目次

    

   第一部    想像的人間をめぐるサルトルとニーチェとの対決 

第一章 想像的人間という主題――三島由紀夫を手がかりに

第二章 実存的精神分析と『存在と無』

第三章 先行者ニーチェ 

第二部    相互性のモラル」か「力のモラル」か

第一章    サルトルの「存在欲望」概念とニーチェの「力への意志」

第二章    「根源的一者」の形而上学と《死への欲動》としての「力への意志」

第三章     サルトルの暴力論の源泉としてのニーチェ

第四章     「相互性のモラル」か「力のモラル」か 

第三部 母なるものをめぐって 

  補論T 後期サルトルの両義性はいかに読まれるべきか? ――ベルナール=アンリ・レヴィ批判

    補論U 邦訳『家の馬鹿息子』3におけるニーチェ問題
         ――フローベールの「否定的無限」概念に寄せて
 

   あとがき

 

  あとがき

 振りかえれば、僕がサルトルを論じる自分の最初の本『<受難した子供>の眼差しとサルトル』(御茶の水書房)を書き、出版したのは一九九六年の暮であった。それはまた僕が書いた最初の本格的な専門的な哲学研究書であった。大学院に進学し、研究者の途を志してから二十数年がたっていた。

もともとは、僕はマルクスとヘーゲルとのあいだに横たわる思想の関連を考察することに大きな関心を抱いていた。大学院の修士論文で取り組んだのはヘーゲルの『法の哲学』の研究であったが、そこに展開されたヘーゲルの社会哲学的思惟がどのように若きマルクスに継承され、また批判されたかを考察することに本当の重点があった。博士課程に進み、アカデミックなキャリアを積もうと次に僕は学会誌にフィヒテに関する論文を書いた。その頃、僕はドイツ観念論の専門研究者の途を辿るかのように周りには映っていたにちがいない。事実最初は自分自身そう考えていた。

 僕が大学に入学したのは一九六八年である。僕に哲学研究の出発点を与えたのは明らかにあの学生争乱の時代であった。マルクスをより深く理解するために、自分はドイツ観念論の系譜をマルクスに繋げる形で辿り直そうと意気込んでいたのだ。いいかえれば実は僕にはまだ《革命》の希望がとり憑いていたのだ。

 だが、僕が長い修業時代の末に最初に書き上げ出版した哲学研究書は前述の本であった。マルクスでもなく、ヘーゲルでもなく、フィヒテでもなく。しかもその頃サルトルはほとんど「死せる犬」に等しい扱いを受けていた。或る大手出版社の企画した現代思想家シリーズでは対象から外されていたほどだ。また、僕はいわゆる学会における分類ではドイツ思想圏を専門領域とする研究者に属していた。僕の周囲のアカデミーに属す人々にとって、サルトルは僕のアマチュア的関心が向かう片手間の対象であるにしても、所詮は専門的関心の外にあると映っていたはずだ。事実、それまでドイツ語しかやらなかった僕はサルトルを読み出してから、彼を読むために初めてフランス語の独学に向かった。

フランス語を読むことすらろくにできず、仏文なりフランス哲学なりの学会にも属さず、著名なサルトル研究者の知己ももたず、そもそも専門を違え、もとよりサルトルについて修士論文を書いたわけでもなく、その時に至るまで一度もサルトルについて論文らしき文書も書いたことのない人間がどうして彼の専門研究者といえよう!

 だから、僕のアマチュア主義はこの最初の本の執筆によって確立したといってよい。「めくら蛇に怖じず」の居直りなくしてそれを書くことは出来なかった。また世間の関心の有無は問題ではなかった。自分のなかの必然性の有無だけが問題であった。だから、この本を書き上げることは同時に自分をアマチュア主義者として確立することであった。それ以降、僕は何事に関してもつねに自分をアマチュアであるとみなしている。

 この最初の僕の哲学書にしてまた最初のサルトルについての本を、僕はそのときはもう故人となっていた学生時代からの友人のNに捧げている。扉頁の裏には「Nに」とだけ小さく記されている。僕はこのNへの追憶を軸にサルトルへの僕のアプローチを序章に記した。なぜなら、僕に《受難した子供》というテーマをいわば遺贈してくれたのはNだったからだ。また、この最初の本を僕は「ぼく」という主語をもって書いた。その理由についてはその序章の終わり近くこう書いた。「ぼくはこのぼくという主観性のバイヤスをもってサルトルにぶちあたる以外に彼の思索的宇宙の全体性を問う方法をもたない」と。またこうも書いた。そうしたスタイルを取ることで、「ぼくはサルトルをとおして同時にぼく自身を提示したかったのだ」と。その「ぼく自身」の中核にはNに《受難した子供》というテーマを遺贈された僕がいた。いいかえれば、一つの友情の記憶が置かれていた。『聖ジュネ』は圧倒的だった。その僕の記憶に真正面から打ちかかってくる哲学者はサルトルだったのだ。彼以外に誰がいただろう!

