序
第一章 想像的人間という主題――三島由紀夫を手がかりに
第二章 実存的精神分析と『存在と無』
第三章 先行者ニーチェ
第二部
「相互性のモラル」か「力のモラル」か
第一章
サルトルの「存在欲望」概念とニーチェの「力への意志」
第二章
「根源的一者」の形而上学と《死への欲動》としての「力への意志」
第三章
サルトルの暴力論の源泉としてのニーチェ
第四章
「相互性のモラル」か「力のモラル」か
第三部 母なるものをめぐって
補論T 後期サルトルの両義性はいかに読まれるべきか?
補論U 邦訳『家の馬鹿息子』3におけるニーチェ問題
あとがき
振りかえれば、僕がサルトルを論じる自分の最初の本『<受難した子供>の眼差しとサルトル』(御茶の水書房)を書き、出版したのは一九九六年の暮であった。それはまた僕が書いた最初の本格的な専門的な哲学研究書であった。大学院に進学し、研究者の途を志してから二十数年がたっていた。
もともとは、僕はマルクスとヘーゲルとのあいだに横たわる思想の関連を考察することに大きな関心を抱いていた。大学院の修士論文で取り組んだのはヘーゲルの『法の哲学』の研究であったが、そこに展開されたヘーゲルの社会哲学的思惟がどのように若きマルクスに継承され、また批判されたかを考察することに本当の重点があった。博士課程に進み、アカデミックなキャリアを積もうと次に僕は学会誌にフィヒテに関する論文を書いた。その頃、僕はドイツ観念論の専門研究者の途を辿るかのように周りには映っていたにちがいない。事実最初は自分自身そう考えていた。
僕が大学に入学したのは一九六八年である。僕に哲学研究の出発点を与えたのは明らかにあの学生争乱の時代であった。マルクスをより深く理解するために、自分はドイツ観念論の系譜をマルクスに繋げる形で辿り直そうと意気込んでいたのだ。いいかえれば実は僕にはまだ《革命》の希望がとり憑いていたのだ。
だが、僕が長い修業時代の末に最初に書き上げ出版した哲学研究書は前述の本であった。マルクスでもなく、ヘーゲルでもなく、フィヒテでもなく。しかもその頃サルトルはほとんど「死せる犬」に等しい扱いを受けていた。或る大手出版社の企画した現代思想家シリーズでは対象から外されていたほどだ。また、僕はいわゆる学会における分類ではドイツ思想圏を専門領域とする研究者に属していた。僕の周囲のアカデミーに属す人々にとって、サルトルは僕のアマチュア的関心が向かう片手間の対象であるにしても、所詮は専門的関心の外にあると映っていたはずだ。事実、それまでドイツ語しかやらなかった僕はサルトルを読み出してから、彼を読むために初めてフランス語の独学に向かった。
フランス語を読むことすらろくにできず、仏文なりフランス哲学なりの学会にも属さず、著名なサルトル研究者の知己ももたず、そもそも専門を違え、もとよりサルトルについて修士論文を書いたわけでもなく、その時に至るまで一度もサルトルについて論文らしき文書も書いたことのない人間がどうして彼の専門研究者といえよう!
だから、僕のアマチュア主義はこの最初の本の執筆によって確立したといってよい。「めくら蛇に怖じず」の居直りなくしてそれを書くことは出来なかった。また世間の関心の有無は問題ではなかった。自分のなかの必然性の有無だけが問題であった。だから、この本を書き上げることは同時に自分をアマチュア主義者として確立することであった。それ以降、僕は何事に関してもつねに自分をアマチュアであるとみなしている。
この最初の僕の哲学書にしてまた最初のサルトルについての本を、僕はそのときはもう故人となっていた学生時代からの友人のNに捧げている。扉頁の裏には「Nに」とだけ小さく記されている。僕はこのNへの追憶を軸にサルトルへの僕のアプローチを序章に記した。なぜなら、僕に《受難した子供》というテーマをいわば遺贈してくれたのはNだったからだ。また、この最初の本を僕は「ぼく」という主語をもって書いた。その理由についてはその序章の終わり近くこう書いた。「ぼくはこのぼくという主観性のバイヤスをもってサルトルにぶちあたる以外に彼の思索的宇宙の全体性を問う方法をもたない」と。またこうも書いた。そうしたスタイルを取ることで、「ぼくはサルトルをとおして同時にぼく自身を提示したかったのだ」と。その「ぼく自身」の中核にはNに《受難した子供》というテーマを遺贈された僕がいた。いいかえれば、一つの友情の記憶が置かれていた。『聖ジュネ』は圧倒的だった。その僕の記憶に真正面から打ちかかってくる哲学者はサルトルだったのだ。彼以外に誰がいただろう!
