呼びかけ
早稲田の杜の記憶・編纂員会
友人の皆さん!
お元気ですか?
かつてあの早稲田で「六八年」をシンボルとする若き闘争の日々を共にした友人の皆さん! 今は、それぞれ思想を異にし、だからまたあの日々への評価も、したがってまたその記憶の持ち方も異にするとはいえ、しかし、あの日々を共にした皆さん!
私たち数名は、あの日々の記憶を『もう一つの学生運動――早稲田の杜の記憶』(仮題)という一冊の本(あるいは数冊の)にまとめ上げるというプロジェクトを立ち上げ、「早稲田の杜の記憶・編纂委員会」をここに結成するに至りました。
そして今、こうして皆さんにこのプロジェクトへの参加を呼びかけます。
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昨年二〇一八年は、象徴としての「六八年」の五〇年目にあたるというので、あの闘争の日々を回顧し、その歴史的意義やそこに孕まれていた諸問題を論じる幾つかの回想記や評論が出版されました。このテーマで特集を組んだ雑誌もありました。振り返れば、そうした記憶の提示、編纂、それをめぐる考察の試み、等は既にこの十数年来様々におこなわれてきました。
しかしわれわれの視点に立つとき、私たちはこう考えました。それらの試みにはあの闘争の日々のリアルな記憶とわれわれそれぞれの様々なる想いが真に深く反映されているとはとても思えない、と。二つの理由からです。
第一は、書き手が、実際にあの闘争の日々の実体験者であった場合でも、おおむね運動の中心的指導者に限られていたことです。そして第二に、大半のそうした出版物はいわゆる「全共闘」ないし「新左翼」諸党派の側にいた人間たちの視点からのもの、ないしはその視点に無批判に追随する評論家やジャーナリストのものであり、そうした彼らの視界においてはわれわれが現に生き担ってきた記憶は「日共・民青系」の一言で括られ、旧左翼ないしはほとんど当局派に近い第二組合的な位置に立つ、およそその歴史的性格において注目するに値しないものとして片付けられてきたという点です。(ごく一部例外はあるにせよ)。
皆さん!
「六八年」を大学新入生として迎えた者を基準に据えていうならば、われわれは既に七十代前半かあとほんの数年で七十に届くかのどちらかですね! 既に鬼籍に入ったかつての「戦友」とも呼ぶべき親しい仲間を「あぁ、もう彼は、彼女はいないんだ」と指を折って数える年代にわれわれはいます。「自分自身の頭脳がまだ現役で働けるのもあと十年か!」と覚悟を決めてやるべきことを果たす、そういう年齢になりました。
そこで提案です。
まず、何よりも自分自身のためにあの日々についての自分の証言を書き残すことにしませんか? そうすることは、人生の最後の時期のスタートを切るうえで何よりも自分にとって有意義ではないでしょうか? そのためのいわば仕掛けとして、このプロジェクトを捉え、参加し、使ってくれませんか? 人間は、敢えて「書く」という行為に打って出るためには、締め切りがあり、原稿量の上限と書式と執筆ルールが既に定められている発表の場というものが現に存在し、それが自分を待っているという仕掛け、これがあった方が良いのです。そして、多くの友人がこうした理由からこのプロジェクトに参加していただけたなら、結果として、われわれは実にユニークな貴重なーーまだほとんど為されていない――歴史の証言集を、一言でいうなら、まさに『もう一つの学生運動――早稲田の杜の記憶』を共同の力でこの世に送り出し、残すことができるのです。
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さて、「この呼びかけ」の冒頭でこう書きました。
「今は、それぞれ思想を異にし、だからまたあの日々への評価も、したがってまたその記憶の持ち方も異にするとはいえ、しかし、あの日々を共にした皆さん!」と。
右の観点は、このプロジェクトの大前提です。鋭い対立さえ含みかねない互いの差異と、にもかかわらず、その差異の共存のみならず共同が可能となる、或る根源的価値ないしエートスの共有、その大元にかけがえのない記憶の共有があるということ、これが大前提です。
このことに関わって、まず二点を記します。
第一点は、右の大前提が生きた働きとなって作用できるための方法的仕掛けとして、皆さんの原稿執筆の作業に様々な刺激とイメージを与えるために、ホームページ「早稲田の杜の記憶」を直ちに立ち上げ、そこにこのプロジェクトに託する様々な想いや期待、あの日々をどういう視点から回想すべきかという点に関する問題提起、何人かの実際の第一次原稿、編纂委員会の作成した「年表」や編纂した資料等を掲載します。また、編纂作業を遂行するなかでその都度生まれた編纂委員会からの皆さんへの新提案や意見募集の記事を掲載します。
このプロジェクトを始動させるために、編纂委員会はとりあえず編纂構想(章立てを中心とした)と制作方法についての提案を皆さんにおこないますが、これは固定的なものではありません。皆さんとの共同作業の生きた過程がそれを絶えまなく改善し成長させるはずの、生きた構想と方法であるべきです。ホームページ「早稲田の杜の記憶」はこの二つの、つまり皆さんの執筆作業と編纂構想・方法、その両者の成長の場となるべきであり、またわれわれは必ずそうする決意です。
ですから、皆さんが、第一次原稿を書き終えたら、すぐそれをこのホームページに発表してくださると嬉しいです。というのも、そういう形でわれわれは相互に刺激しあうことで、また編纂構想と制作方法を成長させることで、きわめて野心的な企画(座談会・インタビュー・特別記事の編集・当時の貴重な写真やビラ等の提示、等々)を孕む、かつ各自の自由奔放な個性的なスタイルの証言の束として、最終的にこの『もう一つの学生運動――早稲田の杜の記憶』を実現したいからです。
なお、この点で急いで付言しておくと、ここに集成される文章のスタイルは回想のエッセイはもとより、かなり硬質な評論や思想表明、あるいは基軸を当時の日記や、その後に書いたとはいえかなり以前の文章の再録に置くもの、創作なさった詩や短歌あるいは小説の或る部分の開示、様々であってよいと考えています。この点でも、そういうスタイルの文章でもよいのかという刺激がホームページ上に飛び交うことを期待します。これを機会に自伝の執筆や初の小説の執筆にのりだす友人が出るやもしれません。それを期待します。
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第二点は、「もう一つの学生運動」のその「もう一つ」性をわれわれはどこに見るかという問題です。まず、このこと自体がこのわれわれのプロジェクトの当のテーマ・追究せんとする問題そのものであり、それをめぐっての討論の場におのずとこのわれわれの本自体がなるのだということを再確認したうえで、まさにこの討論を開始するための一石として敢えて次の問題提起をおこないたいと思います。
