近畿大学商経学部と文芸学部での証言集
 
このときは、それを学生にフィードバックするにあたって、清の問題意識に基づいていくつかの 特徴によってそれらを分類し、学生に提示した。

T 2003年前期・近畿大学商経学部・授業「イジメと倫理学」で収集したもの。(約340通のレポートのなかから)

T 「いじめ」とは「いじめられる側」にとってはどのような経験か

自殺にいたるほどの
「僕は中学二年のときいじめられた・...A君が僕を無視しはじめ...毎朝5人で通学していたのに一週間後は誰も家に誘いにきてくれなくなりました。...『こんなに苦しいんやったら、死んだほうがマシや!』と思い、カッターで手首を切ろうとしたけどやっぱり切れんかった。次の日学校への行きしな5人組みの一人のB君がオハヨウと声をかけてくれた。そのとき僕は何故か涙を流しながら学校へ行った(うれしくて)...B君とは今でも大の親友です。...イジメはイジメられている子が『イジメられている』と感じた時点で成立しているのであって、イジメている側が『イジメてない』と言ったところで何の意味もない』   「わたしのいとこは高校二年の17歳のときいじめを苦に飛び降り自殺をした。」   「...私には自殺願望はいっさいなかった。そのかわりイジメた奴らを殺したいという感情が強くあった。それとともに自分を周りに適応させよう、いたるところを変えようとした。他人に不快をあたえないように目をつけられないようにと。その結果自分という内面は死んだようなものだった。自分は精神的に無になったのである。それとは違いいとこは自分の内面を生かした代わりに外体を殺した」   「同じ学校で自殺した人までいます」   「私の中学校の一つ上の先輩がいじめにあって自殺した。...その先輩はいじめられている人を見て、かばって逆にいじめられるようになったらしい」
「高校のときクラスの中で一人無視されていた子がいた。その子が話しかけても誰も答えようとせず、最後にはその子は独り言を言うようになった」   「自分は自殺をしようと思うことはなかった。反対に自殺をするくらいなら、相手を殺すという気持ちをもたせた。自分の心の中に黒い炎を燃やし続けようとしたのだった」   「Mちゃんに私は話しかけてみたが、何も話してくれずに、自分の殻に閉じこもったままだった。ただ一言『死にたい...』とだけ言った。Mちゃんはカバンの中からカッターナイフを取り出し、自分の手首を切ろうとしたので、私は『お願いやから、やめて!』といってカッターナイフをとりあげたら、Mちゃんは泣いてしまった。それ以来Mちゃんは学校にこなくなってしまった。中学のときも入学式しか見ていない」   「最終的にその子がシンナーを飲んで死のうとしたことが問題となり、クラスで会議が開かれてイジメはなくなった」   「私にとってイジメとは苦痛と悲劇という耐えがたいことであり、毎日が死との戦いのように感じられました」   「高校三年生のときに二年生の人が自殺した。噂ではそのクラス内でいじめがあったと聞いた」

登校拒否
「中学生になるとその子は登校拒否になった」   「中学二年のときにいじめられて登校拒否になった子と同じクラスになった。その子は小学校からずっと登校拒否で中学になってもまったく学校に来なかった。」   「その子を『中国人、中国人、家に帰れ』と言い続け、さらにエスカレートしていき、しまいには体操靴をトイレに隠したり、お腹を足でまともに蹴ったり、かばんをぐちゃぐちゃに破いたり...毎日日課のようにその子はイジメを受けていた。それから二年が経ち、その子はついに学校に来なくなり、そして学校をやめていった」   「私の友達はいじめにあって学校にあまりこなくなった。人とうまく関われなくなって、精神的におかしくなって親に精神科につれていかれた」   「その子は結局小学校を登校拒否しました。...その子は中学校も保健室登校になり。僕たちはその子の人生を棒に振らせたことになってしまいました」

今も残る傷
「当時としてはただそのことだけでも不安で、こわかったことを思い出しました。そうした自分の経験、周りの出来事から見えない傷を今もひきずってきたのかもしれません。それは、あることが起きても認めたくないという、適応機制で、現実逃避をしようという考えにつながっているのかもしれないと思いました」   「私は小学校の頃からいじめにあっている。今はいじめられているかどうか分からない。もしかすると、いじめられている現実から逃げているだけかもしれない。......中学校の頃は小学校とよく似たようなことでいじめられたが、それなりに話せる友達(今もつきあいが続いている)もいたので正直、一番楽な時期だった。高校の頃から事態は一変した。まず今までどおりに会話ができなくなった。気持ちが沈みそうになった。本を読む量が激減した。特に何かをされたことは高校二年生頃まではなかったので、今までの影響が一度に出たのだろう。高校三年のとき今までに経験したことのないいじめを受けた。......今私は何がなんだかわけがわからなくなっている。他人を信用できるかと言われても、中学時代からの友達以外にはっきり言って信用していない。自分とまったく別人になりたい、完全無欠になれればどれほど楽だろう、と考えている。......ただどれも結局『自己否定』していることには変わりない。私は自殺願望者とたいして変わりはない」   「何よりもつらかったのは、とても仲が良くてイジメの相談にのってくれた友人が、私が相談したことや、親友あてに書いた手紙なども他人に見せていたことです。   「それから私は人見知りが激しくなり、友人の前で素を見せることはなくなりました。...イジメにあった結果、協調性をもって周りに流されて生きていくことが楽な生き方だということを知りました。でもそういう生き方はやっぱりいけないことなので、高校ではなるべく自分を変える努力もしました。」   「自分の中で『この子は私の親友』と呼べる子がいた。...でもその子を中心として私の陰口を書いた手紙がクラス中にまわっていたことを知った。...それ以来友達と仲良くしていても、『この子は陰で私の文句とかを言ってるんやろな』と思うようになった。だから私はできるだけ人との話を合わして、楽しくもないのに笑うことができるようになってしまった。そうしたら、私は陰口を言われないと思ったから。今でも、自分が本当に楽しくて笑っているのかどうか分からない時がある」   「今ではその頃では想像できないぐらい平穏な日々を送っている。でも本音を昔ほど表に出さないので、今の自分が別人のような気がするし、周りとの付き合いも本当のつきあいしゃない気がして、あまり満たされません」
「クラスの男の子から太っていることについていじめられて...男の子がすごく苦手だった。......中学校から今にいたるまで男の子が自分に好意をもっていたり、仲良くしようとされると、その人にすごく冷たい態度をとってしまうのである。わざと冷たい態度をして陰で笑っている自分がいてるのである。私をいじめていた小学校の男の子のことは今でも覚えているし、二度と会いたくないと思う。私が嫌な思いをさせられたのはその子達なのに、今では男の子すべてに対して自分が受けたことを仕返ししたいと感じている。嫌な思いをさせてから、一人になって自己嫌悪におちいり、反省もするが、やめることができない。こんなことをしてもお互い嫌な思いをするだけなのにやめられないのである」   「ぼくはいつからこんな風になったんだろう?そう自分に問いかけることがよくある。いつの日からか僕は周りの人の視線、自分への評価、好かれているか?などとにかく自分がどのように見られているのかが気になって仕方がなくなった。...僕はそう思うようになってから極端に人と接するのが恐くなった。つねに人に見られているような気がして、こんなことをしたら人から嫌われるんじゃないか?とにかく人に嫌われるのが恐かった。だからいつの日からか僕は自分の意見がいえなくなった。人の意見に合わせたほうが好かれるような気がするから。何より一人になるのがすごく恐かったから。自分が傷つくのが嫌やから。他人とのふれあいがなかったら自分が疲れることはないし、傷つくこともないと思う。でも一人はとてつもなくさみしい。こんな矛盾と僕はいつも戦っています   「小五のときクラスが崩壊した。...ぼくはいじめられた。...あらゆることをされた。苦しかったから自分を変えた。いじめてくる者を殺そうと必死で体をつくった。小五の後半にいじめてくる者に勝った。そこに何もなかった。それより気がつけば、いじめる側に僕はいた。昨日までの友人をいじめた。考えつくことを実行し、いじめた。今思えば狂気が僕を支えていた。やらなければやられるという念が頭の中で唱えられ続けた。私は両方を経験した。キズをつけられ、つけた。その悲しい思いは消えない。多分、一生」   「今の歳になっても他人を完全に信じることができない。いつかどこかで裏切られるという意志も無意識のうちにはたらいてしまい疑い深くなってしまう」   「中学校になると一気に他人の目がすごく気になりだし、いじめを見ていても、ただかわいそうという風にしか思えず、止める勇気もなく、ただ自分の身を守ろうとするために自分の意見を押し殺していたように思える。この頃ぐらいから偽善という言葉に敏感になった。たぶん自分が偽善と感じていたからだろう」

