村上春樹の『世界の終りと、ハードボイルド・ワンダーランド』の繰り広げるパラレル・ワールドの一方である「世界の終り」連章の展開の基軸には、主人公とその《影》の対話が据えられている。この関係性は、ユングの信頼厚き高弟エーリッヒ・ノイマンが『意識の起源史』で素描した「影」についての理論から多大なインスピレーションを得ているのではないか? またノイマンは、あるいはそもそもユングは、ニーチェの『人間的、あまりに人間的』Uの第二部「漂泊者とその影」の書き出しとそのエンディングを飾る最終章(断片・三五〇)に登場する「漂泊者」とその「影」の対話を、この「影」についての彼の理論のインスピレーションの源泉にしたのではなかったか?
これは、拙著『村上春樹の哲学ワールド――ニーチェ的長編四部作を読む』(はるか書房、二〇一一年)で村上とニーチェとのあいだに深甚なる対話と対決の関係を推論したときと同様に、証拠なきまったき独断的な僕の推測ではある。だが、前著のときと同様に僕はこういおう。たとえこの推測が外れであったとしてもかまわない。期せずして成り立つ三者のあいだの事実上の呼応関係、それがあるということのほうがずっと重要だ、と。

 

  一 村上春樹文学における《影》あるいは分身

《影》あるいは分身は本体とそもそもどういう関係を結ぶのか? そこには同一性と非同一性の緊張を帯びた葛藤がある。《影》あるいは分身は、一目で一目でそれがその影・分身であると分かるほどに本体と似ている。そこには本質的な同一性がある。とはいえ、まさにその分身として、本体とのあいだに或る重要な相違あるいは対立をもつ。別な言い方をするなら、本体が孕みながらも実現してはいない或る可能性を実現しているか追求していて、その限り本体とは別な存在になっている《もう一つの自己》ということになろう。そしてこの別なという点に相違と対立が産む葛藤があるのだ。村上春樹の主要な作品世界においてほとんどの場合、主人公は自らの《影》、いいかえれば分身を引き連れて登場する。主人公と副主人公は、あるいはそれに匹敵する重要な登場人物たちは分身の絆を結びあい、そういう視点でその作品全体を見回せば、それは分身相互間のいわばネットワークで織り上げられているといいうるほどである。
 また、これは拙著『村上春樹の哲学ワールド』で縷々論じたように、彼の作品のヒーローとヒロインとが結ぶ恋愛の関係は、古代ギリシャの哲学者プラトンが『饗宴』にてアリストパネスの口を借りて語ったあのエロス的欲望の起源についての神話、すなわち、人間のなかの両性具有的存在であったアンドロギュノス族が男半身と女半身とにゼウスの雷によって引き裂かれることで、その互いに引き裂かれた両半身それぞれが元の一なる本来的自己へと立ち返ろうと互いを欲求し結合しようとする渇望を抱きあう、これこそがエロスの欲望の起源だとする神話的観念に掉さすものである[1]。この互いを己の致命的な欠如分として欲求しあう半身的関係性をも《影》あるいは分身の関係性の一つに数え入れるなら、いっそう強い意味で、まさに村上の文学世界はこうした《影》的・分身的関係性の網の目によってこそ織り上げられているといいうる。
 たとえば、衆目の一致するところ、また彼自身がそれこそが実質上の自分の文学的デビュー作だとみなす『羊をめぐる冒険』を見てみよう。そこでの主人公の「僕」と「鼠」と綽名される彼の学生時代からの親友とは明らかに分身の関係にある。また「僕」と恋愛関係に入りかける「非現実的なまでに耳の美しい女」と「僕」とは、前述のプラトン的エロスの半身的関係性にある。鼠と鼠のかつての恋人との関係もまた、己の半身といいうるほどの或る本質要素を欠如するがゆえに自分の実存を非現実的に感じざるを得ない苦境に陥った男女が、「私の非現実性を打ち破るためには、あの人の非現実性が必要なんだって気がした」と自分たちの関係を定義するような、これまたエロスの半身的関係性にあった[2]。鼠とその恋人との関係性と「僕」と「耳の美しい女」とのそれとが相互に分身の関係にあることはいうまでもないことであろう。
 こうした分身関係は、『ねじまき鳥クロニクル』における妻クミコと娼婦加納クレタ、『海辺のカフカ』の田村カフカ少年とナカタ、『1Q84』での青豆と中野あゆみあるいは少女ふかえり、等々、まさにそれらの小説世界の中核的問題を担う人物たちの関係性として出現する。
 この点で、注目したいのは次の事情である。後期村上のこれらの本格的な長編世界の開始点となったのは『世界の終りと、ハードボイルド・ワンダーランド』(以下、『世界の終り…』と略記)であったが、この長編小説のパラレルワールド構成の一方を担う「世界の終り」連章が担う「街」ワールドは、主人公とその《影》との対話を基軸として展開する小説世界として構築されているのである。
 この事情について僕は既に前述の拙著のなかで縷々論じた[3]。まず、その要点をここで繰り返しておこう。――この「街」というワールドは、村上によって、自分の《影》を捨てるという居住条件を受け入れた者だけが住む世界として設定される。この「街」ワールドは、いかなる手立てによっても傷一つつけることができない高い壁に囲まれた刑務所のような世界として提示され、その唯一の出入り口は一人の奇妙な門番によって厳重に守られている。主人公は「街」に住むためにこの奇妙な条件を受け入れ、まるでコートを剥ぎ取られるように自分の《影》を門番に切り取られ、彼の管理下に置かれ、影なし人間となって「街」に入る。もとより、その《影》とは主人公のたんなる物理的な影ではなく、主人公とたえまなく対話をする一個の分身的人物として登場する。ついでに一言付言すれば、村上文学の重要な特徴の一つは、自己意識という問題を、たんに鏡に自己を映してそれを観察するといった静止的な関係性としてではなく、自我が自分自身を相手におこなう自己内対話――むしろ論争と形容した方が適切なほどの――葛藤的で力動的な(ダイナミック)過程としてつねに描き出そうと試みる点にある。
 では、そのような奇妙なワールドである「街」とはいかなる人間事情のメタファーなのか? 主人公の次の言葉ほどそれを端的に明かす言葉もないであろう。主人公に村上はこういわせるのだ。

