第四章 貼りビラ
1
「嬉しかったよ。ブンからの手紙。あたしの眼がほんとうにブンのいうとおりのものだったら、あたしはその眼のように生きることを誓うわ。あんたがいつもポケットの中にしのばせているナイフのように、あたしはその眼をあたしの眼の中にしのばせて生きるわ。」
ブンは微笑んでこういった。
「ビンが昨日俺のところへ告白にきた。やつはアギ・レフトの党員になったと。ついでに十六のとき俺に胸をときめかしたことをもう一回いっておきたい、とね。」
「その話はブンから前に聞いたわ。じゃあビンはテロリストになるわけ」
「いやちがうな。話を聴けば、あいつの《党》もテロルに打って出るような実践的な闘争組織とはとても思えないし、そもそもあいつは、たとえどんな《党》だろうと、党員になるようなタイプじゃないし。あいつの言葉をそのまんま借りれば、歴史の黙示録的瞬間に潜入する自分自身が雇い主のスパイ秘密結社に、これまた自分自身を雇い主にして潜入したスパイ、スパイに潜り込んだスパイ、二重スパイが自分だってさ。それからこうもいってた。二十歳のガキがもろ権力闘争っていうもんを直に体験できるチャンスをゲットする、それだけが自分にとっての問題だ、って。」
「きっとビンはいったでしょ。二重底の人間しか自分は愛さないと。あの言葉はあたしが教えてやったんよ。あんたのベクトルは隠すってことね、って。アンダーグラウンドってことがあんたの存在のモードよ、って。あんたの眼は奥で光ってる眼、二重底の眼だと。そしたら彼はこう聞いてきた。ブンのは?って。」
「ふーん」
「で、答えたわ。ブンのはどっちもいかないで端で黙って突っ立って空を仰いでいる眼。優しいやり方で孤独なんだわ、って」
「へー」
ブンは嬉しかった。アイズが差し出した自分の姿が。と同時に、ビンとの会話がそのあと自分のなかに誕生した「秘密は個人の尊厳である」というテーゼと、その姿がどうかかわるのか、それを考えたくなった。秘密を自分の底に宿すといっても幾つかのモードがある。ビンのそれと、アイズが捉えた俺のそれと、そしてアイズのと、たとえば三つが、そして他にもあるにちがいない。俺の愛読しているこの片身の書簡集のそれと…。
そこへアイズの声が飛び込んできた。
「ねえ、その書簡集ってのを見せて。その打ちっぱなしのコンクリートの壁のような頁を。」
ブンは差し出した。アイズはしげしげと眺めた。.
「大工がやるように、こんな風に工事用大型ホッチキスを打ち込むのは素敵ね。とっておこうとしないことがナイス。名前を消しちゃったのも。誰が書いたかわからない。けれど、ここにあって、自分を投げ出している。読者が、そこに投げ出されている言葉に打たれて、作者を探す、誰が書いたんだろう、って。でも見つからない。たとえ見つかっても、結局それが誰かはわからない。たった一回限りの人。ライブのように、ね。一回だけ会って、もう二度と会えないのね、そうういう想いを読者に残して去っていく本。根本的に断片、引きちぎられて、それだけ手元に残されたもの。ボブ・ディランの歌じゃないけど、それだけが風のなかで一瞬舞い踊って、どっかへ運ばれて行ってしまうもの。そんな風に別れることはナイス。
「アイズ、ここを読んでみろよ。昨日から三度読んだ。」
そういってブンはアイズの手からその書簡集を取り上げ、その頁を開いたうえで、彼女の手のなかに戻した。
2
昨晩ミラノを出てパドヴァに着き、旅装を解いてから、夜遅く、ひとり旧市街の回廊 にさまよい出た。パドヴァ大学にはガリレオがいた。この街は北イタリアの名だたるルネッサンス諸都市の一つだ。回廊は中世以来のものだ。ホテルを出るともう人通りは絶えていた。石の闇のなかに街は沈んでいた。石畳、石柱、回廊の高い石の天井、塔、石造りのアパルトマン、僕はまるで黒い要塞のなかに、黒い遺跡のなかにいるようだ。しかし、僕はやはり街にいる。点々と続く街灯や門灯にぼんやりと街の輪郭が黄色く浮かび上がる。その光の柔らかさはまるで街路が建物のなかの人々の寝息と取り交わす呼吸のようだ。イタリアの都市に建つ建物はほとんど黄色の煉瓦で外装している。その外壁が街灯をいっそう淡く黄色ににじませる。