U 「いじめ」とは「いじめる側」にとってはどのような経験か
「いじめているとき、ものすごく楽しかったと思います。一人の子をターゲットにみんなでよってたかっていじめている時は、いじめられている子の気持ちなど考えもせずに、ただ周りの子と共存したいだけにしていたと思います」   「不思議なもので、一回避け出すと、同じようにその子の悪口が言えたり、優越感にひたっていた。汚いもので、自分より劣っていると思うことが時々でてきて、そのたびに優越感があった」   「彼女のロッカーや私物には絶対さわらないし、近づいたりもしなかった。その子が歩いていると、わざと距離をたくさんあけて横を通ったりしていた。......友達同士でふざけて、一人をその子のロッカーに突き飛ばして、突き飛ばされた子は、ロッカーにさわらないようによけるという遊び方まであった」   「その時は罪悪感など少しもなかった。みんなでおもしろおかしくイジメに参加していた」

V 誰がいじめられるのか?何を理由にいじめられるのか?

明らかな弱者、「劣等の印を押された者」、異邦人
「鼻水をいつもたらしていて、くさくて、髪もふけだらけの子...きもいとかを誰からもいわれ」   「中国からの転校生」
「その当時私はヨソ者だったからではないかと思う。人間に限らず動物はヨソ者を嫌う。いや恐れるのだと思う。その恐怖心からヨソ者を排除しようとする。」   「小学校時代には...外見や名前などちょっと変わっているというだけで仲間はずれにしたりした。今となっては個性というものがすごく大事であると思う。しかしあのころはみんな同じでなければいけないと思っていたからである。同じであることが友達という感じだった」   「高校のとき違うクラスの女の子がアトピーでいじめられていました」   「いじめはやはりいじめられる方にこそ原因があるのではないかと思う。小学校のときいじめにあっていた人は、他の人が意見をいうとだいたい異論を唱えた。...他の人から見れば、協調性がまったくなく、うっとうしがられる人だった」   「中学校の同じクラスに知的障害の子がいた。彼は何かにつけて、つねられたり、相撲をとらされたり、ひどいときには青あざが外から見えないところについていた」   「その子は...ただ自分の言いたいことを人に伝えるということが苦手な子だったように思う。意見を聞いても首をかしげるだけ。決して自分から何かをしようとはしない子だった」   「経験から言うと『異端』なものがイジメの対象になったと思う。言動や身体的特徴、性格などが『心地よくない、おかしい、うざい』ものがその対象となった」   「養護学校に通っていた子」

誰もが区別なく
「小学校のとき、特に理由もなくクラスの子から無視されている女の子がいた。無視は突然起こって、何が原因だったのかもわからなかった。」   「これといった理由もなくみんなから避けられていました」   「私は何故いじめをしていたのかわかりません。理由が思いつかないのです」

W 誰がいじめるのか?

「私はよく小学生の頃兄によくいじめられた。これはほとんどが殴る蹴るといったような暴力だった。末っ子だった私は、その痛みやストレスのはけ口として同級生をいじめだした」   「面白いからという理由、自分より弱い者をいじめ、自分をまわりから強い力のある奴だと思われたいという願望、ストレスのはけ口としていじめがおきていたんではないかと思います」   「家にいるときだけが唯一安心できる場所だった。母のやさしい顔を見るたびに泣きそうになって、すべてを言ってしまいそうになった。でも言えなかった。悲しむんじゃないかと思ったから。だから私は思い切っていじめてくる友達に言った。『こんなことやめてくれへん!?何か、私、腹が立ってきた!』と。その日以降、うそみたいにいじめがなくなった。その友達が転校先の学校でいじめられていた事実を聞いた。その友達が私をいじめたのは、自分の味わった辛さをわかって欲しかったからなのでしょうか?やはりイジメにあうと弱くなり、性格さえ変わってしまうものなのでしょうか?」

X 何故「いじめ」に参加してしまうのか?

「今から考えると僕はイジメグループから抜けるのが怖いという気持ちがあったからいじめていたのかもしれない」
「学校は何もおもしろいことがなかったので、イジメをすることにより、楽しみを増やすといった何とも無責任な理由でおこなっていた」

Y 良心の経験

「その子は泣かなかった。いじめられたことも黙り続けていた。それを見た僕は助けたいと思ったが、見ているのが精一杯だった。なぜなら次のターゲットにされるのが自分だと思うと...。日々そのことが頭をよぎり、その子に同情しながらも同じ人間として友情を見せることはできなかった。はじめて自分の無力を感じた。人間は動物の中ではいちばん賢い、だから何でもできると思っていた。しかしあの場では何にも...その子は学校をやめていった。僕はそのことを今でも昨日のことのようにはっきりと覚えている」   「ここでも僕は周りとの付き合いを考えたりクラスでの立場を考えたりで直接彼に手を出さないが、遠まわし遠まわしにイジメを止めていた。自分が卑怯だと思った。いちばん弱いのは自分だと考えた。イジメを見ているだけの者がいちばん悪いと今まで何度も聞いたが自分の経験を通じて実感した」   「八年間たった今でもその子に対する罪悪感を感じるときがある」   「今振り返っても本当に最低だと自分自身を恥じます。なんて幼稚で身勝手だったのだろう。何故その子の気持ちを考えなかったのだろう。いじめをしてしまったことは悔いても悔やみきれなし、謝っても許されることではありません」

Z 対策は可能か?