「ジュリアン・ソレルの場合、その欠点は十五歳までに決定されてしまったようで、その事実も私の同情心をあおった。十五歳にしてすべての人生の要因が固定されてしまうというのは、…(略)…自らを強固な監獄に押しこめるのと同じことなのだ。壁に囲まれた世界にとじこもったまま、彼は破滅へと進みつづけるのだ。何かが私の心を打った。だ。その世界は壁に囲まれているのだ」と。

つまり、幼少年期の何らかのトラウマ的経験(=記憶)によって或る人間的欠損を負い、他者との出会いと交流に自己を開く能力に或る重大な毀損を蒙り、孤独を運命付けられ、それゆえにいっそうトラウマ的経験の負の遺産に縛り付けられてしまう、そういった運命的成り行き、「損なわれた」個人の生きる幽閉化された世界(最近の村上の言葉を借りれば「クローズド・システム」となった世界[4])のメタファーなのだ。
 かくて村上が立てる根本的問い――それは実は村上文学のつねに変わることなき一貫した根本テーマといいうるものなのだが――は、この自己世界の幽閉性をかかる個人はいかにして内破し、そこからへ、つまり他者との出会いと交流に満ちた開放的な世界へとどのようにして脱出しうるか? である。
 この問いは、『世界の終り…』では「世界の完全性の逆説」として語られる。この「街」は小説のなかで「世界の終り」であるといわれるが、それは、《お前にとってはこの「街」以外の別な世界はない、お前の世界はこの「街」として自己完結している、この世界だけがお前の手にする唯一の世界、つまりお前の運命だ》といわんがためである。それは通常の終末論的な意味での世界の終わり=カタストローフをいうものではない。 
 とはいえ、この宿命論的な世界ヴィジョンに関して真に重要な問題は、村上の設定する次の逆説にある。村上にとっては、運命として与えられた「街」という世界が、もし「世界の終り」であることによって隅々まで運命によって規定された完全な自己完結した一つの世界であるとしたら、この世界は、「完全」であるがゆえに、実は逆説的にも運命からの脱出――半ばのでしかないにしろ――の可能性を孕むのである。 
 世界の完全性と脱出可能性に関する主人公たちの逆説のレトリックに満ちた思弁は、既にこの『世界の終り…』の開始部分、中間部分、終結部分にこの小説の主題を示唆するものとして暗示的に配置されている。小説のほとんど冒頭に主人公の言葉としてまずこうある。「世界というのは実に様々な、はっきりといえば無限の可能性を含んで成立しているというのが私の考え方である。可能性の選択は世界を構成する個々人にある程度委ねられているはずだ。世界とは凝縮された可能性で作りあげられたコーヒー・テーブルなのだ」[5]。中間部に大佐の次の言葉。「ここは完全な街なのだ。完全というのは何もかもがあるということだ。しかしそれを有効に理解できなければ、そこには何もない。完全な無だ。そのことをよく覚えておきなさい」[6](傍点、引用者)。

