経験を共有化することの意義をめぐって

             ――拙著『創造の生へ――小さいけれど別な空間を創る』冒頭から

 
第1章 「イジメ」経験から考える

<経験>と君の生きる力としての思想 まず僕は君に伝えたい、次の言葉を。第二次大戦前の日本で、吉野源三郎という一人の優れた知識人が子どもに向けて心を込めて書いた『君たちはどう生きるか』という本がある。そのなかの「真実の経験について」という章で、著者の分身である登場人物の「おじさん」が主人公の「コペル君」にこう語りかける。

 「君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ」1。

 僕は思う。この言葉は、われわれが日々おこなっている<経験>という問題を考えるうえでも、また思想ということを考えるうえでもとても大事なことを語っている、と。「思想」という言葉を聞くと君はこう感じるかもしれない。それは自分にとって縁もゆかりもないとても遠い言葉、教授たちの独占物、あるいは君が一度も覗いたことのない図書館の奥まったコーナーに埃をかぶって鎮座ましましている言葉だ、と。

 だが、ここで「おじさん」は「本当の君の思想」とわざわざ断り、しかも、それは世界の精神史を飾る名だたる哲学者の書いた本からやってくるのではなく、君自身のおこなったかけがえのない「ただ一度の経験」からやってくるといっている。その〈経験〉が「その時だけにとどまらない意味」としてその後の君のなかに誕生させるもの、それが君の思想なのだ、と。
 「本当の君の思想」と彼がいうのは、実際に君の生き方・行動の仕方・他人への接し方・物事の判断の仕方、等々を方向づける君自身のなかの精神的な力を問題にしたいからだ。別な言い方をしてみよう。たとえば「君の生きるうえでのポリシー」と。すると、誰だってそれぞれの仕方で自分のポリシーをもって毎日を暮らしているのがわかる。あるいは、自分がそれをもっているとはとてもいえず、自分の生き方はまだまったく場当たり的だ、と。あるいはまたこうかもしれない。何かもっと別のこれまでとは全然違った生き方を自分に可能にする新しいポリシー、それを今自分は切望しているのだ、と。その生きるうえでのポリシーという問題と君のおこなった<経験>とは切っても切れない関係にあると、彼はいうのだ。
 この問題の関係をもっと深くわれわれに引きつけるために、僕は君に提案したい。ここでいわれている「感動」という言葉を、これからの僕と君の議論では、「生きることを励ましてくれた」というようなポジティヴな意味でだけ受けとらないことにしてみよう、と。

 たとえひどくネガティヴなことであれ、われわれの心を激しく揺り動かし、その<経験>を忘れえぬ人生の出来事として深くわれわれの記憶に刻みつけた「ある感動」、それが問題だ。だから、ここでは「生きることを励ましてくれた」どころか、その反対に「生きることに絶望することになった」否定的な感動も含めて、その両方にまたがって、その感動がわれわれに与えた「ただ一度の経験」がどのようにわれわれ各自の「本当の君の思想」と関連してくるのか、その問題を考えてみたい。

「イジメ」経験は何をもたらしたか? そこでまず、君には唐突に思えるだろうが、僕は君との議論を敢えて一つの否定的な感動経験を取り上げることから始めたい。今日の日本の若者と子どもたちにとって最も共有された普遍的な否定的経験とは何か? それはイジメの<経験>だ。問題を鋭く抉り出すためにはこの〈経験〉ほどに最適なものはない、と僕は思う。なぜなら今日の日本の若者と子どもにとって、「生きる」ことをこれぐらい鋭くまた普遍的な広がりで問題として浮かび上がらす<経験>はないからだ。(以下、略)


   注1  この本は、戦前の日本の知識人の良心を示す素晴らしい本として岩波文庫に収録されている。吉野源三郎『君たち       はどう生きるか』、岩波文庫、五四頁
イジメ経験証言集(続)
授業資料缶2
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 2008年
 立命館大学産業社会学部・授業「社会倫理」で収集

 収集にさいしては、次のことを明示して収集した
      1. 提出されたレポートに機械的に番号を打ち、そのレポートから印象的な個        所を抜書きした。レポートは番号で示す。
      2. ・・・部分は断りがないかぎり省略部分を指す。
      3. コメントを加えた場合は*印でコメントを示した。

 したがって、以下並べられるbヘ全く機械的に集めたものから順番に取り出したものである。ナンバー間が接近していることは深刻なイジメ経験が想像以上の高頻度で学生の少年少女期に遍在していたことを物語っている。



















  bP
 ・・・中学一年生の時・・・只、悪事を為すのが格好良いからという虚飾めいた自己満足のために、今思えば酷く幼稚ないやがらせをした。・・・別に憎んでいた訳ではない。只、成績優秀で通っている自分が悪いことをしている刺激が心地良かった。・・・三年の時には「頭の良い奴は嫌いだ」という理由でクラスの女子からいじめられた。無視。いないものとして扱われる。担任の教師は知っていながらも、「あんたは賢いから我慢できるでしょう!」と言った。私はつくづく実感した。私は只成績が良いだけ、そこにしか価値のない人間なのだな、と。だが、どうしてだろう。・・・他者経験は、暖かいものにしろ、痛いものにしろ、意識の底で化石化してしまう。全ては私の経験した自分《イジメ》の記憶と今なお克服できない自己嫌悪と陶酔の狭間の葛藤の前には、「小さいこと」で片付いてしまうのだ。   勤勉だけが自分の価値と信じ、県下トップクラスの進学高校で学年一位になり、予備校の模試でも全国9位をとるほど只勉学に勤しんだ。しかし次第に学校の成績、テストの点でしか評価されず、人に嫌われたり見下されるのが怖いばかりに必死になって勉強する自己の虚しさにとらわれ、精神を病み、まともに勉強できなくなった。   国立大学の受験に失敗し、自分の唯一の価値の喪失に、自分が許せなくて、手首を切った。寂しくて夜の繁華街をうろついた。更には食べて、贅沢して太っていくのが許せず、ろくな食事をせず、体重が30キロを切り、心臓が止まりかけるまで痩せこけていった。私は未だに、食べて生きようとする自分の欲望にまみえた身体が許せず、食べることが酷く苦手で戸惑う。また、やはり勉強ができない自分は許せない。・・・   私は毎日悉く自分を否定する。欲望をもった人間であることを全身で拒絶する。そして特異であろうとする。「みんな」と一緒になれない。「みんな」で片づけられるのが怖い、なりたく、ない。・・・   しかし私は知っている。これが本当は自分を保つ唯一のマスタベーションだということを。誰からも本当の意味で、成績以外のもので承認されているという感覚をもてない私は、こうして可哀想な自分を突き飛ばし、後で秘かに抱き締めてやっている。「こんなに死にたいのに、しんどいのに、生きて、可哀想だね」と。痛みで、自分を嬲ることでもって、はじめて、許せない自分を何とか存在させられる。   自分は物質的にも環境的にも恵まれすぎているのに、どうしてこれ程虚しいのだろう。・・・「みんな」が、「社会」が、嫌いだといいながら、どこかで、弱い自分を認めて可哀想だといって、可愛がってくれる「誰か」がいればいいのにと期待してしまっている。   私の中には三人の私がいる。欲望をもった卑しく人間的な私と、それを拒絶し、叱咤する私と、秘めやかな慰めを自分でするしかない孤独な寂しい私と。三人はいつも《イジメ》あって、分裂し、他からも自己からも疎外されてゆく。私は、一体どうしたらいいのだろうか。