キーワードは、「民主主義精神」と「反暴力」です。次の問題系をわれわれは身銭を切って担ってきたということこそ、われわれの共にしたあの闘争の日々のアイデンティティではないでしょうか? そして、それはわれわれのかけがえのないアイデンティティであったがゆえに、それによってこそあの日々のわれわれがあらためて検証され、或る場合は裁かれることともなるのだ、とつけくわえるべきではないか、そう考えます。
問題系の第一はこうです。すなわちわれわれは、「大学解体」ではなく、あくまでも「大学民主化」を目標に定め、あの当時のいわゆる「全共闘」なり「新左翼」諸党派の「革命幻想」に纏わりつかれた「左翼小児病」的過激主義に反対し、「社会的改良」の地平を堅実に歩きとおす姿勢こそが最も重要であると考えたという点です。
問題系の第二はこうです。――この「民主主義のよりいっそうの実現を追求する」という姿勢は、いわゆる「全共闘」なり「新左翼」諸党派の観念的な「革命」主義が、そうであるがゆえに必然的かつ内在的にテロリズムへの傾斜を抱え込み、現にそうなったという事態、そしてこのテロリズム、言い換えればきわめて独善的な「前衛独裁主義」は本質的に反民主主義であったという事態、この事態に身をもって対決するものであった。そして、実はこの問題系は同時に二十世紀マルクス主義に宿啊の如く纏わりついていた「前衛独裁主義」に対してもわれわれを対決せしめるものではなかったか、という問題系であったという点です。
そして第三は、そうであるはずなのだが、その最後の点、くりかえすなら《二十世紀マルクス主義に宿啊の如く纏わりついていた「前衛独裁主義」》に対して対決するという課題、それを当時われわれはどこまで為し得ることができたのか? という問題です。
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この点において、われわれの「早稲田の杜の記憶」の核心には二つの悲劇が据えられることになります。かの一九七〇年十月十六日、闘争を共にしていたわれわれの一員である山村政明君が穴八幡神社境内で革マル派による文学部キャンパスの暴力支配に抗議し、日本の全ての学生運動の平和的共同と統一の実現を訴えるメッセージを携えながら、彼の人生が抱えた苦悩に耐え兼ねて焼身自殺に走った事件、ならびにノン・セクトの学生であった川口大三郎君が革マル派によって中核派のスパイとみなされ、リンチの果てに文学部自治会室で殺害された事件です。当時の文学部キャンパスの在りように深くかかわるこの二つの比類のない悲劇は、革マル派の早稲田暴力支配の野望との闘争こそがあのわれわれの闘争の日々のかけがえのない独自性、われわれだけが集中的に担うこととなったわれわれのアイデンティティとなったという問題を端的に表現するものです。
なお、くりかえすなら、この「われわれのアイデンティティ」とは、前節の最後に触れた「第三の問題系」を孕む問いとしてのそれです。この点については、編纂委員の清があくまで個人として書いた「われわれ自身への問題提起」を付録2として添えたいと思います。何度もくりかえしますが、われわれの『もう一つの学生運動――早稲田の杜の記憶』は「今は、それぞれ思想を異にし、だからまたあの日々への評価も、したがってまたその記憶の持ち方も異にするとはいえ、しかし、あの日々を共にした」われわれが、だからこそ繰り広げる討論の書、そのための記録の証言を持ち寄る試み、それを果たすことによって、あの自分の若き日々に挨拶を送り直す、そうした証言集になるべきなのです。
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最後になりました。次のことを提案させていただくとともに、第一次構想案と第一次執筆要綱を付録1として添付いたします。
提案とはこうです。われわれはこの出版事業をクラウドファウンディングの手法を使って遂行することにします。出版基金への出資額は一口****円とし、一口分の出資に対して『もう一つの学生運動――早稲田の杜の記憶』が出版された暁には一冊が贈呈されます。執筆者は、その執筆分量に応じてさらに出資口数が増加します(編纂委員会からご提出くだされた執筆計画に応じてその増加分をご提案させていただきます)。
出版を担当するのは、編纂委員の一人であり、当時第二文学部生(一九七〇年入学、一九七四年卒)であった小倉修氏が経営する「はるか書房」です。
編纂事業の進展にともなって、第一巻では執筆分量をカバー仕切れないことが明白となった場合は複数巻による出版となります。そのさいは、あらためて新計画ならびに出資口数と贈呈巻・部数との新しい関係を提案させていただきます。
皆さんの参加を切にお願いいたします!
問題提起編

清眞人
『もう一つの学生運動――早稲田の記憶』プロジェクトに取り組むにあたって、われわれ自身が自らに如何なる問いを与えるべきか、われわれは如何なる問いの下に立つべきかという問題をめぐって、昨年雑誌「季論21」秋号に掲載した「『二十世紀マルクス主義の挫折』」問題と社会主義思想の再生可能性」という論文を改作することをとおして私の問題意識を述べたい。
私はその論文で、エーリッヒ・フロムの中期の代表作『正気の世界』に展開されている「マルクス主義」に対する彼の批判を現時点で振り返った時、私を襲う感情についてこう書きだしている。ちなみに、同書が米国で出版されたのは一九五五年、日本で翻訳出版されたのは一九五八年である。われわれはいわゆる「七十年安保世代」に属する。そのわれわれにとって「六十年安保」は最も重要な《神話》であった。「六十年安保のように闘おう!」が合言葉だった。そう指摘したうえで次のように続けた。引用しよう。
私は思わず嘆息する。
『正気の世界』はその《神話》の五年前に既に出版されていたのだ!
そしてあらためて私は確認したくなる。米国での出版の二年前(一九五三年)にスターリンが死去し、一年後(一九五六年)にかのハンガリー動乱が起きたことを。私の世代について話を戻せば、一九六八年は「七十年安保」の開幕の年であった。その八月、チェコの社会主義体制に強力な民主化をほどこそうとしたかの「プラハの春」はプラハに突入したソ連軍の戦車隊によって圧し潰された。あの頃日本の左翼青年はベトナムに対するアメリカ帝国主義の侵略を糾弾することに夢中だった。では、この怒りと同じほどの怒りをもって、あの頃のわれわれはソ連のこの軍事介入を糾弾しただろうか?
