ブログ『グルムグンシュ』を読む

     

 

 まず僕は次の言葉を読者に伝えておきたい。思想史に名を残す著名な心理学者で哲学者のウイリアム・ジェームズの言葉を。

 

私たちは、病的な心のほうがいっそう広い領域の経験におよんでおり、その視界のほうがひろいと言わねばならぬように思われる。注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。・・・(略)・・・しかし、憂鬱があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとい、私たち自身が憂鬱をまったくまぬかれているとしても、健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いがない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである[]

 

 そして、あらかじめいくつかの断りを述べておきたい。それは、この章でなされる僕の考察の拠って立つ立場に関してのことだ。

ここで取り上げるブログの書き手であったその少女は、自分が母に毒薬タリウムを投与し続けたことを既に自供している。また家庭裁判所がおこなった精神鑑定の結果彼女には「アスペルガー障害」の診断が下ったという[]。アスペルガー障害というのは、先天的な脳機能の異変に由来する「広範性の発達障害」の一つとされ、他人への共感能力の発達に障害があり、また物事への関心が特定事象に固着し柔軟性を喪失する傾向が特徴的であるとされる。彼女が生きねばならなかった、また現に生きている悲劇の特異性、それを構成した重要な因子にこの障害があることは否定しえないであろう。悲劇といった。それは彼女の悲劇であることによって同時に彼女の母の悲劇であり、父や兄たちの、一つの家族の悲劇であった。犯罪と弾劾することを忘れさせるほどの悲劇の残酷性が僕たちに息を呑ませる。

その特異性! 確かに。だが、それはその特異な相貌の下に、同時に僕たちが人間として、また現代という同時代を生きている者として共通に抱え込む普遍的な問題を或る痛切な形で凝集して示してもいる。僕はそういうべきだと思う。

ここで僕がおこなうのは彼女が公表したブログを読み、このブログが僕に喚起する問題を一つの覚書として書き留めることであり、またそれだけである。そして、書き留められる問題とは、今しがた述べた問題の普遍的な側面ということになろう。

彼女の、また彼女の家族の悲劇をその特異性に即して理解することを成し遂げるだけの専門的能力が僕に準備されていないことは勿論である。だが、仮にそれがあったとしても、その作業をなすだけの資料は僕のもとには存在しない。僕が今できるのはただこのブログを読むということだけである。

この僕の試みにおいて最大の問題は、果たしてそのような覚書程度のものを自分はこのような形で公開すべきかどうか、その点に関して僕が実は今もって確信がもてないことである。確信がもてないことの根幹にある自分への疑念は、自分は本当に彼女のブログに応答できているだろうか、応答するという緊張を持しているだろうか? という点にある。

この少女はブログとしてこの日記を公開した。彼女はそれが読まれることを求めた。いいかえれば、応答されることを。そして僕は応答したいと思った。

ところで、応答することは解釈することなしには成立しない。だが、解釈することではない。解釈することは所有する欲望に通じている。そこには特有の傲慢がある。お前のことは、お前以上に俺がわかっており、俺の理解のなかにお前はすっぽりと吸収され、消化され、俺はもはやお前に(おそ)れも(おのの)きももっておらず、この自分の理解力に得々として満足している、という傲慢がある。この傲慢をエンジョイしようとする特殊な欲望が解釈の欲望には隠されている。

かつてバフチンという哲学者がドストエフスキーの文学の偉大さを論じ、こう述べたことがある。その偉大さはこの文学が次の痛切な認識に立脚していたからだ、と。すなわち、「人間に対話的に呼びかけることのない、他者の口から出るその人間についての真実は要するに不在の真実であり、たとえその人間の《秘中の秘》、つまり《人間の内なる人間》に触れるとしても、それはその人間をないがしろにし、絞め殺す虚偽となってしまう」[]という認識に。

 応答は解釈なしにはありえないが、その解釈が傲慢となって応答の緊張を失わせしめることは多々ある。その点において、僕には自分への疑念があるのだ。

 

   《世界》の夢化という問題

 

 その少女はブログを一つの創作された日記としてネットに公開していた。正式のタイトルは『グルムグンシュ――岩本亮平の日記』。

 そのブログは示している。彼女のもとでは《世界》が夢に変わりつつあったことを。《世界》の夢化は彼女のブログ全体を貫く決定的で本質的なテーマである。日記が開始されて三日目、六月二九日の頁のタイトルは「夢と夢の裏」である。七月二日「霧様な友人」、三日「粉末状の夢境」、四日「傍観者」、八日「幻影と代替」、十一日「幻覚」、二四日「闇の精霊」、三一日「imaginary companion」、八月十日「客観に囲まれし空虚」、二五日「夢魔」、九月二九日「眠りの森」、十月四日「幻覚」、九日「麻薬」。こんな風に。事実彼女はこのブログでその主人公を「現実と夢の区別を無くしたいと考えている高校生」と紹介している。

 

 人は、彼の人生が生きがたい、そしてもう変えようがないと思われるものになってしまったとき、しかし、それでもそれを生きていかねばならないとき、その人生の現実を非現実化し、つまり《夢》に変え、反対に自分がそこへと閉じこもる想像の世界を《現実》と想いなし、つまり《夢》こそを《現実》とすることで、自分の現実を生きることができるようにする。自殺の代わりとなった《世界》の夢化という問題がある。絶望的な孤独化を辛くも支える《世界》の夢化という問題がある。それは自分の生命(いのち)を守る最後の手立てだ。

芸術はこの最後の防衛に仕えるものだ。芸術は、想像されたもの、現実にはなく私の魂のなかにだけあるもの、この夢的なものの方がはるかに現実より優っているという信念をつねに隠しもっている。またその信念によって、生きるためにその信念を必要とする人を鼓舞する。

しかし、《夢》とは金輪際他人と共有できないものであり、他人を拒否するものであり、他人と接触しかかわれば成立不可能となってしまうものだ。《夢》を選ぶことは他人を拒否することである。現実はつねに他人と共にある。他人と共にあろうとすることを選ぶことなしに、現実を選ぶことはできない。

生命(いのち)を守る最後の手立てが最後の手立てであるためには、人は再び他人と共にあることのなかへ、現実のなかへ出ていかなければならない。生命を守る最後の手立てが、生命を捨て、生命を破壊する最後の跳躍台になる場合がある。《世界》の夢化が他人との絆の再生にむけた反転のきっかけとなるのではなく、他人との絆の最終的な切断のきっかけとなる場合が。いつ滑落するかわからぬ鋭い山の峰を歩いているのが僕たちだ。想像力の働きがどちらの方向へと僕たちを突き動かすか、そこに僕たちの難所がある。

 

 隠すことによって顕わす

 

少女の日記物語の全文を公開した週刊誌の注釈によれば、書き手として現われる「岩本亮平」とは「有名なネット小説『絶望の世界』の主人公の名前」である。このネット小説は、一言でいえば、「学校でひどいいじめを受けている岩本亮平が、いじめ相手に陰湿な復讐を果たす話」だという[]

 つまり、その少女はもう一つの物語を書いたというわけだ。彼女はたぶん『絶望の世界』の愛読者であった。おそらくそこに自分が書くべき物語の(コア)を見出したほどに。だから彼女はそこから今度は彼女の主人公を拾い上げ、彼女の物語の主人公へと変換し、彼女自身の物語を創作しようとした。ニーチェの言葉にある。「われわれの体験とは、結局ただ自分自身を体験することなのだ」[6]と。『絶望の世界』のなかに彼女は自己経験を見出した。つまり物語の(コア)を。いじめられた経験という共有された(コア)を。また、この経験が誕生させる復讐欲望の経験を。

 かつてサルトルはこういった。「実際は、自分でものを書きたいからこそ人は本を読むのです。いずれにしても、本を読むということは、いくぶんかは、書き直すことです」[]と。サルトルの観点からすれば、読者はつねに潜在的にもう一人の物語作者である。物語とは実は限りなき翻案の連鎖である。物語とはつねに或る物語から生まれたもう一つの物語だ。最初の物語がその読者の「自己経験」に(じか)に触れてくるような(コア)を秘めている場合には、ことに。

 

六月二六日にブログが始まる。タイトルは「暗然な日々」。「暗然」という語彙を発案し使用していることは彼女の文学的な表現能力の高さを示す。「嫌な事とかも全て書くつもり」という決意が示される。自分には友人が少なく、教室で孤独であることが続けて書かれるが、「孤独」の「弧」という字を書いたところで日記は終わっている。「教室では何時も弧・・・」と。全て書くという決意はまだ全然果たされていない。幼い決意が記されるが、その日の力はもうそこで尽きてしまう。

 だが、かえってそのことが彼女の決意の重大性を物語るともいいうる。脳裏には既に書くべきたくさんのことが一杯に詰まっている。その大きさと重さに、彼女は「孤独」という字すら書き終えないままに、その日のブログを投げ出してしまう。しかし、既に賭けは為されたということも事実だ。今日放棄された物語は明日拾い直されるだろう。行くところまで行くことになろう。

 次の日記は六月二八日のもの。その日は体育の授業が水泳であり、それへの嫌悪が書かれる。「憂鬱な体育の授業です」と。このテーマは、「視線の針」というタイトルが付された七月七日のブログでも繰り返される。

そもそもこのブログにおいて彼女は日記の書き手を、自分を「僕」と呼ぶ「岩本亮平」として登場させている。それは彼女自身の日記ではなく、彼の日記であり、あくまで創作だということだ。

とはいえ、「性別」というタイトルの七月十九日のブログにこうある。「ネット上の性別は、戸籍上のものとは違うものが使われることが多いのでしょうか? だとしたら、僕の罪も少しは許されると思います」と。

