もちろん僕もたくさんの遊びをしている。
でも、何といっても、今では絵を描くことほどの遊びは他に僕にはない。そのことについて語りたい。僕がこの遊びを発見したことにはいくつかのきっかけがある。その一つにドイツ表現主義との出会いということがある。一九九九年から翌二〇〇〇年にかけて僕はドイツのミュンヘンに半年暮らした。そのときだった。二十世紀ドイツの最初のアヴァンギャルド、ドイツ表現主義に出会ったのは。
僕はドイツ表現主義から二つのメッセージをもらった。
一つは、色は徹底して君の魂の表現であれという意味で主観的であれ! かつ、色は他の色とのセッション・コレスポンデンス・レスポンスによってのみ決定されるという意味で完全に対象から独立して、自律的であれ! 色を決定するのは色なのだ! このメッセージ。
僕は今でも覚えている。ドイツ表現主義はブリュッケ(橋)派とブラウエン・ライター(青騎士)派に分かれる。そのブリュッケ派の一人、カール・シュミット・ロットルフの絵。そこには真紅の道が描かれていた。その脇で一人男が椅子に座り肩肘をテーブルについて物思いに耽っていた。傍らの、そして画面の奥に突き進む真紅の道は実に素晴らしかった!そうだ真紅の道というのがあっていいのだ!
もう一つは、漫画でオーケーである! というメッセージ。ドイツ表現主義の色彩表現に決定的な影響を与えたのはゴッホ、そしてテーマへの影響はムンクといわれている。僕の勝手な理解では、ムンクは性愛というテーマを彼らに与えたということもさることながら、人物は漫画でいいというインスピレーションをも与えたのだ。実際ムンクの人物たちは漫画ではないか。荒々しい、性急な、デフォルメされ誇張された、歪んで過剰な漫画的な表現! こっちのほうがずっと現代の人間の内面の焦燥や快楽や笑いや悲嘆を見事に表現する。内面は《世界》と相関だ。《世界》はリアリスティックに描かれることを拒否している。それはもはや退屈なことなのだ。それは内面が現にある《世界》を拒否して、その彼方にあるもの、その地下にあるもの、起源にあるものを求めているからだ。もう一つの別な《世界》が現にある《世界》を拒否する力として、あるいはその隠れたより深いリアルを映し出す力として描き出されねばならないのだ。
この二つのメッセージは僕にとって次のことを意味した。絵は今や、写実的リアリズムと一体であった「天才的技術」というコンセプトから解放され、一切のアカデミズム的思考から解放されたのだ!
「アカデミズム的思考」ということで何をいいたいか? 誰もが従うべき普遍的模範が設定され、それにできるかぎり接近することをもって「学ぶ」ことと考える一切の思考様式。これを指してここで僕は「アカデミズム的思考」と呼ぶ。絵が対象を模写するという写実主義的コンセプトから完全に離陸しない限り、絵には「アカデミズム的思考」はどうしようもなく憑いて回る。絵を描きたいという欲望をもつ人間が、たとえばデッサン教育を真面目にとれば、つまりそれが絵を描くうえで絶対必須の技術だと信じ込むならば、多くの人間は絵を描くことにたちまち挫折するだろう。自分には到底その技術がないことを見出して。
僕が観察する範囲では、多くの場合日本の音楽教育と美術教育は音と歌への欲望を、また絵への欲望を子供の内面でへし折るために存在している。その解放のためにあるのではない。多くの子供は教育を受けたおかげで挫折に追い込まれる。下手だ、描けない、吹けない、弾けない、歌えない、不可能という烙印を自分で自分に押して、嫌いになる。教育は、それを好きにならせるためではなく、嫌いにさせるために存在している。僕は自分が絵を描くのにまったく教育を受ける必要を見出さなかった。ドイツ表現主義がくれた二つのメッセージで十分。
絵のコンセプトを変更しなければならない。
僕にいわせれば、絵を描きたいという欲望を解放する絵のコンセプトだけが必要なコンセプトなのだ。《色は対象を模倣する必要はまったくない、対象の描写は漫画でよい》というメッセージは、絵のコンセプトは絵を描きたいという君の欲望に従属し、ただ君を絵に向けて解放するためにだけあるべきだというメッセージにほかならない。
ドイツ表現主義が与えた影響は、しかし、それだけではなかった。まさにドイツ表現主義のいわば原色主義というべき色使いそれ自体が僕を魅了した。赤、黄色、青、緑、こういった色を隣り合う平面的な原色画面の骨太い荒々しい組み合わせへと構成するという方法。自分のなかにある色への欲望をドイツ表現主義は僕に発見させた。人はそのようにして自分の《世界》が帯びる色へと導かれるべきだ。
僕の大好きな思想家にバフチンという名のロシア人がいる。もうとっくに死んでしまったが。彼は言語哲学者で偉大な文芸批評家だった。彼にこういう言葉がある。
「われわれにとって内的な説得力がある言葉というものは、個人が自前の思考を創り出してゆくうえで決定的な意義を持つ。自立した、独り立ちした思考の世界が形成される際に、個人の意識はまず自分をとりまく他者の言葉の世界で目覚めるものなのであり、最初のうちは、自分をそれらの他者の言葉から分けてはいない。…〔略〕…ふつう、われわれにとって内的説得力を持つ言葉は、半ば自分の、半ば他者の言葉である」(『小説の言葉』[1]、ただし元の文章を少し意訳してある)
僕はこの文章のなかの「内的な説得力がある言葉」はいろいろ言い換えることができると思う。たとえば「内的な説得力がある色」とか「内的な説得力がある線」とか、つまりは「内的説得力がある絵」というように。「内的な説得力がある音」、「内的な説得力がある声」、「内的な説得力がある仕草」、実にいろいろと言い換えが効くはずだ。それぞれの人が自分の関心と必要に合わせて言い換えてみるべきだ。すると、自分が自分に目覚めてきたその道程、そこでおかげを蒙った他者、私を私へと成長させた援助者たちの名前が浮かび上がるはずだ。
後でいうつもりだ。《世界》を私の存在のメタファーとして解読することが問題である、と。それが絵を描く遊びの遊び性だ。だが、この遊びの始まりでは、《世界》はまだ霧にかすんで朦朧としたままなのだ。大半が闇に沈んでいる。明確な線と色でそれを提示すること、いいかえれば、命名することが問題となる。《世界》を描くことは《世界》を色と線で命名することだ。しかし、僕たちはそれをいきなり初めから自分の独自の色と線で描き出すことはできない。
「内的な説得力のある絵」とは、それが他人の絵であるにもかかわらず、あるいは他人の《世界》であるにもかかわらず、僕たちの内側に響いてきて、「もしかしたら、自分の《世界》とはここで彼が提示している《世界》ではなかったのか」と僕たちに思わせる力をもった他者の絵、他者の《世界》のことだ。僕たちは決して独力で自分に目覚めることはできない。目覚めるためにはまずそういった力を持った他者の絵あるいは《世界》に出会わなくてはならない。
この出会いこそが教育と成長の本質なのではないか。
他者による自己への促し、これこそが教育であり、成長であり、文化ではないのか?