私の記憶を振り返れば、一九六四年から数年、北朝鮮の社会主義建設運動を称賛し、美化し、在日朝鮮人のいわゆる「帰国事業」に精神的拍車をかけた映画『千里馬』が日本各地で盛んに上映された。私の高校は学校を挙げてその鑑賞に出かけたことが思い出される。歌声喫茶では確か北朝鮮の「金日成将軍」という歌が日本語に訳されてよく歌われていた。
だが、彼らが帰国したその「祖国」は映画が描きだすような「社会主義の楽園」だったろうか? 北朝鮮社会主義は今もって極端な個人崇拝に貫かれた一党独裁の国家体制を――その必然的副産物としての恐るべき粛清主義と共に――堅持していることはいうまでもない。
毛沢東による中国文化大革命の発動は一九六六年であり、終結は一九七七年である。私の高校時代、友人のなかには雑誌『人民中国』の熱心な読者が数人いた。「文革」と「造反有理」のスローガンに、官僚制度にがんじがらめになったスターリン主義的社会主義の下からの改革、マルクス主義の自己刷新能力の発揚を見た社会主義活動家が当時西欧でも日本でも誕生したと思うが、間もなくそれは幻想に過ぎなかったことが明らかとなる。「文革」と「造反有理」は自分の権力の喪失を恐れた――それもスターリンの「農業集団化」政策の誤りと多くの類似点をもつ己の「大躍進政策」の失政による――毛沢東の起死回生を賭けた権力闘争のたんなる手段・口実にほかならず、中国は再び三度粛清主義の恐怖の嵐――たんに「封建・反動分子」として名指しされた人々に対するそれだけでなく、一説によれば、死者が増大したのはいわゆる「紅衛兵」の諸派閥間における武力闘争による――に飲み込まれただけであった。そこでの犠牲者数も驚くべき数に達する。ただし、いまもって中国では事柄の真実の究明とその結果の公表、旺盛な議論の公開は厳しく禁じられており、実態の解明は封印されたままである。またベトナム戦争と並行して、実はカンプチアでは一九七五年から一九七九年までカンプチア共産党指導者ポル・ポトの率いるクメール・ルージュによる社会主義建設がおこなわれていた。だが、その「建設」とはその殺害率ではスターリンのおこなった「農業集団化」を支えた粛清政治をはるかに上回る大虐殺の遂行にほかならなかった。クメール・ルージュとベトナム社会主義との軍事衝突の結果ポル・ポト支配は終わるが、その終結の一九七九年はポル・ポト政権を支援していた中国とベトナム社会主義との中越戦争の勃発であった。アメリカ帝国主義に対抗する昨日までの同志関係は一転して戦争をもって敵対する関係に激変したのである。その十年後一九八九年に天安門事件とベルリンの壁の崩壊が起き、一九九一年十二月にはソ連の解体が起き、かくてソ連・東欧社会主義圏は二十世紀の終わりをまたず消滅した。中国社会主義は崩壊を免れたどころか、現在、一見するに世界を驚嘆せしめる経済成長を実現したように見える。だが、その歴史が抱え込んだ負の側面について、またそれを生みだした責任の所在について国民が旺盛な批判と議論を開陳する民主主義的権利は一切保証されておらず、最新のコンピューター技術はひたすらに中国の「監視社会」化を推し進める手段としてだけ使用が許されているように見える。
ここでもう一度私の世代の記憶に戻ろう。確かにいわゆる「新左翼」と呼ばれた諸派は既に「反帝反スタ」(反帝国主義・反スターリン主義)のスローガンを掲げていた。だが真に深く問われるべきは、その心性において、また運動を律する倫理的理念的自覚において、またその端的な表現となる様々な運動スタイル(演説の口調、ビラの文字表現、人と人との繫げ方、どの一つをとっても)において、いわゆる「新左翼」は果たして「新左翼」だったのか?という問題であろう。
端的にいおう。警視庁発表の公的記録に基づいて私の計算するところ、いわゆる「新左翼」諸派間のかの「内ゲバ」と内部粛清によって殺害された者の数はかの連合赤軍事件も入れて、百名を上回る。これに「廃人同様の植物人間と化した者、不具者となった者、深刻な苦悶の果てに自殺した者、発狂した者、単なる重軽傷者」(立花隆)を加えれば、この件が生んだ「犠牲者」数は数倍に達するであろう。他方、戦後、機動隊の直接的暴力によって死を強いられた者の数は、私の記憶する範囲では、四名である。この落差は何を物語るのか?これまでの革命運動に宿啊の如くまとわりつく、くだんの粛清主義が発揮する暴力の――幸いにしてその実に矮小な水準にとどまり得たにせよ――典型例がここにも顔を覗かせているのではないか?