彼女はこのブログの真の書き手は「岩本亮平」という男子高校生ではなく、そう名のる別の或る女子高校生であることを早くも明らかにしてしまう。創作ブログという試みを遂行し抜くにはまだ彼女の小説的想像力は幼く、乏し過ぎる。「僕」という人称を使うことで創作という仕掛けをかろうじて保っているにせよ、物語は限りなく実際の彼女の日記に近づく。つまり自分に起きた出来事のそのままの記述に。もっとも、どんなに事実に即して書かれた日記にしろ、既にそこに書くべき事実の取捨選択があり、その取捨選択や事実の解釈をとおして新たに発見されたり強化され直す《意味》づけのパースペクティブ(遠近法)の彫琢や主張がある以上、日記はそれ自体が実は既に一個の物語の創造である。

だから、こういうべきかもしれない。日記がそもそも孕んでいる物語創造の要素は「僕」という変名化を施されることによって強化されたのだ、と。「岩本亮平の日記」は限りなくこの変名の陰に隠れた真の書き手である彼女の日記に近づくが、同時に彼女の日記はたんなる事実の記述という範疇を越え、深い内面的自己探索とそれが生む或る遠近法によって構築された《世界》提示をおこなう物語的な力を増強して、「僕」(=彼女)の「岩本亮平の日記」となる。

もうここで僕たちは、日記欲望が宿す固有の動力学、隠すことで顕わすという逆説の一個の典型に出会うことになる。この逆説は、仮面の逆説と呼んでもいいし、およそ文学創造の根底にある逆説と呼んでもいい。

そもそも、日記というものそれ自体が、隠すことで顕わすという逆説を生きるために人間が発案したものであった。日記は、《他者によって読まれることを拒否する、他者は読んではならない》という約束の上に自分を成立させる。この約束の上に、だからこそ真に自分が自分と対話したいことを書く《場》、自分を自分に顕わす舞台こそが日記だという、日記欲望の自己了解が成立する。他者から自分を隠すことが自分を自分に顕わすことを可能にさせる条件なのだ。

とはいえ、日記の最深部に宿る逆説とは、日記は実は読まれることを欲しているということであろう。たとえば、自分が死んで、もはや自分を他者から隠す必要がなくなったならば、日記はむしろ必ず他者によって読まれねばならないものとなる。公開されることを欲するものとなる。そのために実は書かれている。非公開を条件に公開されるためにこそ書かれたもの、それが日記だ。こういった暗黙の信念なり欲望が日記には貼りついているはずだ。

結局、日記というものが示すのは、人間にはやみがたい伝達の欲望と自己隠蔽の欲望との二つが、一方があるからこそ他方があるという形でくっつき一つになっているという事情、この人間の暗部に眠る根源的伝達欲望の逆説性ではないのか?

 

ここで問いが生まれる。この日記にもともと宿る隠すことで顕わすという逆説は、ITという前代未聞の情報技術の革命に出会うことによってその展開のどんな新しい技術的可能性を得るのか、またこの獲得がこの逆説の従来からのあり方をどんな風に変容させ、どんな別な欲望へ形態変容させてゆくのか? そういった一連の問いだ。

ブログについていえば、ブログは、日記欲望に孕まれる深層の公開欲望を実現するうえで画期的な技術的可能性を日記欲望者に与える。そのことで、この欲望の伝統的様式、つまりこの欲望をただ単純に他人の目に触れさせぬ日記のなかに密かに実現=秘匿するという様式を打ち破る。ハンドルネームという別な人格を得るといった積極的な方法によって自分を仮面化することがいとも簡単に可能になる。そのことによって、自分を隠し同時に顕わすという一挙両得の瞬時の業が可能となる。隠すことと公開することの時間差は消滅する。公開は日記の主の死を待っていなくてもよい。そのことは、隠すことで顕わすという日記欲望の生きる逆説に画期的新形態を与えるものではないか? 

また、こんな問いも浮かんでくる。仮面化によって隠という、この積極的形態は日記のなかに宿る物語創造の要素を増強するものとして作用し、ブログのいっそうの物語化とブログという《場》の劇場化を促すのではないか? ついこの間も或る若者がこういった。「いまや一億総表現者時代なのよ!」と。

IT技術によって可能となった関係接続における匿名化や仮面化あるいは一種の秘密クラブ的会員制化、これらの要素は従来とても不可能であったはずの関係接続の範囲の広域化やアンダーグラウンド化あるいは瞬時化や頻繁化を可能にする。作者と読者との画期的な直接交信的結合が日々可能となる。この要素が先の劇場化と結合するとき、そこには関係性のいわば決定的なエンターテイメント化とファンクラブ化が実現されるのではないのか? 作者は読者を喜ばせるために書き、読者は作者にそのファンクラブとして取り憑く。ついこの間も或る若者がこういった。「部屋に帰宅して最初にやることはPCを開き、自分のブログに何人が『足跡』を残したかを確認すること。こうして私たちはますます他者依存症になるんだわ!」と。自己を表現へと解放することはいっそう深く他者へ依存するためであった、のか?! 表現は真の人間と人間との交流を開始させるチャンスとなるよりは、個人ナルシシズムのいわばファンクラブ的集団ナルシシズムへのバージョンアップのチャンスとなった、のか?!

こういった一連の問いがただちに浮かび上がってくる。とはいえ、今はこれらの問いに取り組む時ではない。その少女のブログに戻ろう。

 

   孤独化

 

書き手は「僕」であった。しかし、七月十九日の日記で告白されたように、「僕」とは実は彼女のことである。それとの関連で、七月七日のブログのタイトルが「視線の針」であること、また「今回の体育は女子も一緒です」という注意書きは、幾つかのことを考えさせる。

二つの可能性がある。第一の可能性とはこうだ。実は「女子も一緒です」とは、作者である彼女の最深の伝達動機からすれば、「男子も一緒です」ということを意味し、この日記で「女子」と語られる相手は実はすべて「男子」であることを意味するということ。「視線の針」とは、主に彼女に突き刺さる性的な含意の込められた男子の侮蔑的な視線の攻撃性であるという解釈。

もう一つは、彼女は逆に同性からの蔑視の攻撃性にもっぱら苦しんだという解釈。これもむげに否定できない。同性間のいじめの残酷さも今日のいじめの特徴点の一つだからである。また女子生徒のあいだで暗黙の、しかし極めて厳格な恋愛的価値尺度――男子に欲望される「女子」としてイケテイル/イケテナイ、の――による評価ヒエラルキーが確立しており、それが構成する劣等コンプレックスの心理的抑圧性の問題は「やおい」問題との関連においても今日の極めて重要な思春期女子の問題であること、このことは見逃しえない一点だ[]

「水泳」というテーマ、水着になった自分への視線という点で、やはり前者の解釈が妥当する確率が高い。「幻覚」というタイトルの七月十一日ブログにはこう書かれている。「周りで女子の甲高い声が響いているのが聞こえます。其の音が耳に入る度に、後頭部に鈍い痛みが走ります。・・・『だってぇー』『クスクス』『キャハハッ』『あはは』『うそォ、マジで?』『ほんとだよー』『本当にあいつが』『うわっ、しんじられない!』『マジかよ!』『キモ過ぎだし』此れ等はどこから聞こえてくるのでしょうか?教室の中?それとも、僕の中?・・・どちらであっても僕は逃げられません。ずっとずっと檻の中」。

しかし、今や女生徒の言葉遣いが著しく男子化している状況を考えると、この言葉遣いからだけでは、それが男子のものか女子のものか判別することは難しい。そのことよりもここでは次の点に注目しよう。嘲りの声は既に彼女の存在の内側から聞こえてくる声になるまでに内部化されている。外部からは逃げることができても、内部からの声が発する嘲りからは逃げ切れない。内部化とは強迫化である。何という明晰な、そして絶望的な自己認識。「どちらであっても僕は逃げられません。ずっとずっと檻の中」とは!

付記すれば、そもそも七月一日のブログにも英語の参考書を隠されるといういじめを受けたことが記され、「教室では孤独です」と書かれたその後の一節は「僕の後ろの世界からは女子の・・・」で終わっている。僕-女子の異性関係は現実には逆であった。だから、彼女がつねに男子の嘲弄の的であったことはほぼ確実であろう。ちなみに、この日記の完全版を掲載した週刊文春の報道頁には小学校時代の同級生の証言として、「・・・男子に、『踊れよ』とか言われて、泣き笑いしながら、タコやニワトリのように身体をゆすって踊っていましたね。走り方も変で、馬みたいにパカッパカッて走っていたので、“馬走り”って呼ばれてました」[]という言葉が掲載されている。ここにも、彼女が男子によってその身体の運動性の不器用さを嘲弄されることが多々あったことが示されている。既に小学校時代にこういう負性を彼女が負わされていたのだから、思春期に入ればこの劣等コンプレックスと屈辱はいっそう激しくなったことは想像に難くない。

ところで、彼女が日記の話者の性を偽っている問題について罪の意識を語っていたことについては既に触れた。彼女はこう書いていた。「ネット上の性別は、戸籍上のものとは違うものが使われることが多いのでしょうか? だとしたら、僕の罪も少しは許されると思います」(前出)と。

だが、ここでいう「僕の罪」とはたんに性別を偽ったことだけを指しているのだろうか?