「担任の先生は『風邪をひいているからMちゃんは休んでいる』と言った。...しかし実際は違った。いじめられていたのだ。......死にたいと思うほど...何より先生が許せない」   「しかしその話し合いは何の役にもたたず、イジメは終わらず、そのまま小学校を卒業してしまいました」   「先生に相談してもイジメにあうのはその人自身にも非があるのでまず自分を見つめろと言うだけでした」   「その子はいじめられている最中に先生に相談にいったが先生はイジメをなくそうと何もしなかったらしい。その対応に先生が信じられなくなって、転校までいってしまったらしい」   「...かなりひどいことをしていた。でも先生は僕に少し怒ったあと、あの子自身変わっているからあんま気にせんでいいよ、といってくれた。先生もその子のことがあまり好きではなかったようだ」

[ 決心

「当時嫌なことをされた時の私の唯一の抵抗は笑う事でした。笑えば、イジメが大きくなることはないと考えていたからです。何も変わることなく小学校を卒業し、中学校に入学したとき、自分の中である決心をしました。逃げてばっかりの自分が嫌に思い、物事にぶつかっていこうと思いました。......すると自分に自身が湧いてきたのです。...自身をもちはじめた私はそこで初めて言い返すことができたのです。殴り合いの喧嘩になりましたが、それから、私に対してのいじめは一切なくなりました」

\ 中国人留学生から

「日本語学校の先生から知った。日本の学校にいじめる事がおおいです。......イメージか想像中か、日本は文明と礼儀が正しい国だけではなくて、社会秩序もいい、自由な国です。中国にいじめる事がない。学生の間なんか互いに文句があれば喧嘩するかどうか。二人の事しかない。周りの人が見れば......二人を仲良くしようと勧めます。だが、日本の学校全然違います。おおい人は一人をいじめて、ひっぱたくか、けるか、すごくひどいです。また、周りの人は高見で見物にいきの態度をして、全然勧めていません。そんなに無関心にするのが本当に怪しいですね。私に対して考えられないです。どうしてそんなに無視しているのか、理解できない。これは日本社会の悪い点だと思います」

] その他

「あたしはいじめはいじめる側が悪いとは思わない。いじめはいじめられる側が悪いと思う。いじめられる側が態度をあらためれば良い。あたしはいじめを否定しない」


後期(168通から)

1 生きる場を奪われる

「今弟が中学校を長期にわたって休んでいる。もう半年ぐらいになるだろう。...やはり弟はいじめにあっていた。私は弟にいじめにあっているかと聞くが、あってないと答える。私にいじめにあっていることが知られるのが嫌なのであろう」   「僕の姉は小学校の時いじめをうけ不登校になりました...高校に入ってまた不登校、そして高校中退という形をとることになってしまいました」   「兄は私と違って身体が弱いので登校拒否などをしていました」   「友達の妹が俺と同じ中学で不良からのいじめを苦に電車への飛び込み自殺をしました」   「その内容はとても悲惨で、うわぐつに画鋲をいれられたり教科書にマジックで乱暴な言葉を書かれたり、そのほかいろんなことを...もう見ていられないぐらいひどかった」   「小学校のときあるクラスメートが学校にこなくなった...半年ぐらいたってから転校していった」   「ぼくのいとこは高校一年の時いじめが原因で学校を退学しました」   「ついにその子は中一の途中から一度も学校に来なくなった」   「Aは学校にこなくなり連絡も取れないようになり、家へも帰らなくなった。半年後家へ帰ってきた」   「小学校6年の時...学校へもこなくなった。卒業式にしか来なかったし、中学校もあまりこなかったらしい」   「あるとき急に私一人がはみごにされ...学校に行くのがとても苦痛で毎日が死にそうになった」   「その子は中学に入りあまり学校にもこなくなり、引きこもりになって高校にもいかなくなりました」   「自分にとって一番衝撃的であったことは高校二年のときクラスメイトが自殺したことだ」   「結局次の日からは学校に来ることもなく卒業式も欠席」   「F君は登校しなくなった」   「中学一年の時いじめにあい登校拒否をした」
「N君は誰とも話しをしないまま五年生の終わりに転校しました。そして転校先で死んだと聞きました。...N君は前の学校でいじめれていたと聞いて、ああやっぱりなと思いました」   「ついにその子は登校拒否になりました」

2 イジメは何を残すか

「いとこはそれから口数が減り親戚のぼくにでさえも心を開こうとしません」   「自分自身他人に嫌われないためにけっこう努力した。いつも他人に合わせて、うわべだけのつきあいやった気がする。だから友達はいっぱいいるけど、親友は少ない」   「いじめというものを経験してから人間関係が面倒だと思うようになった」   「すごい罪悪感がずっと残った」   「そのうち自分の意見や考え方話し方も同じにしようとしました。人との関係もスムースにいくよう相手が間違っていたとしても見ないふりをし、気付かないふりをしました」   「その犯人はずべてその最初は仲良くしてくれていた子だった。...それ以来僕は人と接するとき無意識に相手に嫌われないように、人の心をさぐるようになっていった。今でも嫌われるのがすごく恐い」   「同じクラスになったことのある人とは今でも会うのは恐い。だから同窓会もできるだけいかない。いつからか自分は人に好かれることはないと思うし、嫌われるようになるのがふつうと思ってた」   「小学校の修学旅行の時同じ班の女子に集団無視された。それ以来女の子が怖くなった。たった三日間の経験なのに...私の心の中では大きな三日間だった」   「自分を殺して他人の意見のみを聞くようになり、嫌われないようにいつも人の機嫌をうかがうような性格になってしまった。幼いながらもそのとき受けたショックは根にはりついており、人に自分をさらけだすのが怖くなってしまった...こうした経験によりいつも負い目を感じる自分がとても息苦しいです」   「そのことが原因でその子は今多重人格という精神病になってしまった。本人でない人格の子から一度だけメールがきたことがある。明らかにいつもとは違っていた。口調、話しの内容、年齢とどれをとっても異なっているのである。そして本人に戻ったときは記憶が抜けて空白の時間を過ごしていたという」   「殴る真似をするとひどく脅えた表情になり、いつも一人が一番落ち着くと僕に言います」