 本書『サルトルの誕生――ニーチェの継承者にして対決者』において二つのことを僕は復活させた。「僕」という主語をもって語るということと《受難した子供》というテーマ、この二つを。ニーチェもまた《受難した子供》であった。『ツァラトゥストラ』は《受難した子供》たるニーチェの悲痛な叫びに満ちている。サルトルはそれを読み取り、彼の『聖ジュネ』を書いた。――この推測が立ったとき、僕は本書の執筆に突進した。その執筆において、主語は「僕」以外ではありえなかった。

 本書と最初の本とのあいだには、二〇〇四年に出版した『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』(御茶の水書房)が挿しはさまっている。僕たちの世代は、《革命》の希望――振り返れば、たとえ児戯のごときものでしかなかったにせよ――からその青年期を出発させ、まるまる四〇年ほどかけて、つまり二〇世紀後半を生きることによって、この希望の世界大の惨憺たる崩壊とその不可能性の想いを身に刻んだ。戦争という暴力中の暴力を身を挺して生きねばならなかった親の世代から見れば、僕たちの言辞なぞいまもって児戯に類することであろうが、とにかく僕たちは、否、少なくとも僕は僕の仕方で、《暴力》という問題を二つの局面を貫く形で思考の中心的主題の一つに据えたのだ。まず《革命》の希望が託されたものとして、そして次に《革命》の希望が腐食し自壊し潰え去る原動力として。いま僕は思っている。おそらく現在のわれわれは、《暴力》という問題を、《革命》の不可能性というペシミズムの下に自分たちがじわじわと奈落へと引きずり落とされてゆく人間史の最後の腐食過程として経験しているにちがいない、と。

 いまにして思えば、僕にとってNの死はこうした成り行きの先駆けであった。そして彼が先駆けとなりえたのは、彼のもとでは社会的な性格の暴力の問題と個人史的な実存的性格を帯びた暴力の問題が解きほぐし難く絡み合い、その絡み合いが蛇が自分の尾を飲み込む円環をなすウロボロス的結合となり、彼の悲鳴となってのたうっていたからだ。

 本書を読んでいただければすぐに次のことをわかっていただけよう。《受難した子供》というテーマはそのまま《想像的人間》というテーマへと展開し、そして同時にそれは《暴力》というテーマと切離しがたい絆を結ぶということが。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』において次兄イワンが末弟アリョーシャに子供の不条理なる受難の幾多の物語を神への異議申し立ての証拠として差し出すとき、われわれは卒然と理解する。子供の受難においてこそ人間界に満ち溢れている暴力の残酷な本質が魂を抉るその実存的な鋭さにおいて剥き出しになるということを。

 既に僕はNについて書いた先の序章に「暴力の肖像――序章にかえて」というタイトルを与えていた。『<受難した子供>の眼差しとサルトル』は今度の僕の本の土台をほとんど準備しているといってよい。何よりもまずそれは『聖ジュネ』の読解に身を捧げるものであり、同時に、サルトルの思考を暴力論という視点から一貫して読み解こうと試みたものであった。この時以来、《想像的人間》と《暴力》、この二つの事柄の切り離し難い関連性こそが僕のつねに変わることなきテーマとなった。

しかし、この本はニーチェという問題の環に関してはほとんど認識を欠いたままであった。既にそこにはサルトルの『道徳論手帳』における「力のモラルの諸原理」節に対する僕の関心が披歴されてはいるが、それがニーチェに対するサルトルの批判の所産だという理解はまだ全く成立していない。サルトルを《想像的人間》と《暴力》との一体的絆という視点から内面的かつ総体的に理解しようとする僕の試みを駆動するシンボル・モーターとなったものはニーチェではなかった。タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』の少年イヴァンがそれであった。また確かに既に僕は《受難した子供》というテーマにドストエフスキーを直結させてはいる。この本の最終部となった第V部は「ドストエフスキーにおける<受難した子供>の視線――ベンヤミンにも寄せて」というものだ。しかし、そこにもニーチェは登場することはない。ニーチェがドストエフスキーを「私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。すなわち、彼は、スタンダールを発見したときにすらはるかにまさって、私の生涯の最も美しい幸運に属する」とまで称賛したことなど、まだ僕には知る由もなかった。

 だが、『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』になるとニーチェは顔を覗かせ始める。第三章「暴力論としての『弁証法的理性批判』」のなかに「投射的他者の創出――ニーチェに寄せて」という節が書かれる。確かにそこではサルトルの暴力論の基軸となる「他性」の論理――暴力の自己表象を貫く――とニーチェの『道徳の系譜』が提示したルサンチマン型人間の自己表象論理との類似性が既にテーマとはなっている。とはいえ考察はわずか三頁の範囲にとどまっている。また「力のモラルの諸原理」の体現する思想圏がニーチェに関連しているとの見当もまた披歴されてはいる。だが、言及してみせたというだけだ。さらに、サルトルとバタイユとの対決関係に関するかなり長い考察(終章三「バタイユとの対決」)が展開されているが、それにもかかわらず、そこにニーチェの名前が出ることはない。

 とはいえ、既にこの頃実は僕の関心は急速にニーチェに向かっていたのだ。二〇〇五年に僕は『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』(晃洋書房)を出版した。そこでのニーチェ読解を導く方法は、同書のサブタイトルが示すように、僕が理解し摂取したサルトルの「実存的精神分析」の視点であった。その視点からニーチェを読む、これが同書のコンセプトであった。そして僕は、このニーチェ研究を土台として今度は三島由紀夫の研究をおこない、二〇一〇年に『三島由紀夫におけるニーチェ――サルトル実存的精神分析の視点から』(思潮社)を出版した。

僕のなかにニーチェとサルトルとの関係を全面的に分析したいという強い欲望が誕生したのはこの二つの著作の執筆を通じてである。その欲望の爆弾のど真ん中にそれを挑発し、火を投ずる焔としてレヴィの『サルトルの世紀』の翻訳が飛び込んできた。初期サルトルを「ニーチェ主義者」と定義する彼の大著が。