本書『サルトルの誕生――ニーチェの継承者にして対決者』において二つのことを僕は復活させた。「僕」という主語をもって語るということと《受難した子供》というテーマ、この二つを。ニーチェもまた《受難した子供》であった。『ツァラトゥストラ』は《受難した子供》たるニーチェの悲痛な叫びに満ちている。サルトルはそれを読み取り、彼の『聖ジュネ』を書いた。――この推測が立ったとき、僕は本書の執筆に突進した。その執筆において、主語は「僕」以外ではありえなかった。
本書と最初の本とのあいだには、二〇〇四年に出版した『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』(御茶の水書房)が挿しはさまっている。僕たちの世代は、《革命》の希望――振り返れば、たとえ児戯のごときものでしかなかったにせよ――からその青年期を出発させ、まるまる四〇年ほどかけて、つまり二〇世紀後半を生きることによって、この希望の世界大の惨憺たる崩壊とその不可能性の想いを身に刻んだ。戦争という暴力中の暴力を身を挺して生きねばならなかった親の世代から見れば、僕たちの言辞なぞいまもって児戯に類することであろうが、とにかく僕たちは、否、少なくとも僕は、僕の仕方で、《暴力》という問題を二つの局面を貫く形で思考の中心的主題の一つに据えたのだ。まず《革命》の希望が託されたものとして、そして次に《革命》の希望が腐食し自壊し潰え去る原動力として。いま僕は思っている。おそらく現在のわれわれは、《暴力》という問題を、《革命》の不可能性というペシミズムの下に自分たちがじわじわと奈落へと引きずり落とされてゆく人間史の最後の腐食過程として経験しているにちがいない、と。
いまにして思えば、僕にとってNの死はこうした成り行きの先駆けであった。そして彼が先駆けとなりえたのは、彼のもとでは社会的な性格の暴力の問題と個人史的な実存的性格を帯びた暴力の問題が解きほぐし難く絡み合い、その絡み合いが蛇が自分の尾を飲み込む円環をなすウロボロス的結合となり、彼の悲鳴となってのたうっていたからだ。
本書を読んでいただければすぐに次のことをわかっていただけよう。《受難した子供》というテーマはそのまま《想像的人間》というテーマへと展開し、そして同時にそれは《暴力》というテーマと切離しがたい絆を結ぶということが。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』において次兄イワンが末弟アリョーシャに子供の不条理なる受難の幾多の物語を神への異議申し立ての証拠として差し出すとき、われわれは卒然と理解する。子供の受難においてこそ人間界に満ち溢れている暴力の残酷な本質が魂を抉るその実存的な鋭さにおいて剥き出しになるということを。
既に僕はNについて書いた先の序章に「暴力の肖像――序章にかえて」というタイトルを与えていた。『<受難した子供>の眼差しとサルトル』は今度の僕の本の土台をほとんど準備しているといってよい。何よりもまずそれは『聖ジュネ』の読解に身を捧げるものであり、同時に、サルトルの思考を暴力論という視点から一貫して読み解こうと試みたものであった。この時以来、《想像的人間》と《暴力》、この二つの事柄の切り離し難い関連性こそが僕のつねに変わることなきテーマとなった。
しかし、この本はニーチェという問題の環に関してはほとんど認識を欠いたままであった。既にそこにはサルトルの『道徳論手帳』における「力のモラルの諸原理」節に対する僕の関心が披歴されてはいるが、それがニーチェに対するサルトルの批判の所産だという理解はまだ全く成立していない。サルトルを《想像的人間》と《暴力》との一体的絆という視点から内面的かつ総体的に理解しようとする僕の試みを駆動するシンボル・モーターとなったものはニーチェではなかった。タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』の少年イヴァンがそれであった。また確かに既に僕は《受難した子供》というテーマにドストエフスキーを直結させてはいる。この本の最終部となった第V部は「ドストエフスキーにおける<受難した子供>の視線――ベンヤミンにも寄せて」というものだ。しかし、そこにもニーチェは登場することはない。ニーチェがドストエフスキーを「私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。すなわち、彼は、スタンダールを発見したときにすらはるかにまさって、私の生涯の最も美しい幸運に属する」とまで称賛したことなど、まだ僕には知る由もなかった。