作家の石田衣良は、この少女は「情緒系の部分が完全に欠落した人格障害」だと断定したうえで、「犯罪自体に罪の意識はなくても、プログで性を偽っていることへの反省はある」とし、ここでの「罪」意識をプログで性を偽っていることに見出している[10]。確かに日記の全体を特徴づける顕著な事実は、彼女が母へのタリウム投与の遂行(彼女はタリウム投与を自供しているにせよ、それが一直線に明確な殺害意志につながるものかは、厳密にいえばまだ証明されたわけではないというべきだろう。だからここでは「毒殺計画」とはいわず、たんに「タリウム投与」とだけいっておこう)に何ら情緒的な罪責感の怯えといった反応を示すことなく、いわば離人症的な「傍観者」的態度をもってそれを遂行しているという点だ。

しかし、だからといって、「情緒系の部分が完全に欠落した人格障害」と結論づけることができるだろうか? 後で詳細に追うつもりだが、彼女のブログの展開、とりわけ彼女から彼女の恋人というべきもう一人の《少女》が消失してしまうという事態の出現とそのことを語る彼女の言葉は、それを読んだ者の胸を激しく打つほどに十分に「情緒」的ではないだろうか? 彼女が母へのタリウム投与の遂行を離人症的な「傍観者」的態度をもって遂行したということの理解は、一方で彼女が僕たちの胸を打つほどの喪失の物語を書きえたということと矛盾なく両立しうる問題として語られるべきではないのか? 

結論からいえば、僕の提起する仮説はこうだ。自分が盛った毒によって死に傾斜してゆく母に対する彼女の離人症的な「傍観者」的態度は同時に自己自身に対する彼女の態度でもある。彼女は母に毒をひそかに処方する自分をまるで夢のなかの人物であるかのように傍観的にしか体験できていなかったのではないか? だが、そのような自己自身を含めた《世界》の夢化は、自己の内なる恋人たる《少女》の消失という決定的な最後の現実の消失を踏みきり台とすることによってもはや後戻りのきかない最後の跳躍として生じたのではないか?

石田のような断定の仕方では、この肝心な点が見えなくさせられてしまうのではないか?

確かに「僕の罪も少しは許されると思う」という自己認識は文章それ自体としては性別詐称の問題だけを指し示す。だから次のぼくの議論はあくまでも一個の作業仮説に留まるものだが、ここで僕たちがぶつかっている問題の全体を視野に収めるためには有効な作業仮説ではないか? 

僕の作業仮説とはこうである。ここで語られる性別詐称はメタファー的な意味を帯びていて、それは自分のなかには実際の自分から想像的に遊離した或る夢魔化したもう一人の自分が存在するということを象徴的に語っているのだ。このメタファー的な意味のレベルで先の彼女の一節が全体として物語っていることは、たんに性別を偽ったということではない。そうではなくて、自分の犯罪は自分の行為でありながら、同時に一種の想像行為に過ぎないものとして、まるで夢的な非現実感をもって彼女によって体験され続けたということなのだ。それは事実なされた行為であったのだが、或る夢魔化したもう一人の自分自分ではない自分がやった行為なのであり、だから確かに自分がやったといえるにしろ、「少しは許される」ものとなっているのだ。そういう自己認識の全体がここでメタファー的に語られているのである。

そして後に述べるように、この点こそがこの少女とかの「酒鬼薔薇聖斗」と名のったA少年との顕著な実存的な類似性なのだ。

 

*後述するように、二〇〇六年五月に『週間現代』誌上に公開された父親の証言にこの問題を突き合わすならば、この彼女の人称上の《性転換》は実に深い実存的理由に基づくものであることが明白となる。「僕」は自己の究極の存在否認(自殺)を回避するために少女である自己の実存を非現実化するために彼女が創造した必死の想像的な仕掛けであった。この「僕」による自己の非現実化(夢化)によって、彼女における現実主体と想像化された主体とはいったいどっちが現実的で、どっちが想像的であるかを確定できなくなるほどの錯乱へと一歩一歩導かれていったのではないだろうか?

 

   夢と夢の裏

 

《世界》の夢化というテーマはブログ全体を貫く決定的で本質的なテーマである、と僕はいった。

では、このテーマが示される最初の六月二九日「夢と夢の裏側」とはどんな内容の文章であったのか? 

「校門を出ると、彼が直ぐ前を歩いていました。僕は彼の5メートル位後ろを付いて歩きます。彼は此処に気付いてないようです、どんどん歩調を速めて行きます。・・・」がその全文である。

これとまったく同一のテーマが七月十三日「空気」にも書かれている。それはこういう一文である。「帰り掛けに『さようなら』と彼に声を掛けたけれども、彼はずっと前を向いたままで、此方を見てくれませんでした。僕は聞きました『どうしたの』と。でも、結局彼は何の反応も起こしませんでした。ずっと前を向いたままでした。まるで僕なんか存在しないみたいに」(傍点、清)。

先の六月二九日のブログとここで出てくる「彼」とは同一人物かもしれない。もしそうだとすれば、それは彼女が片思いを寄せていた級友の男子の誰かということになるだろう。八月二日「代理」にはこうある。そこに出てくる「彼」がここで問題となっている「彼」と同一人物であるか否かは確かめる術はないが、この少女にとってクラスのなかに或る希望を抱かせる男子がいたことは確かだと思える。

「彼に『君は変な人だ。』と言ってしまいました。此れは本当です。僕と話が出来るのは善良な人か変人に限られていますし、善良な人は何時か見限りますから、『・・・」。

何という鋭い認識。「善良な人」は善良であるがゆえに除け者にされた自分に声をかける。だが、まさしく善良なるがゆえに「何時か見限ります」。善良さは、独異な変態的なものには結局耐えられない。変人は変人だけを友とすることができる。こうした「彼」への言及はそれ以降もブログに散見される。たとえば、九月一日「うつろうもの」にも、十二日「蜘蛛の糸」にも。

 

かのA少年は、自分は誰からもその存在に気づいてもらうことのない存在であるという意味で自分を「透明な存在」と呼んだ。まったく同じ問題がこの少女の意識にも貼りついている。それが客観的事実か否かは別な問題として、少なくとも彼女の意識のなかでは彼女は自分のすぐ五メートル前をゆく彼女が想いを寄せる級友にも気づいてもらえない存在である。あるいは気づいていないと装われる存在である。

ここには、次の問題の連関が横たわっている。自分にとって共に《世界》を構成しているはずの自分にとって最も重要な他者にとって、にもかかわらず、自分が存在しないものとして遇されるならば、自分の存在は自分自身にとっても非存在に近い曖昧な存在に変貌せざるをえない。《世界》はそれにつれて非現実化へ傾斜し、夢化せざるをえなくなる。この関連である。彼女のブログが繰り返し僕たちに示すのは次のことだ。彼女が、《世界》を共に語り名づける物語ることと命名の会話共同体から排除されることによって、あるいはその「共に」という関係を彼女と一緒に担う或る特権的な誰かから拒絶されることによって、そうした他者との相互的な《世界》確認の行為連関からまったく排除され疎外されてきた人間として既に長きにわたって自分を生きてきたという事情、これである。(この問題は、家族という問題の中核にも据えられる問題である。《何故、彼女は母を・・・?》というこの事件の最大の謎にも、それはかかわる問題となろう。僕はこの問題について後で少し述べるつもりだ。)

人間は《世界》を物語り、その都度自分たちの新たな実践的関心や課題から出発して《世界》を命名し直す絶えまない会話行為をとおして、《世界》を互いに共有し、それゆえにそれを相互的に確認しあうことのできる《現実》として獲得する。だが、この《世界》を現実化する基盤的会話世界そのものから排除され疎外されるならば、《世界》は他者による確認を得ることができないものとなって、非現実化(=夢化)へと滑落してゆかざるをえなくなる。そのことは、そのように排除された者の世界への関与態度がまったく「傍観者」的となることと相即だ。実に七月四日のタイトルは「傍観者」である。

「今日は3時間しかなかったので、早めに帰ることが出来ました。帰り道雨上がりで少し涼しいなか、色々な物を眺めました。ヒト、ヤマ、クルマ、タンボ、ト・・・」。

彼女はたんに「眺めた」わけではない。その眺め方が問題だ。彼女は、自分の眺め方は「傍観者」としてのそれだということをここでいいたいのだ。だから、彼女はわざわざカタカナを使って「ヒト、ヤマ、クルマ、タンボ、ト・・・」と書く。それぞれが互いに等価であってインディファレントであり、どれもがもはや彼女の生の特別の強い関心を惹くものではないことがこのカタカナ表記によって表されている。八月二三日「操る人形」にはこうある。「狡猾能く人を欺瞞しえる人間になれたらどんなに楽しいでしょうか、僕の演じる事が出来るのはただ一つの役だけです。そう、観客。傍観者。群れに逸れた羊。舞・・・」(傍点、清)と。

世界が《現実》という性質を獲得するのは人間にあっては相互行為的な仕方によってである。つまり、世界がたんにそれを認識する人間の観念のなかに汲みつくされてしまわない重み深さ広さをもつという感覚のなかで僕たちに迫ってくるのは、僕たちが《現実》というものにたんに認識というかかわり方で関係するだけではなく、そもそもそれを生きることができるか否かという切実な実践的な問題としてかかわり、だからまたそれを実際に変革することが問題となり、そうなるやいなや、今度は自分の意志だけではどうにもならぬ他者の意志とのかかわりに人間は入らざるをえなくなるからである。つまり自分と共に《現実》を共有している他者を見出すからである。《現実》は僕たちにつねにそれを共にしている他者を指し示し、他者の存在は僕たちに彼らと僕たちとが共有しているものとしての《現実》を指し示す。そこには、他者とのかかわりが深くなればなるほど《現実》はいっそう深いものとなり、《現実》が切実なものとなればなるほど他者との僕たちの絆は深く重くなるという相互的な循環が働く[11]

だが、循環とはつねに悪循環としても逆回転しうるものだ。《現実》の非現実化・夢化は他者と私との絆の希薄化・消滅と相即である。その少女のなかで起きている事態は後者である。悪循環の後戻りできない回転である。

 

ところで、それにしても、先の六月二九日ブログのタイトルが「夢と夢の裏」となっているのは、何をいわんとしてのことなのだろうか?