僕はドイツ表現主義という他者によって自分へと促された。僕の色を発見した。
色ということでは、僕はいつも或るアメリカ映画を思い出す。主人公がブルーのセーターを或る男からプレゼントされる。すぐさま包みを開き嬉しそうにそれを着る。するとそのプレゼント主は主人公にいう。「Blue is your color!」と。
字幕には、「青は君に似合う」と出ていた。
だが、僕はずっとこの英語の言い方のほうが好きだった。「青は君の色だ」。そう、誰もが自分の色をもっている。絵を描くことは、自分の色を発見することだ。色は君のメタファーであり、哲学者のハイデガーがかつていったように、君が何者であるかは向こう側から、つまり《世界》の側から、その《世界》の色から告げられる。
メーシー しやべらせてくださいよ!しやべってはじめて自分の考えがわかってくるものでしょう。言葉なんですよ、言葉をさがすのです。言葉さえ見つけることができれば理解できるはずです。突然わかるのです。彼は批判的だ、彼は悲しみを抱いている、だけど、だけどなんです?
無感動だ!それです、その言葉です。すると突然、いままで正しいように思えていたほかの言葉が、「批判的」とか「悲しみ」とかいう言葉が、みんなほんのわずか脇に押しやられて、彼の別の姿が見えてくる。彼の悲しみは世界の苦悩とはなんの関係もない、彼自身の姿にかかわるだけです。彼は自分が悲しんでいることを見てもらいたいんだ。無感動というさっきの言葉で、彼がこの世界を無知のかたまりと見たがってることがわかってくるでしょう。そうすれば言ってる本人は比較的利口そうに見えるむのですからね。それだけじゃあない。もっとわかってくる。彼が無感動だと知れば、それゆえに彼の批評の論点がすべて不毛だと認識できる。ほら!また別の言葉が出てきたでしょう、不毛、みのりなさ、そこで彼の言ったことに新しい展望が与えられることになる。一つ正しい言葉を見つけることによって、それまでつかみどころのない感じにすぎなかったものがしっかりした形をもつようになるからです。言葉が壁ですって?
言葉は門ですよ、貴重な壮麗な、美しい門です。(アーノルドークェスカー『友よ』より)
ただ僕はこの台詞の一節を伝えたいだけなのだ。ウェスカーの戯曲『友よ』のなかで、老ユダヤ人メーシーがロにするこの言葉を。いや、もう一つ、伝えたい台詞がある。エスターの言葉だ。もう少しあとで僕はそれをここに抜き書きすることだろう。
どちらだったのだろう。つまり、僕がこの老ユダヤ人の言葉を伝えたくなった動機は。言葉についての彼の思想が問題であったのだろうか。
老人の息づかいが、我にもあらず気持ちをたかぶらせて言葉をつらねるその調子が、僕に響いてきて、僕の気持ちまでもが叫びだすようだ。「言葉なんですよ、言葉をさがすのです。言葉さえ見つけることができれば……」。――胸うずかせるこの切実さ。そして「突然」わかる時の、みるまに形が整えられくっきりと真実が姿をあらわす時の、あの位置が決まったという感覚。それは僕自身のなかにあり、誰もが既に一度は生きたことのある感覚だ。この経験のなかでなのだ。真と美は切り離しがたくひとつのものであるということを僕たちが理解するのは。位置が決まる・正確な比例関係が実現する・形が定まる・それは真理を経験することであると同時に美を経験することだ。言葉は、「貴重な、壮麗な、美しい門です」とメーシーは言っていた。
けれどそれだけであっただろうか。僕はメーシーが「無感動」という言葉によせて語ったあの批判に打たれたのではなかったろうか。
「彼’が無感動だと知れば、それゆえに彼の批評の論点がすべて不毛だと認識できる」。ああ、それこそは我々の真実である。しゃべり散らす知識人ども。あの傲慢な饒舌が、人を馬鹿にしきったそのはしゃぎ振りが、その背後におおい隠しているのは無感動。その自分だけは幻想をまぬかれているといった調子、我ひとり絶望するものであるといった身振り、しかし、とめどもなく言葉を重ね言葉に酔い痴れるその熱中ぶりがはしなくも暴露する彼らのスター気分、その背後に隠されているもの、それは彼らの無感動である。彼らには素朴さというものがない。切なさというものがない。善き心というものがない。メーシーの言葉はそのひとつひとつが正しい。
僕はどうしてももう一つの台詞を書き抜きたくなる。メーシーが愛し、その良き理解者であったエスターの言葉だ。
「弟は反逆者でね、メーシー、あたしは革命家。弟は現代の指導者たちの話をする。あたしは長い歴史の線の先端にいる人たちになにが必要かを見つめる。弟は二十世紀に対するあたしたちの責任という問題にとりつかれている、あたしは過去二十世紀間の感受性の集積に対するあたしたちの責任という問題にとりつかれている。弟は過去を憎むから反逆者、あたしは過去を無視できないほどゆたかに人間の苦悩と偉業を背負ったものと見るから革命家。女は生まれながらの革命家なのよ、ねえ、シモーヌ。男は反逆者にすぎないわ、男の怒りって否定するだけで、ちっぽけなものだから。学生みたいに、少年のエネルギーだけ。あたしが資本主義社会をさげすむ理由の一つはね、いいこと、それが反抗の暴力を喜んでふるう人たちを生み出すからなのよ」
真実は美のなかで経験されるということ、言葉が正しい位置におかれ、そこに正確な比例関係が実現されるということ、そのことは何を意味しているのだろうか。もしそこに人間に対する善き意思というものがなければ、正しい位置といい、正確な比例関係といい、そうしたものは実現されないのではないのか。
またしても僕は想う。言葉がむかうところのもの、言葉を見つけだそうとする努力を通じて僕たちが見出そうとするもの、それは人間という存在のか作なのだ。事柄にそれがもつ真実な意味が返されるのは全体という場においてである。エスターならこういうだろう。長い歴史の先端にいる人たちにとってその生の意味が返されるのは、「過去二十世紀間の感受性の集積に対するあたしたちの責任という問題」を通じてであると。
そのような全体とは生きるということの全体、生の全体であり、この全体への感受性とは根源的にまた善への感受性なのだ。
――あたし圧倒されないための能力はいつももっていた。……結局どこか人眼にたたない所にひじょうなこころよさ、楽しさがあるわ。あたしはこの世にとどまりたい……
――《回復》の教育学
さまざまなものが回復されねばならない。