  5 私自身、これまでの経験では、イジメをしたり、見たようなことはあまりない。・・・ (しかし、このレポートは次のように続いていく。彼は小学校高学年の時仲良しの友達Aに対して陰口がたたかれるようになり、彼へのイジメが始まり、自分はその陰口を全然当たっていると思えず、理解できなかったにもかかわらず、臆病から、自分も加わってしまう。Aは引っ越ししてしまう。)
  ・・・私はその頃から、他人がどう考えているのか分からなくなった。陰口という言葉があるが、悪口とは本当に陰で言われるもので、表には直接でてこないということを悟った。そして私は次第にあまり友達を話さなくなったし、何よりも社交性がなくなっていった。・・・正直に言うと、今でも自分以外の人間はどうでもいいと思っている。もっと言うと、自分がどうでもよくなってきたと思う。夜眠る時に、このまま目が覚めることがなくてもいいと思う。しかし、自殺願望はまったくない。とにかく、ひたすらに全てのことがどうでもいいのだ。これまで書いたことを振り返って、私はこの姿勢こそが、これまでイジメを認識できなかった理由だと思う。まるで根無し草のようなこの生き方はイジメ経験だけが原因だとは考えられないかもしれない。しかし、私のなかでイジメを引き寄せて考えた時に、こう書かざるを得ない。

  
11 中学1・2年のころ私たちのクラスは学年で最も「問題のクラス」と言われていた。その理由は・・・・クラス全員で(ほぼ全員で)担任の先生をイジメていた。先生は、県外から来た人であり、方言、なまり、イントネーションが違っていた。私たちはそのことをからかった。今思えば、なぜあそこまで先生のことを嫌っていたかわからない。しかし当時の私たちは先生にいたずらすることでクラスの団結を強めていたようにも思える。・・・・3年になると担任が(*二人に)増えた。・・今思えば、私たちのクラスの団結力は向かうべき方向とは全く逆に向いていて、それをいけないことと理解しながらも、先生へのイジメを続けていた。一人一人がクラスからの孤立を恐れていたのかもしれない。先生をイジメていることで、クラスの一員として存在していられるという安心感を得ていたのかもしれない。今は、先生に申し訳ないことをしたという思いでいっぱいだ。

  
12 小学校3年生の時・・・・私は標準語、周りは和歌山弁、私は完全に浮いていました。その時の経験はイジメと呼べるものかわかりませんが、少なくとも私の幼かった心はひどく傷つきました。「死ねばいいとみんな思っているよ」、その子は言い放ちました。・・・・その後特に何があったというわけではないのですが、女の子たちは自分から進んで私と仲良くなろうとはしませんでした。何か、いつまでも一線を引いた関係でした。今から思えば、その線は私がわから引いた、自分を守るための線かもしれません。この経験から私はその後、人を簡単に信じなくなりました。・・・・人間がみな自分と気が合う、友達になれるわけじゃないという事を知る事ができました。この点において、或る意味私は感謝しています。

 
 14 中学生の時・・・・私はからかいの標的となり、イジリと称するいじめは次第に大きくなり、暴力に発展しました。のがれられないコミュニティーの中の人間関係で私にとって戦うことは立ち向かうことではなく、適応することでした。耐えること、暴力をふるわれても常にへらへらしていることで私は他者との関係を築きました。卒業し、・・・・高校で新しい友人グループも形成し、その中にはイジメはなかったのですが、私は不登校になって、一年ほど引きこもってしまいました。その後なんとか復帰して今に至りますが、本当の自分を内にひめ、或る種偽りの自分を使った人間関係を築きやすいというのは今の自分の中にまだ存在していると思います。・・・・今の日本でセカイ系のコンテンツが流行するということは、そこに人間関係と愛情を通して社会・社会の価値に目を向けることができなくなっているのではないか、と感じました。

  
25 姉が中学の時ものすごいいじめにあいました。理由はおとなしいからという訳のわからない理由です。学年中の子たちに無視をされたり、教科書を破かれたり、物を隠されたりしました。本当にすごいいじめで3年間ずっと続きました。親がいくら文句を言っても「いじめられる側にも原因がある」と、信じられないことを担任から言われました。・・・・姉の盛り付けた給食をクラス全員が手をつけなかったり、廊下を歩いていたら雑巾を投げ付けられたり、「お願いだから死んで」という手紙が入っていたり・・・姉はほんとうに強いと思います(*1日も休まず通いとおした)。けど、今でもトラウマがあるし、人を信じることができないようです。・・・・・ただ、姉がいじめに負けず登校拒否にならなかったのは、いつでもどんなことがあっても親が姉の味方でいたことが大きいと思います。いじめを乗り切った今だからこそ、親も姉も、いじめを受けたことで家族が一致団結したし成長できたと言えるのです。

  
26 私はいじめられたりしないようにクラスの中心的グループにいつもいるようにしていました。むしろ、中心グループで目立っているのがかっこいいし、当たり前、そんな風に思っていました。しかし、中心グループの中だけの世界では中心にならないようにしていました。・・・・(*苛められている)その子を助けられないで見ているだけの自分を感じていました。だからこそ、中心グループの中では皆に合わせ、嫌われないように、自分をつくってばかりいたように思います。そんな風にして、小5から高1までの長い期間を、自分自身をつくって生活していました。正直その頃の学校はまったく楽しくありませんでした。いじめられていなくても、自分をつくること、皆に合わせることがしんどくて、楽しくなかったのです。高2の時