日本の平屋の街、今は新建材となってはいても木造という根本は隠しようもない平屋の世界が夜に沈み、そこを縫う通りを人が行くとき、人は夜風と共に自然に送り返される。平屋の世界は文字通り平たい。夜風は平屋をいっそう地面に張りつかせるようにして横に吹き、夜風は人を田舎の闇に連れ戻す。街の暗所は田畑や浜辺や小さな森や林の暗所に通じている。
このパドヴァではちがう。人々は都市という要塞のなかにいる。都市と要塞はここでは等号で結ばれている。要塞は平たいという空間の横性に対して垂直の屹立の縦性を構成する。石造りの人工性はそれ自体反自然の意志だ。朽ちて大地に帰一するという木造の自然循環性に抗い、自己の存在にあくまでも固執する存在意志だ。ぼくはヨーロッパ中世の石造りの迷宮へとひとり紛れ込んでいくようなこの夜の散歩に我を忘れた。誰にも出会わなかった。自然から遮断され、かつ誰にも会わなかった。キリコの絵を夜に浸したような世界。
ある角を曲がったとき、回廊の柱に面白いものを見つけた。模造紙大の白い紙の上に巨大なペニスをつきだした男の戯画が大きく描かれ、そこから枝分かれするように、またいくつかの小さなエロティックな戯画が描かれ、あいだを手書きの文章の数行が繋いでいた。ぼくのイタリア語の能力ではその内容を即座に読みとることはできなかったから、読むことはあきらめた。どうせセックスに関する戯れ言にちがいない。いつ、誰が張り出したのだろうと、想像すると愉快だった。もしかしたら、ぼくが角を曲がってここに出てくる数分前に一人の青年がこの模造紙を抱えてやってきて、暗がりのなかで、糊を裏側に塗りたくり、ピンと広げ、よじれが起きないようにおもむろにここに貼ったのかもしれない。この回廊の世界のなかでぼくはまだ誰にも出会ってない。回廊だけが目覚めている。街は夜に抱かれ寝入っている。
明日、朝がきて人々が目覚め、回廊に出てくると見慣れぬこの張り紙に出食わす。一つの挑発が、一つのスキャンダルがそこに誕生していた。ある人は顔をしかめ、ある人は笑い、ある人は目をそらし、ある人はしげしげと覗き込み、少女たちは嬌声をあげ、子どもたちは奇妙に興奮して一日そのことを仲間内で話題にする。
朝、子供が鶏小屋にゆき、探す。卵が生まれていないかと。子供は毎日そうやって一つの誕生に出会う。それが毎朝の儀式だ。鶏小屋にゆき、卵を見いだし、誕生に出会うという三拍子。確かにそれは不意打ちではない。習慣となった期待だ。しかし、誕生は、それでもつねに驚きだ。新しい生みたての卵はつねに驚きだ。
ぼくは想像した。朝、人々は見慣れた回廊の中庭に一つの卵を発見する。一個の挑発、一個の挑戦、一個のマニフェスト。ペニスをおったてた猥褻な落書きは、しかし、一個の誕生。卵なのだ。深夜産み落とされ、朝発見されることを待って、こうして今ここに存在する一つの観念の卵なのだ。
イタリアの都市はいまも対ファシスト・パルティザンの記憶を壁に刻みつけている。ボローニャの広場の側壁には何十人もの対ナチ・レジスタンスに倒れたボローニャ大学の学生の顔写真がプレートとなって填め込まれている。壁に貼られた張り紙は、この記憶をも揺り動かす。蜂起を呼びかける貼りビラが深夜回廊のそこここに張り出される。朝を待って。若いパルティザンは少年の興奮を胸の内にしまって、そこを急いで立ち去る。
ぼくは自分の高校生の時のことを思い出す。闘争があった。ヴェトナム反戦闘争が。ぼくは一人でマニフェストを紙に書き、深夜、街の交差点に出かけ、そこにあるたばこ屋の横のトタン塀の余白にそれを貼った。毎朝素知らぬ顔をしてその脇を通り、通学のバスに乗った。ぼくは小さなテロリストだと自分を感じた。中国のかの「文化大革命」が発明した「壁新聞」というメディアはそのころ一つの象徴的価値を担っていた。すべての人間がマニフェストする権利を持ち、すべての人間が壁新聞を貼る権利を持ち、すべての人間がこの権利を行使すべきだ、という世界観をそれは象徴していた。