タイトルは「夢」を語るものであるにもかかわらず、日記の一文は直接彼女が見た「夢」について述べたものではない。先に全文を引いた光景が彼女の見た夢であるのだろうか? 「校門を出ると、彼が直ぐ前を歩いていました。僕は彼の5メートル位後ろを付いて歩きます。彼は此処に気付いてないようです、どんどん歩調を速めて行きます。・・・」という光景が。

そうかもしれないが、そのことの断りは書かれていない。それとも、この後何らかの夢をめぐる記述なり考察に移る予定ではいたが、それを実際には放棄したということだろうか。どちらの解釈が正しいかを判定しうるための材料はこの日記の一文そのものには発見できない。何がここでの彼女にとっては「夢」なのか、また「夢の裏」とは何か?

僕が直観するに、この光景自体が彼女にとっては夢的なのである。彼はまるで「僕」=彼女が存在しないように速度を速めてどんどん先にいってしまう。すると事実自分は非存在となっているのであり、五メートルの後ろに自分がいるという感覚は実は錯覚であったと思わざるをえないのであり、存在している自分とは、先を急ぐ彼の後姿をまるで夢のなかの一場面のように傍観している、非物質的=非身体的なただ意識としてだけある自分となってしまうのである。現実の記憶の叙述だったはずのものが夢に変貌し、その夢を覗いている傍観的な非身体化した意識としてだけ存在するもう一人の自分が「夢の裏」にかろうじて「夢の裏」としてその存在の命脈を保っている。こういうことなのではないだろうか?

夢の意識は、夢のなかで現実とみなしているはずの現実に対して、しかし、仄かにそれは夢だとみなす意識が既に随伴するところに特徴がある。ニーチェは鋭くこのことを指摘している[12]。夢はなかばつねに目覚めてもいる。ちょうどここでの関係は逆であるといえよう。ここでは、目の前の事態を現実と思っている意識は、しかし、その確信性を脅かされ、これはもしかしたら幻覚ではないのかという不安に包まれ、自分に混乱を引き起こしている意識ではないのか?

 

するとここで、もう一つの解釈の可能性に僕たちは出会うのかもしれない。先に僕はここでの「彼」はこの少女のほのかに想いを寄せるクラスの或る男子かもしれないと述べた。だが、この「彼」とは実は「僕」、つまり彼女自身なのではないだろうか? 「僕」における自己意識は、「僕」の存在にまったく気がつかないほどの「彼」と「僕」とに完璧に離人症的に分裂した。まさにこの「夢とその裏」という日記の一節はそうした自己の非現実化の痛切な表現なのではないだろうか? 今やこの解釈の可能性も捨てられないものとなるのではないか? 実際片想いということであるならば、主人公が「僕」ならば「彼」は「彼女」でなくてはならないはずではないか? もちろん、この日記の創作的な力の幼さからいって、少女は書いているうちに自分を「僕」としていたことを忘れ、ありのままに自分の意識を書いてしまったのだという反論も十分に成り立つにしろ、である。

 

  他者による確認への渇望――非現実化の臨界点

 

他者による自己の存在の確認に自分自身にとっての自己確認がいかに懸かっているかを認識し、どれほど必死になって彼女がこの他者による確認を手元に確保しようとしていたかを、後続のブログによって示そう。

七月八日「幻影と代替」は、教室で自分の前に座る「A君」が自分をひどく嫌い、目を合わせることも手を触れることも嫌悪していることを記したうえで、興味深い記述に移る。その「A君」の顔は中学校時代に自分をいじめたかつての級友の一人と似ていて、彼らのことを思い出させるというのだ。しかも、その彼らのことについてはこう書かれる。

「でも、3年生に成るまでは彼等だけが僕の話し相手でした。仮令其れが如何に僕にとって嫌な行為であろうとも、何時も欠かさず僕の名を呼び続けてくれたのは彼等でした。そんな彼等の内の一人と、A君は本当によく似ています」と。

彼女は、彼女をいじめる「彼等」の他に、彼女を助けようとする友人をもたないどころか、挨拶の声をかけてくれる友人さえもなく、彼女にとっては自分をいじめる彼らだけが同時に唯一の友人であり、彼らだけがかろうじて彼女の存在を現実性のなかに繋留してくれる友人だったのである。このアンビヴァレントな友人関係をも失うならば、もはや彼女にはいかなる友人もいなくなるのだ。つまり、彼女の存在の現実性を彼女の意識に送り返してくれる媒介者としての他者はいなくなる。そういう決定的な危機の淵の際に立って彼女は自分の中学時代を回想している。

このブログの最後は「A君」への復讐の宣言で終わっている。「今度は僕が猫の役をやる、君が鼠をやってくれ」と。とはいえ、自分にいじめを加えた中学時代の彼らだけが自分を存在の現実性へ繋留してくれる存在だというテーマは次のようにもう一度繰り返される。先の七月十三日「共感と慰め」のなかではこういう一文が書かれていた。「寂しいよ、君達の言葉で安心させて欲しい。生きている時寂しかったら、あの世では皆と仲良く過ごしたい 理論的に無理だけど、そんな気持ち」と。「君達の言葉で安心させて欲しい」というとき、何を安心させて欲しいのだろうか? 一言でいえば、自分が現実に存在していることを確信させて欲しい、もしかしたら自分は存在していないのではないかという不安、これを打ち消して欲しいということではないのか?

 彼女が非現実化の深淵に近づきつつあることがブログによってこう示される。先の「共感と慰め」の結びの言葉は「もう何もかも捨て・・・」である。あるいは七月十九日「疼き」はこうである。「ずっと闇の中で蹲っていて。やっと手を差し伸べてくれたと思ったら、すぐに離された。最後まで助ける気がないのなら、最初から無視してくれた方がよかった・・・」。この「疼き」にはもしかしたら彼女の「彼」にかけた最後の想いが表白されているのかも知れない。

 

 非現実化の臨界点に彼女が差しかかっていることは七月十三日「本物」という奇妙な頁にもよく示されている。「道を歩いていた野良犬を蹴ったら、キャンキャン喚きながら、地べたを這いずり回った。あはは、まるで本当の犬みたい」。

 では、「道を歩いていた野良犬」は「本当の犬」ではないとでもいうのだろうか? 「道を歩いていた野良犬」は夢だったのか? にもかかわらず、蹴ったら、「キャンキャン喚きながら、地べたを這いずり回った」ので、それは「本当の犬みたい」というのだろうか? だが、このブログの全体は到底「夢」についての記述とは思われない。「本物」はいかにしたら「本物」と確認されるのか?

 この奇妙な夢と現実との混合のなかに、新しい、しかも、決定的なテーマがその姿を現しつつあるのではないか? 

そのテーマとは、毀損・破壊・殺害による存在確認というテーマである。存在を毀損し破壊することによってしか存在を確認できないというテーマである。その点で、その究極の根底には自殺の代替物としての他者殺害という副テーマと、復讐の遂行による自己確認というもう一つの副テーマとが縒り合わされている。蹴り飛ばすことが野良犬にあげさせるキャンキャンという悲鳴が野良犬の「本物」性を確証し、それがまた自分という存在の「本物」性・現実性の確認となる。逆にいえば、自己確認のためには他者毀損が必要なのであり、ただ他者毀損だけが自己確認を可能にする。

このような悪循環にその少女は入り込んでゆくのではいか? 後戻りできない悪循環に。

 だが、そこへ進むまえに、《世界》の夢化というテーマにかかわってもう一つの決定的な問題に触れなければならない。それは、自己のなかに「或る夢魔化したもう一人の自分」が出現することで自分それ自身が決定的に夢化するという問題にかかわって先に僕が指摘した問題、彼女のなかの恋人としてのもう一人の「少女」の最終的消滅という問題である。

 

もう一人の自分、あるいは自分のなかの恋人

 

七月十一日「薇仕掛けの人形師」において、初めて彼女の内部にもう一人の彼女が住んでいることが明かされる。

そのもう一人の彼女と彼女の関係はまるで恋人の関係であるかのように語られる。このブログにおいて彼女が自分の性を転換して「僕」という男子として登場させたことが何を意味するのかという問いに、それはかかわる。少女が「僕」として登場する必要は、この自己の内なるもう一人の自分と恋愛関係を結ぶ必要があったからだと、そういってみたくなる問題がそこにはある。

別な人間という仮面を被ることで隠すことで顕わすという日記欲望の逆説性を駆動させるためには、必ずしも性別の転換は必要ではない。他でもなく「僕」という主語が選ばれることには、たんなる偽装の必要という理由を超えたもっと特殊な要素が働いているのではないか? 