  
55 ・・・・さらに、「私に原因があるのかな」という自己否定でいっぱいになった。精神的に辛くてたまらなかった私は、次に、「部活をさぼりたい」という意思表示をした。これは私にとって、とても勇気のいることであって、「私は毎日部活に行くべき」、「いじめられてないはず」という自分の自信との葛藤の末、とった行動であった。私はいじめられている自分を認めることが何より嫌だったのだろう。そして、私が次にとった行動は、親に打ち明けることであった。「部活をさぼりたい」という私に対して母親はうすうす気がついていたらしく、思っていたよりも落ち着いた反応であった。また中学生の女子独特の雰囲気を知っている姉もとても力になってくれた。・・・・強くないままの私を2人は受け入れ、絶対に味方だということをつねに話してくれた。私は、裏切らない味方がいることで気が楽になった。そしてずっと慰めてくれるわけでもなく、しばらくしてからは、解決するために逃げてはいけないと背中を押してくれた。

  
60・・・・その苛められていた子は台湾出身で上手く話せなかったり体臭のことを言われたりして・・・・・ある日、掃除の時間に、男子から追いかけられて、スポンジに水を含ませたものを投げつけられていました。そして最後はバケツの水を頭からかけられました。私はその出来事はやりすぎで驚いた記憶があり、今でもよく覚えています・・・・そのびしょぬれになってうつむいていたその子の顔はすごく悲しそうで泣いているようでした。・・・

  
63・・・・自分が孤立したくないために、必死に友達に同調して、自分をひたすら守っていた。今となっては信じられないが、自分が孤立するのが怖くて最低な行為をとってしまっていたと思う。私は時分が仲良くしたいと思う友達ではなく、自分のクラスで一番派手で目立つ子と一緒にいるようにしていた。そしてその子が嫌いな子だいれば自分も嫌いだという風に装い、一緒に悪口をいったりしていた。始めは嫌いでもない子に悪口を言うのが苦しくて、なんとかその子の悪口を言わないですむようにしようと思ったが、そうすると自分がグループから離れていってしまう感じがして怖かった。・・・・今思えば、友達ではなく奴隷だったのかもしれない(* リーダーの子に対して)。・・・・私は正直あまり中学校は楽しくなかった。自分が弱かったせいで、結局自分の中学生活も台無しにしてしまったように思う。

  
65 私はいじめた経験がある。小学校高学年当時の私はひどく思い込みの激しい正義感を振りかざす愚者だった。私のまわりに小学校低学年の頃から一緒にいてくれた友人ですら、何か少しでも私の理に反することを言ったりすれば、口をきかないことにした。理に反することを指摘することはなく、陰湿に、まわりくどく、友人と呼んでいたはずの仲間を陥れた。・・・・しかし何人目かの時から、はみ出し者にされているときの友人の暗い顔を見てるうちに、「これが正義か?」と思うようになった。醜く虚しく嫌な気持ちになった。・・・・母から幼いころから口をすっぱくして言われている「無視するな」の戒を思い出した。すると、自分が今まで陥れてきた友人よりも余程自分の方が人間として屑のように思えてきた。・・・・人との交流を自らの手で断った。・・・・高校に入った時、人との付き合い方がわからなくなっていた。必要以上に依存したり、必要以上に遠ざかった。知っているはずの「ちょうど良い距離」がわからなくなった。自分の気持ちにもっと近づいてきてという気持ちと、俺の中に来るなという気持ちがないまぜになっていた。大学に入ってから変わろうとした。しかし、やっぱり「ちょうど良い距離」がわからない。他人が酷く近寄りがたい存在になっている。おそらく学校での自分、サークルでの自分、撮影の仕事での自分はすべて違う自分になって、守っている。

  
66 私は小学校高学年の時いじめられていました。・・・・コトバによる暴力でした。いつも集団で私の悪口をいうのです。一対一だとそんなことはなく、仲良くフツーの話をするのですが、5〜10人と集団になると、みんなで手拍子をしたりしながら、罵声をあびせます。その人たちはまさか自分がイジメテいるのだとは感じていないと思います。でも私自身が傷ついて心に傷を負っていれば、それはイジメです。・・・・・(*あるとき)我慢ができなくなって、一番親玉らしい人に殴りかかりました。その人はまさか殴って来るとは思っていなかったらしく、少しびっくりしていました。それが唯一の私のイジメに対する抵抗でした。今ではみんな大人になり、別に私も彼らと会うことを拒みません。しかし、私の心は傷ついたままです。いつか彼らに「私はあの頃こういうキモチだった」ということを知ってもらいたいです。今の彼らなら、それがどういうものか分かってくれると思うから。

  
67 ・・・・自分は傍観者というかたちでそのいじめに参加していた。とにかくその子と喋らないようにしていた、その子と関わることは「悪」であり「裏切り」で、自分の立場が揺らぐことにつながったからだ。クラスが変わってもその子はいじめられ続けた。・・・・学年中にその子がいじめられているのが知れ渡った。・・・・傍観者の数だけがどんどん増えていった。その子がクラスにいると、その教室内で共犯めいた仲間意識が生まれた。自分はそこから逸脱しないように必死に「内」にいようとした。そして彼女を「外」のものとして追い出した。実際に彼女が「外」の存在だったのではなく、私たちが「外のもの」と認識することで、そういう風に作り上げてしまったのだと思う。最初は仲間外れになんてされていなかったから。いったんそうなると、やめることができなくなって、それが当たり前になってしまう。でもそれを「当たり前」と思ってしまう自分が時々怖かった。