ここで、私は問題をあのわれわれの闘いの日々に結びつけることにしたい。立花隆が『中核vs革マル』を出版したのは一九七五年である。序章によれば、彼はまず一九七四年十一月から翌年一月にかけて月刊『現代』誌にその元となった連載「中核・革マルの『仁義なき戦い』」を執筆したという。彼の観察によれば両派の闘争が最初に死者を産むまでに至るのは一九七〇年だが、「血で血を洗うような本格的戦争状態」に入ったのは七三年であり、その引き金となったのは実にあの川口事件だったと指摘している。すなわち、川口君虐殺の事実が発覚し、自分たちの最大拠点であった早大文学部キャンパスの支配権を失いかねない危機に立った革マル派が、その危機に付け入ろうとした中核派を徹底的な暴力戦遂行の決意と準備を固めることでいったん打ち破り、そのことによって今度は中核派がこれまた徹底的な復讐戦に突入することで、両派はそれまでの水準をはるかに超えた文字通り「血で血を洗う」殲滅戦争に入り込んでしまったというわけなのだ。(彼によれば、一九七五年七月の時点で死者の数は三一名に達した)。
ところで、彼は同書を成り立たせた取材方法についてこう述べている。「基本資料として、両派の機関誌を用い」、いわば暴露合戦に入った両者を徹底的に突き合わせることで客観的事実を洗い出すという方法を採った、と。だから同書を読むとわれわれは当時両派が相手をどのような言葉で罵倒しつつ、自分たちの相手に振るう殺人を意図した暴力を公然とどのような言葉で正当化したか、それらの言葉を貫く両派の敵憎悪のサディスティックな心性がいかばかりなものであったか、それらのことが実によく解る。
また、立花は川口君へのリンチを主導した当時第一文学部書記長であった佐竹実が逮捕後続けてきた完全黙秘を止め、己の犯行を認めて警察署内で発表した自己批判の全文を同書に掲載するとともに、この自己批判に当時全学中央自治会委員長であった田中敏夫が続いたこと、また「この二人の自己批判によって、革マル派は大きく動揺したが、二人を裏切り者、転向者呼ばわりして糾弾した」ことを指摘している。(なお埴谷雄高は同書に掲載されたこの自己批判の全文は同書を読む読者にとっての唯一の「救い」であり、かかる「内部からの生な呻き声の集合こそ、唯一の復元力に違いない」と記している)。
なおこの問題に関連して私は次のことをここで指摘しておきたい。『息子へ 内ゲバから逃れた青春に』というタイトルの本が一九八三年に新潮社から出ている。作者は「A新聞社」で長らく学芸部の記者を務めていた酒井章一氏である。彼の息子は、「G大学文学部」に進学し、そこで革マル派の活動家になり、立花が取り上げた一九七三年から始まる中核派との内ゲバ戦争に参加する仕儀となり、それがもたらす苦悩の果てに一九七四年に凶器準備集合罪で逮捕され、一年近く刑務所に収監される。しかし、それを転機として革マル派から抜け出て、内ゲバ戦争からの脱出を完璧なものにすべくヨーロッパへ居を移すこととなるのだが、その成り行きと、それを見つめなければならなかった父としての自分の苦衷を綴ったものが、この本である。
そこに、刑務所にいてもまだ革マル派の活動家であり続けていた頃の息子からの手紙の文面が紹介される場面がある。そこにはこう書かれている。
「革命を…〔略〕…目指すということは、同時に…〔略〕…共産主義者としての思想性と人間性を身につけていかねばならないのです。…〔略〕…現代革命の問題は、明らかに人間の革命の問題としてある。…〔略〕…われわれは前衛組織を未来社会の萌芽として、〈永遠の今〉として創り出すために努力しています。人間が人間として生きていく未来社会の論理と倫理において、いまあるところの自己を規制し、律していくという形で…〔略〕…〇〇派(革マル派のこと――清)に盲従した知、それの主張するところのものを教条主義的に受けとめているつもりはありません。…〔略〕…〔略〕…(〇〇派ほど、個々のメンバーの主体性の確立ということを問題にするところもありません。それはKという人(黒田寛一のこと――清)の主体性論哲学に由来します)」。
きわめて問題であり、われわれを暗澹にさせるのは、かかる意識と中核派に対する(そしてわれわれなら、「われわれに対する」とつけくわえたくなる――清)容赦ない敵意・蔑視・憎悪・サディズムが共存し、否、たんに共存するどころか相乗的に支えあう関係を結ぶこと、そのことである。(なお一点、これは私が奇しき縁で、かつて文学部の革マル派の中心的活動家の一人であったWから確か一九七五年頃直に聞いたことだが、つけくわえておきたい。彼によれば、川口事件が起きる前に、文学部の革マル派は中核派との徹底なゲバルト戦に入るべきか、逆に停戦を追求すべきかで、前者を主張した白井派と後者を主張した黒寛派に真っ二つに分裂し、後者は全て除名されたとのことである。そしてWの観察によれば、この除名措置へのいわばリアクションとして残った白井派はいっそう徹底した川口君への拷問行為へと走らざるを得ず、遂に殺害に至ったというのである。立花の本にはこの一件は登場してこないから、この一件は当時の中核派も把握できなかった事態だったと思われる)。
立花は先の本の第五章の最終節「川口虐殺事件と〈早大戦争〉」のなかの小節「品の悪い革マル派の用語」のなかで彼らが中核派の本多書記長を鉄パイプ・バール・手斧で惨殺したさい同じく最高指導者の清水丈夫を、彼らの機関紙『解放』紙上において「狸のポンタといっしょに、シミタケコロリ…〔略〕…わがサンチョ・シミタケよ。おまえはスパイ分子である親分ポンタのアンポンタンぶりをうわまわっているのだ」と揶揄した事例を紹介している。
だが、何もそれは革マル派に限ったことではないのだ。先の私が「二十世紀のマルクス主義の根本的な挫折」と名付けた幾多の恐るべき殺害の事例は、かかる併存と相乗関係が、残念なことにあらゆる革命運動には宿啊の如くまとわりついてきたことを示すものにほかならない。実に幸運にもわれわれはこのようなテロリスト・粛清主義者(相手を「反革命分子」たる「邪悪なる敵」と認定するや、一足飛びに「敵は殺せ」に舞い上がる)にならずに済んだが、果たしてどこまで確固たる信念と原則があって「そうならずに済んだ」のか、くだんの歴史を直視する時、この点ははなはだ心もとない。しかもあの頃われわれは二〇代前半であった。人生経験にまだあまりにも乏しく、ナルシスティックで、観念過剰で、今風にいえば「中二病」的メンタリティーを引きずったままの〈若者〉であった。「ヒトラー・ユーゲント」然り、「紅衛兵」然り、まさにあの象徴としての「連合赤軍」然り、絶対正義・麗しきユートピアの観念が内面に渦巻く鬱屈・疎外感・怨恨とショートするなら、たちまちテロリスト的心性に舞い上がる特有な心理的メカニズム、これを他にまして一番抱え込んだ人生の時期、それを生きる〈若者〉であった。
ここでフロムに言及するなら、彼は先のマルクス主義に関する批判的考察においてマルクスをこう批判した。
――マルクスは、人間という存在がもつ心理学的特性、すなわち人間とは容易に非合理的な「情熱・激情・渇望」に取り憑かれるという問題性を抱えているという点を鋭く洞察する点において、著しく欠けるところがあった。彼は、「人間に自由を恐れさせ、権力欲と破壊欲を生みだすような人間の内部にある非合理的な力」を認識せず、「それどころか、人間は生来善であるという黙示文学的な仮定が、人間にかんする彼の概念の基礎をなす」ことで、次の点への警戒的認識を致命的に欠くことになった。すなわち、革命が引き起こす旧社会から新社会への移行期とは(あるいは、それを先駆け的に担おうとする革命運動においては――清)実はいつ何時人間に潜勢する破壊的衝動(その個人が人生の中で抱え込んだ――清)が爆発点に引き上げられるかもしれない危機の時期でもあることについての認識を。フロムは、マルクスはそうした認識不足によって「思想上の三つの大きな危険」に導かれたとする。