そして、小説の終結近く、「街」を語る《影》の次の言葉がくる。「俺がこの街に必ず隠された出口があると思った」のが「確信になった」のは、「なぜならこの街は完全な街だからだ」と。続けてこういわれる。「完全さというものは必ずあらゆる可能性を含んでいるものなんだ。そういう意味ではここは街とさえもいえない。もっと流動的で総体的なものだ。あらゆる可能性を提示しながら絶えずその形を変え、そしてその完全性を維持している。つまりここは決して固定して完結した世界ではないんだ。動きながら完結している世界なんだ。だからもし俺が脱出口を望むなら、脱出口はあるんだよ。君には俺の言っていることがわかるかい?」[7](傍点、引用者)。
 この「世界の完全性の逆説」において第二に重要なことは、運命的幽閉性を脱出可能性へと逆説的に転倒させる道は、何よりも主人公における自我とその《影》との再結合、さらにいえば対話再開によって切り開かれるという点だ。では、主人公がいったん脱ぎ捨て、門番に預けたはずの自分の《影》と密かに再会し、脱出口の有無、その在り処を論議し出し、二人してそれを見つけ確認する成り行きとは、いかなる人間事情のメタファーなのか?
 僕は拙著で次の見解を披瀝した。トラウマ的経験の宿命論的な支配力とはその経験の「記憶」が発揮する宿命的呪縛力である。ところで、村上の考えでは、記憶というものは実は元来「合わせ鏡」の構造を持っているものなのだ。記憶はいわば個人が自分をそこに映す鏡だが、『1Q84』に出てくる印象的な言葉を使えば、この鏡は「合わせ鏡」の構造をもつ。つまり、一個の記憶は必ずといってよいほど表の顔の裏にもう一つの顔をもっている。ほとんど反対といってよいほどの異なる顔を。記憶の保持は必ず一つの《物語》を産み出すことにつながるのだが、この記憶の合わせ鏡構造によって、この《物語》の産出はそのあとでリライト・翻案を自分に招き寄せることが実に多い。くるりと反転して、記憶の裏側に潜んでいた反対の顔付の記憶が表に出て、記憶を織り込み編み上げる《物語》の基軸の位置に移動するなら、記憶の保持装置としての《物語》は再構築されざるをえない。その再構築は反対のストーリーへの翻案となる[8]。《物語》の再編・再構築とはアイデンティティの再編・再構築の謂いである。別のアイデンティティ、人生を新たに生きるための自己についての別な「仮設」の創出である。 
 この点で重要なのは、この《物語》=アイデンティティの再構築を駆動するのは、その運命的な支配力をもつ記憶をめぐって主人公が己の内部で自分の《影》=自己意識の半身と取り交わす、その記憶の理解をめぐる対話だという点である。その記憶に対するこれまでの自分の(君の)受け取り方は正しかったのか、公正であり、真に正確であり全体的総体的であったのかという問題をめぐる対話、それこそが主人公における彼の自我とその《影》との対話あるいは論争なのだ。
 ここで『世界の終り…』に戻れば、「世界の終り」ワールドの主人公が「街」に居住するために自分の《影》を捨て門番に預けるというのは、彼が自分の記憶との内的対話を止めるということのメタファーなのだ。
 この意味で、「影」とはまず第一に記憶の、さらにいえば、その人間にとって自己像(アイデンティティ)を構築するさいに核となるべき記憶のメタファーにほかならない。たとえばこう主人公は図書館で「夢読み」の手伝いをしている職員の若い女にこう語る。「悪いけれど僕には何ひとつとして思いだせない。影をとられたときに古い世界の記憶も一緒にどこかに行っちゃったみたいだ。」
 そして、この核となる記憶としての「影」の喪失とは「心」の喪失を意味する。というのもこの小説では、「心」とは個人が核となる記憶と繰り返す内的対話それ自体を指すからである。この小説のパラレル・ワールドの他方「ハードボイルド・ワンダーランド」ワールドで老博士はこういう。「アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい」と。またもう一方の「世界の終り」ワールドでは老大佐がこういう。「親切さと心とはまたべつなものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」と。
 つまり、こういうことだろう。或る人間がその時とった親切な振る舞いがそもそも彼の「心」から、どういう葛藤なり、どういう後悔や希望の証として誕生したのか、一言でいえばどんな心理的意味を帯びて誕生したかは、究極「心」そのものであるところの、その個人の「過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性」、いいかえればその個人のなかで繰り返される核となる記憶との内的対話の独自性によって決定される。
 この小説では、記憶と心について影を剥ぎ取られた主人公と会話を繰り返す図書館で「夢読み」の手伝いをしている女の子は、おそらく十七歳の時に起きた母を失うというトラウマ的出来事によって「影」を失い自分の過去というものを喪失した女の子として登場し、後に自分の「影」と「心」の回復を主人公と相共にして追求する彼のパートナーとなる。
 かくて『世界の終り…』とは、「影」(=記憶)との対話の中断と再開の物語である。たとえば、「影」はこう主人公にいう。
たとえば、《影》はこう主人公にいう。「たしかに俺はあんたの記憶のおおかたを持ってはいるが、それを有効に使うことはできないんだ。そうするためには我々はもう一度一緒にならなくちゃいけないんだが、それは現実的に無理だ」[9]と。ここでわれわれは先に引用した大佐の言葉を思い出そう。「しかしそれを有効に理解できなければ、そこには何もない」という言葉を。つまりこういうことではないのか? 《影》がもう一度主人公と一つになることで、逆にいえば後者が前者と一つになるとは、両者のあいだに記憶をめぐる対話が再開されることなのだ。この再開は、「街」ワールドの「完全」性・「完結性」を《或る秘められた可能性を孕む》こととして「有効に理解」することへと対話者を導く。トラウマ的経験の呪縛力とはその記憶の呪縛力であった。記憶の呪縛力を解くための対話が始まるのだ。その対話は、記憶の「合わせ鏡」構造によって、その記憶の《影》、つまりその記憶に潜んでいる別な記憶なり反対記憶なりを自分たちの対話の新しい主題として次第に発見してゆくことなのだ。そのことによって、始めは運命の呪縛力そのものに思えた記憶の、その《影》に、当の記憶の支配力を内破する力が潜んでいることが見えてくる。記憶を「有効に使うこと」ができるようになるのはこのことによってなのだ。そしてこの小説は、最初は「無理」と見えた《影》との「もう一度一緒になる」ことが誕生することを描くのである。(もっとも、この再開によって脱出路を発見した主人公は、最終的には、恋人となった「街」の図書館職員の女性と「街」ワールドを別様に生きるという形でこの「街」ワールドの幽閉性を解くために恋人と「街」の際の森に留まることを選択する。この辺りのことに関しては拙著八〇〜八一頁)
 さて、そこで、次に述べたいことは、こうした村上春樹のテーマ設定、そこにおける《影》の役割、主人公の自我とその《影》との関係性の一旦の切断とその再開の物語、これらのテーマは、実に深くユング派の精神分析学の観点に呼応しているという事情である。冒頭に提示したとおり。