 僕は自分の作業仮説を立てた。「ニーチェ主義者であった若きサルトルはまだサルトルにはなっていない。サルトルがサルトルとなったとき、既にサルトルはニーチェへの対決者となっており、対決者という継承者となった」という。そして決意した。この作業仮説を視点として、これまで自分がサルトルについて考えてきたことの全てを再考し、新発見を付け加え、再構成しようと。

 見るまに、《受難した子供》と《想像的人間》とを繋ぐ問題系がニーチェの『悲劇の誕生』へと繋がり、『ツァラトゥストラ』に繋がった。『悲劇の誕生』‐『想像力の問題』‐『存在と無』‐『聖ジュネ』‐『家の馬鹿息子』が一直線に繋がった。既に『弁証法的理性批判』と『道徳の系譜』は繋がってはいたが、その関連が「暴力の哲学者」たるニーチェの思想の全域に投網となって投げられ、その視野の拡大のさなかニーチェの「力への意志」の情念(パッシオン)こそはサルトルの「存在欲望」の現象学の誕生地ではないかとの直観が閃いた。その直観は『存在と無』を再び「自我の超越」や「情動論粗描」に繋げ直す梃子ともなった。『存在と無』の提唱する「存在のモラル」ならぬ「実存のモラル」はそもそもニーチェからの決別のモラルであり、その決別こそが哲学者サルトルの誕生であり、その起源は既に「自我の超越」や「情動論粗描」に置かれているとの直観が湧いた。そして、『道徳の系譜』と『弁証法的理性批判』とを結ぶ問題系には、「実存のモラル」から「相互性のモラル」へのサルトルの思索の発展過程が合わせ鏡のように対抗的に貼りあわされているとの。僕は掴んだ。《母》の不在はフローベールのみならずニーチェをも貫いており、他方、サルトルは《母》の発見をとおして彼の「相互性のモラル」をいっそう打ち固めたということを。また知った。こうした問題の全域にかかわって僕のなかのドストエフスキーがニーチェに繋がったことを。

 

 マルクスが退場するやニーチェが登場する。

 《革命》の希望が潰え、《革命》の不可能性の意識が僕たちの自己意識の暗き黒い芯となる時代、僕はニーチェこそを自分の対決者として選ぶ。自分が試される最も困難で深い思索の場として。対決が対話であり、対話が対決であるような場として。相手とのそれが同時に自己とのそれであり、その逆である場として。対決が同時に自己の内なる矛盾の開陳であり、内なる矛盾が己に迫る「あれかこれか」の選択の決断が対決への進出であるような、そうした場として。

ここでもまたサルトルは僕の最大なる支柱であり参照軸だ。一個の模範なのだ。思索者たることの。

 既に書いた。『ツァラトゥストラ』は《受難した子供》たるニーチェの悲痛な叫びに満ちている。このことを確信したとき、僕にはあのNの追憶が戻ってきたのだ。サルトルとともに。

 かくて僕はサルトルについての第三作となる本書を書いた。

 

 末筆ながら、この僕の本の出版を引き受けてくれた藤原書店の藤原良雄社長に感謝申し上げたい。
 藤原書店
 
2012年 12月
       368頁 4410円
















































































        サルトルの誕生
   
             
ニーチェの継承者にして対決者

    












































































































































































    














        





     村上春樹の哲学ワールド――ニーチェ的長編四部作を読む
















































































































































































































































































































































































































































      年代順

『言葉さえ見つけることができれば』
『空想哲学スクール』
『<受難した子供の眼差し>とサルトル』
『ヴィジョンは<世界>をつれて』
『経験の危機を生きる』
『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』
『ケーテ・コルヴィッツ――死・愛・共苦』
『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』
『いのちを生きる いのちと遊ぶ』
『創造の生へ』
『根の国へ』
『三島由紀夫におけるニーチェ――サルトル実存的精神分析の視点から』
『村上春樹の哲学ワールド――ニーチェ的長編四部作を読む』

『サルトルの誕生――ニーチェの継承者いして対決者』

   
2013年以降わたしという書庫U

『奄美八月踊り唄の宇宙』(富島甫との共著)
『大地と十字架――探偵Lのニーチェ調書』
『唄者 武下和平のシマ唄語り』(武下和平との共著)
『ソング論――ブンとジジの現代カルチャー探究』
海風社 2008年10月       309頁 1900円
         根の国へ――秀三の奄美語り
思潮社 2010年2月
     390頁 3800円
    三島由紀夫におけるニーチェ
       ――サルトル実存的精神分析を視点として
はるか書房 2011年4月
         236頁 1900円
       
           
           

 


 わたしという書庫――著作紹介
トップページへ戻る
 あとがき

 かってもっと若かった頃、今から一五年前、僕は或る文章のなかにこう書いた。

 奄美はぼくの家族の本籍地であった。だが、ぼくがそこで生まれたわけではない。父が生まれたのだ。しかし、その父ですら物心つくかつかぬかの頃朝鮮に一家で渡っていったのだから、このぼくの本籍地はぼくにとってはまるで夢の記憶のような土地なのだった。祖母、そして父の兄弟のなかではただひとり奄美と今も深い交渉をもっている父の弟である叔父がごく稀な出会いのなかでぼくに語ってくれた話だけが、ぼくと奄美をつなぐものであった。
 とはいえ、ぼくは昔からひそかに自分の本籍地が奄美であることを自慢してもいたのだ。子どもじみた自慢から。あの南の果てからぼくの父たちはやって来たのだと考えることは、もうそれだけでぼくに特別な血を、気性を、約束してくれるようであった。ぼくはこの日本に自分がけっして折れ合ってしまわないことを願い、それを保証してくれるものとして自分の血に異人の血が混じっていることを望んだが、ちょうどそれに代わるものとしてぼくの書類のうえだけのこの本籍地を空想した1。