彼女のなかの内なる《少女》を自分の恋人である「君」として呼ぶ「僕」が必要だったのだ。その《少女》を「君」として必要とする「僕」が必要だった。「僕」をとおして彼女は自分を愛に値する・恋人によって必要とされる《少女》として自分の前に登場させる必死の必要があった。それは真に必死の彼女の実存の根底から生まれる必要であった。

今までの分析のなかで、彼女には片思いを寄せる存在としての「彼」がクラスにいたのではないかという推測がされた。とはいえその「彼」の存在は、この「薇仕掛けの人形師」の節が示す激しく理想化され憧憬された恋愛の関係と比較するなら、あまりにまだ仄かな端緒的なものに過ぎない。およそ強い生命的な現実性がそこに賭けられているような性質のものではない。

他方反対に、この「薇仕掛けの人形師」において「僕」によって呼びかけられる「君」は、明らかに彼女自身の内部にいるもう一人の彼女というべき分身的存在である。その限りあくまで想像的な存在ではある。だが、その呼びかけをとおして示される「僕」と「君」の関係は、まさに両者の生命(いのち)を運命共同体的に結ぶ(エーリッヒ・フロム風にいえば「共棲的融合」[13]の)切迫したものだということを示している。このように描かれていたのだ。全文を引こう。

「君と一緒になれて本当に良かった。僕等は何時までも一緒だよね。大好きだよ。僕はずっと君の望む様にしてあげる、君を守っていてあげるよ。僕は君の保護者だもの、君が作り出した人格が僕。役目を果たすよ。僕は君の為に、幾等でも尽くす。僕は君の兵隊、僕は君の玩具、僕は君の所有者、僕は君の幻想、君は僕の恋人、君は僕の理想、君は僕の安らぎ、君は僕の場所、君は僕であり、僕は君であり、互いに求め合い、互いに慰め合い、互いに他を必要として生きている。片方が相手を作り、もう片方も相手を作る。薇仕掛けの人形師の様に、必要とし必要とされる仲でありながら、一つの体しか僕等は与えられなかった。今居る僕と隠れた君、二人で居られる場所は夢の中だけなのか」。

この自己関係には明らかにこの少女の恋愛願望が投影されている。だが、通常の思春期の少女が抱く恋愛願望よりももっと深い、「君」に対する生命(いのち)が賭けられた信託があるというべきだろう。「君」は、おそらくこの少女の生命(いのち)そのものであると思われる。「僕」はこの生命たる「君」を守るために、「君が作り出した人格」である。「僕は君の兵隊、僕は君の玩具、僕は君の所有者、僕は君の幻想」といわれる。そのなかの「僕は君の所有者」という一句は正確には「君が所有しているもの」という意味であろう。同時にそのことで、「僕」にとって「君は僕の恋人、君は僕の理想、君は僕の安らぎ、君は僕の場所」ともいわれる。

そのようなこの「僕」と「君」とは「一つの体しか僕等は与えられなかった」といわれる関係にあり、「今居る僕と隠れた君」という形で一体となっており、したがって「二人で居られる場所は夢の中だけなのか」と嘆くほかない間柄なのだ。

おそらくこの「君」は、ブログが書き出されてから六日目、七月二日の「霧様な友人」という奇妙な造語によるタイトルの節にこう出てくる彼女である。「今日は学校が休みです。なので彼女と7時半まで寝ていました。彼女の寝顔は子猫の様に可愛いです。僕とは大違いです。きっと、僕の中のよい部・・・」と。最後の言葉は明らかに「部分」である。「きっと、僕の中のよい部分」がここでの「彼女」であり、「君」と呼ばれるもう一人の彼女なのだ。

この「僕」は「君」を守るために存在した。「君」によって「必要」とされる存在であった。もっと正確にいえば、「僕」は唯一「君」によってしか「必要」とされない存在であった。自分を必要としてくれる存在を「君」以外には自分は絶対的に欠いていると感じているこの「僕」は、だから「君」だけが自分にとって唯一「必要」だと感じているのだ。だからこの少女は、もしこの「君」が消滅すれば、自分は完全にこの世界に存在する理由を失うことになると考えるに違いない。「僕」たるこの少女はもはや「保護」すべき存在も、「役目」も失う。

他者によって必要とされることだけが存在することの意味を創り出す。しかし、まさにそのように自分を必要とする他者こそが自分にはいないのだというテーマは、「価値」というタイトルの七月十二日のブログのなかに次の痛切な表現を見出す。こう書かれている。

「今日は保育体験実習に行きました。其処の保育園で四歳児の世話をしました。彼等はとても可愛いです。彼らは僕を必要とし、求めてくれます。僕に存在価値を見出してくれるのです。僕にも価値があったなんて、今まで受けた悲しみが少し慰められた気がします」。

とはいえ重要なことは、彼女にあって彼女を真に疑いなく「必要」とする存在、彼女に「存在価値」を宿らせてくれる存在は、彼女のなかのもう一人の彼女だけであったという当の事情である。あるいはむしろこういうべきか。彼女はあまりにも長いあいだ彼女を必要とする他者の存在を実感し確信できなかったがゆえに、自分で自分のなかに彼女を必要とするもう一人の彼女を想像的に創造せざるをえなかった。だが終に、この想像力の力業にも力尽きて、そのもう一人の自分の消滅に出会わねばならなかった。つまり、彼女はそのような彼女の生命がかかっている「君」を失うことになるのである。

七月三一日の「imaginary companion」においてこう書かれる。「暗く冷たい街の中白く輝く月光は歩むべき獣道の様で静かに僕は其処を行く夜空を見上げる毎に君の事を思い出す僕の全てであった君を僕は唯求めている君は今何・・・」と。

あれほどはっきり自己の内に存在していると確言されていたはずの「君」の姿がもう見えなくなる。八月十七日のブログは「孵化と変身」と題されていて実に意味深長である。「最近僕が僕でない気がします。僕はこんなに攻撃的ではありません。僕はもっと臆病で泣き虫です。彼女がこの役をしていた時は僕は今よりずっとずっと強くて、・・・」

「きっと、僕の中のよい部分」である「君」が「臆病で泣き虫」の役割を果たしていたときは、「僕」はその守り手として「今よりずっとずっと強かった」。だが、その「君」が消えかけているのだ。「僕」は、これまでとはまるで異なった別種の「攻撃」性を自分が帯びだしていることに気がつく。「君」がいたあいだは「僕」は同時に「君」だから「臆病で泣き虫」でありながら、同時に「今よりもずっとずっと強く」もあった。そのようにして生命(いのち)の傷つきやすい柔らかさや優しさと、生命への暴力を忍耐強く絶える強さを、共に維持しえてきた。

だが、今や「君」が消えてしまう。するとそこには、もはや生命の柔らかさや優しさや温かさを一切もたない、もはや守るべきものを何ももたない、素寒貧の攻撃性だけが残る。

「君」が消え去りだすとともに或る新しい攻撃性が「孵化」し、この少女は別なものに「変身」する。

 「消滅」というタイトルの八月二四日のブログ。「僕の中に居る彼女の存在を感じなくなりました。消えてしまったのでしょうか。とても寂しいです」。

この消失は、翌日、「夢魔」とタイトルを打たれた八月二五日のブログでは自分が「君」たる「彼女」を食い殺した「夢魔」となって彼の夢のなかに登場する。「変な夢を見ました。僕が彼女を食べる夢です。僕は彼女を手、足、胴体、頭の順に食べました。細い腕は魚みたいに痙攣していて、引きちぎれても未だ動きました・・・」。

 多くの事例において、極端な暴力、つまり他者殺害への死の跳躍は、その人間に存在価値を宿らせることが唯一できた存在、その人間を唯一必要としてくれていた存在とその人間によって感じられていた者の死をきっかけとして引き起こされる。そのことは、他者殺害は同時に自殺の意味を帯電している場合が多いということを暗示する。

「僕が彼女を食べる夢」は二つのことを示唆してはいないか? 一つは、自殺への欲望である。彼女が彼女を食べるとは自殺ということではないだろうか? もう一つは、彼女のなかの一切の善きものの消滅である。「僕」と「君」との他者関係である自己関係が成立の根拠としていたもの、つまり必要・保護・防衛・献身といった関係性の根拠としての彼女という存在の価値=守り欲し愛するに値する善きもの、それが消滅したということだ。「僕」-「君」関係それ自体の消滅が意味するのはこのことだ。

 この消滅は彼女を死と殺害へと差し向ける。毀損・破壊・殺害による存在確認という悪循環へと。「君」の消滅は彼女の非存在化の深淵なのだ。「君」がいたから「僕」がいた。「君」が消えれば「僕」も消えねばならなくなる。自己の存在確認のための最後の踏み切りは毀損・破壊・殺害による存在確認という悪循環のなかへと身投げすることである。

 

   この章の草稿を書いたのは二〇〇五年であった。翌年五月に『週刊現代』誌上に父親への長時間にわたるインタビューが掲載された。そこでは次の事実が父親によって語られた。二〇〇六年四月十八日の家庭裁判所の第二回少年審判において彼女はそれまで一貫して否認していた母へのタリウム投与の犯行を認めたが、その後の四月二五日の第三回少年審判で自分が中学二年生のときに「壮絶なイジメ」(父の言葉)を受けたことを初めて明かし、またその頃から「自分は他人とは違うと思うようになった」と語って「自身の発達障害について証言した」(父の言葉)。彼女へのイジメは、或る男子生徒が彼女にラブレターを出して放課後の教室に呼び出した上で、「誰がこんなブスに付き合えるか!」と面と向かって侮辱するという実に残酷な行為から始まり、彼女の顔が爬虫類に似ているからといって「ハチュ」と彼女を嘲弄する一部クラスメートによるイジメへと発展したこと、そしてこのイジメは彼女を自分の女性性(あるいは少女性)への自己否定へと導いたと推測されることである。

父親は、「推測ですが、娘はラブレターのイジメを境に、『女』であることを捨てたのではないでしょうか」と述べている。彼女はそれ以降、一切女の子らしい服装はしなくなり、「ブラジャーを嫌がり、一度もつけたことがなかった」という。逮捕後彼女が父親に出した手紙の一節が誌上に公開されているが、そこでの彼女が自分を語るときの主語は「僕」である[14]

ここから示されるのは、「僕」として自分を語る彼女の行為は、たんにブログを書く上での偽装という域を超えた実存的性格を帯びたものであったということである。主語「僕」は彼女における女性性の強い自己否認の意志をあらわしているが、この自己否認は男子生徒が彼女に加えた拒絶=存在否認を内面化したところに生まれる自己否認である。他者から拒絶されることで彼女は自己をみずから拒絶するほかなくなった。問題は、つねにそこでは実存の承認が問題となる《愛》という場面あるいは地平で生じている。かの男子の残酷な侮辱行為は、彼自身がその恐るべき残酷性をどこまで自覚していたかは別にして、行為それ自体は、実に実存の急所を突くものであったといえよう。《愛》を期待するがゆえに人間がもっとも他者に対して自己の防備を解くその瞬間を狙って、彼は彼女の魂を刺殺したといって過言ではない。