 

二 エーリッヒ・ノイマンの「影」理論

 

 エーリッヒ・ノイマンという人物がいる。ユング派の思索圏から誕生した『意識の起源史』や『太母』という高著を書いた人物である。ユングは『意識の起源史』に序文を寄せ、そこにこう書いている。「このまれにみる労作」は「私がもし生まれ変われるものなら、自分の研究の《ばらばらになった身体》――『手をつけたままで投げ出しておいた』すべて――を集め、整理し、まとまりをつけるべく取りかかっていたはずのまさにその仕事に取り組んでいるのである」[10]と。つまり、自分の思想の最良の体系的解説者としてノイマンを認知しているのだ。
 その『意識の起源史』の第二部のAの第五章「人格の判断中枢の形成」のなかに「影の形成」という節がある。
 そこに大略こうある。 

個人が自分自身を含めて物事の価値判断をおこなうときに、その判断がどういうダイナミックな過程をとってなされるのかを分析する際の中枢ポイント(「判断中枢」)となるものは、意識化された働きを演じる「自我」だけではない。「自我」の他に、無意識的=身体的判断中枢と意識的自我中枢との総合的全体性をなす「(ゼーレ)Seeleの全体性としての自己」という心身統一的な総合的審級がそもそも問題にされねばならないし、この総合的審級への視点が確保されるためには、「自我」以外に、男性的自我の場合にはその無意識化された女性的判断中枢としての「アニマ」が、また女性的自我の場合は無意識化された男性的判断中枢としての「アニムス」が視野に収められていなければならず、また「影」と呼ばれるべき無意識的判断中枢の存在にも視点が向けられていなければならない。
これらの無意識的な判断中枢があらためて人間の意識の裡に昇る場合、それは「人物」として現れる。このことは、「すべての無意識内容は『部分人格のように』現れるというコンプレックス理論の基本命題と一致する」。(こうしてノイマンによれば、たとえば「影」は――村上の小説のように、またあとでみるニーチェの劇詩のように――「人物」として現れるのだ。)
価値判断が遂行される実際のプロセスは、こうした複数の互いに対立しあう判断中枢の複合的ダイナミックスのその都度の在り方によって――不毛な在り方と創造的な在り方と、当然区別される――規制される[11]
ユングの思想にあっては、最終的には、これら相対立する諸判断中枢の最も創造的な形での――融解による対立性の解体でもなく、かといって対立の過剰化による統一性の解体でもない――総合化が目指されるが、この総合化の志向は「中心志向」と名付けられる。すなわち、「中心志向の働きは生命体の統一性を創造的に発達させることにある」[12]。かかる「中心志向」は人間の生命のうちに本質的に実存しているものであると同時に、理論としてのユング思想はこの人間生命に本来的に備わっている志向の自覚として己を打ちたてようとする。
  さて、こういう判断中枢のダイナミックな複合構造(コンプレックス)の全体性への視点から、あらためて「影」という判断中枢がいかにして形成され、したがってどのような作用を個人の価値判断に及ぼし、真に総合的な人格の在り方を追求する「中心志向」の立場からその働きはどのように問題化されるべきかといえば、その大略は以下のとおりである。 

まずその形成についていえば、「影」は次の過程から生まれる。すなわち、個人が或る集団に帰属するとき、個人の内面にその集団が文化的に無価値であると判断する要素が存在していた場合には、個人は帰属集団に自分を順応せしめるために、その無価値と判定される否定的要素を意識化された自我という判断中枢から追い払って自分の「個人的無意識」のなかに追い遣る。そこへと追い遣られた否定的要素が形づくるものこそが「影」という判断中枢にほかならない。同時にこの否定的要素は「集団的無意識の敵対者像によっても布置される」。つまり、帰属集団が己の敵対者とみなす敵集団を特徴づける要素として、いわば敵対集団像のなかに投影される。かくて、当該の集団帰属を果たそうとする個人は、その否定的要素を己の《敵》要素(=悪)としてイメージすると同時に己の《影》としてイメージする。とはいえここで強調されねばならないのは、ユングの「影」理論は「影が人格全体に作用するのは、それが自我を補償する機能を持っているからである」[13]という観点にこそ立つものだという点である。この補償作用に注目する観点は、前述のようにユングの思想が人格の心身的統合を志向し、「心の全体性としての自己」の創造的統合性を志向する「中心志向」の立場に立っているからである。
「中心志向」は、自我が過剰に自立化して「身体と敵対しよそよそしくなろうとする傾向」を示す場合には、「鉛の塊すなわち影という錘」を自我につけて、この自我の過剰な自立化をいわば中和化しようとし、また個人が帰属集団へ過剰適用して、己の個性・独異性の自己否定へと走り、集団帰属化が個人に強制する感受性や思考を「一般化し公準化しようとする傾向」に個人が呑み込まれてしまわないように気遣う。
ノイマンはこう書いている。「影という人格判断中枢の形成―は、神話の心理学において取り上げた敵対者像の同入と関係している。意識の中へ悪を同化し攻撃傾向を取り込むことは影の像を巡っておこなわれる。『闇の兄弟』は未開人の藪の霊魂と同様に影の側面のシンボルである。人格のこうした闇の側面を取り込むことによって初めて、人格はいわゆる『防衛力』をもつ人格の悪の性質は――いかなる文化規範に関わるものであれ、――、利己主義・防衛や攻撃への即応態勢・最後に集団から自らを際立たせ自らの個性的な『特殊性』を共同態の平均化要求に対して守り貫き通す能力・として、個性の必須要素となっている。影によって人格は無意識という大地圏に根ざす。影の敵対者像元型・悪魔元型・との結びつきは、真の意味でつねに生き生きとした人格の根底的創造的基盤の一部をなしている。それゆえ神話の中では影はしばしば双生児としても登場する。すなわち影は『敵対する兄弟』であるに止まらず仲間や友人でもあるため、双生児兄弟が影なのかそれとも自己・不死の「他者」・なのかを区別できなくなることもしばしばである」[14](傍点、引用者)と。
そして、ノイマンは次の総括的見通しを右の一節のあとに続けている。(なお、以下に出てくる「自己」とは先にユング=ノイマンの思想を紹介したとき触れたように(ゼーレ)の全体性」を指す概念としての「自己」である)
「こうしたパラドックスには、上なるイメージと下なるイメージはお互いを映す鏡であるという昔の諺が働いている。心理的発達において影の中に自己が隠されており、影は、『門番』・入口の万人・である。自己へと到る道は必ず影を通り抜け、影が表す暗い性質の背後にこそ全体性が存在し、影と親しむことによってのみ自己とも親しめるようになるのである」[15](傍点、引用者)と。

