富島さんはもうすぐ90歳になる。奄美大島の古仁屋で、「古仁屋八月踊り芸能保存会」の会長を務めている。彼と組んで、僕は二人の共著で『奄美八月踊り唄の宇宙』という、八月踊り唄の歌詞の対訳――奄美方言でのもともとの歌詞とその現代語訳との――を軸とした、一冊の本を出版しようと準備している。かなり出来上がってきた。うまくいけば今年中に出版にこぎつけれるだろう。
そこに、僕は数日前に彼から送られてきたこの手記、それは実は富島さん自身の手記なのだが、をそのまま入れようと思っている。奄美の八月踊り唄についての本に、たとえその編著者の手記であれ、「沖縄弾薬輸送特攻作戦生存者の手記」がその一角を占めるのは変だと思われるかもしれない。
しかし、この手記に横溢している精神、一個の無名の民衆の一人である男が、しかし、彼にとって命がけで守り後の世にも伝えたいと考えた民衆の記憶を、このように徹底的に文章化する意志、これなくしては「古仁屋八月踊り唄歌集」もまたなかったのである。
この歌集は20数編の唄を富島さんが戦後直後古仁屋の八月踊り唄を愛する先輩方から必死で耳で聴き、まずひらがなで忠実に採集し、後に語句の意味を彼がこまごまと質問し、それに基づいて漢字を当てはめて編纂した、貴重な歌集である。このように一集落に伝承された八月踊り唄をすべて採録したものは、おそらく大島本島で二、三を数えるのみであろう。
この富島という一個人の情熱なくして、この貴重なる歌集は残ることはなかった。同様に、この手記もその情熱があって初めて残った。沖縄戦の最中、「徳之島守備隊暁部隊」の48名の隊員が手漕ぎ船のサバニ(板付け船)に補給弾薬を積み、その輸送決死隊となって沖縄中城湾に深夜突入、任務を果たすこともできずにたちまち米軍によって撃滅され、わずか二名だけが生き残った。その一人が富島さんであった。
彼はもう一人の生き残りである斉藤さんを訪ね、彼の証言をも付け加えて、この出来事の50余年後にこの手記をものした。
結びの文章の中にこうある。「誰にも知られいない我々のこの戦いの悲惨な真実を綴る事は、悲しく、涙なくしては筆記できなかった。…略…二度とあのような無謀な作戦を繰り返してはならない。数隻のサバニに積んだ弾薬、50名ほどの兵隊を小刀を携帯させただけで突撃させる。戦果など誰も期待していないのである。ただ殺されに行くだけだった。死ぬことだけを強要されたのである」と。
ちなみに言えば、富島さんは戦前高等小学校を出ただけの方である。その彼が綿密極まる徹底的な手記を残した。これは特筆すべきことである。
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