に子どもたちに敗北と劣等性の自己経験を強い、彼らのなかに日々無力性の経験を蓄積し、かくて自ら怨恨的欲動の形成基盤へとなってゆく、そういう〈場〉ではないのか。ルソー的に言えば、子どもたちに真の意味での「自己愛」において自分を感得することを教え訓練する場ではなく、彼らをひたすらに「自尊心」の競争的心性の世界へと引き渡してしまう場なのだ。そしてこの情報知識資本主義のシステムのなかで、そうした磁場としての〈学校的世界〉とは、子どもたちにとってまずもってそこから逃れることのできない場、閉じ込められている場として立ち現れているのではないのか。
実は、子どもにとってもう一つの逃れることのできない場、閉じ込められている場としてわれわれは家庭を考察しなければならない。しかしその紙数はない。いずれにせよ、近代社会において子どもの自己成長(真の白尊、自愛、それを可能にする他者からの深い受容と承認、そしてそれらに媒介された他者への共感能力の獲得)の聖なる決定的な二つの〈場〉と見なされてきた〈家庭〉と〈教室〉が、そういう機能を託される場であるからこそ、同時に子どもにとってそこでこそ決定的な抑圧、屈辱、自己承認の剥奪を蒙る逃れることのできない場、閉じ込められている場ともなるという、この両義性との対決こそがわれわれの中心的問題であることは明らかである。ある側面からいえば、子どもは強迫的にこの二つの場にしがみつかねばならないようにさせられているのだ。
今日、多くの子どもと青年にとって〈他者〉とはまずもつて自分を比較の世界へと引きこんでしまう苦しい相手、自分を「自尊心」(ルソー的な意味での)の苦しい葛藤へと突き落とす存在なのであり、けっして深い受容と承認の基礎経験を自分に贈与してくれる存在ではない。だからまた自分がそれを贈与する存在でもない。
非対称性というテーマに問題を連結しよう。非対称性は、〈いじめ〉の本質をなす剥奪の関係性において、〈生きる場〉を剥奪される者の絶望を、剥奪する者はけっして意識することも感じることもないという点に現れる。一方の側には自殺にまで追いつめられかねない孤立無援の絶望感。だが他方には、遊戯に近い「なぶる」快楽の意識、それを罪責感から保全する〈共犯性〉の〈仲間〉的連帯感やサディスティックな祝祭感。この両端の非対称性こそ明らかに〈いじめ〉という関係性を特徴づけるものだ。この非対称性はまたいじめる側の自己免責の心理メカニズムとなって実現される。そこにはサルトルが暴力の論理を解明してゆく際につねに問題にした「他性」ないし「集列性」の論理が働く。
それは《他者の他者としての私》という白己把握の回路でもある。他者がそう出た以上その他者の他者としてのぼくはこうするほかなく、だからその他者の振舞いによってすでに自分の行動は決定されていたのだと、自分を了解し承認する論理、自分を自分の主体性から免責する論理、これである。
――ぼくは積極的に彼を憎かったわけではなかった。だからぼくが自分を彼を無視することへと決定したわけではない。皆がそう決めたからぼくは従ったまでだ。彼にはいじめられるだけの理由があったと聞く。ぼく自身が確かめたわけではないが、既に皆そう言っていた。そういう風聞だったのだし、ぼくはそう聞いた。だからぼくはそれにもとづいて判断するほかなかった。より正確に言えばぼくは三五番目だ。誰か知らないが最初にいじめることを決定した奴がいた。そいつがそうした以上自分もそうすることにしたもう一人がいた。そしてまたもう一人。そして最後の三五番目がぼくだ。だからぼくは追随者ではあっても積極的遂行者ではない。事実ぼくは彼を憎んでいなかった。ぼくには軽い気持ちしかなかった。もうそれだけで、ぼくが責任者ではないことは証明されている。そういう風にいじめる側の全員が考えるのだ。だが、この自己免責メカニズムの総体がまさにその総体性の故に彼を孤独の刑に処し、彼から〈生きる場〉を剥奪する逃げ場のない暴力として彼にのしかかる。