実に興味深いことは、この彼女における裏側に激しい自己否認を伴う《性転換》が、それゆえに今度は「僕」のなかに「君」としての「少女」を想像的に産み出すことである。すると、「僕」という主語の機能はそれが最初の負わされていた自己否認の機能を己から拭い去って、今度は逆に「君」に必要され、またそれゆえに「君」の守り手としての存在を示す自己肯定の機能を獲得するものへと逆転する。それは、二重に拒絶された(男子によって、また彼女自身によって)彼女の少女性(それは彼女の性の意味がかかった実存性にほかならない)のいわば想像による再興=取戻しを保障する主語としての「僕」となる。だからまたこうもいわねばならない。この「君」としての「少女」が「僕」の中で消失するならば、「僕」は自己肯定機能を失って、再びあの激しい自己否認の主語(=主体)となるのだと。「少女」の消失は、自己の存在を維持しようとする実存的意志の最終的な消失、つまり自殺を暗示するものといえる。そのときから「僕」は自殺へと自己を駆動する主体となる。

ここで僕は既にいったことをもう一度繰り返さねばならない。この再度の主体転換は新しいテーマを産み出す、と。それは、毀損・破壊・殺害による存在確認というテーマの誕生である。存在を毀損し破壊することによってしか存在を確認できないというテーマの誕生である。そして、その究極の根底には自殺の代替物としての他者殺害という副テーマと、復讐の遂行による自己確認というもう一つの副テーマとが縒り合わされている。

 

   屍体愛、あるいはネクロフィリア(死への愛)

 

 早くもこの日記が開始されて八日目の七月三日のブログに『グレアム・ヤング毒殺日記』を読んだことが書かれる。そのグレアムが毒殺に使用した毒薬は既に自分の部屋に蓄えられていることが匂わされる。部屋にはいくつもの種類の薬物が置かれていることが書かれ、彼女はそうした部屋の様子を「粉末状の夢境」と名づける。

人を毒殺することを夢想する快楽にこの少女は浸っている。確かにそこには罪の意識はない。だが、それは当たり前であるのかもしれない。夢想の快楽が彼女を掴み、夢想のただなかにいる以上当然なのかもしれない。

この夢想はいわば死の瞑想という性質を帯びる。七月九日「飴色の液体」の最後は次のような記述である。「先輩の使っていた試験管に、蟻が集まっていました。・・・(略)・・・艶々した体が透明な管を上がり、青い液体の中へ落ちます。何匹も何匹も、吸い込まれる様に其の身を浸します。誘われて、惑わされて行く先は、死だけだというのに。其の内の一匹が僕の指先を上がってきました、何とも親しげな印象を受けます。僕は其れを摘み上げ、青い液体の中へ落としました」。

 この一節は蟻の殺害という暴力的印象を与えるものではない。彼女の指先を這い上がってきた一匹の蟻に彼女は「何とも親しげな印象を受けます」と書く。この語句の醸す雰囲気がこの一節全体を支配している。「誘われて、惑わされて行く先は、死だけだ」という認識において、死は親しくそこへと死すべき者を吸い込んでゆくものである。暴力的な殺害という生命の切断が問題となっているわけではない。眠りにつくような、吸引されてゆくような、そこへと誘惑され、惑わされてゆく、甘く親しげな死が問題となっているのだ。

 だからこういわねばならないのではないか? 死に向かう蟻が彼女にとって「何とも親しげな印象」を与えるのは、蟻が彼女の同類だからなのだと。彼女がそうであるように、蟻もまた死に誘惑されているのであり、死へと吸引されてゆくことを自分の運命としている、彼女の同類者なのである。蟻は彼女のメタファーなのだ。

 死は、したがって屍体は、この少女にとっていまや最も心を許せる「何とも親しげな印象」を受ける彼女の同類者なのであり、彼女を迎える者であり、見守る者なのである。「瓶詰め」と題された七月二〇日のブログにはこう書かれる。「僕の部屋の中には死体が沢山あります。瓶詰めの死体達は何時も其処に居て、僕を見守ってくれています。腹腸を飛び出させた蛙達が、陽気に手を振っている姿は・・・」。

 また「屍」とタイトルを打たれた八月九日のブログにはこうある。「時の流れ、命持たざる者の静かな優しさ、何も語らず何も拒絶せず、そこに在り続ける朽ちて行く自らを嘆きもせず」と。一言でいえば、この少女にとって死は平安である。それは決しておぞましいものではない。「静かな優しさ」を自分に与えてくれるものであり、どんな意味でも自分の心を掻き乱すことのないものである。語りかけてくることで応えねばならなくさせるということもなく、かといってその沈黙は拒絶ではない。見苦しく嘆くことで他人に同情を強い、慰めの声をかけるように強要するものでもない。存在の静謐はむしろ屍にある。

 

 母のことが日記に登場するのはやっと八月十九日のブログの一節からである。「昨日から母の具合が悪いです。全身に発疹が起こり・・・今日は皮膚科へ行きましたが、医者もただ首を傾けるばかりで原因は分か・・・」と書かれている。興味深いことには、この一節には「嫌疑」というタイトルが与えられている。彼女は自分に嫌疑がかかってくることを十分に予想し自覚している。

 死を語る彼女の言葉に一つの転調が生じているように思える。

というのも、これまで僕は、死を語る彼女の言葉には殺害の暴力性を感じさせるものは見つからないことを強調してきた。だが、母の病状悪化が顕著になるにしたがって、殺害の暴力性とサディズム的快楽性がはっきりと姿を現わし始める。

後の供述では、八月二四日にあらためて二五グラム薬局から購入したタリウムを母に投与したのは九月一日である。その二日後、九月三日「夜は狂喜」にはこういう一文が書かれた。「生き物を殺すという事、何かにナイフを突き立てる瞬間、柔らかな肉を引き裂く感触生暖かい血の温度。漏れる吐息。すべてが僕を慰めてくれる」。このモチーフは、十月一日「音色」でも繰り返される。「・・・銀色の刃物の先で命が震えている此れはどんな音色を奏でているのか」と。その前日の九月三〇日「KEEP OUT」のテーマは殺害の祝祭である。「12人は輪になって踊る。丘の上で死体を数え、微笑みながら飲み交わす。撃ち殺された男の匂い、引き裂かれた女の匂い。突き刺された赤ん坊の匂い、・・・」。

 死はここでは存在の静謐や平安あるいは親愛さにおいて語られるものではなく、破壊がもたらす荒廃において掴まれる。十月九日「麻薬」はこうである。「蒼ざめた馬の通る道に、規則は存在しない。暗闇を進む足跡は草木を枯らし、死を招く。其処に生命は宿らない。在るのは寂しい同じ形。彼等は規則の存在を許さ・・・」。

 ここに示されるネクロフィリア(屍体愛)の暴力的方向へのはっきりとした転調は、ほとんどかのA少年におけるサディズムと同質である。

 だが、その点だけを強調するなら、先に見たあの少女に特徴的なものが見失われてしまうのではないだろうか? あの死の静謐な、優しく親しげな、誘惑的な、瞑想的な相貌が見失われてしまうのではないか? 事実、後で取り上げるように、彼女は七月三〇日のブログではA少年への明確な反感を語っているのだ。

 

 この点で注目すべきブログの一頁がある。死へと傾斜してゆく母の病状悪化の記述がブログの主要部分を覆うこととなる九月半ばからこのブログの最終頁十月十六日「鋏と糊」までのあいだに、実に注目すべき「かくれんぼ」とタイトルを打たれた九月二七日のブログがある。その一節は実に意味深長である。

「隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。見つけられることは危険である。しかし其の逆に、自分が存在していることを確認するには、・・・」。

 この一節は、明らかに彼女の母へのタリウム投与の行為が彼女にとってもつアンビヴァレントな性格と意味というものを語っている。密かなる毒投与の行為はまさに「隠れる事は喜び」という特殊な快楽を帯電している。それが、刃物や銃での殺害行為と本質的に異なったこの持続観察的な性格の行為がもつ特殊な快楽性である。だが、あらゆる「かくれんぼ」遊びがそうであるように、この隠れる喜びは見つけられる喜びと背中合わせになっていなければならない。まさに、「隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である」。というのも、隠れることが喜びであるのも、見つけられないことが苦痛であるのも、実はそこに賭けられているものは自分が存在していることの圧倒的な感覚の獲得だからだ。

 自分が隠れ、相手はそれを知らないという関係性は、その相手の愚かしい無知によっていわば僕たちを自分の存在性へと送り返してくれる。私によって見られていながらそれを知らないという相手の愚かしい無知は、私の存在性をそこに映し出し顕示するための鏡のようなものだ。とはいえ、もし、そのまま私が見つけられず、まるで私がそもそもいなかったかのように、私を置き去りにしたままゲームが閉じられてしまったならば、このゲームの核心をなしていたはずの私の存在確認の快楽はどのようにして実現されるというのか? 

「見つけられることは危険である」、まさに自分が犯人であることがわかってしまうことなのだから。だが、何としても味わいたい快楽、何としても実現したい欲望、このゲームの実存的核心、それは「自分が存在していることを確認する」快楽にほかならないのではないだろうか? この快楽を享受するために自分が犯人であることが暴露されねばならないとしたら、それは暴露されねばならないのだ

 既に僕たちはこの少女がいかに自己の存在感の無化に苦しんできたかを見てきた。彼女の存在理由を生産する最後の想像的な仕掛けであった「君」が消滅するならば、この少女は文字通り非存在に変えられてしまうのだ。存在していながら非存在に変えられてしまうこと、生きながら死者に変えられてしまうこと、これほどの苦痛はない。この悲しい屈辱に対して採るべき道は何か? 