 人生は愉快だ。
 この一節が一つの予言であったことが立証されることになったのだから。
 「夢の記憶のような土地」だったはずの奄美が今や現実の土地に変わった。「ぼくと奄美をつなぐもの」は祖母や叔父の遠い記憶のなかにしまわれた思い出の断片ではなく、今それは生身の現実に生きている僕の親しき人々の存在となった。僕が遊びにいくことができ、酒を酌み交わし、時として人生を打ち明けあい、笑いあい、議論を交わし、援助を求め、また援助を供し、或る場合には志を一つに共通の目的を担う、そういった互いの懐に入り込んでゆく僕と奄美で友人となった僕の大切な人々との生きた絆である。
 その筆頭はもちろん秀三さんである。本書にたびたび登場する里力さんや義永秀親さんを始めとして僕が話をうかがい聞き書きを重ねた方々、彼らの存在こそが僕と奄美をつなぐものである。僕に奄美との絆の奇しき復活をもたらしたのは彼らである。
 僕には予感があったと言うべきだろうか? 冒頭の一節を書いたときに、こんな形で奄美との絆の再生が起きることについて。
 書き捨てられたはずの一節が予言として僕のもとに立ち戻ってきた。
 父が亡くなり、ついで祖母が、また叔父が亡くなり、奄美と自分との絆もこれで絶えたと思うようになってもう十年を超える月日がたったはずだった。ところが、去年(二〇〇七年)の三月にいくつかのきっかけがあり、絶えたはずの絆が突然復活した。しかもその復活は本書をもたらすほどの復活であった。まるでこの復活を虎視眈々と狙っていたように、それは復活した。
 僕は三月、六月と奄美瀬戸内に行き、そこで秀三さんに出会い、彼を頼って、八月と九月は古仁屋にアパートを借りて住んだ。そこで聞き、議論し、考え、読んだことを疾走するように書きつらね、書き込んだ。今年の四月から五月にかけての十日間瀬戸内に最終取材に赴き、さらに六月に短期間だがまた赴いた。今度は、この集中的な奄美との取り組みが僕と奄美のあいだに次に生み出すこととなった或る企ての実現に向けての最初の一歩を歩むためのものであった。
 そのようにして本書はこの奇しき復活の証言である。だからまた、これから始まる僕と奄美のいよいよ深まりゆく絆の最初の提示でもある。この絆の最初に置かれた、本で言えば「処女作」である。どこかで聞いたことがある。作家は彼の処女作に向かって成熟していくのだ、と。処女作にはすべての種が既に孕まれているのだ、と。僕はこの本が僕にとってそういう意味の処女作であることを願う。ここに書き込んだすべてのことに向かって、僕はこれから奄美と僕との絆を深めてゆきたい。
 本書に登場したすべての人々に感謝を捧げる。
 僕は本書をこう書き出した。「彼のことはただ秀三さんとだけ呼んでおきたい。それが僕の呼び方だからだ」と。
 僕が最大の感謝を捧げる彼に関しては、再びこの言葉を繰り返す。
 
 二〇〇八年初夏


            注1 清眞人『空想哲学スクール』、汐文社、一九九三年、二七六頁







 目次

 第一章 口承の文化
 第二章 根源からの文化、すなわち性
 第三章 相撲と神
 第四章 掛け合いの魂――シマ唄の世界
 第五章 マジアニ伝説
 第六章 祖先からの呼びかけ――里力さんの宇宙
 第七章 小学校の記憶
 第八章 出島・留島・帰島
 補
 あとがき
 自作へのコメント
 
 2007年のたぶん二月ごろ近畿大学日本文化研究所の宴会があり、たまたま近大の有力職員であったが今は退職している義永忠孝さんと隣り合った。お互い初対面であったが、知るには知ってはいた。互いが奄美大島出身者であるということは。(正確にいうと、僕は父方の祖父母が奄美出身者であった。義永さんは15のとき奄美を出て大阪に来た)。話が弾んで、その席で、三月に奄美の古仁屋で近大の相撲部の春合宿があるが、ちゃんこ鍋を食いに来ないかという話が彼からあった。即、僕は行くことを決め、三月に彼と古仁屋に行き、そこで彼の兄の秀三さんとも知り合った。
 彼との出会いがこの本を産みだした。僕はこの本の書き出しにこう書いた。「彼のことはただ秀三さんとだけ呼んでおきたい。それが僕の呼び方だからだ。…略…彼は僕のガイドだ。奄美の魂への」と。
 僕の奄美訪問はそのときが三回目であった。
 だが、すべてはこの三月の奄美訪問から始まったといってよい。同年の六月に再び古仁屋に行き、そのとき心を決めた。大学が夏休みに入ったら、すぐさま古仁屋に行き、夏休みの終わりまで、ほぼ二か月近く奄美で暮らしてみようと。賃貸アパートを扱っている不動産屋や周旋屋の幾軒かの電話番号を控えて、戻った。こうして奄美と僕の絆が再開した事情についてはこの本の「あとがき」に触れてある。
 僕は俄然日本民俗学の勉強に入った。夏の奄美暮らしが終わってから、ますます僕の民俗学の勉強は拍車がかかった。
 同時に、それに並行して、奄美で出会った現在の奄美を生きている人々の息遣いを書きたいと思った。いわゆる民俗学研究の本を僕が書くのは論外であった。なにしろ、ぼくはその分野ではアマチュアに過ぎないし、二番煎じどころか、せいぜい四番煎じが落ちだろう。そこには何のオリジナリティーもない。しかし、僕が出会った奄美の人々のことを書き、そこで僕を捉えたことを書くことは、僕のまったくオリジナルな仕事としてなしえる。そして、この出会いの経験を反芻する僕の思考の運動のなかに僕の民俗学研究を織り込むこと、これは出来る、僕のオリジナルな仕事として。そう思ったとき、僕はにわかに激しい執筆欲望にとらわれ、がむしゃらに書き進めた。あの夏の二か月近くの古仁屋暮らしの日々を。
 このことがあって以降、僕は近大日本文化研究所が毎年一冊出しているこの研究所の叢書シリーズに、「奄美母権制文化試考」(『日本文化の鉱脈』、近畿大学日本文化研究所編、風媒社、2008年)、「奄美における宗教と歌謡」(『日本文化の美と醜』2009年)、「奄美におけるマブリ信仰の特質(、『日本文化の中心と周縁』2010年)、「方法としての『親母権制文化』概念」(『日本文化の攻と守』2011年)と書き続けている。
 そして、今年は、古仁屋八月踊り保存会の会長富島甫さんが収集編集した「古仁屋八月踊り唄集」の現代語との対訳を軸にした『奄美八月踊り唄の宇宙』(仮題)を出版しようと、今準備している。また、理論的探求の書としては、このホームページの部屋「工事現場」に掲載しているように『民俗学と母権制論』という本の出版を構想している。
 学生を奄美に合宿に連れて行く試みも今夏で5回目となる。
 こうしたことすべてがこの本の執筆から始まった。
 「作家は己の処女作に向かって成長を遂げる」といわれる。さしずめ、僕の民俗学的思索の成長にとってのかかる処女作がこの『根の国へ――秀三の奄美語り』である。