たとえば、ただ概念だけがパッケージされたプラスチック製の言葉に代えて、響く《声》に担われ肉体を震わせたりよじらせたりして語り出される原初の言葉が回復されねばならない。だがまた、回復されねばならないのはたんに言葉がもともともっている肉体的な音楽性だけではない。同時にまた言葉がそもそももつイメージの喚起力が、言葉の絵画性が回復されねばならない。生きた言葉は必ず一つのイメージのなかを、一つの画像のなかを生きている。生きた言葉はつねに、その言葉をその人間にそもそも発見させるきっかけとなった彼自身の側の《経験》、その経験の記憶としての{つの画像・イメージを生きている。だからまた生きた言葉にふさわしい伝達と交換の仕方とは、イメージがイメ九ンを呼び連想が連想を産むという仕方で伝達され、交換されることなのだ。
そこにはリズムとリズムとを掛け合わせる、声と声との掛け合いをやる、連想と連想とのあや取り遊びをする、そういう掛け合いの、共同的な、精神のいわば肉体的な遊びの楽しさが宿っている。そして、僕たちはつねに銘記しなければならない。真のコミュニケーションにおいて問題となるのは、《概念》を伝達し交換することではなく、《経験}の伝達と交換をおこなうことなのだということを。
だから、真のコミュニケーションには、音楽的でもあれば絵画的でもある一つの快楽、感覚の歓びというものが宿っている。いいかえれば詩の歓びというものが。僕の確信に立てば生きた言葉はつねに詩の歓びをともなうものなのだ。詩的快楽をともにするという、その言葉の原初のあり方をばくたちは回復しなければならない。言葉を回復するということはたんに言葉を回復することではない。
《言葉》は人間という存在の中核を形成するものであるから、言葉を回復するということは人間が存在するその存在の仕方、人間という存在を成立させているさまざまな関係のそのあり方を変革するという問題、あるいはそこでの《回復》という問題にそのままつながってゆく。さまざまな関係を変革することなしには言葉を回復することはできないし、言葉を回復することなしにはさまざまな関係を回復し変革することはできないのだ。実際、僕たちの生活にあって回復され変革されるべきことはさまざまある。
今日のばくたちは《回復》を核心的な人間的主題とする。
これは《回復》のための授業プランの一つである。ところで、およそプランとは、まだ存在していない、これから実現するものについて書かれるのだから、どんなに実現が保証済みに思えるプランもすべて空想の要素をはらんでいる。とはいえ、このプランはまだあまりにも実行の経験が手薄なので、その空想の程度が「空想授業プラン」と名づけざるをえないほどにはなはだしいのだ。いつかばくは、あっさりとただ「ばくの授業プラン1 と名づけるようになりたいものだ。
家は夢のゆりかご
ゆりかごの中で
相手を食い殺すかまきりもいる。
まず僕は三人の学生に登場を願う。三人は肩を並べて教室のまえに立つ。あたかもこれから掛け合い漫才をはじめるように、もしくはコよフスのトリオのように。真ん中の学生が最初の一行を読む。両脇のふたりが、声をそろえて後の二行を読む。つまり詩の朗読をやろうというのだ。それも複数の人間による、いわば朗読劇のようなやり方で。
問題は、この三行を三人がどう読むか。ここで僕たちはたちまち演劇的な問題状況に入る。
まず、「家は夢のゆりかご」という一行。どんな声の調子で、リズムで、どんな感情を込めて読まれるべきか。夢見る少女のレース飾りのような声でか、それともむしろ何か必死といった感じのするオールド・ミスの声でか、あるいは猫撫で声の女セールスマンの声、それともいやに教育家ぶったPTAの女役員の声。そこで、さまざまな可能性をめぐってこの一行が各人のなかに引き起こすイメージが討論にかけられる。
たとえば誰かは、蔦の絡まる飾り窓のレースのカーテンの奥のゆりかごを連想し、僕たちを「少女漫画」の世界に誘う、あの自分の可愛いらしさにうっとりしている夢見る乙女の声を思い浮べる。また別な人間は、この出だしの一行の、その押しだされ方のリズムについて考え、テレビの画面からから身をいっぱいにのりだして視穂者にむかって商品の名を叫ぶCMのイメージを思い浮かべる。そのイメージを探ってゆくともっともらしさのもついかがわしさが、いわゆる「嘘つぽさ」が透かし浮き出てくるような声の調子にゆきあたる。
すると、そういう「夢のゆりかご」というイメージを「家」のイメージとしてコマーシャルしたがっているのは、現にしているのは、いったい誰か、という問題が持ち上がる。同時にそもそも自分たちにそういうイメージが「家」のイメージとしてあるのかないのか、あるとすれば、それはそれでまたどんなイメージやどんな問題とつながっているのかも問題となる。この夢のイメージはいったい僕たちのどんな欲望とつながっているのか。
誰かがこんな思い出を披歴したりする。小学生の頃、運動会で自分の同級生の母親が自分や他の子の母親よりもずっと若くて溌剌としていて、そんな若い母親をもつ同級生がひどく羨ましかったことがあり、自分はそのときから短大を出たらすぐ結婚して、すぐに(若いママ》になりたいと思い続けてきた。そういう私にとって「家は夢のゆりかご」という一行は、やっぱり大切な夢という感じで、皮肉な調子が響く言葉としては聞きたくない言葉だ、と。
もちろん、この最初の一行をどのように読むべきかという問題は、それに対置されている後の二行をどのように読むかという問題とつながっている。詩の言葉は、他のすべての言葉もまた実はそうであるにしろ、他の言葉よりはるかに自覚的に、後に続く言葉との、また前に登場した言葉との、ダイナミックな緊張関係を生きている。いわばそこには牽引と反発の一つの磁場が張られている。そして、この磁場こそがそれぞれの言葉にイメージを喚起する力というものを与えるのだ。
「夢のゆりかご」という愛と夢に満ちたイメージは、「相手を食い殺すかまきり」というそれとはまったく正反対の残忍で、しかも具体的であるだけ現実的なイメージとの対置関係に置かれている。しかもこの後者のイメージは、回転ドアをとおして中へ入っていった人物が】回りして元に戻ってくると怪物の面相に変わっていたという、逆説的で悪魔的な転回として出現する。その転回のリズムが一行目の終わりの「ゆりかご」と二行目の始まりの「ゆりかご」の掛け合いによってつくりだされているのだ。この逆説的な転回、そのイメージの素早い移行のもつ意地・悪さ、それこそが、両方のイメ犬シが対立しながらも背中合わせに貼りついてもいる、そういう場にほかならぬものとしての「家」の本質的なイメージを形成するのだ。