確かに、〈いじめ〉の経験は幾人かの人間には良心の負い目の経験を残す。ある学生は回顧してこう言う。見て見ぬ振りをした自分は彼をいじめた連中よりももっと卑劣で、ぼくこそ真の責任者かもしれない、と。この場合、この学生はいじめられていた彼とマルティン・ブーバー的に言えば「我と汝の応答」の関係性に入り込みつつあるのだ。レヴィナスが強調するように、呼びかけられたという経験はつねに個別性への指名として成立する。その彼の訴えるような眼差しは実際は特別にこの学生に向けられていたわけではなかったかもしれない。彼はすべての級友に向けて「ぼくは悲しい、ぼくは苦しい」と訴えていたのかもしれない。だが、人間は一つの訴えにたいして応答の関係に入るとき、それを「他の誰でもない、君に」と自分に差し向けられたものとして受け取る。応えるべく指名されているのはまさに君だという関係性の誕生がそこにはある。逆に言って、そう受け取ることが「応答」の関係性に入り込むということであり、そのとき初めて人間は自分を「応答する責任」を担った代替不可能な唯一者、自己責任を負った主体として引き受けることになる。この点から言えば、先の自己免責メカニズムとは、けっして相手とは「我ー汝」の互いの人間的個別性を指名しあう相圧性のなかには入り込まないことを暗黙の条件にしているのだ。振り返れば、ほんのささいな負徴――言葉遣いのおかしさとか、顔の痣とか、背が平均以下であるとか――が、しかしその当時は彼の全人格を覆い尽くす負徴となり、彼を「我と汝の応答」関係に導き入れる一切の可能性を事前に封殺するバリヤーとなる。 また逆に言って、そのことこそが自己免責メカニズムがスムースに作動するための心的条件なのだ。
Ⅲ 結びに代えて
シンボルとしての《想像的人間》あるいは《難民》
中心となる問題はこうだ。何らかの事情から他者との生きたコミュニケーションから全面的に遠ざけられた人間は、その自分の実存的苦境からの救済を求めて、多くの場合、ある一つの特有の性格をもった暴力への身投げを敢行する。その際彼ないし彼らが身投げする暴力とは、「絶対」ないし「超意味」という一種宗教的=形而上学的な超人間的な性格を帯びた原理ないし目標あるいは欲望、「経験と論証の彼方にあって」、つまり他者との論議、コミュニケーションを初めから必要としない地平、言い換えれば、先験的水準ですでにその真理性ないし正当性が証しだてられているとされる、それらによっていわば聖化された暴力として遂行される。この暴力の誕生の条件でもあり、かつまたその機能でもあるものは、かかる超経験的な原理を追求することによって「現実の非現実化」が暴力遂行者にとって生じることにある。
実際の現実はもはや現実の効力を失って、彼にかかわり、彼に応答を要求し、彼がそこに参加し身に引き受けるものではなくなる。逆に言えば、彼ないし彼らは自分に実存的苦境を押しつける現実を自分の意識にたいして非現実化するために、かかる原理を、つまり一個の非現実(想像、幻想)を、あたかも自己の生きる現実そのものを貫いている原理であるかのように自分に思い込ませ(現実化し)、そうやっていわば想像界におのれを幽閉することで、自分を抑圧する現実界への復讐をやり遂げようとするのだ。かかる欲望に取り憑かれた人間のあり方、それはサルトルの考察の文脈では〈想像的人聞〉という概念において、アーレントの文脈では「難民」の概念において間題設定される。
今日われわれの目を奪う事態と関連づけて言うならば、こう言うことができる。何故に今日中世に先祖帰りしたような「原理主義」的暴力が世界のここかしこで人々の心を捉え、かつまたわれわれを脅かすようになったのか。あるいはまた、自分を「透明な存在」と呼称する、かの神戸少年殺害事件の少年犯人の挑戦的な犯行声明文が、その犯行の類を見ない残虐性と特異性にもかかわらず、ある種の共感性をわれわれから引き出すことになったのは何故か。
こうした問いにたいする答を探るに際して重要な示唆というものがこの二人の哲学者のテロル論には含まれているのである。いましがた述べた二つの暴力は、両哲学者の観点からするなら明らかにテロルの暴力の特有性を帯びている。そしてその観点は、暴力が人問の内面を鷲掴みにする際の実存的な問題次元に目を注ぐものであるが故に、暴力が誕生する際の見逃し得ない一つの心理的=実存的媒介の働きを挟り出してくるものである。一言で言うならば、人間が自分を押し包む暴力を内面化し、この内面化という媒介をとおして、自分を新たな暴力の遂行者へと誕生させ、他者と世界に向かって内面化した暴力を再外部化するという過程の問題構造が注視されねばならない。二人の哲学者の観点はそこへと目を注ぐ先駆性をもっている。