 なお、このホームページのフォト・ギャラリー「記憶瞬間」には奄美の風景や人々の写真を数多く掲載してある。
 あとがき (一部)

私がニーチェについて考え出し集中的な研究にのりだしたのは、そんなに古いことではない。まだ十年もたっていない。だが、彼を立ち入って知るにおよんで、私はすぐに誰かを探そうと思った。ニーチェに深く影響を受け、彼の作品の隅々までニーチェの声が木霊しているような作家を。ニーチェの思考のリアリティという問題を身に迫る具体的個の追求という文学という鏡面に映し出し、たとえそこに一面化と捨象という彼流の歪曲があろうと、それこそがまた己がニーチェを生きた証だとして、私に送り返してくれるような作家はいないものか、と。
 人は或る時、或る決定的な仕方で自分というものを経験する。この自己経験から世界を受け取りまた見る仕方、つまり彼のパースペクティヴというものが誕生する。そして彼はこの遠近法のなかに幽閉される。その遠近法は或る事柄、問題の或る側面に対しては類稀な視力を彼に与えるものとなるが、しかし、それは諸刃の刃であって、他方ではその視力が彼を別な或る方面に対しては盲目にする。この両義的な力をもつ、彼に運命として与えられた或る一つのパースペクティヴから彼は脱出できない。この己に取り憑いたパースペクティヴについての胸苦しい自覚には孤独の苦味が沁みわたっている。幽閉と伝達不可能と欠如との。また、この孤独によって自分は罪を犯す者となろうとの微かな罪責へのノスタルジアが。(罪責の絆を忘れ去るほどに彼は孤独となった…)