 僕は、ノイマン=ユングの「影」理論を単純にそのまま村上における《影》の表象に重ねあわせようとするわけではない。あくまでもインスピレーションの源泉として問題にしているのである。
 内容からいえば、たとえば「門番」の位置と働きはユング=ノイマンと村上の『世界の終り…』では逆になっている。今見たとおり、ユング=ノイマンにあっては「門番」は「自己」という心身統合の全体性へと到るための入り口の番人であり、それは影を捨てることを求めるどころか、むしろ影そのものであり、敢えていえば、《影》とより深く親しむことを「自我」に教え、導き、勧告するのが門番の働きである。他方、村上にあっては、先に示したように、門番は影を捨てることを求める者であり、影との親交を禁じる者であり、彼は「街」という壁に囲まれた幽閉された、或る根本的な不毛性を刻印された世界(クローズド・システム)の門番である。

 とはいえ、「上なるイメージと下なるイメージはお互いを映す鏡」という表象は村上のいう記憶の「合わせ鏡」のメタファーに非常に類似しているし、「門番」の位置と働きはちょうど逆になるにせよ、そこに賭けられているものが次の二つの目標であるのは同じだともいいうる。すなわち、人間的経験の全体性を回復することによる人間における生命性の全体性の回復と、「一般化と公準化」への解消の圧力から個性の創造性を取り返すこと、この二つの目標である。
 意識化された働きとしての「自我」が、それゆえの一面化や硬直のなかで「無意識的なもの」へのドアを自ら閉ざし、そのことによって「自己」を創造的に発展させる道を自ら閉ざすという事態が生じるということ。またこうした事態は、「自我」が「影」を己のなかから放逐しようとするそれ自体不毛で不可能な努力に取憑かれることで生じるということ。こうした認識から、そうした事態に対して、それを内破する力として「自我」と「影」との親交の再開という展望を対置するということ。こうした問題の布置そのものが発揮するインスピレーションというものを、僕はここで問題にしたいのである。

 ユング=ノイマンの理論のなかではこの意識化された働きとしての「自我」が陥る一面化や硬直の問題は、個人と集団とのあいだに張り渡される「個人的無意識」と「集団的無意識」の葛藤劇として主題化され、考察される。これに対して村上文学では、その自我硬直の問題はトラウマ的記憶の一面的固定化による「自己」像の硬直化の問題として翻案され、かかる自我硬直を切り開くものとして、記憶をめぐる自我と《影》との、あるいは或る記憶とその《影》との対話の親交がテーマ化される。
 そこには大きな相違と同時に、問題の見取り図の或る基本的な継承がある。再度いうなら、この関係を指して、「インスピレーション」と僕はいいたいわけである。

 

三 ニーチェ『人間的、あまりも人間的』最終章における「漂泊者」と《影》との対話

 

「君はどこなんだ、君は? どこなんだ、君は?」[16]
 これはニーチェの『人間的、あまりに人間的』Uの結びを飾る第二部断章三五〇での「漂泊者」と「影」との対話の最後の言葉だ。実にこのニーチェの作品は、影に去られた漂白者がその影に呼びかけるこの嘆きの言葉とともに終わるのである。そもそも『人間的、あまりに人間的』Uの第二部は「漂泊者とその影」と銘打たれる。その書き出しはまさにこの「漂泊者」とその「影」の対話の劇詩によって始まる。そして、この第二部のエンディングを飾る最終章(断片・三五〇)は再びこの二人の対話の劇詩をもって終わる。
 実は僕はこう推測する。本稿の第二章で取り上げたユング=ノイマンの「影の形成」の理論は、このニーチェの「漂泊者」とその「影」の短い劇詩から多大なインスピレーションを汲み取っているのではないかと、そしてさらに、ニーチェを愛読していた村上にとってもまたこの劇詩はユング=ノイマンの心理学理論とあわせて、彼の『世界の終り…』におけるくだんの《影》の創作のインスピレーションの源泉になったのではないか、と。
 書き出しはこう始まる。