ぼくはまたサーカスの貼りビラを思い描いた。
ある日、街の人々は気づく。そこここに、サーカスの到着を告げる貼りビラが点々と街角に貼られているのを。貼りビラは報知、到来を告げるものなのだ。何月何日、どこそこの広場に、テントが立ち、サーカスが開かれる。突然、日常のただ中に別な空間が降って湧く。祝祭? それとも逃亡への誘惑? 死の危険と一つになった道化の笑い。絶対的なはかなさの経験の場。淋しさのまといついた笑いのなかで、錆びたマーチのなかで、虹色の安物性のなかで、風に膨らんだテントのなかで、風に鳴るテントのなかで、ひとは宇宙のなかの孤独を感じる。虚空につながる通路を手にする。サーカスは果てなき廣野からやってきて、また去ってゆく。ロシアやスペインやアフリカの廣野をもたない国の人間でもサーカスの背後に廣野を感じる。遠くからやってきて、遠くへと去ってゆく者の呼吸を。
ぼくは夢想に浸りながら、君と一緒に見たタルコフスキーの映画「ストーカー」を思い出していた。なぜだと思う?
「ストーカー」のなかで映像は自立性と連続性との不思議なリズミックな統合を実現していた。どのカットも比類ない緊張の上に一個の美的独立性を実現していた。どれをとっても絵になっていた。三人の登場人物たちのそれぞれの顔のカットはどれも一個の肖像画だった。トロッコに乗って立入禁止区域へと向かう彼らの顔はフィルムの展開のなかで連続性のなかに組み込まれ、連続性を担っている。しかし、同時に静止してもいた。それ自体で自らを支え成り立たせていた。肖像画だったのだ。そのことが、彼らのこの立入禁止区域への進入が人生の総決算を賭けたものであることを示していた。ストーリーの展開を担う時間を横の時間と仮に呼ぶなら、観客は横の時間の流れのなかで同時に奥へと水平に交差する時間に出会う。人物たちは横に並んでいるが同時にそれぞれが奥というものを担っている。奥の時間というものがそこにはあって、顔はその奥、背後の全重量を目の前へと結晶化したものとして迫る。立入禁止区域、つまり「ゾーン」に点在する廃墟やトンネルのシーンも同様だ。廃墟は、ゾーンの廃墟であると同時に、廃墟そのものなんだ。<廃墟>ということが何であるか、いわば廃墟の本質を、プラトン哲学風にいえば廃墟のイデアを語りかけるんだ。像とはイデアの記憶だ、一個のイコンだ。そうぼくたちにいわせる映像、それが自立性を獲得した映像だ。三人の主人公たちが疲れ果てて、湿原の荒野に横たわるシーンがある。ぼくの勘では、その姿はブリューゲルの絵から取られたものだ。三人の眠る愚者、あるいは盲人の旅人、そんな風なタイトルの絵が確かあった。彼らは敷物を敷くことなく地面にそのまま体を横たえていた。それは愚者のイコン、盲目の旅人のイコン、つまり人間のイコンなんだ。
その、タルコフスキーの映像の自立性は引用可能性という問題でもある。言葉に関してだが、かつはぼくは引用可能という問題について書いたことがある。
「深く真実な言葉は自立する。それは、他者がそれを自らのものとして生きることを許す寛大さに溢れている。それは他者に自由な参入の空間を開くものであって、その空間のなかで参入した人間はその起源からすれば他者の言葉を自己のものとして生きる権利を得る」と。
引用可能性あるいは自立性という問題は断片性という問題でもある。逆にいうとこうだ。自分を引用可能なものにまで高める断片性が、いまや問題である。それは速度ということと関係している。またゲリラ戦ということとも。