  
2010年・立命館大学産業社会学部・授業「社会倫理」にて収集
  
 
 
  bP
:...小学生5年の時...(或る男子から、引用者)「キモイ」「生きる価値無い」など本当に言われ続けた。女友達は「気にしたらあかんで。私たちがいるやん」と励ましてくれたが、いざ、イジメの場面になると女友達は皆、私から距離を置いた。自分も犠牲者になる恐れがあったからだろう。私は担任の先生に相談し、先生が彼と話をしたことがあったが、彼は「何もしていないし彼女とは仲良しだ」という風に言ったらしく、先生も「あんたのことが好きだから意地悪しちゃうんのよ」と聞き入れてくれなかった。...カウンセラーにも相談したことがあったが、...担任と同じことを言った。カウンセラーなど頼りにしないとその日、私は誓った。もう学校に行くのが限界で、家のドアが重くて体が石みたいに動かなく、学校に行けない日が一日だけあった。その休みを機に、担任の先生が授業をまるまるつぶして、私のイジメについて真剣に話し合いをクラス全体で行ってくれた。そのときクラスの皆が思っていたことを話してくれた。私は、皆が見ていてくれたことに涙があふれ、彼も謝ってくれた。...先生によってイジメは運命が変わると思ったし、もう私みたいな思いを誰にもして欲しくないという考えが根付き、友達に嫌がらせをしている人をいればすぐさま止めにいくようになった。

  
bR:...このような経験をし、私は人に嫌われるのがとても怖くなった。陰口をたたかれるのではないか、なにか嫌な思いをさせたのではないか、と常に考えていた。だから、私は人に合わせることを覚え、差し支えのないことしか発言しなかった。本当の自分を知って、相手は自分を好きでいてくれるかがとても不安で、深い話はしないようになった。そのうち、人と話すのもしんどくなって、友達の会話が聞こえても聞こえないふりを、いないふりをすることもあったほどだ。自殺願望などには至らなかったが、本当の自分を殺すという意味では、これは内面的自殺だったかもしれない。

  
bS:...小学校に入学して半年ほどたったころ...(或る男子から)担任がいない場所では常に罵詈雑言を浴びせられた。私が使った道具、施設はことごとく皆から使用を避けられた。「感染するぞ」、「近寄るな」「人殺し」。2,3日もすれば精神は限界に近づいてきた。しかし、親にも、先生にも、誰にも相談できなかった。いじめられている自分は悪い子だ、という意識が私の脳内を支配していた。悪い子である私は、いじめられていることを知られれば、「しようがない子供だ」と見放されることを恐れたのである。先生の前、親の前ではいい子でいたかった、見られたかったのである。先生や、親の前ではいい子であると思われるよう気が抜けない毎日が続いた。寝る前に考えるのは、「やっと、一日が終わった。でも寝て目が覚めればまた一日が始まってしまう」ということだった。...この時の経験は私の人間形成に多大な影響を与えた。人をなかなか信用できない。周りの目が異様に気になる、いい子であろうとする、自分の意思を表明できない。この私の性格が私に対して牙を向いたのは大学三年生の時であった。...周りからの期待を裏切らないように、落胆されないように、積極的に仕事を担当し、頼まれた仕事は断れないでいた。周りからのプレッシャーとオーバーワークは私に「うつ病」として跳ね返ってきた。...どうすれば後遺症を和らげることができるのか、それが私の現在の問いである。

  
bV:...中学生のとき、いじめられた...それは何の前触れもなく始まり、一年間以上続いた。学校の通い教室に入るたびに殴られたり蹴られたりした。私は自分の性格上誰にも言うことができず、ただただ耐えるだけの日々が続いていった。何回も死にたいと思ったがぎりぎりのところで死ぬのが怖くなったり、いじめる奴に負ける気がしたりして自殺はしなかった。いじめの首謀者たちを殺したいと思ったことは事実だが、それ以上に周りで傍観し囃したてていた奴らが許せない。その人たちのなかには小学生のとき仲が良いと自分が思っていた人もいたのが余計に許せない。...「こいつは裏切るんじゃないか」とか「どうせ裏では自分のことを嫌っているにちがいない」という気持ちがどんどん出てきて、人付き合いが下手になったと自覚している。いじめられた記憶を消すことはできない。...今自分が疑問に思うのは、近年騒がれている鬱病や自殺の増加などの問題との関連性だ。...いじめの増加も関連していると思う。

  
bX:...中学の時...いじめを受けて部活をやめたときの喪失感はすさまじいものでした。自分が根本的に社会からつまはじきにされてしまい、居場所を持たないままにまったく価値のない人間だと感じました。思えば半年以上もいじめに耐えたのも、臆病にもこの社会的な居場所の喪失というものを恐れていたからだと思います。自分の半生を振り返ってみたとき、あの部活との決別しすべてを失った日に、私は一度死んだんだと思います。社会的に、内面的にも完全に抹殺されてしまったのだ、という感覚がずっと残っています。私が一度死に、それまでの自己を失ったと感じるのも、その日を境として、人生の内容がまるっきり別人のように変化したからでした。私は何らの集団にも属さずに孤立することを好むようになりました。...生活のうえでもこれまでになかったような虚無感や不安感を感じるようになりました。またいじめをうけてから、自分が他人から攻撃されているのではないか、と過剰に意識するようになりました。その結果、ひとから嫌われることを以上に恐れるようになり、みじめにも必死で良い人を演じるようになりました。いじめという経験から私が感じた問い、それは愛や友情や善良さといった人間のいっさいの倫理に対する懐疑です。...最後に、...弱い自己を肯定されること、あるいは自己を自分で肯定するということはとても大切まことだと思います。自分自身の心の声を聴き、それに配慮することは、本当の意味で、生きる行為に繋がるのではないかと思います。
  
14 : 小学校のときであった...このいじめには決定的な主犯格がおらず、被害者・加害者が入れ替わることさえあるという少し変わったものだった。そのためか、私はそのころから強く人の様子を窺うようになっていた。小学生にしてこのようになきもちになるということは、自分自身相当プレッシャーを感じ、避けられたくないという思いが先行していたということになる。...あの時の自分は間違いなく自己主張するということを忘れ、他者に同調することで、皆とともにいたいということを優先させていた。自分自身の気持ち、すなわち、自我があまり出せなかったという意味で、私の内面は死んでいたと感じる。

  
15 : ...軽いいじめにあった...移動教室があればおいていかれる、一緒にお弁当を食べていても、私に話しかけてくれない。私が話すと、そっけない返事がかえってきて、また私ぬきで会話がすすめられる。私はどんどん話すことが怖くなっていった。授業中は、私抜きのメンバーで手紙交換をしている。くすくす笑っている。きっと私の悪口を書いているんだろうなと思った...しばらくは目を見て話すことが怖かった気がする。みんなの前で発言すること、声を出すことが怖かった。私の話はおもしろくないから、またいじめられるんじゃないか、私はぶさいくだからまたいじめられるんじゃないか、とおもっていた。...この経験によって、私は、自分を磨くようになった。...結果は悪ことばかりではなかった気がする。

  
16 : ...今考えてみると、いじめたほうもいじめたほうで自分という人間を受け入れてほしかったのではないかという気がした。先ほど述べたいじめた子は決して目立つタイプではなかった。しかし、なかなかそれを口に出せないために、いじめという行為に出たのではないか。そのような気がした。いじめというのは...自分という人間を他人に認識させるための行為だということもできる。