3 誰がイジメられるか

「その子は...なぜいじめられるのかがわからず毎日気が狂いそうだったそうです。私はその子と中学から友達になったのですがいたってどこにでもいる普通の子でした」   「何故その子が目をつけられたのか、標的になったのかは私には分からない」   「あるときは違う子、あるときは自分といいたようにいつのまにか自分にも回ってくるようになった。...ある日突然何の前触れもなくやってきた。かといって、その理由に思いあたることは全くなかった」   「おとなしい子がいじめの対象になりました。静かで目立たない子が『暗い』とか『きもい』とかいわれ」   「いじめはほんの少しの違いとその違いに共感した人達が集団になることによって生まれる」   「知恵遅れの子」   「こんなんはいっときのはやりのもんやから、またそうで新しいターゲットを見つけたらコロッと態度変えるねんやろ」と強い意思を持ったら、あんのじょうだった」   「知的障害者」   「その子は額にほくろみたいな痣があって」   「帰国子女」  「顔がふけているという理由だけで」 

 4 誰がイジメるのか(イジメは何を満足させてくれるのか)
  
 「その子は男子にけられたり、ものをなげられたり、めちゃくちゃにされていた。男子たちはとても楽しそうにしていたのを覚えている」   「自分よりも劣っているものを見てハラがたつのは自然の摂理だと思う。いじめはしょーがないことでしょう   「群集心理の中でまわりと違う存在を偏見の目でみてしまうのが僕がいじめをした理由...それにいじめをしないとそのいじめの矛先が自分に向くんじゃないかと思ったから...防衛心理が勝手に働いた」   「当時の私は罪の意識はまったくなく、心が麻痺していた状態だった」

5 次の標的になるという恐怖

「私はいじめらたくないから人に合わせるように生きている。その方が楽だから。そんな自分がいやだけど、仕方ないから」   「今度は自分がいじめを受けるだろうとみんな恐れ誰一人その子を助けようとしなかった.そして私もその中の一人である...本当に自分が情けなかった」   「私が怖かったことはその女の子をいじめないと自分のグループの子達からいじめたれるという不安がありました」

6 傍観者の経験

「助けたいのに助けたくない矛盾は私をとても苦しめた」

7 良心の経験

8 教師もイジメられる

「五〇代ぐらいの女の先生でした...ある日男子が女子を外にだし、先生だけを教室に入れて廊下からほうきやティッシュごみ箱などをなげて授業をボイコットしました。...先生は泣いていました。女子も泣いていました。でも男子は笑っています」   「中学のとき一人の先生がいじめにあって学校を辞めたことがある。その先生は気の弱そうな人で」   「英語の女の先生はしゃべり方がおかしい顔がおかしいなどで...一年間で次の学校にうつっていった」   「私の経験は中一のとき隣のクラスの先生がいじめられたことです」


U 2003年・近畿大学文芸学部・授業「イジメと倫理学」における収集。(148通のなかから

1 イジメられるとはどのような体験か?

「無視も暴力も靴隠しもされたことがない。ただ教室ではいつも皆遠巻きに私を眺めていた。必要な会話はしたけれど、皆他人行儀だった。...(略)...私にとって彼ら彼女らは、何が楽しいのか、何故そんなことをするのか分からない宇宙人だった。大学生になった今も宇宙人はたくさんいる。教室にも街にもTVの中にもいる。私は相変わらず宇宙人に対し、何も思わない。彼らを、馬鹿に、している、していたのかもしれない。どうなんだろう。この話をしたら友人に『不登校の可哀相な人だ』って同情されてたんだ、それでいじめられなかったんだね、と言われた」。   「ある友人Aから聞いた話です。Aには一人の友人がいました。しかしある日、その彼女に裏切られました。彼女は自分の彼氏が『あの子とHしたい』という要求をことわることができす、Aを彼に抱かせたのです。その事件のおかげでその彼氏も彼女も今現在監獄生活を余儀なくされています。警察の話だと、彼女はAと一緒のクラスの時以外中学でも高校でもいじめをうけており、学校には友達は一人もなく、話し相手もAしかいなかったどうです。唯一、彼女としてその子を受け入れ、体をもとめた彼氏だけが人とのつながりだったらしく、彼のいいなりになっていたのでした。Aはこう私にいいました。『いじめから彼女がゆがんだとしたら、彼女は悪くないかもしれない。長い時間自分も考えているが、重い罪を犯した彼女をもう自分は助けてあげることができない。手立てがつきてしまった。彼女のこれからの人生を心から応援するしかできない』と」。

2 イジメは私に何を残したか?

「そういえば『いじめた』経験は違うが、『いじめられた』体験を聞くと異様に不愉快な思いがする。彼らのマゾヒスティックでナルシシズムに満ちた甘ったるい言葉は個人的には虫唾が走る。それも何故なのだろうか。」   「私のイジメに関するトラウマは『自分を造ること』です。中3のときクラスでイジメがはやっていた。私はイジメられぬように常に中心グループでいつづけた。大学に入っても自分を造ることはやめられず、ハデな化粧モテル服装、明るいそぶりを続け、目立つ存在、『明るい自分』をえんじている。それが今の自分でみんなはそう信じている。造りすぎて造られた自分が素の自分になってきている」。   「最終的にその子はその学年が終わるまで不登校でした。...(略)...今でもその子は無視などに敏感になっています。返事をしなかっただけでとても恐がります。誰かが支えになってあげるしかないんです」。   「私は時間に救われました。自分自身で解決する術を持たなかったからです。可能性を広げることも出来るのにそれをしないお前はつまらない人間だと言われたことがありますが、私は私に出来る範囲の中で望み、行動することに決めています。いじめを受ける、精神的疾患がある、ないにもかかわらず、人にはできることとできないことがあり、できないかわりにできることもあるのだから、無理して疲れたり、人様に迷惑をかける必要はない。そういう意味では、私が本来生きようとしてい生き方を明確にしてくれたものの一つがいじめだったと思います」。   「標的はひんぱんに変わり...(略)...その空気が嫌だった。いじめを見ても、もう何も感じなくなる自分が嫌だった。結局私はその学校をやめた。理由の一つに『次の標的は私だ』と感じたことも挙げられる」。   「中学から高校までずっとです。...(略)...まず中学時代はどん底でした。他人がにくくてにくくてしかたがなく、何度も相手を殺してやりたく思い、すごくネクラになりました。そしてまた、このような自分も嫌になり、そしてこんな風に育てた親もにくみました。けれど高校にあがる頃になると精神も少しながら成長し、ずいぶん変わりました。...(略)...   四つ目に、なにより、私を愛してくれる家族や親戚、そして親友の愛情を実感し、それらを大切にしようと思えるようになったことです。これから私は、いじめ相手の考えなんかを大事にするよりも、大好きな愛する人達の言葉を大事にしようと思え、努力し、自分をみがくことの大切さを考えはじめました」。
「俺には、小学生の頃のはっきりとした記憶というものがあまりない。思うに、無意識裡に思い出そうとしていないのかもしれない。しかしおぼろげながら覚えているのは、小学校時代のほとんどの時期を、いじめとまではいかににしても、誰かから必ず虐げられて、時に人を虐げて過ごしていたということだ。そのころの俺はコンプレックスの塊のようで、その影響は今でも人付合いに受動的になりがちになるという形で残っている。また女性の肌に触れることに一種の恐怖症のようなものもある(多分、女子に虐げられたことがあったのだ)。中学に入る直前に空手を始め、心身ともに、特に精神面で鍛えられるという貴重な経験がなければ、今の自分はどうなっていただろうと想像するだに恐ろしい」。   「それどころか、中学以前の記憶がほとんどない。ある人に言わせれば、幼少期の記憶がないのは、その記憶が思い出したくもないほどつらいものであるかららしい。数少ないはっきりしている点は、いじめた側が私の反応をおもしろがっていたということである。それ以来私は感情を表に出すことが少なくなった。...(略)...真面目に素直に返した反応が周囲の笑いを呼ぶだけだと感じてしまったから」。   「1対全員だったのでとても辛く、クラブをやめてしまいました。当時は本当に苦しく、人付合いがしんどくて、女の子を信じられなくなりました。『どうせすぐ裏切られる』と思うようになり、他人、特に女の子と深く付き合わなくなりました。高校ではとても信頼できる友達ができ少しは変わり今もトラウマなどありません。むしろ一つよかったと思うことがあります。それは一人でいられるようになったことです」。   「中学生になってからは、自分を隠し、周りに合わせて生きることを覚えた。その頃もイジメは存在した。私はイジメの対象から逃れる為に人と関わりをできるだけさけた。思えばイジメの加害者はいつも男子生徒であった。女子高に進学した私はようやく本当の自分を出すことができた。しかし今でもやはり人と密接に関わるのは少しこわい。特に異性はなおさらである。いつになったら私の疎外感と孤独感は消えるのだろうか?」   「人を信用できなくなったのはいじめを受けて以来だと思う。またいじめを受けている自分を非情になさけなく思うようになり、自分が嫌いでしかたなくなった。しかし自分は運が良かったと思う。それは文学やいろいろな学問に出会えたことだ。文学の中には苦悩があり、悲しみがある。しかし小説の中にはそれをどうにかのりこえようとする人間がいる。私はいじめを認めたくないと同時に、いじめを負の経験として自分の中にしまいつつ生きたくないと思っている」。