だが、『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』になるとニーチェは顔を覗かせ始める。第三章「暴力論としての『弁証法的理性批判』」のなかに「投射的他者の創出――ニーチェに寄せて」という節が書かれる。確かにそこではサルトルの暴力論の基軸となる「他性」の論理――暴力の自己表象を貫く――とニーチェの『道徳の系譜』が提示したルサンチマン型人間の自己表象論理との類似性が既にテーマとはなっている。とはいえ考察はわずか三頁の範囲にとどまっている。また「力のモラルの諸原理」の体現する思想圏がニーチェに関連しているとの見当もまた披歴されてはいる。だが、言及してみせたというだけだ。さらに、サルトルとバタイユとの対決関係に関するかなり長い考察(終章三「バタイユとの対決」)が展開されているが、それにもかかわらず、そこにニーチェの名前が出ることはない。
とはいえ、既にこの頃実は僕の関心は急速にニーチェに向かっていたのだ。二〇〇五年に僕は『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』(晃洋書房)を出版した。そこでのニーチェ読解を導く方法は、同書のサブタイトルが示すように、僕が理解し摂取したサルトルの「実存的精神分析」の視点であった。その視点からニーチェを読む、これが同書のコンセプトであった。そして僕は、このニーチェ研究を土台として今度は三島由紀夫の研究をおこない、二〇一〇年に『三島由紀夫におけるニーチェ――サルトル実存的精神分析の視点から』(思潮社)を出版した。
僕のなかにニーチェとサルトルとの関係を全面的に分析したいという強い欲望が誕生したのはこの二つの著作の執筆を通じてである。その欲望の爆弾のど真ん中にそれを挑発し、火を投ずる焔としてレヴィの『サルトルの世紀』の翻訳が飛び込んできた。初期サルトルを「ニーチェ主義者」と定義する彼の大著が。
僕は自分の作業仮説を立てた。「ニーチェ主義者であった若きサルトルはまだサルトルにはなっていない。サルトルがサルトルとなったとき、既にサルトルはニーチェへの対決者となっており、対決者という継承者となった」という。そして決意した。この作業仮説を視点として、これまで自分がサルトルについて考えてきたことの全てを再考し、新発見を付け加え、再構成しようと。
見るまに、《受難した子供》と《想像的人間》とを繋ぐ問題系がニーチェの『悲劇の誕生』へと繋がり、『ツァラトゥストラ』に繋がった。『悲劇の誕生』‐『想像力の問題』‐『存在と無』‐『聖ジュネ』‐『家の馬鹿息子』が一直線に繋がった。既に『弁証法的理性批判』と『道徳の系譜』は繋がってはいたが、その関連が「暴力の哲学者」たるニーチェの思想の全域に投網となって投げられ、その視野の拡大のさなかニーチェの「力への意志」の情念こそはサルトルの「存在欲望」の現象学の誕生地ではないかとの直観が閃いた。その直観は『存在と無』を再び「自我の超越」や「情動論粗描」に繋げ直す梃子ともなった。『存在と無』の提唱する「存在のモラル」ならぬ「実存のモラル」はそもそもニーチェからの決別のモラルであり、その決別こそが哲学者サルトルの誕生であり、その起源は既に「自我の超越」や「情動論粗描」に置かれているとの直観が湧いた。そして、『道徳の系譜』と『弁証法的理性批判』とを結ぶ問題系には、「実存のモラル」から「相互性のモラル」へのサルトルの思索の発展過程が合わせ鏡のように対抗的に貼りあわされているとの。僕は掴んだ。《母》の不在はフローベールのみならずニーチェをも貫いており、他方、サルトルは《母》の発見をとおして彼の「相互性のモラル」をいっそう打ち固めたということを。また知った。こうした問題の全域にかかわって僕のなかのドストエフスキーがニーチェに繋がったことを。
マルクスが退場するやニーチェが登場する。
《革命》の希望が潰え、《革命》の不可能性の意識が僕たちの自己意識の暗き黒い芯となる時代、僕はニーチェこそを自分の対決者として選ぶ。自分が試される最も困難で深い思索の場として。対決が対話であり、対話が対決であるような場として。相手とのそれが同時に自己とのそれであり、その逆である場として。対決が同時に自己の内なる矛盾の開陳であり、内なる矛盾が己に迫る「あれかこれか」の選択の決断が対決への進出であるような、そうした場として。
ここでもまたサルトルは僕の最大なる支柱であり参照軸だ。一個の模範なのだ。思索者たることの。
既に書いた。『ツァラトゥストラ』は《受難した子供》たるニーチェの悲痛な叫びに満ちている。このことを確信したとき、僕にはあのNの追憶が戻ってきたのだ。サルトルとともに。
かくて僕はサルトルについての第三作となる本書を書いた。
ニーチェの継承者にして対決者
――ニーチェ的長編四部作を読む
僕の探偵作業、つまり、村上春樹の文学のなかに、しかもその核心部分に、ニーチェとの尋常ならざる対話と対決の関係を探り当てるという推理作業は成功したであろうか?