一つには、明らかに自殺の道がある。だが、死んでしまえばである。だが問題はではなく、存在あるいは存在感情なのである。身を焼き尽くすほどの存在感情を取り戻すことなのである。死への無限接近が問題である。だが、死への無限接近とはではない。死への無限接近は存在の回復、つまり、存在感情の燃え上がりをもたらすのだ。死への瞑想が存在感情の最後のチャンスなのだ。死に取り巻かれて存在し続けることが必要である。死は瞑想のなかで維持されねばならない。さまざまな致死的な毒物の陳列が産み出す「夢境」が、またホルマリン漬けのさまざまな動物たちの屍体が生み出す「夢境」が、まさに死への瞑想空間を彼女に与える。

 同様に、彼女が密かに盛ったタリウムによる死へと向かう母の長い衰弱の過程が、彼女に自己の存在感情の最後の燃え上がりをもたらす死への瞑想を与えてくれる。そうではないだろうか?

 確かに、死を語る彼女の言葉には母の死が確実になるにつれて一つの転調が現れ、殺害の暴力性を語る言葉が前面に出てくる。先に見たとおり。

 しかし、それは重要であれ、一個の変奏であるに過ぎないのではないか? 

この少女において基調となっているのは死に誘惑され吸引されてゆく蟻を親しき存在として語ったときの、あの調子にあるのではないのか?

彼女は、母が長い緩やかな過程をとおして死へと導かれてゆくタリウム投与の「かくれんぼ遊び」を選んだのであって、A少年のような暴力的な一瞬のうちに果たされる切断的な殺害行為を選びはしなかった。死へ吸引される蟻は、また瓶詰めとなってホルマリンのなかで陽気に泳ぐ屍体の蛙たちは、彼女にとって親愛なる同類者であった。もしかしたら、死に向かって衰弱していく母は、初めてそのことによって彼女の親しい同類者になったのではないのか?

 だから、そのような死への瞑想を欲したこの少女は、根本的にぶつかっている問題が自分とかのA少年とはまったく同一だと感じながらも、死を殺害の暴力性において経験しようとするA少年に激しく反発し、こう書いたのではなかったのか?

 七月三〇日の「残酷な現実感」とタイトルを付されたブログ。

「唐突だけど、僕は酒鬼薔薇少年が好きではありません。自作の詩だという『懲役13年』は、神曲等の有名な詩を切り貼りしただけの代物ですし。犯行声明も何処か・・・」。

 何故、この一節は「残酷な現実感」と題されたのか?

 もしかしたら、この少女は「現実感」に対しては夢境的な死の瞑想性を、また「残酷」にはあの死の「何とも親しげな印象」や「静かな優しさ」を対置したかったのではないだろうか?

 

 《母》、あるいは《家族》という問題

 

 先に僕は、中学二年生の彼女を襲った残酷なイジメについて、またそれが彼女の中に産み出した「僕」という主語とそれが象徴する彼女による自分の少女性の激しい自己否認の意志について、週刊誌誌上に公表された父親へのインタビューを引き合いに出した。

 そのインタビューを読んでいて非常に気になったことが二つある。

第一は、彼女が受けた残酷なイジメについて、父親はそれを第三回少年審判での彼女の告白によって初めて知ったと述べていたことだ。勿論、このようなことは今日のイジメ問題につきもののことであり、またイジメ問題の一つの急所にかかわる問題だといってよい。イジメにあっている子供はめったなことではそれを親に打ち明けない。それを親に打ち明けることは、子供にとって身を切られるような恥なのだ。あなたの子供はクラス中の友達から拒絶され嫌悪されている存在だと親に知られることほど、親に喜ばれ自慢され愛してもらいたい子供にとって悲しく辛いことはない。親と子の関係は、「僕」と「君」の必要とされることを必要とするという人間の実存に根を下ろす《愛》の関係が問題となるはるか以前に、子のこの世への誕生という出来事と時を同じくして生ずる子の実存承認が賭けられた根源の問題の場であり地平なのだ。そもそも「僕」と「君」の《愛》という問題もまたその起源を辿ればそこに帰着するのだ。

だからこそ、この《愛》という問題の地帯にあって《愛》を失うことになるのではないかという不安は子に親に対する沈黙を強いる。自分がイジメを受けるほどに拒絶された存在だということについての。だからまた、かつてイジメを受けて苦しんだ多くの人間はその経験を回顧しながら、そのとき自分が支えられたのは、親がその事実をはっきりと知り、それによって自分を偽る必要がなくなるとともに、同時に自分が決して親に捨てられることなく、親はつねに自分の味方であることを心底確信しえたことによってだと語っている。あるがままの自分、それはこの場合イジメを受けている自分ということだが、その恥辱にまみえた自分を受け入れ必要とし守ってくれる人間として親が再度誕生することが子を救う。

この観点からいえば、結果としては、この少女にはそのような親の再度の誕生はなかった。彼女は癒しがたい孤独へと決定付けられ、そこから彼女を救う手はどこからも差し伸べられなかった。

あるがままの自分を必要とされる、お前はお前として存在しているというだけで既に私の《愛》の対象であるというメッセージを送る関係性への志向、それを仮にここで《母的なもの》と呼ぶのならば、つまりそれの担い手が母なのか父なのか、それとも別の人間なのかという問題には関係なく、ともかくこの関係性の実現が志向されているのならば、そこには《母的なもの》が実現されており、実現されていなければ不在であると考えるならば、彼女にとって《母的なもの》はどのような形であったのか? という問題がそこに生まれる。

第二の問題はこの問いにかかわる。父親は注目すべき証言をおこなっている。既に述べたように、少女は或る男子生徒によるあの残酷な侮辱をとおして自分の女性性(あるいは少女性)への激しい自己否認を生きざるをえないようにさせられた。彼女は自分の存在の女性性・少女性を自己否認することでかろうじて、他者からの激しい拒絶が自分に刻印する劣等性の意識(自分は他者からの愛に価する少女性を欠いている、という)を自分の中で無化できるのであり、だからそうすることで究極の自己否認へと自分が追い込まれることを回避しようとするのだが、それは次の局面では確実にその究極の自己否認への里程を一歩一歩縮めていくことになったのではないか? 自分の身体の女性性・少女性を意識することは、そのまま回転扉のようにくるりと一回転して彼女をあの恐るべき辱しめの瞬間へと送り返す。「誰がこんなブスに付き合えるか!」。この繰り返し自己否認に帰着する回転扉の永久運動を(そのように彼女は感じたのではないか?)自分のなかで停止する唯一の方途は、自分を「僕」に変えてしまうことなのだ。だが、「僕」であることは、それ自体が恐るべき自己否認ではないのか? 

父親によれば、彼女の母は「古い言葉ですが『女らしい』女性」であり、娘にもそうあることを願ったという。しかし、「ある時期に、その願いは叶わないことがわかりました」と父親は回想している。少女は「僕」であることに生きる唯一の方途を見出したからだ。少女は母が自分に激しく失望したことを感じたに違いない。父親はこういうことも述べている。「自然、一緒に住んでいる次男と比較して、妻の娘への態度や言葉はキツくなっていたかもしれません。それを私がなだめることもありました」[15]と。

 自己否認への永久的と思われた回転扉は、愛らしい少女であることを期待する母親とのあいだにも設定されてしまったのかもしれない。少女は、何故自分が「僕」にならねばならないのかの実存の理由を終に母親に打ち明けることはできなかった。その理由を知りえなかった母親は、少女性を拒絶する娘への大きな困惑の果てに深く娘に失望した。娘はその失望を実に深く感じ取った。いいかえれば母を失望させることしかできない自分の存在に突き戻された。それは深い絶望ではなかっただろうか? 今や彼女は、母が存在する限り自分が永久にそこへと突き戻されるほかないと感じた。母の存在はこの自己否認の永久に続く回転扉となった。そういうことだったのではないか?

 ここでも《母的なもの》は、彼女にとっては、結果としては、まさに母の場で失われてしまったのではないか? あるいは、《母的なもの》は彼女にとっては《母的なもの》であるがゆえに《母的なもの》の破壊の回転扉になってしまったのではないのか?

 僕は先に《母的なもの》を定義して、ここでのこの概念はあくまで無条件的な存在肯定という関係性への志向を示すための便宜的な名称であって、それは母親という存在が人間の歴史のなかでもってきた身体=生物的かつ社会的な種々の規定性から切り離されて使用され、母親という存在はあくまでも問題となる関係性の型を指示するメタファーにしか過ぎないという趣旨のことを述べた。

 だが、実のところこのような概念の使用は一種思考実験的な抽象的思考操作の能力を前提にしてのものだ。無条件的な存在肯定という関係性への志向が《母的なもの》と命名され、母親という存在がこの関係性を指示するメタファーとして採用されることの経験的基礎という問題を立てれば、このメタファー機能がいかに母親という存在の身体=生物的かつ社会的な諸規定と分かちがたく絡み合っていることに僕たちは突き戻されざるをえない。《母的なもの》は母親をそのメタファーとすることでむしろ母親の現実的で具象的な諸規定のなかに囲い込まれてしまう。母親の身体性が主張してやまない乳房や身体のまろやかさやが代表的に具現するような女性性は、その女性性を拒絶することにこそ究極の自己否認に追い込まれないための唯一の方途を見出す少女にとっては、関係性としての《母的なもの》のメタファーではなく、それを破壊し拒絶する当のものとなった。

 九月二八日のブログは「自殺補助」と題されていた。「母は泣くようになった。僕に“毒を造って欲しい”、“誤って飲んだ事にして貰いたい”とぼやく。自殺衝動が出始めたようだ。僕は“そんな事言っ・・・」。これがその全文である。

一方では、少女は自分の犯行を母に請われての「自殺補助」として描き出そうとしている。しかし、このことをたんに自分の犯行の自己欺瞞的隠蔽とだけ解釈するのは単純すぎるのではないのか? 他方では、ここで母のものと描き出される「自殺衝動」とは同時に実はこの少女自身のものだったのではないだろうか? そのメタファーだったのではないか?