3 イジメるとはどんな経験か?

「ぼくは小学校のころいじめられていました。...(略)...僕が本気で言ってることでも彼らはまったく聞こうとせずただ僕が話しているのを見て笑うばかりでした。...(略)...(中学に入って)いじめる側に立った時僕は正直言って嬉しかった。自分は誰よりも強い、誰よりも偉いと思って、いじめをしている自分に酔い、自信がついたと思いました。でも僕は間違えていたのです。いじめられる経験を持ちながら僕はいじめられる側の気持ちを全然わかっていなかったのです。いじめられる側の悲しみを苦しみを何もわかっていなかった。僕はそれに気づいた時、深い心の葛藤にさいなまれました。僕はこれからどうすればいいか?どうやって生きていけばいいか?それから長い間僕は暗闇の中でさまよい続けました。しかし高校生になり、ぼくは初めて本当に友達と呼べる人ができました。それで僕はこうゆうことに気づきました。いじめる側でもいじめられる側でもなく、人と接する方法を知りました。何も難しいことはなく、ただ心のままに相手に自分をぶつければいいんだと。心の接触を持って初めて人と人はつながるのだと知りました」。   (級友を自殺に追い込んだイジメの主犯格は)「中学時代の同級生で...その頃の彼は『良い人』だった。しかし卒業後たった半年で『悪い人』になってしまった。...(略)...そういう理由から人を『良い人』と『悪い人』に区別できなくなってしまった」。

4 誰がイジメられるのか?

A 或る負徴を負う者
「その子は先天性障害の持ち主で」「少し知的障害のある子」「少し知的障害をもっていた」   「容姿に特徴のある子、集団行動が苦手な子、またそれにコンプレックスを抱いてる子」   「生まれつき顔に赤いあざのある子」   「僕がどもりだったからだろうか?いじめられていたのでどもりがちになったのだろうか?」
B 誰もが



5 誰がイジメるのか?
6 何故イジメるのか?

「まず一つに自分自身へのコンプレックスだと思います。小さな時、私は太っていって内向的な性格でした。で、頑張って細くなって積極的な子になれたけど、今太く内向的な子を見ると、つい昔の自分を見ているようでイライラします。昔の自分が嫌だから、全然関係ないけど、第三者をイジメることによって快感を得ていたように思います」。   「(保健係だった私は)電話のコール。8回目で静かな声が受話器から聞こえた。まくしたてるように、慌ててt伝えるべきことを伝えた私は電話の最後にこう付け加えた。『...ちゃん大丈夫?無理せず、来たくなったら来いね』。その言葉を言った瞬間、私の中で甘美なものがめばえた。今彼女は私の情報を頼りにしている。今彼女は連絡したのが良い人(私)で良かったと思ってるはず。今私は彼女より優位に立っている。とてつもない優劣感。してやっているという満足感。それから私は頼まれもしないのに何度も何度も彼女をはげまし続けた。あの時一歩間違えたら...という危機感は今でも忘れられない」。   「イジメとは時にオイシイ場合が多々ある。遊び感覚のイジメはオイシイのだ。私はいろいろな体験からそう解釈している」。
「他に学校で熱中することがない。たぶん動機はそんなシンプルなものだったと思う。中学になり、いじめを通じなくても友達ができた時、僕はやっとイジメを否定することができた。率先してクラスのイジメをなくした」。

7 次の標的になるという恐怖

「自分がイジメの的になったらどうしようという不安でいっぱいだった。しゃべること一言一言に気を使っていたような気がする。少しでもおかしなことを言えばすぐにいじめられそうな雰囲気だった」。

8 ある日突然

「朝、学校にきたら席がなかった。昨日まで仲良く話していた友達が...(略)...私は透明人間になった。私だけ時間がとまっているように見えた。先生はいつものように授業をし、周りの人たちはいつものように笑い話をしてもりあがっていた。1ヶ月後のある日、突然、友達がいつものように話しかけてきた。透明だった私が人に見えるようになった。そしてまた、いつものように私の時間や周りの時間は流れていく」。   「小学校の頃仲良かった友達にいきなり無視されたことがある」   「いじめというのは大体突然友達だった子が裏切ることで始まる。そういうのを見ると人間というのはむなしい生物だと思う。そう考えるようになってから高校に入っても自らグループの中に入っていくのをやめた。元々一人でいれば裏切られることもなかった」。   「高校生の時、とても仲の良かった友達から突然無視される日が続いた。その時は無視される理由がわからなかったけど、友達に何もいえないままだった。そんな弱い自分がいやだった。毎日その友達のことで頭が一杯になり、食欲も出なくなって朝になるとお腹が痛くなった。今でもそのときの感じは鮮烈に覚えている」。

9 友情とは何であるのか?