もし、この作業が犯人探し的な意味での推理であるならば、その当り外れは、この探偵作業の成否を決定する事柄となる。しかし、本書で幾度か述べたように、ここで僕がおこなった探偵作業はそういう犯人捜し的な意味での推理では実はなかった。
むしろ僕はこういうべきだったかもしれない。本書で、僕はニーチェという補助線ないしは分光器を導入し、そうすることで村上文学の意義を考えるという方法を取ったが、なぜそうしたかといえば、村上文学を考えるうえでおそらくニーチェほど有効な補助線あるいは分光器は見つからないと思ったからだ。ニーチェは探し当てるべき犯人ではなく、方法であった。そして犯人とはもちろん村上春樹の文学そのもの、その魅力、特質、問題性、意義、等々なのである。彼はいったいどんな作家なのか?
とはいえ、この探し当てる犯人村上ですらまた方法へと変わる
最初は目標に思われていたものが、ふと気づくと手段に、方法に変わっている。そして最初の目標の向こうにさらに実はもっと遠い目標が隠れていたことに気づく。それが姿を現す。究極の犯人とは、現代の文学そのものなのだ。あるいは現代の人間そのものなのだ。文学とは、人間とは何者であるのか? しかもこの現代において。
この問いを推し進めたいがために自分がいま村上を選んだということに、僕は気づく。
…略…
本書の執筆を振り返り、あらためて僕は思う。《想像的人間と暴力》という切り口・テーマこそ僕を導いてきたものではなかったか? と。現代の文学とは何か、現代の人間とは何者か? この問いを考える僕の切り口は、実は終始一貫して《想像的人間と暴力》であった。ニーチェが、また明らかにその継承者である一面をもつサルトルが強調したように、人をして《想像的人間》たらしめる事態の根底には暴力が渦巻いている。人は暴力によって「損なわれた」自己の生を、それでも生き抜こうとするとき、まず想像界へと自分の実存の支柱を移す。そのことで辛くも窮境からの脱出口を得る。しかもまた、人は暴力へと身投げするとき、必ずや世界を、相手を、己を妄想化せざるをえない。想像こそは暴力の燃えさかる炎にくべる薪である。さらにまた、人間を駆動するサド=マゾヒスティックな欲望はつねに想像の快楽と手に手を取って踊り出す。
かつて、ウイリアム・ジェームズがこういったことがある。
「私たちは、病的な心のほうがいっそう広い領域の経験におよんでおり、その視界のほうがひろいと言わねばならぬように思われる。注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。・・・(略)・・・しかし、憂鬱があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとい、私たち自身が憂鬱をまったくまぬかれているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いがない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである」。
いうまでもなく、「病的な心」・「憂鬱」はみな妄想化し想像的となった心である。だから、右のジェームズの言葉は、なぜ《想像的人間と暴力》というテーマに僕が魅入られてきたかについて、彼が僕のためにしてくれた一種の弁護人陳述ともいいうる。
しかもまた、僕は村上と共に次のことを付け加えたい。生の希望の「仮設」創造、愛の「仮説」創造もまた想像力の技にほかならない、と。村上風の言い方を借りれば、《想像的人間と暴力》というテーマの裏側には、「合わせ鏡」の関係で、《想像的人間と愛》というテーマが貼りついている。ジェームズの言い回しを借りれば、《想像的人間と暴力》という「悪の事実」こそ、「人生の意義を解く最善の鍵」・「もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者」、つまり《想像的人間と愛》というテーマへと僕たちを導くものなのだ。
僕は最初本書のタイトルを『物語は幽閉を解く』としようかとも思った。人を幽閉する力としての想像力と、人を幽閉から抜け出させる力としての想像力と、想像力のこの「合わせ鏡」的両義性をもろ刃とする一本の細い尾根道こそは、作家が歩いていかねばならない彼に与えられた唯一なる道であろう。とはいえ、本書のなかの「物語」論で述べたように、僕はその事情は実は作家だけのことではないと思っている。それは全ての人間に等しく与えられた人生の事情なのだ。小説を書く書かないにかかわりなく、全ての人間は、想像力の両義性がせめぎあう「人生」という名の一本の自分だけの尾根道を往く「物語作者」なのだ。
村上春樹と僕とは同じ時期に早稲田大学の学生であった。在学中もいまも面識はない。しかし、僕の友人には当時彼と同じ学生寮にいた人間もいる。いってみれば、本書はあの時代を共にしていた彼への僕の遠くからの友情の所産である。《想像的人間と暴力》、これこそはあの時代が多くの「僕たち」に与えた友情の符丁である。このテーマを共有している者たちは、たとえ面識がなくとも、友達なのだ。
僕の本を小倉修さんのはるか書房が出してくれる。これまで僕の本をもう三冊も出してくれた彼もまたあの時代に早稲田大学にいた、そのとき以来の友人である。