 もしかすると、そこには死への瞑想、死への愛を共にする者としての《母的なもの》への期待が自己投影されているかもしれない。娘に少女性を求める母親的意志の《母的なもの》を失わしめる働きへの復讐が、同時に《母的なもの》への思慕と一つに絡み合い、それが自殺への道行きの伴走者という役割を母親に負わそうとする、想像力の錯乱を引き起こしているのではないのか?

 

   物語の物語を生む試み

 

 その少女は精神上の彼女のライバルであるA少年の『懲役13年』を読んでいた。その少女はネット小説『絶望の世界』を読んで自分の物語グルムグンシュ――岩本亮平の日記』の作者となった。僕は物語という問題についてこう書いた。読者はつねに潜在的にもう一人の物語作者である、物語とは実は限りなき翻案の連鎖である、物語とはつねに或る物語から生まれたもう一つの物語だ、と。

突然だが、僕はA少年の『懲役13年』と村上春樹の『海辺のカフカ』との関係についてこう考えている。僕のノートから引用しよう。

―――かの神戸少年殺害事件と呼ばれるA少年の犯罪が今日という時代に対する一個の象徴の位置に駆け上がったのは、明らかにこの事件が「酒鬼薔薇聖斗」という彼の自己意識的半身、彼の自己内対話の相手であり彼の内的な観察者=批評者の残した文章の鋭い文学性による。彼が惇君殺しの直前に書いた『懲役13年』は、このおぞましい事件の読むに値する内的な証言となり、その文学性によって嫌悪のうちにも僕たちの胸を打ち、心を捉えた。事件はこうしてそれ自体が一個の小説となった。作家ならば、誰もがこの小説に魅入られ、それの自分なりの翻案を書きたいという欲望に絡みとられることは理の当然であろう。「酒鬼薔薇聖斗」という一個の作家がもう一人の作家を挑発するのだ。たとえば村上春樹の『海辺のカフカ』では主人公の少年は彼の「酒鬼薔薇聖斗」である「カラスと呼ばれる少年」を自己内対話の相手として絶えず随伴することとなろう。挑発された作家は別な「酒鬼薔薇聖斗」を登場させることなしには自分の翻案を創造できない。小説は元来絶えまない翻案の連鎖であり、バトン・リレーであり、この小説のキーワードの一つを援用するなら、一つの小説のなかから別の生の可能性を引き出し、「仮説」創造をおこなってみようとする行為なのだ。そして僕はこう考える。『海辺のカフカ』はA少年の『懲役13年』に対してここ十年の間に日本でなされた文学的レスポンスのきわめて優れた一つである、と。―――

 

『懲役13年』の主要部分を引いておこう。

 

「・・・今まで生きてきた中で、《敵》とはほぼ当たり前の存在のように思える。

良き敵、悪い敵、愉快な敵、破滅させられそうになった敵。

しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた

そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

魔物(自分)と闘うもの、その過程で自分自身も魔物となることがないよう気をつけねばならない深淵をのぞき込むときその深淵もこちらをみつめているものである

「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、

俺は真っ直ぐな道を見失い、

暗い森に迷い込んでいた」[16](傍点、清)

 

 或るとき、ふと僕は思った。何故『懲役13年』というタイトルなのか、と。彼が犯行をおこなったのは十四歳のときである。おそらく、自分は生まれてからこの方十三年間このような恐怖を内面において生きるという「懲役」を課された人間であったという想いを込めてのことであったに違いない。そのような自己総括を最後の踏み台として彼は凶行に身を投げた。

 ここでは村上の『海辺のカフカ』について論ずる余裕はない。次のことだけを繰り返しておこう。それは、『懲役13年』という小説のなかから別の生の可能性を引き出し、「仮説」創造をおこなってみようとする文学行為、もう一つの別な物語を書こうとする試み、その優れた一つであると。ブロググルムグンシュ――岩本亮平の日記』に敢えて関連づければ、『海辺のカフカ』では母と思われる「佐伯さん」が主人公の少年の救い手となる。

小説の終結部近く、少年は彼の母かも知れぬ「佐伯さん」にこの迷宮のような夢幻的な「暗い森」からもとの人間の暮らしの世界に戻れといわれる。少年はこういう。「僕が戻る世界なんてどこにもないんです。僕は生まれてこのかた、誰かにほんとうに愛されたり求められたりした覚えがありません。自分自身のほかに誰に頼ればいいのかもわかりません。あなたの言う『もとの生活』なんて、僕にとってはなんの意味もないものなんです」[17]と。佐伯はいう。「私がそれを求めているのよ。あなたがそこにいることを」と。またこうもいう。「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」[18]と。

少年はこう問い直す。「記憶というのはそんなに大事なものなんですか?」と。佐伯は答える。「それは場合によってはなによりも大事なものになるのよ」[19]と。

さらに最後の章において少年の魂のガイド役を勤めた大島はこう述べる。

「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の正確なありかを知るためには、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」[20]

このとき大島は少年に向かってさらにこう付け加える。「世界はメタファーだ。・・・(略)・・・でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。僕と君とのあいだで、それだけははっきりしておきたい。・・・(略)・・・とてもソリッドで、個別的で、とくべつな図書館だ。ほかのどんなものにも代用はできない」[21]と。

 つまり、これまで僕が述べてきた問題との関連でいえば、《世界》の夢化を食い止め、逆に《世界》を生きた現実の他者へと開き、そうすることで自己の存在の現実性を回復する梃子は愛の記憶、「僕」が「君」に、また「君」が「僕」に求められ必要とされたという記憶だということになる。

 

僕はこの章の冒頭にウイリアム・ジェームズの言葉を引いた。彼は何をいいたかったのか?

僕の言い方に直すとこうだ。「悪の事実」とは、人生において或ることを欠如したり失ったりしたとき人間がどんな風に苦しまざるをえないかを一番痛烈な形で表現したものだ。だから悪の事実について眼を凝らして考えることは、人生において欠如してはならないもの・失ってはならないものが何であるかを考えること、またそういうものを失わせてしまうがどんな具合に人生のなかで働いているのか、それを考えることだ。そういう意味で「悪の事実」こそが「もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者」の役割を果たす。

 

物語とは実は限りなき翻案の連鎖である、物語とはつねに或る物語から生まれたもう一つの物語だ。

人間について考えることも、また・・・

 

 

 

 

 

 



[] 『週刊文春』2005年、1117日号に掲載された日記資料に基づく

[] ウイリアム・ジェイムズ、枡田啓三訳『宗教的経験の諸相』上、日本教文社、1990年、242~243

[] 参照。『週刊現代』、2006年、527日号に掲載された、この少女の父親への15時間にわたるインタビュー(草薙厚子による)記事。

[] ミハイル・バフチン、川端香里訳

[] 前掲、『週刊文春』、27

[] ニーチェ、手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』、中公文庫、240頁。参照、拙著『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』、晃洋書房、2005年、そこにおける「自己経験」の問題をめぐる諸考察。

[] サルトル、海老坂武訳「作家の声」、『シチュアシオンⅨ』、人文書院、1965年、29

[] かつてY.Oさんは女子大学院生だったころ「アンチ・ラブ・ハラスメント宣言」というものを発表したことがあった。そこでは「恋愛の社会規範化」による「恋愛をしない自由」への排撃が問題にされた。その一節にこうある。「恋愛は誰もがするものとされ、全ての人が恋愛を望んでいると考えられている。ラブ・ハラスメントは、この皆恋愛規範から逸脱した人に対するサンクションであるとも捉えられよう。この規範を多数の社会通念が強化している。・・・(略)・・・現代では、不幸の定義が恋愛をしないことになっているようだ。また、恋愛にセックスが不可欠なものになることで、その規範はより一層強化される。恋愛の介在しないセックスはありえても、セックスのない恋愛ありえないことになっている」と。彼女自身の経験に立つ考察によれば、今日の日本の女子は小学生高学年から始まり中・高・大学とその思春期の全般にわたってこのような規範化された恋愛とセックス観念――なお一言いい添えれば、ここでいう「恋愛」および「セックス」は異性とのそれを指す――のもと「恋愛しない自由」や「セックスをしない自由」を内面的に剥奪され、そのような自由を主張しようものなら、「少女」ないし「女性」として自分がきわめて劣等あるいは反自然的な「異常」な存在であると烙印を押されるのではないかという不安が、従来にない強さで今や現代日本の女子青年の自己形成過程を内面支配するに至っているという。彼女によれば、「やおい」と呼ばれる少女・女性漫画ジャンルの潮流はこうした恋愛・セックス文化から排撃された少女・女性のこの文化支配への反抗を独特な形で示したものとして解読される必要があるという。

[] 『週刊文春』、2005年、1117日号、27

[10] 前掲、『週刊文春』29

[11] こういった問題を深く考え、最初に主題化した哲学者はなんといってもマルティン・ブーバーである。彼の主著『我と汝』は岩波文庫にもある。参照、拙著『経験の危機を生きる――応答の絆の再生』、青木書店、1999

[12] ニーチェ、塩屋竹男訳『悲劇の誕生』、ニーチェ全集2、ちくま学芸文庫、33頁。なお拙著『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』、第二部第5章「審美者の光学」参照。

[13] 参照、エーリッヒ・フロム、鈴木晶訳『愛するということ』(新訳版)、紀伊国屋書店、1991年、3841

[14] 以上は、前掲、『週刊現代』、3233

[15] 同前、33

[16] 芹沢俊介、『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』、岩波書店、1998年、168頁からの孫引き。なお傍点を振った部分は明らかにニーチェの『善悪の彼岸』のアフォリズム146番の引き写しである。参照、拙著『《想像的人間》としてのニーチェ――実存分析的読解』の「はじめに」。

[17] 『海辺のカフカ』下、新潮社、378

[18] 同前、379

[19] 同前、379

[20] 同前、422

[21] 同前、425

    なぜ少女は母にタリウムを投与したか