 だが、そう主張しながらも、ニーチェは熱望している。仮象を超え、パースペクティヴを超え、《存在》そのものと一つになり、彼に孤独を与えた主観性そのものをそこへと融解せしめることで無化し、そうすることによって、敢えていえば、《救済》されることを。しかし、その《救済》への道はまたしても孤独である。ニーチェにおいては孤独である他はない。己を突き動かす運命となった「力への意志」をその際果てまで生きることは、実は、この「力への意志」の起源たる《存在》の無底の闇の究極へと帰還することである。前方への突進が同時に帰還であるこの逆説の道が彼の《救済》の道である。「力への意志」のナルシシズムが彼を《存在》帰還の最後のドアであるへと導き、ついに彼はこのドアを開き、「死への祝祭的帰還」に他ならぬ《存在》への帰還を果たす。
 このニーチェのテーマを知るにおよび、私には二つの野心が生まれた。一つは、この自己経験とパースペクティヴを結ぶ観点を今度はニーチェ自身に差し戻し、彼の思想建築物の全体を、その《救済》願望を、この観点から、つまり彼の外部から読み解いてみせるという批判の課題であった。ニーチェを彼の自己経験に引き戻すことはあらためて彼を人間のあいだに相対化することであった。彼の思想建築物に相対化という光を浴びせ、彼が私に投げかけようとする呪縛の網からその力をあらかじめ殺いでおくのだ。というのも、実は私はニーチェを知るにおよび、彼を自分の《敵》として認識したからだ。おそらく最も手強い敵として。彼を見定めるためにあらためて距離を開き、彼を遠望する必要があった。いわば仕切り直しだ。野心のもう一つは、右の観点を、ニーチェ以外の作家の或る誰かに適用してみることであった。なぜならニーチェの思想はそれを要求していたからだ。彼の思想は真に文学の――一つの、しかし決定的な――哲学だからだ。誰もが異口同音にいう。ニーチェほどに、あからさまに彼の生と思索とが切り離しがたい一体性の絆を結ぶ哲学者はいない、と。哲学と文学との不可分の絆を彼ほど解らせてくれる哲学者はいない、と。なぜなら彼において想像力は、芸術は、彼の生死の問題だからだ。
 人間の生に対する解釈の深みを競い合う認識の決闘勝負のなかで、切り札は、あるいは掛け金は、人間に対する文学的認識のさらなる深さだ。ニーチェを彼の自己経験に引き戻すためには、己の自己経験から出発して他でもなくニーチェと絆を結び、そのことが彼の文学のなかに歴然としている作家、そういう作家を知ることが必要だった。もし、そういう作家が見つかれば、私にとって、彼の文学はその起源にある彼の自己経験を介してニーチェの自己経験を照射するものとなり、また逆にいってニーチェの思想が彼の自己経験を照射するレントゲン装置となろう。その二人のあいだになりたっている相互反照性あるいは共犯性は、ニーチェの自己経験を人間のあいだに相対化する私の作業にとって強力な参照軸たる意義を獲得するだろう。
 いまにして思う。ニーチェに接して湧き起ったこの私の野心は、それ以前に既に長い準備を整えていたのだ、と。それを培ったものは私のサルトル研究であった。サルトルの『存在と無』がそもそも彼の唱える「実存的精神分析」の存在論的な方法論的基礎であること、事実彼は生涯にわたってこの自分の生みだした「実存的精神分析」の切れ味を試そうと試み続けたこと、その作品的結実はまずなんといっても『聖ジュネ』であり、ついで『家の馬鹿息子』であること、こうしたことへの私の注目が、ニーチェへの私のアプローチの仕方を暗々裡に決定していた。
 しかも、実はそれはたんに方法論という形式的次元をはるかに踏み越える或る実質的な問題連関のレベルでのことであった。私が最も感嘆し愛したサルトルの作品は『聖ジュネ』であった。まだ発見されていないのだが、サルトルは『聖ジュネ』を書くに先立って膨大なニーチェ論の草稿を書いていた。そうボーヴォワールは証言を残している。事実、『聖ジュネ』のなかにはおそらくその草稿からほぼそのまま移されたと思われるニーチェ批評の一節が、ジュネ解読の決定的な参照軸として提示されている。そこでは、ジュネの文学の依って立つ原理の哲学的先駆けがニーチェなのだ。実はサルトルの想像力論の隠されたモチーフはニーチェ批判にある。そのことを私は既に知っていた。
 私の第一の野心についていえば、めくら蛇に怖じずのあつかましさで、とにかくその最初の試みはなされた。私は二〇〇五年に『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』(晃洋書房)を書いた。
 第二の野心を果たすためにはまず該当する作家を発見しなければならなかった。
私は発見した。三島由紀夫を。彼とニーチェとの絆には驚くべき深さがあった。また彼はジュネへの親愛を隠さない作家であった。
 かくて本書は誕生した

 
これまで出版してきた僕の著書の紹介コーナーです。
いちばん最近のものから始めて、順次遡ってゆくようにしたい。
一挙掲載は無理なので、順次遡りだんだん紹介する本が増えてゆくようにします。しかし、とりあえず、そのうち記事を埋めていく予定の本の表紙写真だけは載せておきます。
乞うご期待!
目次
 
 
 第一章 三島由紀夫という《想像的人間》――方法
 第二章 殺害者と海
 第三章 論理的背理としての私――『仮面の告白』考
 第四章 三島の文体と《存在欲望》の行方
 第五章 美的テロリズム
  補章 三島由紀夫論史批評
 あとがき

自作へのコメント

この本の「あとがき」にも書いたが、僕は、「ニーチェの思考のリアリティという問題を身に迫る具体的個の追求という文学という鏡面に映し出し、たとえそこに一面化と捨象という彼流の歪曲があろうと、それこそがまた己がニーチェを生きた証だとして、私に送り返してくれるような作家」を探した。それが三島由紀夫だった。なぜ探す必要があったのか?

 それは、ニーチェと真底対決したかったからだ。ニーチェの言葉にある。「きみたちは、憎むべき敵をたちだけを持つべきであって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない」と。さしずめ、ニーチェは僕にとってはかかる《敵》である。現代の思想と文化を考えるとき、或る意味でマルクスよりもニーチェの方がいっそう刺激的である、と僕は考える。
 僕は長年サルトルを読んできた。彼の「実存的精神分析」という人間理解の方法は彼の膨大な作家論、ボードレール、マラルメ、フローベール、ジュネらについての評論を支える方法論的土台である。僕はサルトルに倣って、この彼の方法(僕の理解しえたかぎりのそれだが)を三島由紀夫の読解に、さらにいえばニーチェの読解に適用した。本書はこの僕の対決の試みのなかから誕生した。
 今僕は『サルトル ニーチェの対決者にして継承者――想像的人間と暴力』という本を出版すべく用意しているが、そこではサルトルの「存在と無」という問題の発想を解き明かす好個の例として三島の『仮面の告白』の主人公の「私」と『天人五衰』の主人公透の「あるところのものであらず、あらぬところのものである」という論理的背理性に満ち満ちた実存構造を引き合いに出して、説明を試みている。こういう説明を思いついたのはこの著作を書いたことによる。
 本書第二章「殺害者と海」は18歳の三島が書いた彼のデビュー作、ごく小さな短編「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学日記の抜粋」を作家三島の全生涯を予言するものとして克明かつ全面的に分析したものだが、今にして思う。若き三島は、当時ニーチェの『ツァラトゥストラ』を暗記するほど読み、その第一部の、ニーチェが快楽殺人犯を擁護して論じた「青白い犯罪者」の章から、その短編の主人公たる足利義鳥を着想したのではあるまいか? と。
あとがき(一部紹介)