すなわちその「危険」とは、第一に、人間が自ら道徳的に己を改造する努力を通じて自己変革を成し遂げることが社会変革の達成にとってどれほど重要な意義をもつかを認識せず、社会組織の改造は人間性の改造をまるで自動的に保障するかのような楽観論に陥ったことである。第二に、社会主義的志向性であったはずのものがファシズム・ナチズム・スターリン主義の如き破壊主義的全体主義ときわめて権威主義的な独裁的暴力主義に捻じ曲がるという危険、これについてまるで無自覚であり無防備であったことである。そして第三に、「生産手段の社会化」だけで真の「共同主義的社会主義」が自動的に生じるという楽観論に陥ったことである。言い換えれば、「経済的変化によってすぐには変化しない非合理的で破壊的な熱情」が革命が引き起こす秩序転覆の争乱によってまるでパンドラの箱を開けられたかの如く噴出し、人間に取り憑き、当の革命を台無しにするという前述の危険について無知であったことである。
ここで私は作家高橋和巳の観察を引き合いに出したくなる。彼の『悲の器』のなかに主人公の正木典膳が彼の教える学生たちを観察して、次のように述懐する場面がある。――「成功しなかったとき、払った犠牲の大きさが、とりもどせない人生の一回性の重みを加えて眼前に拡大され、その人を怨嗟的人間にする。多くの失敗者が憎悪のかたまりになっていったのを私はみている。不幸にして、私はときおり、事あって職業革命家を志す諸君にあうとき、その人々の三人のうち二人には、その瞳のうちにすでに失敗者・落伍者の乳濁の色のあるのをみせつけられる。…〔略〕…そういう人々が醜い権力欲にとりつかれて人をおとしめようとするのだ」。(なお彼の『日本の悪霊』はかかるテーマを正面に据えたものであり、私見によればくだんの「七十年安保世代」の経験した粛清主義的暴力とテロリズムへの傾斜、その一対性に対する一つの予言的作品となっている)。
「前衛者意識」はそのヒロイズムの影に実は「怨恨的復讐心」の疼きを潜めている場合が多々あり、この復讐心は己に「前衛者」としての倫理的優越心を与えることで実は周囲から「敗者」として扱われ続けてきたこれまでの自分の屈辱を無化し補償しようとする。そして、この心理メカニズムはかかる前衛者をして「権力への意志」が放つ自己快感にのめり込ませることになる。《前衛者意識‐怨恨的復讐心‐権力欲望》、この三者の暗き三位一体性・問題系の孕む補償調達構造は二十世紀マルクス主義の悲劇的挫折にまとわりついていた実に重大なる精神的疾患ではなかったか?
「社会」精神の最大限の開花――つまり民衆自身が如何に豊かな人間的交感と共同の精神に支えられた自治精神を社会生活の様々なレベルで我がものとし、遂には社会全体がこの共同精神を基調とする社会となるというテーマ――を目指したはずの運動が、その意味で深い平等精神に支えられた民主主義の徹底開花こそが社会主義にほかならないという信念に掉さしていたはずのその牽引者たちが、なぜ、その真逆の惨憺たる「国家」主義の先導者へと変質し、信じがたい粛清の嵐のなかに民衆を引きずり込む元凶者となり、その結果自己崩壊するに至ったのか? この問題を深く問わずして、二十一世紀における社会主義の思想的再生はあり得ないのではないだろうか?
この点で、同論文につけた補注で私は次のことに言及している。右に述べた《前衛者意識‐怨恨的復讐心‐権力欲望》暗き三位一体性という問題は、以前から私にあっては《マニ教主義的善悪二元論の克服可能性をめぐる問題》と名づけられてきた問題であり、私はこの問題をニーチェやサルトルを参照しながら考えてきた、と。
ニーチェの『道徳の系譜』のなかに次の一節がある。――「〔略〕…これに反し、ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい。──そこにこそ彼の行為があり、創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として<善人>なるものを考えだす、――これこそが彼自身というわけだ!」
私はこう解説した。――必要は発明の母である。ここにニーチェが描きだしている問題とは、《怨恨的人間》とは《敵》を自分のために必要とするがゆえにそれを創りだす人間であるということだ。《怨恨的人間》においてオリジナルな点、彼にとっての真の「行為」、つまり「創造」とは、《敵》の創造=捏造にある。では、何故に《怨恨的人間》は《敵》を創造=捏造しなければならないか? それは、《怨恨的人間》は自分の意識の前に自分を《敵》に圧倒的に道徳的に優越した存在たる<善人>として登場せしめる必要があるからだ。彼の自己意識の核は劣等感にある。だからこそ、完璧なる劣等性・道徳的劣性と一つに撚り合わされた〈悪〉としての《敵》という存在が必要となる。自己の圧倒的道徳的優越の意識が自分に貼りついた自分の劣等感を拭い去り、この道徳的に見下せるという意識の優位がいまだ果たせぬ《敵》への復讐を耐え忍ぶことを可能にさせる。つまり逆にいえば、自分に<善人>という表象を与えることが絶対に必要となる。その場合この表象の案出は〈悪〉としての《敵》という表象の創造と背中合わせになっている。我は本質に由来して全き善人であり、正義の人であり、彼はまさにその本質に由来して全き邪悪の徒であり、不正義の徒であるとの二分法と。
この心理メカニズムと同種のそれを高橋和巳は熱烈な左翼学生活動家のなかに――少なからぬ範囲において――見いだしたわけである。「反革命」としての「敵」という存在が発明され、そのレッテルが自派に対立するあらゆる他の党派に貼り付けられねばならず、さらにいえば、絶え間なく自派のなかにも「敵」にいつ何時屈服し、さらにはひっくりかねない脆弱分子が粛清対象として発見されねばならず、そうすることによってこそ己の「革命」性はいやがうえにも純潔にして強固な党派性に満ち満ちたるものへと浄化される、そうした心理メカニズムが。
なおもう一点、私は次のこともつけくわえておきたい。
私は二〇一六年に出版した拙著『ドストエフスキーとキリスト教』に「ドストエフスキーの『政治的社会主義』批判の予言性」という補注を付け、そのなかでこの予言性を傍証するものとして前日本共産党委員長不破哲三氏の労作『スターリン秘史』を取り上げた。この労作は六巻からなり、スターリンの「農業集団化」政策の野蛮性と、彼の党内覇権を確立するうえで決定的な意義をもった、ソ連共産党第十七回大会と十八回大会のあいだにおこなわれた党内粛清――「大テロル」と呼び慣らされている――の野蛮性を実に克明に徹底的に告発する敬服に値する労作である。しかし、これが出版されたのはつい二〇一四年から一六年にかけてである。先に言及したフロムのマルクス主義批判が出たのは、くりかえすなら一九五七年である。不破氏の労作はその約六〇年後に出たわけである。
なお、私はくだんの拙著のなかでいささか彼の労作をこう批判した。彼の事実究明の情熱とその徹底性は実に称賛に値するものだが、その問題究明の依って立つ視点は全事態の責任を「巨悪」と形容するほかないスターリン個人の悪魔的な権力欲望、復讐心、謀略心にひたすら帰すところにあり、次の問題を問うという視点があまりにも不足しているのではないか、すなわち、何故にかかるスターリンの暴挙と権謀術策が功を奏し、それにソ連共産党員の大半がほとんどまともな抵抗もできずに呑み込まれ、全員がスターリンの暴挙の被害者・犠牲者であると同時に共犯者になったのかという問題、これへの視点が、と。
われわれに引きつけていえば、あの闘争の日々、われわれは革マルのおよそ民主主義精神のひとかけらもない独善的でナルシスティックな「前衛者意識」が必然的に孕むこととなるその暴力主義、そしてその暴力主義が実はつねに人間の隠し持つ怨恨・復讐心・サディズムに満ちた無意識というパンドラの箱を開く鍵となるという事情、これに抗して闘っていたわけだが、しかし、この闘いのもつ「二十世紀マルクス主義の根本的挫折」という問題との関連性、これを充分に自覚し得ていただろうか?