「一番の苦痛は、体の痛みよりも、一番仲の良かった友達が口をきいてくれなくなったことだ。...(略)...ただ、友達とは何なのかということをよく考えるようになった。そして理想の友達像を頭に浮かべてしまう自分がいる」。
「携帯電話のメモリーの人数を自慢する人がいる。でもその中でいったい何人が友達だろうか...(略)...いじめというのはそういう見せかけの友情が産んだ産物ではないかと考えている」。
「しかし私は小学校と中学校の友達には今でも会いたいとは思わない。それはなぜかというと小・中学校の友達は陰口など本人のいないところで悪口を言っていたからだ。そのことに気づいた時から私は人間不信のようなものになり、今もそれをひきずっている」。
「あれから何年かたって、今、逆に私自身が人を信じることが苦手になった。一緒にいるときは笑っていろいろな話しをする友達でも、かつての私のように影で何を言ってるかわからない。さから本当の気持ちや悩みなんて絶対に誰にも言わないでおこうと思う」。
「その子とは元々友達だった。...(略)...一人の親友を失い、大勢の友達ができたのだ。あまり友達を作るのが苦手なぼくにとってその体験は奇妙だった。いじめはよくない。その子は嫌がっているのに、と頭ではわかっていても、いじめを続けた」。

10 傍観者であるという経験

「その時私は加害者であり傍観者でした。...(略)...他の子と同じように教室の外へ出ていく私。何も知らず一人誰もいない教室に入っていく彼女。...(略)...空っぽの教室に一人ぼっち。幼い彼女の心にどれだけの傷を残したのか私にはわかりません。そして恐くて聞けません。...(略)...いじめとは何と容易く、おそろしいものなのでしょう」   「でも一番は、私が結構面白く感じていた学校生活の中で、悲しい思いを持っている人を見せつけられるのが嫌だったのだ。私はいつもその人の方を見ないようにしていて、見るとイライラした」。   「なるべくいじめに参加したくない、その現場を見たくないと思って休み時間になるとすぐ外に遊びに出かけました。...(略)...六年生になって嫌だと思っている気持ちを表にだすことができた、それはとても薄っぺらで、つつかれると破れてしまいそうだったけど。僕の精一杯の「いじめ」に対する抵抗だった。たぶん僕はそのいじめられている女の子に嫌われたくなかったんだと思う。帰り道に会ったときに、お互い一人の時でいいから話しができたらと願っていた」。

11 良心の経験

「ある時、いつものように彼をいじめた後、彼が一人で泣いているのを偶然見つけてしまった。当時でも悪気があっていじめてた訳ではなかったので、非情にショックを受けた。それを境に私が彼をいじめることはなくなった。しかしその心の変化が後に訪れるもう一つのいじめにつながってしまうのである」(彼は次の標的にされてしまった)。   「僕はいじめる側、いじめられる側両方を経験して初めて気づきました。いじめは人間にとって避けて通ることができない道だと。いじめは『人生の永遠のテーマ』だと」。   「僕の弟は僕とはちがって、いじめる側の人間だった。しかし中学一年の時、学校に行かなくなってしまった。...(略)...彼は「いじめることについての倫理」を知ってしまったのだろうと思う。これはまれなケースだが、やはり罪の意識にさいなまれてつらいのだ。一時拒食症だったが今では回復に向っている」。

12 反撃

「一人ずつにわかれた時私はなぐりかかり逆に泣かせました。泣いても泣いても相手を叩き続けました。...(略)...イジメを受けいれれば相手は増長するだけです。元凶に対し立ち向かわねばならないのです。たとえわずかでも抵抗をみせればイジメはやむ可能性があるのだから」。

                                   この続きは部屋「
授業資料缶2」に掲載される。
 僕は去年まで長らく近畿大学で「イジメと倫理学」という授業をおこなってきた。また2008年からは立命館大学産業社会学部で授業「社会倫理」をおこなってきた。最初の授業に「君のイジメ経験をレポートせよ(レポートされた深刻な経験をフィードバックし共有するために、この授業では匿名という条件のもとその一部が抜粋されで公開される場合があることを前提にして書くこと、ただし、匿名でも公開されたくない場合は、その旨明記すること)」という課題を出すことにしている。ここで「イジメ経験」というのは、イジメられたにせよ、イジメたにせよ、また自分自身の経験であるにせよ、兄弟、親戚、友人等の経験であるにせよ、ごく身近な場面で経験されたイジメ経験を指す。
  こうした僕の経験共有化の試みは、僕の思想に基づいているが、それについてはこの証言集の最後につけた『創造の生へ――小さいけれど別な空間を創る』の冒頭部分からの引用を見てほしい。
  手元に残っている資料を公開する。

イジメ経験証言集
   
――近畿大学と立命館大学の学生の証言










































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































この部屋は、僕が大学の授業などで参考資料や文献として取り上げたものを、いつでも閲覧できるようにと開いたものです。しかし、それだけでなく、大学の授業の枠を越えて、われわれが討論を交わす際に参照に値する資料・名言・発言・文献リスト・等々多様に収蔵することにしました。たくさんのおいしい精神の缶詰がここに集まっていると考えてください。そして開けてみてください。
授業資料缶1
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学生たちの読後感想
    
   ――第5章「遊ぶひとは遊ぶ眼をもって――福森慶之介さん創作訪問記」への

              (拙著『いのちを生きる いのちを遊ぶ』所収)

ジョン・スチュアート・ミルについて

19世紀後半、イギリスの代表的な哲学者で経済学者。『自由論』を書いて、自由主義(リベラリズム)の代表的思想家となった。少数意見・異端者の積極的擁護こそが自由民主主義の真髄であると主張。民主主義とはたんなる多数決主義のことではない。多数派による少数意見・異端者の積極的擁護によって、多数派が多数派による少数派の抑圧に走らないよう自己自身をつねに相対化し、自己批判する機能を自らに備えてこそ、真の自由民主主義である、と主張。また彼は『女性の解放』を書いて先駆的な女性解放論者となった。
アメリカで「彼はリベラルだ」というと、少数意見の擁護派だ、異端派だという意味が込められている場合が多い。


『自由論』(岩波文庫)から
 

*       おのれの性格ではなくて、他人の伝統や習慣が行為を規律するものとなっているところでは、人間の幸福の主要なる構成要素の一つが欠けているし、また実に個人と社会との進歩の最も重要な構成要素が欠けているのである。(岩波文庫、p115

*       個性の自由な発展が、幸福の主要な要素の一つであるということが、痛感されているならば、また、それは文明、知識、教育、教養というような言葉によって意味されている一切のものと同位の要素であるにとどまらず、それ自体がこれらのすべてのものの必須の要素であり条件である、ということが痛感されているならば、自由の軽視される危険は存在しない…(略)…しかるに不幸なことには、一般の考え方によると、個人の自発性が固有の価値をもち、あるいはそれ自体のゆえに何らかの尊敬に値するものであるとは、ほとんど認められていないのである。(p115116