貼りビラは二つの要素から要請される。第一に緊急性。今日の深夜、放浪のサーカス一座は三日後に興行を予定した街にサーカスの到来を告げる貼りビラを張り出さなければならない。パルティザンには敵の間隙をつく戦いだけが可能であり許されている。だから、マニフェストは、また明日の蜂起の呼びかけは今日の深夜にやらねばならない。速度が要求され、速度は貼りビラというまったく限定された空間を義務づける。問題はこのことが必然的に負わせることになる表現にとっての断片性を、表現の限界性ではなく、生産性に、つまり引用可能な自立性へと転換することなのさ。第二の要素からも同じことが帰結する。出発点は、われわれはゲリラ戦しか許されていないほど、貧しく劣勢であるということだ。しかし、このことが負わせる限界性を生産性に転換する方法が探求されねばならないんだ。
世界は破局に向かってすごい速度で傾斜しだした。だがぼくたちは完全に劣勢だ。ぼくたちに残されている時間は少ない。もう死がそこに待ってる。そして世界の速度はこれまでの一切の水準を超えている。ぼくたちには準備の時間がない。その資金も仲間もない。
3
「手紙はここで終わってるのね。」
「うん。」
「この男は、死んでしまったあたしの叔父さんのように癌にでもかかっているのかな。」
「なぜ、そう思う?」
「もう死がそこで待ってる、って書いてるじゃないの。劣勢というのが気に入った。」
「優勢だったら、テロリストになる必要はないからな。そして、おまえはテロリストが好きだからな。」
「でも、もっと好きなのは、鶏小屋の話。生みたての卵の話だわ。」
「やることが見つかったと思った。」
「それで三回読んだのね。貼りビラを作るってこと?」
「うん。だけど、貼りビラってのはコンセプトとしてだ。メタファーといってもいい。実際にそれが貼りビラになるか、ならないかは、これからのことで決まるだろう。貼りビラでもいいし、そうでなくてもいい。でも何か貼りビラみたいなもの。」
「その何かとは?」
「今アイズ自身がいったよ。生みたての卵の話が一番好きだ、って。それはまた不意打ちである。『一個の挑発、一個の挑戦、一個のマニフェスト』だとこの手紙の男は書いていた。そしてこういってた。緊急でなければならない。また劣勢である。悠長に長い連なりの文章を書いてる余裕はない。しかし、『問題はこのことが必然的に負わせることになる表現にとっての断片性を、表現の限界性ではなく、生産性に、つまり引用可能な自立性へと転換することなのだ』と。こういった要素の全てさ。」
「あんたのいうことを挫く気はない。反対しているわけじゃない。でもね、あたし自身は『一個の挑発、一個の挑戦、一個のマニフェスト』はどうでもいいの。ブンがそれをやるのはわかる。あんたはビンとは根本的にちがった人間だけど、でも、あんたはあんたの命の形から《運動》というものを要求する人間なんだわ。あんたは《希望》を失いたくないと思ってる人間、そして、そこはビンとはまったくちがう。ビンは《希望》というものを軽蔑してる。あの子は《希望》というものに出会ったら、やみくもにそれを潰したくなる人間だわ。あたしは、ブンが《希望》というものをもっていることが好き。
だけど、あたしには《希望》は要らない。あたしはむしろビンに近い人間かもしれないけど、ビンは好きじゃない。あたしには権力への欲望は何一つない。権力と闘うために自分を権力とする必要は、あたしには他人事だわ。でも、このあたしのものの言い方はブンを怒らせてしまうことは十分わかってるつもり。あたしは権力を他人事にしてしまうから、権力も権力と闘う者も等価にしてしまうにちがいない。そのことは、あんたを怒らせるにちがいない。ブンは、そんな等価は許しがたいと考える人間だから。
あっ、さっきのは取り消す。『わかってるつもり』というのは。あたしはどうしようもなく、あんたを怒らせてしまうもの。そしてブンは、そういうあたしをどうしようもなく怒ってしまうもの。この『どうしようもなさ』の前ではわかるも何もないわ。」
「何がいいたい? つまり俺とは何もしない、結局何もできないのだから、ってことか?」