影がまずこう語り出す。「おれはもうずいぶん長いことお前の語るのを聞かなかった、それでお前に一度その機会を与えてやりたいと思うのだ」と。対話は影の主導権の下に始まる。語る機会を与えるのは、漂泊者ではなく影である。影が漂泊者に機会を与えるのである。すると漂泊者がこう驚く。「話し声がするぞ――どこなんだ? まるでおれ自身が喋っているのを聞くみたいな気がするが、ただ、おれよりももっとかぼそい声だ。」「おれの影が喋っているぞ。おれにはそれが聞こえる。だが信じはせぬぞ」。
 影はこう応える。実に含蓄に富んで。「いったんわれわれの理性が静止したら、われわれのどちらも同じようにして互いに寛大であることはよいことだ。そうすればわれわれは喋り合っていても腹は立つまいし、相手の言葉が不可解に聞こえるからといってすぐさま相手を責め立てるようなこともしないだろう。すぐに返事のしようがないのなら、何か喋るだけで十分だ。これがおれが誰かと話し合うときの公平な条件だ」と[17]
 はじめ漂泊者は影の存在を人間の抱く虚栄心と誤解していた。しかし、それは誤解であった。影の存在が問題となるのは、つまり影が語り出すのは、真実の認識が問題となった時だということに漂泊者は気づく。彼は影に謝罪する。「ぼくは光を愛するがごとくに影を愛しているのだということを分かってくれたまえ。顔の美しさ、言葉の明瞭さ、性格の善良さと堅固さが存在するためには、影は光ほどに必要なのだ。それは敵同士ではない。むしろ光と影は親しく手をとり合っている、そして光が消えてゆくと影はそっとあとを追ってゆくのだ」と。
 影は応える。自分は夜が嫌いであり、「人間どもが光の弟子であるが故に人間どもを愛する。そして認識し発見するときの彼らあくなき認識者、発見者たちの眼にきらめく光がおれには嬉しいのだ」[18]と。