僕の探偵作業、つまり、村上春樹の文学のなかに、しかもその核心部分に、ニーチェとの尋常ならざる対話と対決の関係を探り当てるという推理作業は成功したであろうか?
 もし、この作業が犯人探し的な意味での推理であるならば、その当り外れは、この探偵作業の成否を決定する事柄となる。しかし、本書で幾度か述べたように、ここで僕がおこなった探偵作業はそういう犯人捜し的な意味での推理では実はなかった。
 むしろ僕はこういうべきだったかもしれない。本書で、僕はニーチェという補助線ないしは分光器を導入し、そうすることで村上文学の意義を考えるという方法を取ったが、なぜそうしたかといえば、村上文学を考えるうえでおそらくニーチェほど有効な補助線あるいは分光器は見つからないと思ったからだ。ニーチェは探し当てるべき犯人ではなく、方法であった。そして犯人とはもちろん村上春樹の文学そのもの、その魅力、特質、問題性、意義、等々なのである。彼はいったいどんな作家なのか?
 とはいえ、この探し当てる犯人村上ですらまた方法へと変わる
 最初は目標に思われていたものが、ふと気づくと手段に、方法に変わっている。そして最初の目標の向こうにさらに実はもっと遠い目標が隠れていたことに気づく。それが姿を現す。究極の犯人とは、現代の文学そのものなのだ。あるいは現代の人間そのものなのだ。文学とは、人間とは何者であるのか? しかもこの現代において。
 この問いを推し進めたいがために自分がいま村上を選んだということに、僕は気づく。

 …略…

 本書の執筆を振り返り、あらためて僕は思う。《想像的人間と暴力》という切り口・テーマこそ僕を導いてきたものではなかったか? と。現代の文学とは何か、現代の人間とは何者か? この問いを考える僕の切り口は、実は終始一貫して《想像的人間と暴力》であった。ニーチェが、また明らかにその継承者である一面をもつサルトルが強調したように、人をして《想像的人間》たらしめる事態の根底には暴力が渦巻いている。人は暴力によって「損なわれた」自己の生を、それでも生き抜こうとするとき、まず想像界へと自分の実存の支柱を移す。そのことで辛くも窮境からの脱出口を得る。しかもまた、人は暴力へと身投げするとき、必ずや世界を、相手を、己を妄想化せざるをえない。想像こそは暴力の燃えさかる炎にくべる薪である。さらにまた、人間を駆動するサド=マゾヒスティックな欲望はつねに想像の快楽と手に手を取って踊り出す。
 かつて、ウイリアム・ジェームズがこういったことがある。

「私たちは、病的な心のほうがいっそう広い領域の経験におよんでおり、その視界のほうがひろいと言わねばならぬように思われる。注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。・・・(略)・・・しかし、憂鬱があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとい、私たち自身が憂鬱をまったくまぬかれているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いがない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである」

 いうまでもなく、「病的な心」・「憂鬱」はみな妄想化し想像的となった心である。だから、右のジェームズの言葉は、なぜ《想像的人間と暴力》というテーマに僕が魅入られてきたかについて、彼が僕のためにしてくれた一種の弁護人陳述ともいいうる。
 しかもまた、僕は村上と共に次のことを付け加えたい。生の希望の「仮設」創造、愛の「仮説」創造もまた想像力の技にほかならない、と。村上風の言い方を借りれば、《想像的人間と暴力》というテーマの裏側には、「合わせ鏡」の関係で、《想像的人間と愛》というテーマが貼りついている。ジェームズの言い回しを借りれば、《想像的人間と暴力》という「悪の事実」こそ、「人生の意義を解く最善の鍵」・「もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者」、つまり《想像的人間と愛》というテーマへと僕たちを導くものなのだ。

 僕は最初本書のタイトルを『物語は幽閉を解く』としようかとも思った。人を幽閉する力としての想像力と、人を幽閉から抜け出させる力としての想像力と、想像力のこの「合わせ鏡」的両義性をもろ刃とする一本の細い尾根道こそは、作家が歩いていかねばならない彼に与えられた唯一なる道であろう。とはいえ、本書のなかの「物語」論で述べたように、僕はその事情は実は作家だけのことではないと思っている。それは全ての人間に等しく与えられた人生の事情なのだ。小説を書く書かないにかかわりなく、全ての人間は、想像力の両義性がせめぎあう「人生」という名の一本の自分だけの尾根道を往く「物語作者」なのだ。
 村上春樹と僕とは同じ時期に早稲田大学の学生であった。在学中もいまも面識はない。しかし、僕の友人には当時彼と同じ学生寮にいた人間もいる。いってみれば、本書はあの時代を共にしていた彼への僕の遠くからの友情の所産である。《想像的人間と暴力》、これこそはあの時代が多くの「僕たち」に与えた友情の符丁である。このテーマを共有している者たちは、たとえ面識がなくとも、友達なのだ。
 僕の本を小倉修さんのはるか書房が出してくれる。これまで僕の本をもう三冊も出してくれた彼もまたあの時代に早稲田大学にいた、そのとき以来の友人である。


目次

僕はどこから村上春樹に手を染めたのか?
      ――序にかえて
『海辺のカフカ』‐「懲役一三年」−ニーチェ/小説は元来翻案の連鎖であり、バトン・リレーである
 
第1章 村上春樹は物語を取り戻す

サーカスとお伽噺/《想像的人間》の文学/「いとみみず宇宙とは何か?」/悪夢の叙述者、カフカ/ 生霊的導体――日本人作家としての春樹/ 記憶が物語を産み、物語が記憶を保持する/『世界の終り……』の画期的意義――《記憶》の物語の誕生