そして、「反スタ」を呼号し、われわれを「スターリニスト」と罵ったかの「新左翼」諸セクト、いわゆる「全共闘」系学生たち、彼らこそがまさに「二十世紀マルクス主義」を根本的な挫折に追い遣った「スターリニスト」の後継者ではなかったのか?
なお、先の立花の本についていうなら、彼の本は川口事件については相当な言及があるが、その遂二年前まさに早稲田大学の文学部キャンパスを見下ろす位置で起きた、われわれの一員であった山村政明君の焼身自殺問題については何の言及もない。テーマが『中核vs革マル』だからというのは弁解の理由にはならないはずである。
われわれはよく知っている。彼の遺書「抗議・嘆願書」にはこうある。
まず「一 反民主主義、反革命、暴力学生集団革マルを自治会執行部からリコールせよ」とあり、しかし並んでこうも書かれたことを。「一 革マルは反動勢力の手先としてのハレンチなテロ、リンチ、窃盗行為及び、民主的学生運動への分裂、破壊策動を、厳重に自己批判し、真の革命勢力の立場、人民大衆の立場に転換、依拠せよ!」とも。
彼の「断片=Rの手記(Ⅰ)」のなかの「学園闘争の挫折」にはこうある。
「六八年春・ぼくが学生運動とその基盤としての自治会活動に異常な熱意を抱いた動機は何であったか? それは一つに、我が同胞(在日コリアンの――清)の暗い歴史を知る故にであった。…〔略〕…今一つの動機は、キリスト教の真理が現実とかけはなれたところにおいてのみ語られるのでなく、社会的現実の中に働くべきだと考えたからである。
学生運動に関して既成知識の少なかったぼくは自治会執行部を握る革マル派の学友に近づいた。…〔略〕…しかし、総長選の闘いの過程においてぼくは彼らへの強い批判を覚えた。彼らは地道な民青系学友の闘いを破壊し、その成果を横取りしようとした。その頃のぼくは両派の対立の沿革を十分には知らなかった。けれども、他セクト故に暴力的に抹殺しようとする革マル派にぼくは怒りを覚えた。…〔略〕…悲しいかな、ぼくは米国におけるM・キング師の非暴力直接行動に学ぶ、学生運動というものを志向するのだったが、その基盤となるものが日本のキリスト教会には未だ存在しない。…〔略〕…執行部は無期限バリストを提起した。ぼくはスト反対の立場を明確にした。それは闘いを否定したのではない。学園における最良の闘争形態はストではないと考えるからだ。まして少数の『先進的学友』がゲバ棒を握って狂奔したとて有害無益だ。…〔略〕…ゲバ棒によって何をかち取るのか? ヘルメットをつけ、ゲバ棒を握る学生の大半、どこか単細胞の連中ばかり。七〇年の闘いも、ゲバ棒で勝利することがどうしてできよう。ぼくの考えは民青系の学友と一致点を多く見るようになった。…〔略〕…民青系はいい連中ばかりのようだ。しかし、彼らの理想も結局、バベルの塔なのか?…〔略〕…階級憎悪。…〔略〕…愛と憎しみ。愛のみを追求したいのに……。わからない!何もかも、わからない! ただ、自分が疲れ切ってしまい、生を嫌悪するあの忌まわしい感情のみのよみがえってくるのことだけが……」。
このような心の苦しみの在りようを問題にしてこそ、はじめてあの時代、何が本当の闘争の主題であったかが見えてくるのではないか?