「ゆりかごの中で/相手を食い殺すかまきりもいる」というこのイメージこそが「家」のもつ本質的な矛盾なり、悲喜劇性、あるいは運動というものを示唆する。そしてこの朗読のための声探しの討論において大事なことは、このイメLンに触発されながら今度はそれを各人の《経験》につながる別なイメ~ンに焼き直す作業、それが各人のなかで開始されることなのだ。
議論が杏質的な点にまで進展できれば、僕たちは多分このイメ?ジのなかでまず《母親》という存在のもつ二面性-II子を育て慈しむ優しい存在でもあれば、子が自分の身体と同様に絶対的な自分の所有物であることを望み続け、子を自分のナルシシズム的な欲望充足や感情発散の糧とし餌食とする残酷な母-‐をめぐる問題にぶつかるであろうし、そこからさらに人間が「愛」や「夢」あるいは「期待」と名づける感情の得体の知れない矛盾やI筋縄でゅかない複雑性、あるいはそのいかがわしさや欺猫性といった問題に、それぞれの《経験》を掘り起こすような形をとって、ぶつかるだろう。
「ゆりかごの中で/相手を食い殺すかまきりもいる」というこの二行をどう読むかということが朗読する人間に明確になってくるためには、このイメージに連なる各人の《経験》が掘り起こされてこなければならない。その《経験》が生み出すイメージー画像のなかに自分を浸すことができたとき、はじめてこの二行を読むための自分の声が、その調子、イントネーソヨン、リズム、等が発見され決まるはずなのだ。それは、この二行に込めた作者の《声》を探る試みがおのずと朗読者を自分自身の《経験》へと送り返し、それを掘り起こさせ、そこに作者とのおのずからなる掛け合いが、声の響かせ合いが、起きると
いうことだ。
ここで僕たちはイメージと《声》という二つの重要な問題にぶつ
かることになる。 端的に問題の核心に進むために、僕はここでI.『大の思想家の言葉をまず紹介したい。レーヴィットという哲学者はこんなふうなことをいっている(わかりやすくするために少し言い回しを変えたところもあるので彼の言葉の忠実な引用ではないが)。
話しでいる人間はたいていの場合、話すことによって、つまり、言葉によって表現するものうちに表現されるよりは、「物をいう」身振り、「多くを語る」まなざし、知らず知らずのうちに感動を「表現する」声などの、言葉にならぬ言葉のうちに、はるかに明白に表現されるものである。…〔略〕…たとえそれらの身振り、まなざし、声などが言葉という観点からはコ呂葉を欠如するもの」として位置付けられ、言葉より劣ったものと見られようと、それらのものは、人間的な心情、すなわち、気分、情緒、感情ならびに感覚の表現としては実は言葉よりもはるかに表現力に富み憶源的なものである。そして、この人間的な心情というものこそが人間がおこなう一切の表現の基礎をなしているもので、それされ伝達され表現されなければ、その人間によって表現されたものが「了解」できたとは実はいえないのだ。…〔略〕…人間が互いを「本来的に」了解しあうのは、言葉によってではなく、根源的には、言葉によっては言い表わせないが、しかし、明瞭に感じとることのできる、「影響される」といういわば気分の地下道においてであり、この地下道は身振り、まなざし、声などによってこそ互いのあいだを通じているのだ。(カールーレーヴィット、『人間存在の倫理学』より)
そして、フロムという哲学者はこう指摘している(ここでも僕は少し言葉を補ったりしているので、忠実な引用ではないが)。
言葉は経験を満たした器であり、経験は器からあふれ出る。言葉は経験を指し示すが、言葉は経験ではない。経験するものを思想と言葉のみで表現した瞬間に、その経験は消えている。それは干上がり、死に、たんなる観念となってしまっている。それゆえ、あるということ(「存在する」という言葉に真にふさわしく密度濃く存在すること、その人間が自己の人間的=生命的な実質を発揮し、十全に自己であること)は言葉では記述不可能であって、経験を分かち合うことによってのみ、伝達可能となる。相手なり《経験}がそうあることこそを尊重し、それを愛し、あるいはそこから何かを学ぽうとするのではなく、ひたすらそれを自分の時々の都合から支配し操作する対象としてだけ見いだす態度のもとでは、いいかえれば、ひたすらにそれを《所有》することを求める態度のもとでは、死んだ言葉が両者の関係を支配する。(エJリッヒーフロム、『生きるということ』より)
この点でまず僕は詩の言葉について二つのことをいいたい。
一つは、詩の言葉がなにより他の言葉と違う点は、詩とは言葉を使いながら同時にその言葉が発せられるときの表現者の身振りやまなざし、あるいは声というものを言葉それ自身に与えようとする試みにほかならない、ということだ。詩は、それが本当の詩ならば、言葉に表わせないものを言葉にのせて語ろうとする自分自身の矛盾に苦しんでいるものであり、ただその苦しみから言葉を産もうとする試みなのだ。
詩における、そういう身振りやまなざし、声にあたるものが、一つの言葉のあいだに張り渡されたイメージや言葉の響きが創り出す牽引と反発の磁場なのであり、その磁場が生むリズムや気分なのだ。
「家は夢のゆりかご」という言葉を聞いた途端、その「ゆりかご」という言葉に火傷したように思わず「ゆりかごの中で/相手を食い殺すかまきりもいる」とにじり寄るように確認せざるをえない、その自虐的な残酷な気分や憎しみに近い身悶え、あるいは痛みこそが、詩がこの三行をとおして僕たちに伝達しようとする当のもの、つまり「家」のこの詩人における《経験》なのだ。
だから第二に、僕はこういうことを考える。詩のなかに潜むそうした身振り、まなざし、声というものを、書かれた文字を実際にもう一度肉声で読んでみるという朗読という方法で試そうとすることは、詩の言葉のもっているそうした構造をより自覚的に理解するための有力な方法の一つではないか、と。しかも、それを複数の読み手によるいっそう演劇化された関係のなかで試すことは、おのずとそこに解釈のための討論を導入することであり、さまざまな声の掛け合いを生みだすことであり、そのことは詩の言葉が本来もっている多声的・複声的構造にいっそう似つかわしい方法ではないか、と。 いわばここで僕たちは《声》から入り直して、その言葉の奥底にあるもの、一言でいえばその言葉を産み出した詩人の《経験》そのものをとらえようと試みるのである。《この言葉はどのような声で調子で身振りで読まれるべきか》という問いを立てることで、あらためて僕たちは言葉に対する新たな緊張関係を、探究の関係を自分のなかに打ち立てるのである。
ここで僕は先にとりあげた詩の、その全体を紹介しておこう。(右に僕が述べてきたことを、読者がこの詩の全体にわたって当てはめ、みずからの朗読プランを考案すべく試みてもらえばたいへん楽しく嬉しいのだが。)