*       次のようなフンボルトの思想こそが広まってほしい…(略)…「人間の…(略)…真正なる目的は、人間の諸能力を最高度にまた最も調和的に発展せしめて、完全にして矛盾なき一つの全体たらしめることにある。…(略)…そして、この目的のためには、二つの条件、すなわち、「自由と状況の多様性」が必要である。これら両者の結合によって「個性の活力とさまざまなる相違とを」生じ、後の二者はさらに和合して「独創力」となるのである。(p116117

*       強力な衝動は、適当に均衡がとられていない場合にのみ危険なのである。すなわち、或る一組の目的と性向とが強力となり、これらのものと共に存在せねばならないはずの他の目的と性向とが、薄弱不活な状態に留まっているときにのみ、それは危険なのである。…(略)…或る人の欲望と感情とが、他の人のそれよりも一層強力であり多方面であるということは、彼が人間性の素材をより多くもっていること、したがって恐らくはより多くの悪をなしうるであろうが、より多くの善をなしうることも確実である。(p121

*       知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択をおこなうことによってのみ練磨されるのである。何事かをなすにあったって、慣習であるがゆえに、これをなすという人は何らの選択をもおこなわない。…(略)…知的および道徳的諸能力は、筋肉の力と同様に、使用することによってのみ改善されるのである。…(略)…自分の生活の計画を(みずから選ばず)、世間または自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない。自分の計画を自ら選択する者こそ、彼のすべての能力を活用するのである。p118119

*       独自の欲望と衝動をもっている人物、すなわち、その欲望と衝動とが彼の独自の天性の表現であり、かつ、その独自の天性が独自の教養によって発達しまた修正されたものであるような人物こそ――性格をもっている人物と呼ばれうるのである。p122  

  ■K.T  今まで悩んでいたことがほんとうにばからしく感じました。なんの不自由もなく、普通の生活を送れていることがどんなに幸せか思い知りました。福森さんは青春時代満足に学校に行くこともできず、ほかの誰かとそれほどかかわることもなく過ごされたと知って、そしてその問どんなことをしていたのか、なにを考えて生きていたのか知って、心を動かされました。
 自分自身の人生について改めて考えさせられました。自分はいま自分にできることを、しなければならないことをできているのか、考えました。福森さんの言葉一つ一つが私の心をつかみました。今まで私は誰かに評価されることが自分の価値だと思っていました。まわりからどう思われるか常にそれを気にして、問違いをはじ、正解を目指して頑張っていました。けどそれはなんの意味もないのだと気が付きました。正解も間違いも誰かが勝手に決めたもので、本当に大事なのは、自分の気持ちに正直になることなんだと気が付きました。福森さ
んの心の強さ、気持ちの強さはどこから生まれたんだろう。私は疑問に思いました。本にも書かれているように、嘘っぽい質問やありきたりな質問なんかしたくないけど、福森さんに色々教わりたい、生き方をもっと知りたいと思いました。『人生はノリ』この言葉は、これからもずっと私の心にあると思います。最後の段落の言葉、『ノル力なかったら、自分のなかの隠れたもの、次々引き出して、今ある自分の力超えてそれ以上の力で、それ以上のレベルの飛び込んでいくこと、できへんで一』は私にすごい勇気をくれました。『ノリ』という言葉は、わたしにとっていい言葉ではなくどちらかというと、悪い意味でとっていました。『ノリ』の言葉の意味を取り違えていました。人生はノルことが大事だと初めて思わせて貰えたと思いました。

 
■ M.H   福森さんは、「赤毛のアン」のような人だと思った。たとえ20年間、ベッドの上に釘付けでも、何か楽しいことを見つけ出す。物事を、生命を「遊ぶ」ポジティブさを忘れない。だから、生きていられる。どんな状況に追い込まれても希望の光を見失わないこと――外界から良い意味で遮断された、独立した彼の精神が、福森さんの持つ「遊びの眼」の正体だと感じた。
 しかしその一方で、彼は物事の深淵、その深さや暗さ、途方もなさを見つめる姿勢を貫くのだ。例えば、P201の、15行目の一節。
「夢と現実を逆さまに捉えることは、いつもいつも悪いことではない。」
 こう言わしめるだけの力――能力ではなく、福森さん自身から溢れ出る内なるパワーが、筆者の目には確かに、映ったのだろう。
 また、筆者が「胎内経験」や「産道経験」と呼んだ、「生の前まで辿って、もう一度この世に生まれ直す」という感覚には、私にも似たおぼえがあると言えばおこがましいのかもしれないが、それでも確かに今も私の記憶の中に在る。私の中に感覚として残っている。
 それは、私がひきこもりだった時。ばらばらに散らばってしまった私自身のパーツを寄せ集めて、どうにかこうにか人の形に組みなおし、もう一度この世に生まれ直した。圧倒的な暗闇から、自ら私という存在をもう一度産み落とした、と思う。
 筆者は具体的に「胎内経験」と呼んだが、私はどちらかというと「自己再生」という言葉が近いのではないかと思う。つまり、自分の意志とは関係なくこの世に産み落とされた受動的存在だった自分が、「自らの意志」でもう一度産道を通過することで、生きたいと願い、自ら「生きる」選択を選び取った能動的存在として、生きながらにして生まれ変わることになる。「 I was born」ではなく「 l bore me」となるのである。
この想いは、そうしなければ立ち行かない生と、その境遇、この生・この命への衝動と執着、そして懸命さ。それらが全て混ざり合って経験することができた、もしかしなくても貴重なものであったのではないだろうか、と、私はこの章を読んで気が付いた。
そして、福森さんの、ぎらぎらと光る眼。ぎらぎらしてて、それでいいんだ。私のように、生きるための障害を何も持たなくても、自ら進んで壁を作り出してしまうような人間。その存在。それでも、こんな私でも、こんな私だからこそ、光ることができるように精一杯、生きてゆくことが「強く生きる」ということなのだと、彼の眼は肯定してくれている気さえした。