「ちがうわ、ブン! あたしはマニフェストはしないし、できもしない。でも、あんたと儚いライブをやりたいな。もちろん、ライブっていったって、いわゆる音楽のライブってことじゃない。もちろん音楽はあってもいいのよ。でも、このライブはいわば《声》のためのライブなのよ。ねえ、それは朝の卵なのよ。でも、マニフェストではないの。マニフェストは名づけることでしょ。でもこの《声》のライブは、――ブン怒らないで、そして笑ってもだめよ――『名づけえぬもの』のためになされるの。あたしとブンとのかけがえのなさは『名づけえぬもの』のためにこそあるのよ。そして、そのことはブンがマニフェストすることと実は矛盾することじゃない。あんたはマニフェストをせざるをえない人だけど、そのマニフェストに捕まらない人よ。あんたは命名する人でいて、『名づけえぬもの』のために生きることを欲してる人間なのよ。」
「じゃあ、おまえは?」
「うん、あたしは、そういうブンに捕まえておいて欲しい人間だと思う。あたしは、あたしのことを理解する力があって、同時にあたしを理解しない人間が、理解しないことによってあたしを捕まえておいてくれることで、最後の破綻から守られてる人間なんだわ。」
「そんなことは前からわかってる。今聞きたいのは、アイズのコンセプトだ。そのライブの。」
4
「コンセプトを考えるのはブンの仕事よ。それこそ、あたしは断片のイメージを語る。ブンはそれを聞き、そこから組み立てだす。そしてたちまち一つの構想を生みだす。一つのマニフェストへと高める。あたし自身はマニフェストはしないけど、あんたのマニフェストに組み入れられていることは嬉しいことよ。それが捕まえられているということだわ。
表現にとっての断片性を引用可能な自立性へと転換する、っていうことはまったく賛成。あんたのもってるこのどっかから引きちぎられてきた手紙の一頁のように、そこに投げ出されている。でも、そのことがむしろ或る強度を実現している。ほら、この写真を見て。」
そういって、アイズはいつも肩からはすかいにかけている背嚢のような重たい黒革の鞄から一枚の写真のコピーを引きだしてブンに差し出した。それは、モノクロの写真で、何か荒々しいまるで戦場を貫く大きく太い道路の真ん中に裸の幼児が小さな白い尻を曝して後ろ向きに突っ立ている写真だった。
「あたしはこの写真を見ていて、ふとこう思った。子供が生きてる世界をその強さにふさわしく、あっ、強さっていうのは、色彩の強さっていう意味だけど、はっきりと捉えられるのは、大人になってからかとちがうかなぁ、って。子供は、そこに投げ出されている。ほら、この写真のように。
プラハなんだね、この風景は。キャプションを見ると。でもまるでロシアの『ダローギ』みたい。ブン、知ってる。ダローギっていうのは『道』っていう意味なんよ。昔ロシアの映画を見た。ドイツとの戦争の映画、兵士たちの映画。兵士たちが歌うシーンがあったわ。激しい戦闘の後でほとんどの部隊が壊滅したわ。生き残ってる兵士たちが戦場のあちこちの塹壕から襤褸布を着た幽霊みたいにさまよい出てきて、集まってくる。新しい部隊をつくるの。きっと移動のためだわ。次の戦場への。こんなにも打ち砕かれて、仲間もたくさん死んだのに、戦争は続くのよ。一人の若い将校が軍服の内側から小さな赤い布を取り出して長い銃身の狙撃銃の先っぽにくくりつけて、それをまるで彼の弟のような若い二等兵に担わせて、移動の行進が始まるの。