  
17 : ...小学生のとき...A君へのいじめは始まった。内容は机や黒板に落書きは当たり前で、机にのりを塗ったくり、A君の水筒にトイレの水を入れるというものにまで至った。当時はいじめなければクラスの中心選手から標的にされるという雰囲気が漂っており、みんな黙認していた。そして私はそんな現状を疑問に思い、A君をかばった。すると女の子たちは、はじめいじめを黙認していたはずなのに、私を支持しだした。それとともに、いじめに参加していたはずの男の子たちも私のまわりに集まるようになり、いじめの中心にいた男の子をいじめだした。このような過去から、「敵をつくることで味方をつくることができる」ということを学んだ。

 
 18 : ...これらを思い出すと、友達は多かったが、どっちからも嫌われたくないとても卑怯な奴だったのだと思う。色々と他人に気をつかって生きてきて、そういうのが面倒くさくなって、とてもしんどかった思い出である。しかしその頃、ロックやパンクなどの音楽にはまっていたので、音楽だけがリアリティに満ち溢れていて、自分は最強だと思うことが出来た。つまり、音楽でしか自分の存在を確認できなかったのだろう。私が考えるには、...愛、友愛というものでしか、人間は心の底から満たされることはないのだと思う。その愛は存在する意味を感じさせてくれるもので、つまり人間は、存在する意味を与えてくれる他者からの愛が必要なのではないだろうか。

 
 19 : 私は小学校5,6年の頃いわゆる<いじめ>をしていた。...当時の私の考えのなかに<いじめ>をしているという感覚はなく、いま思えばとても恐ろしいが一種のゲーム感覚を抱いていた。...そのように物事を自分中心に考えていた私は、中学の部活で洗礼を受けることになった。...それがとても辛かったことを今でも覚えている。そのような逆体験をしてはじめて人の痛みがわかるようになった。そして他人の感情に敏感になった。...この年になってイジメの対象にしたことのある友人に対していいようのない罪悪感にさいなまれることがある。今でも親交が深く、信頼もしている友人に自分はとんでもないことをしえしまった、という思いである。思い出話に花を咲かせていても、「いつあの事件の話をされるかわからない」という暗い感情がこみあげる。心の底にそのような思いを抱えたままで友人に接していることがふいに苦しくなることがある。...自分の過ちを口にする羞恥や嫌われる恐怖に負けて言えないままである。...経験は忘れようとしてもなくなることはなく心の奥に刻み込まれており、今の私の思考に影響している。自分の暗い部分は誰にも話さずに生きてきた。そのためか、心の底から信頼できる友人はいないように思う。でもそれではいけないと思う。

  
21 : 私は卒業式を欠席しました、理由は、小学校6年生の4月から始まったいじめによるものです。...私は学校を休むようになり、両親は私をなんとかしようと働きかけてくれました。警察に被害届を出し、いやがらせの手紙の筆跡鑑定をしてもたい、私は驚きと恐怖を感じました。私に手紙を送りつけていたのは、...「友だちになりたい」と私に近づき、私がいじめの対象になっていることを知りながら「何でも相談にのる」といって来た女子生徒でした。私たち家族は学校とその女子生徒の保護者に訴えました。しかし、(両者・注)は「いじめられる側にも原因がある」という言葉を向けてきました。それから私は登校拒否をせざるをえませんでした。このいじめによる経験は、幼い私に思想を植え付けました。それは「人を信じてはならない」ということ、「繋がりの数だけ裏切りがある」ということです。それは今も変わりません。中にはイジメを受けた人のなかで「いじめが私を強くした」と言ってる人がいますが、私はそうは思いません。幼い頃に経験したいじめによって、私は、明るい青春時代を奪われ、親友を持つ喜びと、人を信じること、信頼されることの安心感を生活から奪われたといえると思います。他人を自分の領域の中に入れないことで心の安定、精神の安定を保っているといえます。これを...教科書によるところの自己の単独化と呼ぶのであれば、イジメの数だけ将来的な孤立を形成しているのではないでしょうか。...(いじめによる・注)傷をひろげないために、私は単独化という手段で以て自分を守る。これが、私がいじめ経験から得た、私の<思想>です。
  
24 : ...中学2年の時...悪ふざけが過ぎたと反省して...すぐに謝りましたが、彼は無視をして一向聞く耳をもちません...「謝罪⇒無視」、最終的にこの流れが最悪の結果に結びついていきました。...私は、「1クラスの生徒ほぼ全員に丸1年近く無視され続け」たのです。彼は野球部の一員でした...(最近、その頃のことを或る友達が、注)「野球部を敵に回すとどうなるか、何をされるかと考えると怖くなった」といいました。...最終的には、私がキャラ変(無理矢理に自分自身のキャラクターを矯正・変更)することによって、「いじられキャラ」として地獄から這い出ることができました。しかしその選択は私にとって屈辱の選択、なぜならば、それは憎悪の対象である野球部員たちに媚び続けることを意味していたからです。当時、私はほんの一瞬ですが「自殺」ということを意識しました。...拭こうにも母校は中高一貫校だったので、以降4年間、私は屈辱に耐え続け、耐え抜きました。

  
25 : ...彼がイジメにあっているのはクラスメイト全員が知っていた事実ではあったが、悲しいことに誰一人として彼を救える者はいなかったし、どうすれば解決に向かうのかなど知る者はいなかった。...なぜその40人は《孤立者》《積極的にいじめることでサディスティックな快楽を感じる人間たち》《傍観者》という三者にしかわかれないのだろうか。たった一人の人間でもいいから、《孤立者》を救おうと頭を割って出てくる者がいないのだろうか。

 
 28 : ...(先生に)「なんでいじめるの?」と聞かれても私は言葉が出てこなかったのである。...今になって考えると、小さい頃は純粋だったが、その反面とても残酷だと思った。その子の気持ちなんかはまったく考えず、自分のやりたいように、または周りの空気に流されて、等、動機なんかはほとんどないのである。...今でもわからないのが「なぜいじめられたのがその子であったのか」とうことである。これはいくら考えてもはっきりした答えがでてこないのである。みんなと比べた時にちょっと変わっているからなど曖昧な答えしか出てこない。いじめの対策はできても、そもそもなぜいじめが生まれるのかという根っこの部分がわからなのが不思議だと思う。