家出のすすめ
家は地面のかさぶた
子供はおできができると
それをはがしたがる。
家はきんらんどんす
馬子にも衣装
おかちめんこがきどる夜会。
家は植木鉢
水をやって肥料をやって
芽をそだてる
いいえ、やがて根がつかえる。
家は漬物の重石
人間味を出して下さい
まあ、すっぱくなったこと
家はいじらしい陣地
ぶんどり品を
みんなはこびたがる。
家は夢のゆりかご
ゆりかごの中で
相手を食い殺すかまきりもいる。
家は金庫
他人の手出しはゆるしません。
家は毎日の墓場
それだのに言う
お前が最後に
帰るところではない、と。
であるのに人々は家を愛す
おお 愛。
愛はかさぶた
子供はおできがあできると
………。
だから家を出ましょう、
みんなおもてに出ましょう
ひろい野原で遊びましょう
戸じまりの大切な
せまいせまい家をすてて、
(「家出のすすめ」、石垣りん)
今、僕は詩はもともと多声的・複声的な構造をもつといった。詩の Dなかではいろいろな声がゆきかい、対立し、あるいは響きあい、呼び交わしているのだ。それは垂直的にも水平的にもである。垂直的というのは、つねに詩を書くという行為は、人間の秘匿された、その人間すらふだんは気づかずみずから耳を塞ごうとしているような、その人間の深部に眠る声や叫びを掘り当てよみがえらせようとする行為だからだ。詩の言葉は表層を覆っている声を突き破るような具合に底から響いてくるものだ。その響くという構造あるいは関係は覆っている声と突き破る声との力学が生むもので、必然的に多声的・複声的だ。
そして、水平的というのは、もともとの詩の由来に関わっている。詩はそもそもは、そこでは詩と歌と踊りが一体であった古代の共同体の祭のなかから生まれた。それは、どんなに孤独な個人の心情を歌っている場合でも、実は、自分の《経験》を他の人間に伝達し、分かち合い、共有することによって互いの一体感を繰り返し創造しようとする、人間の根源的な欲求に根ざしている。言葉はそれ自体既に他者への、応答を求める呼びかけである。
だから家を出ましょう、
みんなおもてへ出ましょう
ひろい野原で遊びましょう
戸じまりの大切な
せまいせまい家をすてて。
この最終連は、もちろん呼びかけである。そしてこの呼びかけには、それまでの各行が一つ一つ取り上げてきた「家」をめぐるハ経験》が、いいかえれば、その(経験》に参加し、あるいは触発され、それによって産み出されたさまざまな《声》が解放をもとめて深部から表層を突き破る形で合流し、合唱するのだ。この呼びかけは他者への呼びかけであると同時に自己自身への呼びかけである。この最終連は垂直的かり水平的に合唱でなければならない。掛け合いでなければならない。
W駅でばったり出会いフ「なんだ、久しぶり、少ししゃべっていこうよ」と駅地下の一杯飲み屋に君を誘った、そのあとの帰りの電車のなかでのことです。
君とのおしゃべりが灰におおわれていた僕の空想癖の埋もれ火に息を吹き込んだのです。思い返すと、僕は電車に乗っているあいだじゅう、ひとり夢中になってある計画を練っていました。まったくおかしいぐらいに。 実際僕は危うく一駅乗り過ごすほどだったのです。
君は信じるかな、僕が実はたいへんな夢想家であることを。僕は計画というものを立てることが好きなんです。
ふとした瞬間、たいていそれは本を読む気力もなく電車の窓から走り去る外の風景をぼんやり眺めているときだとか、喫茶店で人を待つあいだの使いみちのない時間をすぎるにまかせているときだとか、そんなときだけれど、あるアイデアが突然ぽっかりと浮かび上がるのです。ぼんやりと半ば眠っていた意識の沼の水面に、なんの予告もなしに。そんな瞬間が君にもあるでしょ。 すると、たちまち僕の意識は新しいことが始まるかもしれないという期待に興奮し始め、僕の生活から眠気にかすんでいたような表惰が見る間に消えてゆき、生活は可能性に満ちた顔つきを取りもどすのです。だれかれの顔が浮かび上り、僕は彼らの一人ひとりにおこなう提案でいっぱいになった自分を見つけだします。
アイデアというのは可能性の意識でしょ。いわばそれは生活に引き金を与えることです。それを引けば、生活のなかにはらまれている可能性の火薬に点火することが可能となる。企てること、何かの計画をもつということは生活を可能性という視点から見ることですよね。そして、生活の可能性とはなによりも人と人とのつながり方の可能性、つまり、こ。の僕と僕の友人たちとの関係のはらむ可能性、たとえていえば、僕と君との関係がはらむ可能性を新たにどんなふうに生きてゆこうとするのかということ、君と僕に関わってどんな構想を抱くか、何を企てるのか、という問題だと僕は思っています。
高校生の頃僕は、ゴーゴリという一九世紀ロシヤの作家が書いた 『死せる魂』という小説を愛読していました。気に入った頁は何度も 読みました。とりわけ、そこに出てくる「美しき夢想者、地主マニー ロフ」という登場人物が僕にはいたく気に入ったのです。この地主 は、実に「美しき魂」の持ち主なのですが、しかし、まったく実行力 に欠けていて、年がら年中、日がな一日、美しき夢想にふけり、空想の国を生きているという実におめでたい人物なのです。それで、当時のロシヤでは夢想家を指して「マニーロフ気質」という言葉が生まれたほどだったのですが、そのマニーロフがぱくの大のお気に入りだったたものです。その気持は今も変わりません。もちろん、マニーロフで
あることにとどまってはならないのですが、でもマニーロフを愛する気持ちは消えません。……
僕の空想した計画とはなんでしょう。
それは、いってみればある種のミュージック・スクールを開校することなのです。 こういきなりいうと、「えっ、先生が、ミュージックースクールですって、いったいどんな?」という君の驚く声がたちまち聞こえてきそうですが、この突拍子もないアイデアも、君と僕のこれまでのつきあいを考えるなら、まんざら根拠なしというわけではないんですよ。
君は僕のゼミの学生でした。そして、僕はゼミで「ロック音楽の誕生とその歴史」というテーマを取り上げ、この・アーマをゼミで追求しようと試みました。それはきわめて不十分にしかできなかったし、まさに僕がこのテーマ追求にさいして構想したアイデアーーそこで取り上げ、追求したかった問題内容に関しても、それを追求する方法やゼミ展開の方法に関しても、その大半は文字どおり「空想」で終わってしまいました。しかし、あのとき構想したことは死んでしまったわけではないのです。まだ僕の胸の中で生きているのです。復活のチャンスをうかがいながらね。