これからわたしたちがやろうとするのは、あの時代にわたしたちが挫折した、その地点まであらためて帰ることかもしれない。それを引き継ぎ、最後の遺された人生の時間を確固として生ききるために。
なお、「呼びかけ」のなかに記されている言葉を、ここにもう一度引用しておきたい。
キーワードは、「民主主義精神」と「反暴力」です。次の問題系をわれわれは身銭を切って担ってきたということこそ、われわれの共にしたあの闘争の日々のアイデンティティではないでしょうか? そして、それはわれわれのかけがえのないアイデンティティであったがゆえに、それによってこそあの日々のわれわれがあらためて検証され、或る場合は裁かれることともなるのだ、とつけくわえるべきではないか、そう考えます。…〔略〕…そして第三は…〔略〕…くりかえすなら《二十世紀マルクス主義に宿啊の如く纏わりついていた「前衛独裁主義」》に対して対決するという課題、それを当時われわれはどこまで為し得ることができたのか? という問題です。

一つの参照軸としての 『素描・1960年代』(川上徹・大久保一志 同時代社)
清 眞人
自らを様々な問題提起の交差点に立たせる試みの一つとして、ここで、あのわれわれの闘争の日々の指導者の一人であった川上徹氏が、くだんの東大闘争期の東大で東大の共産党細胞の指導者であった大久保一志氏との共著で二〇〇七年に出版した『素描・1960年代』を貫く問題意識の在りようを紹介するとともに、それに対する私のコメントを提示してみたい。(なお、両氏はくだんの「新日和見主義分派活動」問題をきっかけに一九九〇年代初頭に共産党を離党している。以下、敬称は略す)
暴力の生きる「ゾロアスタ教的観念」と真の民主主義精神との対立
くだんの「呼びかけ」のなかにこうある。われわれにとって、あの闘争の日々を顧みるさいの「キーワード」は「民主主義精神」と「反暴力」の二つであり、ここに浮かび上がるテーマは次のことだ、と。すなわち、
《いわゆる「全共闘」なり「新左翼」諸党派の観念的な「革命」主義が、そうであるがゆえに必然的かつ内在的にテロリズムへの傾斜を抱え込み、現にそうなったという事態、そしてこのテロリズム、言い換えればきわめて独善的な「前衛独裁主義」は本質的に反民主主義であったという事態、この事態に身をもって対決するもの》として、あのわれわれの早稲田での闘いはあった。
そしてまた、《実はこの問題系は同時に二十世紀マルクス主義に宿啊の如く纏わりついていた「前衛独裁主義」に対してもわれわれを対決せしめるものではなかったか、という問題系であった》。
そして、右の二点をまず指摘したうえで、さらにこう続けた。《第三は、そうであるはずなのだが、その最後の点、くりかえすなら《二十世紀マルクス主義に宿啊の如く纏わりついていた「前衛独裁主義」》に対して対決するという課題、それを当時われわれはどこまで為し得ることができたのか? という問題》であり、われわれはこの問いをわれわれ自身を反省的に問い直す問いとしても掲げるのだ、と。
私は『素描・1960年代』を読んで、同書を貫く問題意識もこのわれわれの問題意識とそのまま重なりあうものだということを発見した。以下、まずその点について紹介する。
川上は同書第三章において六八年の学園闘争が、まず全共闘および新左翼諸派がバリケード戦術を取るに至り、その結果、対抗上いわゆる「日共=民青系」学生運動と呼ばれたわれわれの方も次第にその戦術に染まったいったことが、あの時代の学生運動の最大の問題点を産みだしたと指摘している(同書、p.140)。なお、この問題をめぐる議論の箇所は川上が執筆したものだが、後におこなう紹介からも明らかなように、その問題の捉え方には大窪の視点も色濃く浸み込んでいるように見え、両者の共同の視点を表すといえる。
まず最初に注目しておきたいのは、おそらく川上がいわば「〈経験〉の思想」とでも呼ぶべき哲学的視点(推測するに、古在由重か藤田省三から学んで我がものとした)と民主主義精神を結びつけ、それに対立するものとして典型的かつ凝縮した形では新左翼諸党派に見いだせる「パラノイド」(誇大妄想的ナルシシズムとしてのパラノイア的心性に陥った患者)的心性とを次のように対置していることである。川上いわく。
「僕らの精神は〈経験〉を経験することによって、成熟する。多義性に満ちたこの世界に対して謙遜の気持ちが生まれる。そうした精神の姿勢が形成される。揺さぶられることを歓迎し、昨日までの自分が修正されることを期待する精神。…〔略〕…他者を組み敷くのではなく、逆に他者性なるものへの無条件の敬意を含む心。…〔略〕…自由なる精神とは多様性を抱擁する精神であり、おのれの中におのれが是認できない考え方の存在を受容する精神ではなかろうか」。(同書p.139-140)「おそらく新左翼諸党派にとってはこうした〈他者性〉への認識が微弱だったのではいだろうか」(同書p.1139)
彼はまずそう述べ、当時の自分は実はここまでの視点はまだ確立し得なかったが、今から振り返れば、かかる視点へと自分を成長させようと努力していたことがわかるとしたうえで、まさにかかる方向性に真っ向から対立するものとして「バリケード」に象徴される前述のパラノイド的心性を捉えるのである。
「バリケードは当事者にとっての敵と味方を峻別する存在へと意味を変えていった。バリの向こう側にいる君は味方なのか敵なのか。こちら側に来るのなら味方だが、いつまでもそっちにいるなら敵だ、という単純な論理である」。(同書p.140-141)
そして、彼は次のようにも顧みる。
「バリは要塞化し、指揮は軍隊化していった。意味あることそれは一つ、敵に勝つことだ。ある時期、それは共産党の民青系においても極限まで進行していった。」。「もはやそこには〈経験〉が介在する余地なくなってしまった」。ひたすらに「党派感情を満足させる」ことだけがテーマとなった。(同書p.141)
右の視点は川上の「ゲバルト考」にそのまま接続する。川上によれば、「東大闘争はゲバルトと切っても切り離せない」が、そこで行使される「ゲバルト」も当初は「或る獲得目標」を達成するためのやむを得ない最小限の実力行使という目的‐手段関係の鮮明な自覚に支えられていたはずのものだった。だが、それがいわば自己目的化という「病理」的な「変質」化の過程に入り込むこととなった。「或る獲得目標」を達成するための「手段」としての「党派」であったはずの自党派が、したがって党派メンバー自身によって批判的に相対化され距離を置かれる空間を己自身のなかに宿していたという点が消滅し、「自己目的化」し絶対化され、目的‐手段連関の倒錯が生じる。ゲバルトは何よりも自党派の存続を目的とする手段となり、ゲバルトのいわば自己目的化が始まり、それによってゲバルトは自己抑制装置を自ら失い、無制限的なものへと変質し凶暴化した。