 
 31 : ...小学生のときいじめられた経験がある...どんどん自分に自信をなくしていった。人に好かれようと人に合わせた。他人から自分がどう思われているかいつも気になった。毎日、今日は誰かが「かまってくれる」かもしれないと願いながら学校に通った。そんな孤独の真っ暗闇に光を与えてくれたのは、友達になろうと訪れた最後のグループの彼女たちだった。...この経験は一生忘れることのできない辛いものだが、経験して本当に良かったと思う。まず、人の痛みがわかるからである。ひとりぼっちの人をほっておくことができない。(これは偽善かもしれないとよく自分と葛藤する。しかし、たとえ偽善であったとしても、ひとりぼっちより誰かがいてくれることがどんなに心救われるか私は知っているから、しゃべりかける)。次に、いじめは絶対にしない。いじめられる精神的痛みや孤立感は相当辛いので、いじめは最も卑怯な手段である...しかし今でも、「後遺症」により自分を好きな人はいないのではないかと思ったり、孤独感に襲われるときがある。

 
 30 : ...友人Aは、人を信用することができないと話す。なぜなら、人に裏切られた経験があるからだ。Aは中学生のころ、とても中吉田と思っていた仲間に急に無視をされたらしい。...「私はこの人と仲良しだ」と人を信用するからこそ、いじめられた時に「裏切られた」と感じ勝手に傷ついてしまう。それだったら、初めから他人を信用しなかったら傷つくこともないという主張だった。私は、これは「自分を造ること」と「他人を見下す」という2つが混ざり合った「内面的自殺」だと考えた。本当は「私たちは友達だ」と信じたい自分がいるが、それをもみ消す=自分を創る、「こんな奴らのためにいちいち傷つくのも馬鹿らしい」という「他人を見下す」感情が混ざったような目を彼女はしていた。

  
35 : 私はいじめられ、いじめに同調し、いじめる3役を...すべて演じきった一年間、自己形成に最も関与したのが、いじめられたことでその仕返しをし、いじめたくなったという点であった。いじめることが苦痛であったにもかかわらず、いじめられていた立場からいじめることになった自分に価値を見出し、それを自分のステイタスだと勘違いしたのである。さらに年を重ねていくうちに自分のステイタスを上げることをやめなかった私という存在は高校卒業まで続いた。誰にも馬鹿にされない、一番強い人間、私には逆らえないという状況をつくり出し、本来の自分という存在がわからなくなっていたことにも気づかず、「あるはず・あるべき」の論理から抜け出せなくなっていた。これが昔の自分の問題視すべき所だった。...小中高と同じ環境にいたことで今まで出会うことのなかった様々な考え方をもつ友人、異国の地である大学は、私を「あるはず・あるべき」の論理から解放してくれた。そして「自信」が持てるようになった。その「自信」とはイジメの経験からつくりだされた「自信」ではなく、真の「自信」であると思う。

  
38 : ...苛められた人の身近にいたという記憶は私の心にとても強く残っている。物心ついたころから私は常に苛めの横で育ってきたような気がする。...もうひとつの記憶は中学生の頃の記憶である。...私は苛め自体にはまったく関わっていない。横で何もせずその苛めを見ていた。そのときに、その人は苛めている人でなく、私にむかってはさみを投げてきた。いつもよく話している私が、そんな状況の中、何もしないで横にいるのが悔しかったのではないかと思う。...私はこれらの経験から集団というものの怖さを学んだ。集団は人の感覚を麻痺させるし、それが一人に与える大きさは倍以上のものになる。まらその集団に属している一人一人が、その集団に対して怯えを持っていると思う。次に自分が苛められるのではにかという恐れが苛めを起こすのではないかと思う。苛めなくても横で見ている人たちもその恐れから何も言うことができないし、行動を起こすことができないのではないかと思う。集団は生活していく上で必要なもので、集団がある以上は、その恐れは付いてくる。だから苛めをなくすことはとても困難だ。


 2011年立命館大学・産業社会社会学部授業「社会倫理」収集

 bS:…Bちゃんの言葉は日に日にエスカレートし私を見下して話すようになった。私は、先生に目をつけられたくないためBちゃんから離れて他の子と遊ぶことはできなかった。本当に辛くて、学校に行きたくなくて、お腹が痛くなった。私は一人っ子で、両親から過剰に甘やかされて育てられたため、両親に話すと心配するし、何より学校に報告されると思った。私は、Bちゃんからの罵倒をききたくなかったし、かといって解決する方法もなかった。…しかし、Bちゃんが私の悪口を言うことですっきりするならば、ずっと言わせておこうと思った。…心の中でBちゃんを(人の悪口をいうしか楽しみをもたない人間だと、)見下していた。私は悪口を言われている間、全く話を聞いておらず、別なことを考えていた。私のこのような考え方は今も心に染みついており、悪口やわがままを言う人に出会ったら、それで気が済むなら自分の許容範囲内であればやらせてあげようと考えるようになった。

 

 bT:小学校の中学年から高学年の頃、女子八人の仲がよいグループで、毎回ルーレットのように標的が替わるといういじめを体験した。グループ全体でその子をいじめるというよりは、リーダー格の女の子が標的になった子を無視し、私たちはただ次はあの子か…と思うだけである。標的は授業中に配られる上の切れ端に書いてある名前によって決まる。…グループ全体が共犯といえるかもしれないが、私たちはリーダー格の女の子がいないところでは互いに慰め合っていた。そのため、リーダー格の女の子が標的になることはまずない。…次々と標的が替わるという事実を受け入れた上で、私たちは互いに助け合っていた。しかし、自分が標的でないときの安堵感は大きい。また、リーダー格の女の子と一緒にいると強くなったような気がしたのも事実だ。いじめられている子が独りぽつんとしている可哀そうだと思う一方で、どこか優越感に浸っていたともいえる。…そういったいじめが続いていた時、標的になった同じグループの子が、「もうこんなことが繰り返されるのは嫌だ」と突然リーダー格の子に猛反発しだしたのだ。…そのとき、リーダー格の女の子は近くに落ちていたハサミを持ち、その子を壁に押しつけ、首元にハサミを突き付けた。その子は「やれるものならやってみろ」と怖気づくことなくいったところで担任が教室にはいってきた。自分より立場が弱いと思っていた子が、急に自分にはむかったことが余程ショックだったのか、それ以来リーダー格の女の子はとても穏やかな性格になり、反発した女の子に対して非常にびくびくした態度をとるようになった。