  以下章のタイトルだけを示す

 第2章 《閉じ込められた私》をいかに開くか 
 第3章 反・《力》としての愛 
 第4章 「自己療養行為」としてのセックス
 補論T『1Q84』批判 
 補論U「リトル・ピープル」メタファーをめぐる僕の視点
 補論V 村上春樹と三島由紀夫
 あとがき
自作へのコメント

 僕はあるときから村上春樹の文学の基底にはニーチェとの深い対話と対決が潜んでいると思うようになった。この着目はまだ誰もしていない。この本を出したあとで、晩声社の出した『村上春樹』のなかに、中学生の村上は「マルクス、老子、ニーチェ」を愛読していたという彼の父の証言を見つけた。そのちょっと前のことだが、ある人が僕に村上の中学卒業文集での作文のコピーをくれた。その結びで村上は『ヘンリー・ライクロフトの私記』を書いたギッシングの人生の歩み方に対する自分の深い共感を語り、こう書いていた。「僕は一つの山の頂上から頂上へと鳥のようにとびこえていく、いわゆる『超人』より、あらゆる障害を越えて一段でものぼりきった人々にこそ美しく偉大なものを感じる」と。
 勘は当たっていたと、僕は思った。つい最近の話である。
 ニーチェとの深い対話は同時に対決を宿している。村上の場合でも。
 その対決の地点は突き詰めていえば次の二点である。
 第一は、ニーチェのいわゆるパースペクティヴ主義との対決である。この対決は、ニーチェのパースペクティヴ主義が人間に投げかける問いの深刻なリアリティの承認から出発する。つまり、個々人が、なんらかの自己についての深い経験から産み出し、自らに与えるパースペクティヴがどのように各自をその内部に幽閉する作用力をもってしまうかという事情の承認から。しかしながら、そこから出発しながらも、村上文学が究極において試み狙うところは、この幽閉性からいかに人間が――他者との深い出会いを仲立ちとし梃子とすることで――脱出し、再び他者と生を共有し合う希望を手にするにいたるか、その生肯定の物語の提出である。この最終地点において、ニーチェと村上とのあいだに横たわる対決関係は歴然とその姿を現す。
 他方、ニーチェのパースペクティヴ主義のほうは、幽閉性からの原理的な脱出不可能性を説くペシミズムと骨がらみになっており、かつまた、その唯一の脱出展望を自分の死をとおして宇宙的生命たる「根源的一者」の懐に自己融解を遂げることのなかに見いだす、「死への欲望」のマゾヒスティックな快楽主義と一つになっている。
 第二は、ニーチェの「力への意志」思想との対決にほかならない。善悪の彼岸に向かう甘美にして恐るべき混沌エネルギーとしての「力への意志」に身を委ね尽くすことで、己の実存的空虚性を突破しようとする「自己劇化」(三島由紀夫風にいえば)の欲望に対して、村上文学はこの欲望が実存的空虚さに蝕まれた人間に対して放つ誘惑の強さを承認しながらも、それを拒絶するもう一つの生のヴィジョンを対置しようと試みる。すなわち、愛のプラトン的エロスの絆が、この絆を結びあう人間同士のあいだに産む《意味》と応答責任のモラルにこそ、自己の実存の支柱をあらためて据え直そうとする生のヴィジョンである。
 この問題設定は次の問題とも深くかかわっている。ニーチェの立てた問題設定とは、人生に意味を与える《超越的根拠》の有無を問い、この超越的根拠の同義語である《神》の死を確認することによって生の無意味性を確言したうえで、無意味化した生を生き抜く力として「力への意志」とみなされた生命力の自己燃焼が生むいわば存在論(実存)的快楽を提案し、《意味》への問いを「力への意志」の快楽主義の強度如何の問いに置き換えることにあった。
 このニーチェ的設問に対して、村上文学が対置するのは、人生の意味は決して神であれ何であれ如何なる《超越的根拠》によって産み出されるのではなく、人と人との愛のエロス的絆が担う必要とし‐必要とされる関係性によってこそ産み出されるのであり、この意味で人生はたえまない《意味》生成の過程であるとともに、また――ここで敢えてニーチェ的ボキャブラリーを使えば――生命力の自己享受と《意味》追求は決して対立関係にあるものではなく、本来深く統合的な関連を生きているものであるという視点であった。この視点から見れば、ニーチェ的な「力への意志」の快楽主義は徹底的に「単独者」的であって、そこには原理的に他者の存在は無用であるがゆえに不在でもある。そして、「力への意志」のこの単独者的性格は、そのナルシスティックな自己享受性それ自体が本質的に暴力肯定的性格を帯びていることを示唆するものでもある。
 だからまた村上文学は、ニーチェの「力への意志」が人間の何であるにしろ復讐欲望に接続する時、いかに暴力への耽溺欲望となって立ち現われるかを良く認識している。「力への意志」の暴力肯定の性格こそが村上のニーチェ批判の眼目であり、その点で彼の文学は、最近作の『1Q84』のいわば世界観的視点となっている「リトル・ピープル的なものと反リトル・ピープル作用の対抗」という言葉をもじっていえば、《単独者的な自己劇化の欲望たる「力への意志」の暴力肯定主義と、反「力への意志」作用力としての愛のエロス的絆主義との対抗》の視点において現代の人間の物語を描こうとするものといえよう。 
 そして、第一と第二の点を結んでその両者の共通基盤として浮かび上がる、ニーチェと村上文学とのあいだにある対決軸とは、《「他者の不在」を徹底的に生きようとする単独者への意志》と《他者と共にあらんとする意志》との対決ということに