第二部の終結を告げる断章三五〇はこう展開する。
 人間は動物から人間へと離陸するときに、動物的な振るまい方を自分に許さないために同時にたくさんの「鎖」で自分を縛ってしまった。「いかなる動物よりも穏和で、精神的で、喜ばしげで、思慮深くなっている」という人間的美質は、同時に鎖を引きずっている。鎖とは、ニーチェによれば「道徳的、宗教的、形而上学的諸観念のあのさまざまの重苦しい、そして含蓄多い迷妄」である。この迷妄に取憑かれていることを、彼は「鎖の病気」とも呼ぶ。この病をも克服した時にのみ、動物からの人間の離陸が目指した人間的美質の真の十全なる実現が可能となる。というのも、鎖の病こそは「人間的美質」をその反対物に転倒させてしまう当のものだからだ。いかなる動物よりも猛々しく、物欲的で、憎悪に駆り立てられ、思慮浅き動物に、といった風に。
 だが、「漂泊者」(=ニーチェ)はこの目標は大部分の人間にとっては達しがたいと断定する。真の意味で「精神の自由」と「生の軽快さ」を獲得し、「喜びのために生きるのであって、それ以外のいかなる目標のためにも生きるのではない」という境地に到達すること、言い換えれば「わがまわりに平和、すべての最も身近な事物には喜びあれ」という喜戯的な自己充足的な生肯定に到達することは、「すでに高貴となった人たち」といいうる少数者にとってのみ可能で、それは決して万人に可能な目標ではない。この目標が、その資格をいまだ備えていない大多数の人間も含めた「万人」の掲げるべき標語とされてしまえば、かつてイエスの原始キリスト教に起きたと同様の反対物への転倒が起きるであろう。「地には平和、人にはともに喜びあれ」というイエスの標語は、それがキリスト教団の標語となるや否や、《地には戦争、人にはともにルサンチマンの憎悪あれ》に転倒したように、である[19]
 影はこの漂泊者の述懐を聞き、それを自分に引き取ってこう応える。
 お前の語ったことのなかで、今の「わがまわりに平和、すべての最も身近な事物には喜びあれ」という標語ほど自分に気に入ったものはない、と。というのも「わがまわり」、つまりお前のまわりの「最も身近な事物」とは何にもまして、お前の影、すなわち自分のことだ、つまり、お前は俺を喜ばしき隣人として愛するといってくれたわけだからだ、と[20]
 影はそういったことの理由を説明する。それは、たいていの人間はいつも自分の影を「中傷してはひどく嬉しがってきた」からだ、と。つまり、ユング=ノイマン風にいえば、多くの人々は自分の影を《悪》と名指し、あるいは自分の敵対集団の特質とみなし、そうすることでそれを自分から遠隔化して、自分自身には存在しないもの無関係なものとみなすことで、自分の善性なり価値性を嬉しがってきたというわけだ。
 先の漂泊者の言葉に戻れば、「わがまわりに平和、すべての最も身近な事物には喜びあれ」どころではなくなるのだ。その反対、《わがまわりには自己の分裂と闘争、すべての最も身近な事物、つまりを構成する諸事物の否定と追放の雄叫びに包まれた衝突につぐ衝突、自己嫌悪と自己分裂の内的嵐》が巻き起こることは必定なのだ。
 すると漂泊者はこう応ずる。「中傷だって? だが、なぜ君たちは一度も自分を弁護しなかったのだ? 君たちのすぐそばにぼくらの耳があるではないか」と。