他方、君はとびぬけて音楽が好きでした。少なくとも、ロック音楽にかけては僕の何十倍も聞き楽しみ知識を蓄え、なによりも感覚をもっていました。そして、君と君の友人たちはあの年の学園祭ではマイナーではあるが、「こういうのが本物」と思わせるあるシンガー・ソングライターのライブを計画し、手作りのポスターやチラシを何枚も作り、W市のあるだけのライブハウスに持ち込んだり駅頭でもまいたりして、とうとう百人近くのライブを実現したのでした。
君とあの日ばったり出会い、W巾の駅地下の飲み屋でおしゃべりしたとき、もちろんのこと僕たちは音楽にまつわる僕たち共通の思い出話を楽しみ、また最近聞いた音楽や発見した歌手やグループの話をお互いにしあったのですが、君の話を聞いていて僕には少し気になることが生まれたのです。
まつたく日本のこの「企業社会」という体質はメチャクチャです。君たちは目一杯こき使われています。君の話を聞いていて、学校を卒業して就職したとたん、たちまちのうちに会社が君の世界を占領してしまった様子がよく理解できました。給料と引き換えに時間を「売る」なんてもんじゃありませんね。時間っていうものは生きているものだから、一定限度を超してそれを相手に渡してしまえば、渡した分だけではなく、計算のうえでは渡していないはずの分までも渡してしまうことになってしまうものですね。
もし君が五時を超しても、しかも週六日間慟かなければならないとしたら、それは事実上全生活を会社に売り払ったのと同じことになってしまうでしょうね。そして、全生活を売るっていうことは、もう「売る。」ということではなくて、一人の《奴隷》になってしまうことですよね。
事実、あれほどロック音楽が好きだったはずの君が最近はろくにロック音楽を聞いてないというじゃないですか。学生の頃なら、お気に入りのCDやテープをかけ、あるいは FM放送をいれ、音楽雑誌のさまざまな記事を読みふけっていたはずの時間を、君は今はテレビを見ているといっていましたね。そういって、自分でもびっくりしなが
ら、君は自分を分析してこういいました。テレビを見ているほうが翌日の職場で同僚や上司と会話するときの会話の種が見つかって楽だから、自然にそうなっちゃったのかなア、と。
君は文章を書くのが好きでしたね。そして、作家にならないまでも、時々でも他人に読んでもらえるような文章を書くのが夢だと常々いっていましたね。そんな夢もあったのにと、あの日君は苦笑いしました。話がライブの思い出になったとき、君はこういいました。学生のときにしかできないことを自分たちはやれて私はそれでも幸福だ、学生のときしかできないことなんだから目一杯がんばれと私がいっていたと、先生、そう後輩に伝えてくれと。
実はね、今思うに、その君の言葉を聞いたときなんだな。僕の空想癖にまた火がついたのは。
僕はその君の言葉を聞いたとき胸のうちで思わずこう叫んだのです。
「それは違う、絶対に違う。ライブは学生の時だけしかできないんじゃなくて、そうじゃなくて、就職しても、結婚しても、年をとっても、暮らしのなかで友達とのつながりのなかでライブを企画し実現し楽しみながら生きてゆく、そういう暮らし方のイメージをもつってことが、あのとき君が手にするべき教訓のはずだぞ」つて。
そのことをあのときは僕はいわずに君と別れました。しかし、そのとき僕の胸のなかではじけた「違う!」という小さな叫びは、そのあとの電車に揺られながら帰る僕のなかでどんどん大きくなっていつたのでした。
「違う、違う、そうじゃない!」とくりかえしているうちに、気がついてみると、僕は夢中になってミユージックースクールの計画を空想していたのです。
僕の空想するミユージックースクール。それは今君が断念しかけていることを全部取りもどすためのスクールで、それは一種の「生きる技術」を磨くためのトレーニングースクールも兼ねているんです。
君は短大を卒業し、就職したとたん、たぶんこう思いましたね。「これで私の学生時代は終わった。私は、これからなんであれ何かになるにしろ、学生だけはもうならないだろう。私の学生時代よ、永遠にさようなら」つてね。
まずこのスクールはその君の思い込みを突き崩すところから始まります。
「学校よ、さようなら!」それからしばらくたった今、今度は、「学校よ、こんにちは!」という挨拶が君の生活のなかで声をあげるのです。もっとも、その新しい学校は君がさようならをした「学校」のくりかえしではなくて、まったく別のタイプの新しいスクールなんですかね。
君は、まず君のいちばん好きなもの、つまり君の文化的=精神的欲求のカナメになっているもの、たとえば君のロック音楽を、《学ぶ》対象として今こそ君の暮らしのなかに確立しなければならないし、することになるのです。このスクールの援助のもとにね。
そして、そのことをしなければならないのは、またできるのは、逆説的にも、君が永遠に学校とお別れしたと思っている今なのです。君は卒業したとき、突然気づいたはずです。在学中は、いつもそこからエスケープすることこそが君のへ自由》を意味したはずのその
《学校》が、ある種の「自由の防波堤」でもあったことを。君が《学校》とお別れした途端、君は当然ながら《教室》という空間を生活のなかから失ってしまいました。失ってみて分かったことは、《教室》という空間はI-在学中は退屈のきわみであったにもかかわらず、捨て難い魅力と意義を潜めている空間だということではないでしょうか。ともかくも、《教室》という場で、僕たちは日々の生活の現実の流れや煩わしい要求からいったん切り離されて、ある文化的な主題に向けて集団的な集中的な学習・研究・討論の関係に入るわけです。
たいていの場合、そこでは教師が勝手な独演会をやっており、君のほうはその「講義」と称するものをひたすらご拝聴しなければならないとしても、だからその意義は十分発揮されないままに終わっている場合が大半であるにせよ、しかし、そこにはこの主題への集中という関係性が、しかもある種の仲間関係、勉強のための《共同体》という集団的な関係性に担われてのそれが、どんな場合でもけっして消え去ってしまうことのない場の構成要素として存在し続けているのです。その事情が《教室》の捨て難い魅力と意義をつくっているのです。
だって、君がこの《教室》という空間を失ったとたん、君の生活の展開のなかでおよそ《文化》と呼ばれるほどのものはまったくのたんなる個人的趣味・私事扱いされるものにに変えられてしまったではありませんか。そうなるや《文化》はたちまち日々の職場中心の生活リズムのなかに飲み込まれ吸収されてしまい、もはやなんの自律性も保持できず、君は仕事と職場の人間関係に神経をすりへらし、その問題に頭を占領されっぱなしで、かつてのように音楽も聞かず、ライブにも出かけず、映画も見ず、問題作の漫画も小説も読まず、ただ見ているのは気晴らしのテレビだけという状態におちいってしまいました。