「一旦おのれの集団の存続が目標となってしまったとき、その集団における自己の相対化はきわめて困難になる。憎しみと恐怖がそれに拍車をかけた。余裕がなくなった。他人の目が気にならなくなった。…〔略〕…ファナティックな心情のもとで、荒涼とした心理が支配的となった。…〔略〕…闘争が軍事化したことによる活動家たちのメンタリティーへの影響は大きかった。それは民青系新左翼系を問わなかったが、おそらく後者の方がずっと大きかっただろう」。(同書、p.240-241)
そしていうまでもなく、川上にとっても、この「病理」的な自党派の自己目的存続化=ゲバルトの自己目的化=他者性への感覚の消失という過程の極まりが、かの一九七二年における連合赤軍事件だったわけである。(同書、p.242)
ところで、大窪はこの右の問題を「ゾロアスタ教的観念」、言い換えれば「実体的正義」という観念に党派が――新左翼党派のみならず民青系も――幽閉されるという問題として提起している。彼が提起するこの問題は私が「われわれ自身への問題提起1」で高橋和巳やニーチェを援用しながら取り上げた「マニ教的善悪二元論」への「前衛者意識」の自己幽閉という問題とほとんど同一である。私が「マニ教的善悪二元論」と呼んだ問題は宗教史的に正確にいえば、まさにかかる観念の元祖となる「ゾロアスタ教」の善悪二元論の問題にほかならない。大窪いわく、
「現実に左翼において支配的だったのは、日共=民青系においても、新左翼諸党派においても、実は、このような観念だったのではないか」(同書、p.211-212)、つまり、前述の「ゾロアスタ教的観念」、言い換えれば「実体的正義」という観念に。すなわち「進歩と反動、革新と保守、革命と反革命といった対概念をそれぞれ実体化し、進歩陣営と反動陣営、革新陣営と保守陣営、革命陣営と反革命陣営とが対決しているというふうに把握し、闘争というものをこの両陣営の闘いとして描き出し、そのとき、進歩・革新・革命は正義であり、反動・保守・反革命は邪悪であって、進歩陣営・革新陣営・革命陣営という正義の実体に加われば正義の人となり、反動陣営・保守陣営・反革命陣営という弱な実体に加われば邪悪の人となるかのように考えるのである」が、こういう思考方法というものは、「善の神と悪の神との闘争として世界を描きだすゾロアスタ教的観念と似たものだった」と。(同書、p.368)
なおここでちょっと補足説明を加えれば、「実体化」する思考方法とは、「革命陣営」のやることなすことは本質的に革命的であると先天的に、言い換えれば経験的に実証される必要がないほどに先験的に決定されており、だからその行動の一々を、もしかしたら「革命」の名の下に実際は反動的な不正な事が行われてはいないか、本当に革命的で正義にかなっているのか? それを改めて検証し、証明する必要が絶えずあると考えることをしない、そのような検証は本質的に不要であるとする思考態度を指す。(逆も真なりであって、反革命陣営からの革命陣営への批判にも、或る場合には、革命陣営が「革命」の名の下に犯した誤謬や犯罪への鋭利な指摘や批判が含まれる場合が十分にあるのであり、その意味で、敵側からの批判にも真摯に向き合い、自己を点検する必要、これを強く自覚する態度を取らない思考方法を指す)。
なお大窪はこう書き添えている。
「こう書くといかにも単純でそんなことで運動が進められているはずがないと思われそうだが、…〔略〕…現実に左翼において支配的だったのは――もちろんみんながみんなそうだったというわけではないけれども――、日共=民青系においても、新左翼諸派においても、実は、このような観念だったのではないかと思われてならない」。(同書、p.368)
しかも、大窪は、こうしたゾロアスタ教的(マニ教的――清)思考方法を「パラノイア」的と名付けたうえで、六八年世代に頂点を見いだす日本の「六〇年代世代」がとりわけ「パラノイアック」になったのは、実は日本社会が六〇年代に経験した社会変化の過程がこの時期に青年だった世代の自己意識・自己感情に特別な自己分裂的な疎外感を刻印したことが背景にあったとする心理学的分析を加えるのだ。
彼は同書でこの「パラノイアあるいは統合過剰」という心理学用語を『臨床心理用語事典』に依拠して次のように解説している。
「この症状は、従来パラノイアが誇大妄想狂とか偏執狂とか訳されてきたたに、一般に人格が崩壊してしまうかのような誤解されたイメージで理解されているが、基本的には自我の統合作用が過剰になって、妄想体系を生むものをいうのであって、その際、思考、意志、行為が異常になったり、人格が崩壊したりすることはないのである。むしろ、思考、意志、行為の一貫性は厳格に保たれ、人格は強く統合されている。そして、それがために、妄想は次第に理路整然と体系化されるようになっていき…〔略〕…その妄想としての内容は、被害妄想と誇大妄想の二方向を示すのが特徴である」。(同書、p.210)
そして、彼によれば、パラノイア患者(パラノイド)がかかる統合過剰に追い遣られるのは、まさに逆説的にも彼らがその実存の深層において自己分裂の不安に苛まれているからにほかならない。大窪は臨床心理学者のケニス・ケニストンに依拠しながら、パラノイドの特徴は、彼らが実は過剰統合というパラノイアの極と、その正反対の自己分裂・スキゾフレニックな極、「『疎外感』(estrangement)――『自己の人格解体』と『世界の非現実化』の感情を伴う――」とを交互に往復する――後者を克服せんと前者へ赴き、後者へと送り返されるがゆえに、また前者へと飛躍せんとする――という運動を生きるという点にあり、この場合前者の過剰統合の極は「『全能』(omnipotenciality)」――『純粋の可能性の世界に住んでいるのだという感情』・『すべてを変革したり達成したりできるという感情』」の極として現出するという点にあることを指摘し、自分をも含めて明らかにこうした特徴は六〇年代世代の顕著な特徴であると認めざるを得ないとしている。(同書、p.399)
私にいわせれば、およそマルクス主義のみならず、人類史のあらゆる革命運動・「千年王国」運動には、早くもニーチェが鋭利に暴き出したように、抑圧と疎外によって深い怨恨心を抱いた人間がその怨恨心からくだんのゾロアスタ教的・マニ教的善悪二元論的世界観に取り憑かれ、それを革命推進の心的エネルギーの源泉とするという一面が革命運動のいわば宿啊的悲劇性として取り憑いているのだ(参照、われわれ自身への問題提起1)。だが、大窪が見事に指摘したように、それが六八年を頂点とする日本の六〇年代世代においては特殊に過剰化せざるを得なかったという歴史的要因(日本社会の急激な産業化によってムラ的共同性から引っこ抜かれて都会的孤立性に一挙に投げ込まれるという、当時の青年層が蒙ったアイデンティティ危機――大窪、同書p.402-404)が確認できるのである。
なお、『素描・1960年代』には当の「新日和見主義」問題を筆頭にまだ幾つか取り上げたい問題が孕まれているが、今はここまでとしよう。
「呼びかけ」で述べたように、これからわれわれは共同して、自分の原稿の執筆と並行させて、ぜひ参照したいとみなす自分が出会った様々なる問題提起の紹介をわれらがホームページ「早稲田の記憶」に旺盛に投稿しあうことにしようではないか!