 bU:小学校5年生の頃、…一部の生徒が授業妨害をするという形で教師いじめをしていた。…数名の生徒だけでおこなわれており、自分も含めた他の生徒はただ黙っているだけでした。…先生なのだから大丈夫だろうという考えがあったことで、先生を助ける必要を感じなかったのだと思います。しかし、教師いじめと授業妨害は収まることなく続き、5年生のカリキュラムが半分以上消化できずに進級することになりました。…未だにこの教師いじめが何故始まったのかということだけは、いじめをおこなっていた生徒も含めて誰も理由がわからないままでいるというのが不思議です。 

 bX:いじめの構造は複雑だ。単に加害―被害の関係でなく、或る場所での加害者が別の場所では被害者の場合もあった。影響力のある人がいじめの傍観者でいることが、そのグループ内で立場の弱い人に加害者になることを許容している場合もあった。私は、グループを行き来して仲裁に入っていた。私がしたのは、被害者を加害者から一時的に遠ざけること、被害者とたわいもない話をして関わること、加害者が被害者をいじめないように加害者の悩みを聞くことだ。…男子と女子のグループを行き来できた。保健室では、いろんな悩みを持つ人が集まっていた。特に加害者がどんな悩みを抱えているか知ることができた。加害者は被害者に何かされたから怒っているわけではなく、加害者は家庭の問題などで学外で悩みを抱えていることが多かった。ただ単に被害者を保護、加害者に制裁をではなく、状況は背景を観察し、いじめに至った原因を理解することが必要だと思う。…加害者と書いているが、私が保健室で困っているとき話を聴いてくれたのは加害者の人たちだった。生徒に暴言を吐く教師がいたが、それはいじめではないのか。いじめ対策のためのスクールカウンセラーは何かしたのか、傍観者ではなかったか。そして、私がしたことは本当にいじめ減少につながったのか。いまだにわからないままだ。 

12私は、中学生の時にいじめに加害者として関わった。担任の先生に対して、いたずら電話などの陰湿ないじめをおこなった。その発端は、先生がクラスの女子生徒を泣かしたという些細なことであったが、そこからクラス全体で先生に対する攻撃が始まった。…それによってクラスの団結が強くなっていき、いじめはさらにエスカレートしていった。団結が強くなっていくにつれて、その輪から外されるのを恐れて、誰も止めようとはしなかった。「あいつが悪い。俺たちは正義だ」と友人の生徒が言っていたのを今もよく覚えている。当時はクラスの皆がそれを疑わなかったし、まるで悪を打ちのめすヒーローのような気分で、いやがらせをすることに快感を覚えるようになっていた。いつの間にか善悪が入れ替わっていることも知らずに。今考えるぞっとする話である。…(先生が)どのような思いで授業やホームルームに臨んでいたかを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。この体験を通して、私は、いじめとは、理由はどうあれ、敵を作って攻撃することで自分を守りたいという心理の下におこなわれるこのだと考える。

 13…(仲良くやっていたはずが)それがある日、突然話しかけても無視をされるようになった。それどころか、私の知らないところで影のあだ名をつけられ、教室の中はもちろん廊下ですれ違うたびにたくさんの人に悪口をいわれ、笑われた。それまでクラスの中心で笑っていた私はその一転の様に衝撃を覚えずにはいられなかった。他にも、トイレに入るたびに扉をノックされ、トイレが出来ずに外へ出ても「臭い」「キモイ」などと言われ笑われることもあり、階段の上から鞄を頭上に落されたりと、心身共に辛い思いをし、それからしばらく下を向いて猫背であるくようになった…あるときその友達(仲の良い)の一人にも好きな人をばらされ、「○○○のくせに」と笑い者にされる日々が続いた。なぜこんなことになってしまったのか、後で徐々に分かったことだが、…(仲の良かったはずの友達の一人が私をねたんで、嘘の情報を流し)…三年の後半にようやく普通の生あkつが出来るようになった…高校時代…(一年の)担任がいじめにあった…その先生は独特なところがありユニセックスな雰囲気があった…いつも先生は授業中泣いていた…その先生は一年が終わったときに高校を辞めていった。…私がいじめから抜け出すことができたのは私自身が我慢の限界を迎え、直接に私に対してさまざまなことをしてくる本人たちに対し思っていることをぶっつけたことがきっかけであった。少し乱暴であったが、お互いがお互いに対し思っていることを直接言い合ったことにより、その後私たちのわだかまりがなくなり、いろいろなことがおさまっていった。 

 172週間ほど学校を休んで久しぶりに登校すると、クラスの全てが変化していた。…以前の可哀そうな私(男子にいじめられて)でなくなると、女子の興味は私でなくなり、私はいないかのように避けられ、今度は新たにいじめられるようになった男子を、私以外の女子総出で擁護するようになった。きっと私は、彼女たちの守っていたいという欲を満たすためのモノでしかなかったのだ。そして私は、初めて本当の独りを感じた。…避けられだした小学生のあの日から、私は女子にとても気を使って生活している。それは、避けられた原因がわからないために全て私のせいにして、自分の心の中だけで自己解決したために、「女子」という括りで言動が疑わしく見えて仕方がないからだ。…いつ嫌われるかわからないという恐怖がいつも付きまとう。「どうせ私は性格がよくないから…」と、常に思っているために。…これらのことは全て私の中で消化し、他の方向から考えたことがないのだ。自分以外の誰かに話せば、これらのことについて新しい発見があるかもしれないのに。だが、一生話せないだろう。今のところうまくいっている人間関係も、心の底では疑っているために。一度人間が怖いと思ってしまうと、一生ついてまわってしまう。いじめは、人を一生不幸にしてしまうものだ。」 

 20…しかしながら、大学に入り、まさに今現在、私が所属している学生団体の中でいじめが横行している。そのいじめの構造は、上司(上回生)と部下(下回生)という縦関係の中でおこなわれていることに加え、仕事ができるかできないかという指標をもって、上司間、上司と部下との間、部下間において横の関係でもおこなわれている。(上司は)ときには人格否定ともいえる言葉でその人に対して卑下や愚弄をおこなう…周辺は傍観者となっている 