今や君は自分の文化的関心がみるまにやせ細ってゆくことへの恐怖と不安でいっぱいになっている、というわけでしょ。
つまり、あの退屈であった教室が、実はそれでも君のなかの《文化》への関心と子不ルギーの自律性を支えていたのです。そのことは、君が今も、あるいはこれからもずっと生涯にわたって、なんらかの形の《教室》を必要としていることを、逆に証明してはいないでしょうか。
いや、理屈ばった話は後にして、もっと具体的なイメージを僕は君に語るべきですね。空想をたくましくして、我らのスクールをできるだけ具体的にイメージしてみましょう。
こんなカリキュラムを試みに考えてみました。
このスクールは、音楽、とりわけロック音楽の大好きな働いている青年男女を主人公にして構想されます。ですから、教室が開かれるのは土曜もしくは金曜の夜か日曜の午後。二週間に一回、三か月、計六回をIコースとして、このコースを一年間で三回積み上げる。
初回のコースは全体が問題提起的な導入的性格をもつ。たとえば、
第一回、「ロックースピリットとは何か」
第二回、「ブルースとロック」
第三回、「メンフィスという町について」
第四回、「ロックにおける詩--シンガー・ソングライターの意識」
第五回、「象徴としての一九六八年とロック」
第六回、コース終了パーテイー
カリキュラムの教育上の内容はつぎの四点における基礎的知識の提供を機軸に構成されます。
(ロック音楽の精神性、それが表現している精神世界・意識の特徴についての基本的な問題提起。たとえば、それがどのような欲求、反抗意識、ヅイジョン、気分の表明であり、そこで歌われるテーマの特質は何か、総じて、ロック音楽の現代文化にとっての基本的な意義は何か、等の問題の自覚。(言ロック音楽の・誕生とその歴史についての基礎的な理解。エポックをなしたロック音楽史上の出来事、歌手、バンド、その作品についての基礎知識。(三)ロック音楽史を背後から支えるその社会的=歴史的な背景についての基礎知識。(四)ロック音楽の音楽的特質、他の音楽との影響関係、および、コード、唱法、
奏法、等の音楽上の基礎知識。 たとえば、第一回、第四回、第五回は主に(こに関わりますね。第二回と第三回は (二)と(四)あるいは(三)に関わります。
ブルースがなければビートルズもストーンズもなかったといわれます。そもそもエルヴィスープレスリーの存在の象徴性は彼のなかで南部の黒人音楽(ブルースとゴスペル)とカントリー・アンド‘ウェスタンを中心とした下層白人の音楽が合流したことにあると、ロックに通じている人なら誰もがいいます。では、そういわれるブルースとはそもそもいったいどんな歴史のなかから生まれてきたどんな音楽なのか、なぜロックの誕生にとってブルースは不可欠だったのか、その理由をあらためて考えるための基礎知識の獲得が、たとえば第二回の課題です。
この第二回のテーマは、たとえば第三回ではこんなふうな視点から引き継がれ、さらに展開されるわけです。――エルヴィスが終生けっ して離れることがなかったといわれる町、リズムーアンドーブルース の天才といわれるオーティスーレディングが活躍した町、そして忌野ヽ清志郎が名誉市民となり、それを記念して最近その名も『メンフィス』 というタイトルのCDを出した、そのメンフィスという町はいったいどんな町なんだろう。どこにあって、どんな特徴をもった町で、なんでそのようなロック音楽の聖地のような町になったのだろう。できるだけ、スライドや写真、実際に行った人の見聞記をおりまぜて、メンフィスという町について知ることを通じて、ロック音楽を生んだアメリカ社会の構造について基礎的な関心を自分のなかにつくりだす、というように。
このスクールのいわば「教育」上の精神、合言葉はつぎの三つです。
君の意識を歴史化せよ、君の意識を全体化・総合化せよ、そして、君の知識を媒介せよ、その三つのことを通して、君の関心から発した、これから君が歩いてゆく知の探究の見取り図一地図を君のなかに描き出せ。要するに、これまで君がパラパラな仕方で断片的に知っていたロック音楽についてのあれこれの知識や関心をつなげ、その間に橋をわたし、さらにそれを人間の営みのなかに深くまた広く押し広げてゆくこ
となのです。時間的にも、空間的にも、分野的にも。
たとえば、このスクールの「授業」を通じて、メンフィスは君にとってたんなるアメリカの一地名であることをやめて、ロック音楽の歴史の中へもっと深く君を媒介・仲立ちするある象徴的な意義を担った地名に変わるでしょう。逆にいえば、ロック音楽はその媒介・仲立ちのプロセスを通じてたんなるCDから聞こえてくるだけの音であることをやめて、ある具体的な町の息づかい、そこでの人間の出会い方やぶつかり方、風景、街路、騒音、臭い、等々に仲立ちされ、浸された音として聞こえ始めることになるでしょう。
媒介・仲立ちといったのはそういうことを指してです。メンフィスはロックを仲立ちし、ロックはメンフィスを仲立ちする。そうなるにしたがって、今までおたがいに無関係にバラバラに存在していたものが結びついてくるのです。すると、そこにある《全体》的なものが浮かび上がってきます。これまで断片でしかなかったものが、あるもっと大きな全体に通じているもの、その全体の中に息づいているもの、全体を独特な形で自分自身の中に映し出しているものとしてとらえられてきます。
その《全体》とはなんでしょう。(全体》とはまさしく人間の生きる現実そのものにほかなりません。そして、人間は自分の現実を必ず《歴史》として生きてゆくものなのです。現在の中に過去が映し出され、過去の中に未来が映し出され、現在は未来をはらむものとしてあらためてとらえ返される。そんなふうに過去、現在、未来が生き生きと互いを呼びかわすような、そんな時間の意識が生まれるにしたがって、はじめて人間は自分の現実を深く鋭く生きることができるようになるのです。《全体》が見えてくるにしたがって君の意識はしだいに《歴史化》されだすでしょう。君は、そのつどつどの《現在》という瞬間を切れ切れの時間の断片の中でゆきあたりばったりに生きている意識のあり方からだんだんと脱却し、自分をひとつの持続する時間、しだいに深く密度を濃くして歴史化してゆく時間として感じるようになるでしょう。