 
■ T.R  普通「きらきら」が妥当かと思った。しかしここでは、「ぎらり」だとか「ぎらぎら」といった表現を使っていることに少し驚いた。「きらきらとした眼のこどもたち」などといったよく見かけるフレーズが、固定観念と化していたのかもしれない。
「音って風景。」この意味を考えると、本書に登場する人物同様、私も不思議な気持ちになった。どこからどこまでがわたしなのか、どこからが他人なのか。問いにとらわれた私は、考えていくうちに気分が悪くなってしまった。今まで考えたこともなかった問いに、脳が疲れ切ったのかもしれない。そんな気持ちのまま本文を読み進めた。
「死=誕生その以前=宇宙そのもの」この方程式がとても印象に残る。たとえば「誕生その以後」の先には、健常者が中心となって作られた社会や文明がある。健常者にとっての常識から生み出された世の中は、障害を持って生まれた方たちに、どんなに社会への疑問を突き付けたのか。そして自分自身の在り方への疑問も。その結論を「邪魔者」と片づけられることに、やるせなさを感じた。
 本書を読み進めながら劇団「態変」のビデオの映像を思い出した。映像の中の彼らは自らの身体をさらけ出していた。そして私は、「俺を見ろ!」といった激しいものを感じた。我意に、私はビデオにくぎ付けになっていた。幻想的な描写に、後に読んだ福森さんのイメージの世界と重なった。寝たきりで空想するしかなかったがゆえに、全てが美しく、わくわくさせるものでできあがっていた福森さんの世界。「キャベツ」と似たようなお話を聞いたことがある。ある盲目の少女が、大人になって目が見えるようになったお話だった。彼女はよく海に行っていた。目の見えない少女は、波の音、潮のにおいなどから、色鮮やかな美しい海を思い浮かべていた。そして現実の海を見た瞬間、彼女は落胆した。「私の海は、こんなんじやない」と。
 最近何かを創造した覚えがないとふと思った。それは、福森さんが詩を作る話の場面でそう思った。宿題やレポートを除いた、絵画や文章といったものを描いた(書いた)記憶がない。読んだり聞いたりといった受け身の行為ばかりだと思った。何十年も発酵し温めてきた福森さんの思想や感性を自ら爆発させるかのように、詩や学生運動をするシーンがとても心に響いた。自分はなんて無力的な毎日を過ごしているのかと。「別の道を行く必要がある」。この言葉を、これから学生生活を送るなかで、しっかり温めていきたいと思った。

 
■ O.H 私は即興が苦手だ。そもそも人前で何かするということ自体が苦手なのだが、即興をもなればひとしおである。例えば授業で発表をすることになると、綿密な原稿を作成し、実際に音読し、さらに息継ぎの場所や声の調子の微調整を加えていくといったふうに、十分すぎるほどの準備をしなければ気が済まないのだ。つまり私は何事にも完璧さを求めているのである。しかし、それは飽くまで自分のすることにであって、他人にまでは求めていないつもりである。とは言え、完璧なものとそうでないもののどちらを見たいかと言われれば、やはり完璧なものをと答えてしまうのも事実だ。だから、私は確実に《規範、一番最高なもの、正解》を意識しながら曲を聴くタイプだと思う。また、自分の好みに合う・合わないの判定興問題にする聴き方をすることが多いかもしれないという自覚も有る。だが。それゆえに、ライブ授業で福森さんのフルートの音色を聴くのがとても楽しみである。素直に音そのものを聴くというのは、一体どんな感じなのだろうか。その音は、一体どんな思いを私にもたらすのだろうか。「正しいか否か」や「自分の好みに合うか否か」など考える暇もなく、正しく音が自分の中に入り込み、また自分も音の中に入り込むというのは、今の私には想像もできないことである。けれ}ど、きっと驚くほど素敵な体験なのであろうことだけは想像出来る。「別な聴き方をする」という未知の世界、私はそれに興味を抱かずにはいられない。期待は膨らむばかりである。その経験を通して、私も自分のいのちと遊ぶということを知られれば幸いだと思う。

 
■ O.K  眼の話。遊びに必要な眼なのかどうかはわからないけれど、わたしは今回の話を読んでいてふと、けれど強烈に、自分の父親の眼を想像した。父は健常者だから、当然福森さんのような世界は経験したことはないし、見たこともないだろう。けれど、父の眼が時折、強く輝いていたのを私は今でも思い出す。彼の眼はきっと、福森さんのその遊ぶ眼とは違った遊びの眼、けれどもそれも、またいい意味での子供の眼だったんじゃないかって。そして、幼かった頃の私はきっと、そんな彼の眼を見たとき山田さん(この5章に出てきた)の眼をしていたのだ。触発され、どんどん自分の感覚が、世界が広がっていく感じ。直接触れて感じる、初めての確かな感触におっかなびっくりしている心と、けれどわくわく、うきうきと、逸った心はきっと山田さんの自分の言葉の発見の感覚と似ているものじゃないかって。外から啓発されてあふれだした気持ちが抑えきれなくなるくらいどうしようもなくなる感覚は、今だってそう。形もなくなるのだ、「これは? じゃあ、あれは?」と子供のように訊いて回りたい、それでもって、自分の納得する答えに出合えたのなら、それを周囲に言いまわりたい! そんな衝動的な思い。きっとそれは、瞳に浮かび上がって、隠しきれないものだと思う。
「別の道を行くことが必要やった」。人生が後戻りのできない一本道でないことをあっさり証明してくれた言葉。そう、見つけようとしないだけで、道なんてそこら中に広がっている。義務に縛られてその一本道をたどることに慣れた私が忘れていた事実。「絶対にこう進まなければならない」そんな電車の線路のようなものは人の人生には実は存在しない。高校から大学への進学を強要された気分になった受験シーズンのあの時の私は、もしかしたら、気づきかけて、担任にそれをうやむやにされたのかもしれない。昔、高卒でも就職ができていた父の生きた時代に、進学が絶対じゃなかった時代に、今わたしが忘れさせられようとしている何かがある気がして、見えない何かがが私の視界をふさごうとしている気がして、でも、慣れてしまっている私にはそう思うことへの確証が持てなくて、ただただ、どうしようもなく歯痒い。非常識と叩かれすぎて、違うことを否定されることへの恐怖が知らないうちに私に息づいていつのかもしれない。
 セッションの話。声と声とのそのやりとりに私が連想したのは対話、カウンセリング。私が経験したセッションたち。人とただ何気なく話していただけで、ふとした瞬間に自分でも思ってもみなかった、いい例え話を出させていたり、曖昧であやふやな感情にしっくりくる言葉をつけられたり。選択というノリ。それは私にとって、まさにここにあるように思える。「この気持ちを、いったいこの人にどう伝えようか! 嗚呼、伝わってよ!」そういう私の中のじれったい感情が私に必然的に、また偶然思いもよらなかった言葉を選ばせる。言葉はその場で相手の表情、言葉、動作、すべてを網羅した上での選択を私に無意識のうちに迫ってきているような気がする。カウンセリングはそれを今度は他人の力を借りながら自分を相手に試みること。他人の相槌を頼りに内側の隠れた私に会いに行く。言葉を整理しながら、ゆっくり、ゆっくり。そうして、驚くのだ。「ねえ、そこの私。ほんとうはそうだったの?」って。自分が気が付いていなかった自分の感情が、思考が、語る私の口からどんどん溢れ出してくる。言葉遊び、色遊びはこれを優しくしたもの。強引に分け入っていくような声のセッションを文字や絵や音楽を媒介にして他人と、時には自分と語ること。私はそう思
った。