サルトル的に言うならこうだ。暴力を内面化した人間はおのれを〈想像的人間〉へと変換することをとおして暴力の遂行者へと生まれ変わるのだ、と。サルトルの〈想像的人間〉はすべていわばその前史において他者からの全面的な相互性の拒絶をおのれのトラウマとしなければならなかった人間として登場する。お前は「余計者」であり、われわれとは相容れないわれわれの「絶対他者」、〈彼のうちに我を見出し、我のうちに彼を見出す〉という人間的相互性=同胞性のまったき外部存在、異他存在だと見なされる仕打ち、それをなんらかの事情から深く身に蒙らざるを得なかった人聞、それ故にその深い孤独感によって自分を尋常ならざる「存在欠如」感において生きることを運命づけられた人間、だからまた逆説的にも、この欠如感を埋め合わせする何かを得ようとして「存在欲望」――自分を一分も隙間のないある絶対的な充実感において感じ取りたいとする欲望――によって呪縛されてしまった人聞、そして自分は現実界から手酷く拒絶された存在であるというその自己意識からして、その「存在欲望」の成就を現実界を去って想像界に居を構える実存投企=様式によってこそ果たそうとする人間、それがサルトルの問題とする〈想像的人間〉だ。
アーレントの視点においては問題は、「見捨てられた存在」となることによって必然的に「無世界化」した存在にならざるをえない、完全にアトム化された「大衆」あるいは「難民」の出現という固有に二〇世紀的な社会的事態との関係で追求される。彼女の洞察点は次の点にある。他者との生きいきとしたコミュニケーション関係から「見捨てられる」ことはその人間の生きる世界に「無世界性」という様態を与えるのだと。彼女において「難民」とはこうした無世界化をおのれの世界経験とする人問類型へのシンボル的名称である。『我と汝』の著者マルティン・ブーバにこういう需葉がある。「汝と関係をむすぶものは、汝と『現実をともにするものである。たんに自分のうちにはなく、さりとて、自分の外にもない『現実』を汝と共にわかつのである。まことに現実とは、自分だけで所有することができないもの――かならず誰かと共にわかち合わなければならないもの――を指している。なんであれ、相ともにわかち持たないところには、『現実』は見出せない。自分ひとりでものを所有するところに、現実は成就しない。その反対に、汝とのまじわりが、直接的になればなるほど、我と汝がわかち持つ現実は、いよいよゆたかになってゆくのである」(『我と汝・対話』)。
「難民」の蒙る無世界化とはちょうどこれの反対の事態をいうものだ。世界あるいは現実がそういうものとして生きいきとその人問に「現存化」するためには、それを分かち合い、共に語り、名づける、「汝とのまじわり」がそこになければならない。逆に言えば、そのまじわりの喪失は世界がその人間の前で次々と非現存化すること、つまり「無世界化」することだ。アーレントは全体主義が大衆の欲求を捉えた背景には大衆の「難民」化、それによる彼らの実存様式の無世界化という事態があると考える。つまり「難民」とは、この「無世界化しという実存的苦境を脱出しようと、いわばそれを心理的に補償する原理主義的な〈世界〉像、「経験と論証の彼方にあって」世界の出来事と自分の存在意味を絶対的に説明しきる「超意昧」によって統べなわれた〈世界〉像、それ自体現実世界の「フィクティヴ化」にほかならない原理主義的世界態度へと身投げする、現代人の象徴である。
われわれ日本人はすでにこの「難民」的類型を最近経験した。オウム真理教徒はまさしくそれであろう。本稿はもうここで終わらなくてはならない。最後に一言だけ言いたい。二人の哲学者の生涯を振り返りながらこう考える。暴力について考え続けることは、その強固な持続は、人問のコミュニケーションの可能性への信仰告白をすることに等しい、と。この可能性、この希望を守るためにわれわれは暴力について考え続けなければならないのだ。
(1)マックス・シェーラー、『道徳の建設におけるルサンティマン』参照