 22…「可愛そうだ」と思いながらも、自分がいじめの対象になるのを怖れ、傍観者であり続けた。「私はいじめに関与していない」、そう自分に言い聞かせながら。…次は私の番だった。…翌日から話しかけても無視されるようになった。いじめに耐えられなくなって泣いたこともあったが、それでもどこか冷静に「私だって最近まで友達をいじめていっぱい傷つけたんやから、いじめられて当然かもしれない」と思っていた。子供ながらに、自分がいじめに耐えることで罪を償っていたのかもしれない。私はいじめられている期間中、意地でも学校を休まなかったし、誰にも相談せず明るく振る舞い続けた。そんな私の態度がつまらなくなったのだろう。いつの間にか彼女と、以前のように話すようになった。ここで私に対するいじめは終わった。 

 23…Aとは気が合い仲良くなった。…Aの性格がだんだんとわかってきて、少し怖くなった。というのも、Aは友達や他人の悪口陰口ばかりを言っていたからである。…しかし、周りのたくさんの友達から「みんなの悪口を言ってるけど、あんた(私のこと)の悪口は本当に聞いたことないわ」と聞いた。…Aはみんなから軽い無視をされるようになった。…私もAから離れた。…しかし、Aは私が思っていた以上に私のことを必要としてくれていたようで、何度も電話やメールがあった。去る者は追わずというような性格で、木が強くて少しひねくれていたAが必死に私との仲を取り戻そうと頑張っている姿を見て、私はAを避けていたことが申し訳なくなり、こんなに自分を思ってくれる人は大切にしなければならないと思うようになった。だから素直な気持ちをAに伝え、また仲良くなった。 

 27…私は悪い子たちと縁を切りたくなったのである。その理由として、勉強がおろそかになり、高校受験期にこの子達とつるんでいたら駄目になる、と不安を覚えたからだ。他にも、悪いことをするたびに罪悪感が募っていた。…そしてその気持ちが自然と伝わったのだろう。ある日から私は今までいたグループの子たちから無視されるようになった。一緒にいても、無視をされるか、罵声をあびせられるかであった。だが幸いにも、私はすぐ他のグループの子と仲良くすることができた。…ある日、私は今までいたグループの子たちと喧嘩をすることになった。…教室で泣きながら大喧嘩をしたことを覚えている。だがその時、向こうから初めて「ごめん」と言われた。その時、私は今まで葛藤していたものが、ふっと軽くなったような気がした。その後、グループの数人から、リーダー格の子とは縁を切ったからもう一度仲良くしてほしい、というメールが来た。だが私はそのメールに返信をしなかった。まるでその子に言われていじめをしていた、という風に受け取れたからである。このメールの返事を無視したのは、私の最大の仕返しだったと思う。だが後に、私も軽い気持ちでいじめをしているつもりが、された側には許すことのできない出来事なのだ、と思うと、とても虚しい気持ちになった。 

 28…小学生の時に…いつも自分が嫌われたらどうしようと脅えていたように思う。権力の強い女の子に従い、仲良くうまく立ち回ることに必死になる。今思うと、小学生にして社会に出た時同様、いやそれ以上に気を遣って生きていたと思う。…女の子は幼い頃から、ものすごい関係社会の中で育つ。だから、女性は男性を騙せるんじゃないかとも思う。よく男友達からも「女って嫌いなこの前でも、平気でにこにこして振る舞うよな、怖いわ」と聞く。私もそうだと思う。…中学生の時は…私はいつも、今誰が嫌われているかを聞いて、助けるという選択肢などないかのように、ただただいじめの情報を聞いていた。いじまは回るから、一度経験した子は自分がいじめにあったことの復讐をするように、次のターゲットの子をいじめる。よく先生は、「自分がされて辛かったことは、人にしたらあかん」などと言っていたが、そんなことは、中学生では理解できなかったんだと思う。…中高のときは一人でいることがすごくいやだった。トイレもみんなで誘っていったし、友達といると安心していた部分もあった。しかし、今は学校来ても、友達がいない授業ばかりの日は、誰とも話さない日もあるくらいだ。 

 29…小学校、中学校の頃イジメを受けていました。…我慢して卒業すれば関係を切れる。高校に入れば…と先のことを考えながら中学校までを過ごしました。高校では良い人と出会い…性格も多少明るくなりました。しかし相変わらず嫌われることへの恐怖心は消えなかったです。大学に入ってからもアルバイト上の相談などはできますが、性格や恋愛の話など私個人の核となる問題は恐怖心から誰にも言えないし、自分で解決したり消化したりしています。また人を見下し、冷めた見方をすることで自分が傷つくことから逃げ、また自分を納得するようにしてしまっています。 

 30…私が小学生5年生から6年生の時、隣のクラスではいわゆる学級崩壊といった状態で、授業はおろか出席も真面目に取られていない現状でした。…クラスの生徒が、クラス内のイジメは一切しない代わりに一丸となって教師にいやがらせをする、そんな変なチームワークが出来上がってしまっていました。朝先生が教室に入ると一斉にみんなが机を後ろに引く、出席のときも誰も返事をしない、体育の授業は自分たちが好きな競技をする…しかし、…あっさりと保護者達の要望によって先生が交代となり臨時のクラス替えがおこなわれることになりました。すると今までの教師いじめがあっさりと終わり、あんなに騒いでいた男子生徒たちも新しい先生のもとでおとなしくなってしまいました。…今にしてみるときっとあの男子生徒たちは疲れていたのかなという気がしてなりません。つまり、教師イジメした理由はきっと、教師いじめをやめてしまうと次はクラス内の誰かが標的となっていじめが行われていたのではと推測します。言い換えてみれば、クラス内の生徒たちのイジメに対する不安が、生徒たち自身ではなく範囲外の先生をいじめることによって解消されていたのです。…いじめの大多数は、みんなが持つ、いじめられたくないという願望から発生してしまうものなのだと実感しました。

 33…高校生活がスタートするとほどなく…(高校から入ってきた外部生の)その子が話し出すと、机をがたがた鳴らし始め、その仲間たちも一斉に彼女の声が聞こえなくなるまで鳴らし出すといった行為が始まり…、一学期が終わり、二学期の始まりには、その子はいなくなっていて、担任から「○○さんはここを辞めて、家の近くの高校に編入しました」と聞かされた。みんなすごく驚いていたが、それにもそれほど関心がよらず、彼女の存在も初めからなかったように元の生活に戻っていくだけだった。…学校の辞めるほど思いつめていたというのがすごく意外で驚いたことを覚えている。私は、他人が見ている以上に当事者としての思いが別の次元で存在することを感じた。平気なように見えた彼女も、本当はすごく傷つき、誰か特定の仲がいい子がいない自分を気に病んでいたのかもしれない