 すると影はこう言い返す。「おれたちはあまりにもお前たちのそばにいるものだから、おれたち自身のことを語ってはいけないように思えたのだ」と。
 影は心優しい、思慮に富んだ、鋭敏な心理観察家である。影である自分たちが、つまりお前自身に取憑いた「道徳的、宗教的、形而上学的諸観念のあのさまざまの重苦しい、そして含蓄多い迷妄」が《悪》であると名指すものが、お前自身のなかにある当のものだと、俺たちがあからさまに告げたなら、お前は恐慌を呈するにちがいない。お前に俺たちの声を聴く用意ができるまで俺たちは「沈黙して待つ」ことに、常に俺たちはしてきたのだ、と。
 漂泊者をそれを聞き、叫ぶ。「繊細だ! 実に繊細だ! ああ、君たち影はぼくたちよりも『上等な人間』だ、やっとわかったよ」と。
 影は応える。「人間が光を避けるとき、われわれは人間を避ける」と。
 既に僕はこの二人の書き出しの部分を示した。光とは認識の光、真実を照らす光のことだった。影は「夜」の盲目は嫌いだと語っていた。真実を認識しようとする光の意欲なきところには影の居場所もまたない。影の出現の環境はまず人間たちの側でこそ準備されねばならない。それが用意されねばそこへと出て行かないという、「ともかくその程度にはわれわれは自由をもっているのだ」、と影はいう。言い換えれば、影をして語らしめるのは漂泊者の謙虚さなのだ! 人が自分の真実に一番接近したときにのみ影は傍にやってきて、その寡黙な口を開く。
 漂泊者は思わず叫ぶ。「ああ、光のほうがもっとずっとしばしば人間を避けている、そしてそういうとき、君たちも人間から立ち去るのだ」と[21]
 だが、いまや落日が迫る。一日が終わろうとする。闇が忍び寄り、ふと気付くと影はもういない。この章の冒頭に掲げた言葉、 「君はどこなんだ、君は? どこなんだ、君は?」は忍び寄る夜のなかに己の影を失う漂泊者の嘆きの声だ。実に『人間的、あまりに人間的』はこの嘆きの言葉とともに終わるのである。 

 村上春樹の文学のなかにもこの嘆きの声が響き渡っている。そう感じるのは僕だけだろうか?

 

[1] 参照、拙著『村上春樹の哲学ワールド――ニーチェ的長編四部作を読む』はるか書房、二〇一一年、一五八〜一六〇頁
[2] 同前三四〜三六、一五八〜一五九頁
[3] 以下は拙著の次の箇所で論じたことの要点を繰り返したものである。五六〜六〇、七八〜八一頁
[4] 参照、拙著一八二頁
[5] 『世界の終り…』上、新潮文庫、一六頁
[6] 同前、一四七頁
[7]
『世界の終り…』下、新潮文庫、三二〇頁、参照、拙著七八〜八〇頁
[8] 参照、拙著二二、五二〜六二頁
[9] 『世界の終り…』下、六四頁
[10] エーリッヒ・ノイマン、林道義訳『意識の起源史』上、紀伊国屋書店、1984年、一五頁
[11] 同前、下、五三六頁
[12] 同前、下、五三七頁
[13] 同前、下、五三八頁
[14]
同前、下、五三九頁
[15] 同前、下、五三九〜五四〇頁
[16] ニーチェ、中島義生訳『人間的、あまりに人間的』U、ニーチェ全集6、ちくま学芸文庫、五一一頁[17] 以上、同前、二五九頁
18] 以上、同前、二六〇頁
[19]
以上、同前、五〇七〜五〇八頁
[20] 同前、五〇九頁
[21] 以上、同前、五〇九頁

  
  小思考断章 V 文芸批評編


    自我とその影  
        ――村上春樹、ノイマン、ニーチェ