そして、そうした《全体化》と《歴史化》のプロセスの真ん中にはいつも君の大好きなロック音楽への関心が据えられているのです。あるいは、ロック音楽が大好きな君という人間が立っているのです。
また、理屈ばった話になりだしました。実は、このスクールにはもうひとつの大事な柱があるのです。今述べた、このスクールの「教育」の理念、学習の理念のほかに、もうひとつの極めて大事な。
第六回は、「コース終了パーティー」となっていますね。ここに、これから話す第二の柱がかかわってきます。
このスクールは、第一回の授業の後ただちに学生委員会を受講者のあいだで結成します。この学生委員会の最大の仕事は、なによりもまず最終回、つまり第六回の「コース終了パー7 イー」への企画と準備を始めてゆくことなのです。まだ、第一回の授業を終えたばかりというのにもう「終フパーティー」の準備なんて少しおかしいではないかと、当然君は思うでしょうけど。
この「終フパーティー」は実はたんなる儀礼的な終フパよアイーではないんです。このパーティーは実は学生、つまり受講生の徹底的な自己表現の場として企画され、実現されねばならないのです。
もともとロック音楽の大好きな連中ばかりが集まっているわけです。その点で、この パーティーはこのスクールが学外に対しておこなう、いってみればロック・パフォーマンスとして企てられるのです。
学生全体が主催者になって、学生の友人たちを招待して一つのライブとしてのロックーパーティーをおこなうのです。ただし、そのパー・ティーは同時にこのスクールに学んだ学生たちの成果の発表会という意味も持ってくるのです。
ここでまさしく空想をたくましくしましょう。
たとえば、このスクールで互いに知りあった四人の受講生は即席のバンドを結成します。それぞれは、高校のときや大学のときにバンドをやっていたのですが、その後バンドをやる機会や仲間を見つけられないままできたのですが、このスクールがその機会をつくりだしたのです。
また、ある人間は生ギター一本でこのスクールに通うあいだに作った自作の弾き語りを披露します。それだけではありません。
会場にはカメラの好きな学生たちがさまざまなコンサートや街角で撮った写真が展示されていますし、会場の入り口ではこのスクールの学生たちが杏いた詩や音楽評論が集められた小さな手作りの文集が売られています。会場でおこなわれるのは音楽ばかりではありません。
詩の朗読や、小説の】節の朗読もおこなわれます。即席のフリー・マーケット、バザーも開かれ、そこではこのスクールの学生ならではの実にユニークな品々や貴重品の古着が売られます。
要するに、できるだけユニークで自己表現の于不ルギーに満ちた総合的なライブが企画され、開かれるのです。すべてがライブなのです。
たとえばバザー自体が。売り子になった学生は客寄せの口上を工夫し ます。もちろん衣装にだって工夫があるのです。ハーレムの雰囲気がまねされたり、アフリカ黒人の村のバザールの雰囲気がまねされたり、かつてのヒッピーの気分がまねされたり、すべてが演出され工夫されます。一つの空間を出現させるために。会場そのものが演劇化されるといってもいいでしょう。
そして、大事なことは、そのことがはじめからこのスクールのもうひとつの柱をなす決定的に大事な「学習」テーマとして位置づけられ、学生に明確に取り組むべき各自の《課題》として提示されるということです。つまり、このスクールの受講生は全員がなんらかの形で「終了パーティー」において自己表現をすることが要求され、また全員がこのパーティーの企画と準備に能動的に参加し、なんらかの責任ある役割を担うことを要求されるのです。たとえば、この点では、学生文集の編集と発行、そこへの各自の執筆はこのスクールの不可欠の教育企画となるでしょう。そして、自主的に形成され運営される学生委員
会が、スクール側の運営・指導委員会との緊密な連絡のもとに、この企画と準備のプロセスの一切をまとめあげてゆくのです。
つまり、このスクールはロック音楽についてさまざまな基礎知識を獲得するためのスクールであると同時に、たんにそれだけではなく、いってみれば、ロック的に生きてゆくためのテクニック、「生きる技術」をトレーニングするスクールでもあるのです。
仲間と出会うための技術、仲間と議論し相談し共同の意志をつくりあげるための技術、論争し、批判しあいながらも、仲良く友人であり続けるための技術、自己を思い切って表現するために自分を投げ出す――歌のなかへ、朗読のなかへ、演技のなかへ、相手の心のなかへ、等々――ための技術、人を口説く技術、物を売りつける技術、協力を取りつける技術、宣伝の技術、雰囲気を盛り上げるための技術、飾りつける技術、コネクッションをつくりあげ、ネットワークをはってゆく技術、そうしたさまざまな「生きる技術」が学ばれ、トレーニングされるのです。「終フパーティー」を学生みずから企画し、演出し、準備し、実施するという実地の経験を生み出すことをとおしてね。
こうして、初回のコースが終わります。すると、そこでの学生委員会が今度は中心となって、コースの反省と総括をおこない、その討議の中から、スクール側の運営・指導委員会との協議のもとに、次の第二回コースの内容を考えてゆくのです。つまり、初回のコースを通して獲得した問題意識をさらに発展させるためのコースとして第二回のコースを位置づけ、それにふさわしい内容を企画し、呼んで話を聞いてみたい講師を人選してゅくのです。だから、会を追って学生たちが自主的に企画し決定する領域が増え、このスクール全体がしだいに学生たち自身の一種の共同体、自主講座になってゆくわけです。学生
たちは、このスクールをとおして《自分たちによる、自分たちのための、自分たちのスクール》を開くことができるための力をまさにトレーゴングされてゆくわけなのです。
、そのようにして、三回のコースを一年間に積み上げます。
このスクールは、ライブを自分たちで企画するなんてことは学生時代だけできることだという、今の君の思い込みを打ち砕くためのスクールです。でも、打ち砕くだけではありません。就職しても、結婚しても、年をとっても、君がライブを君の友人たちとの間柄のなかで企てながら人生を送ってゆくための「生きる技術」と、そのための仲間を、実際に君に獲得させるスクールでもあるんです。
とても素敵なアイデアだと思いませんか。
この僕の空想ミュージックースクールははたして「マニーロフの夢」でしょうか。それとも、僕と君の関係のなかにはらまれる可能性を古い懐かしい思い出のアルバムに封じ込めてしまうのではなく、逆にそこから救い出し、新たに展開してみせるための生活の企てでしょうか?
君はどう思いますか。