巨大な空、黒煙に煤けた、でも鋼のような光に残酷に切り裂かれた空。地平線は少しカーブしている。まるで機銃掃射に突っ込んでゆく戦闘機のパイロットの視界。そのキューブした風景を切り開いてゆくように戦場の道が映し出されるの。ひっくり返ったトラック、まだ燃えている戦車、投げ出されたままの死骸、そんなものが道ばたには点々と続き、まるで道標のようなの。道には戦車のキャタピラや軍用トラックのごついタイアの跡が幾筋も幾筋も通っていて、刻みつけられたその荒々しい畝には水がたまっている。雨が降ったのかしら。その畝のなかの水、人間の体液が全部流失してできあがったような水、その水の粘着的な光とぎらつく鋼のような空の光とが全体の風景に奇妙な鉱物的な感触を与えてるんだわ。映画はまだモノクロだったのよ。この写真のように。そのダローギとこの写真の道はそっくり。
なんでダローギっていうロシア語を覚えているかっていうと、行進するロシア兵が歌うのよ。『おお道よ、道よ!』って。あとの歌詞はもう正確には思い出せない。きっとこんな風だったと思うわ。『故郷への道よ、戦への道よ。屍の道よ、生きる者の道よ、おお道よ、道よ!』。でも、このリフレーンのダローギって言葉だけはしっかり覚えてる。
ねっ、そのダローギの真ん中に小さな幼児が一人突っ立ってるわ!この写真では。
きっと大きなにわか雨の後なのよ。道が濡れているもの。そしてこの空、まだ嵐の怒りを湛えてるような。雲が、大きな雲が引きちぎられて、すごいスピードで飛んでゆくわ。そうやって誕生した雲間からギラリとするような光が射し込む。もうすぐ晴れ間がやって来る。私は空が好き。だからたくさんの空を知ってる。こういう空のことはよく知ってる。だって、それは私が好きな空だから。
ブン、わかるでしょ。子供は投げ出されてるわ。曝されてる。空の下、道の上に。たった一人で。
でもそれを、そのことが抱えてる強烈さを、そういうものとして、こういう写真として提出してるのは大人。でも、ただの大人ではない。子供となった大人だわ。
私は思う。子供自身はただ呆然としてるだけ。子供であったときの私は呆然としてるだけ。とても頼りなくて、ただ自分の弱さしか感じてない。
でも大人となった子供である私は、今の私は、その投げ出されてるってことを、そのことの恐るべき強烈さをその強さそのままに感じることができるわ。きっとこの写真家も大人になった子供だと思う。彼はもう一度自分の子供であるということを生きているのよ。」
5
アイズと別れて、帰りの電車のなかでブンはノートに書きつけた。
それをアイズに手紙にして出すかどうかはわからない。
第五章 二つの公衆電話あるいは横丁
君!
今朝のことなんだ。
ぼくはぼんやり二台の電話器を眺めていた。壁際の薄暗がりのなかに置かれたなんの変哲もないカード式の緑の公衆電話。何人もの患者たちがそこから毎晩家族のところへ電話をかける。だが今は朝だ。電話器の前には誰もいない。
ぼくは眺めていた。ふと、自分が強くその二台の電話器に惹きつけられているのを感じた。ぼくは静かに見つめだしていた。ぼくの眼差しは強度を増し、その自己感覚は相関しているようなのだ。二台の電話器がまるで一歩ぼくの前に、せり出すように強度を増しながら存在しだしたことと。奇妙にもぼくと二台の電話器はいわば「相対している」んだ。他に誰もいなかったし、何物もなかったといいたいほどに、ぼくらだけがいたんだ。
静謐があたりを支配していた。ぼくと二台の電話器だけが一つの秘密を共有しているかのように。ぼくらしかいないと感じる自分に軽い驚きを覚えた。二台の電話器は瑞々しい輪郭線で押し出されるように背景のなかからこちらへと描き出され、ぼくの前にその姿を現し、静かに、まるで居住まいを正して正座するように、そう、「相対峙した」んだ。なにかしら輪郭線は潤いをもち、まるで《存在》の細流とも呼ぶべきものがその上を流れているようなんだ。光を放っているようにすら見えた。
ぼくの入院生活はもうすぐ三か月を超えようとしている。ぼくの病棟がある階の、エレベーター脇の窓際には「談話室」と呼ばれるコーナーがある。長椅子がコの字形に三つ、真ん中に灰皿が一つ置いてある低い丸テーブルが一つだけあるコーナー。コーナーの向かいにはその二台の緑色の公衆電話が患者のために設置してある。
コーナーは面会者とのちょっとした連絡や雑談の場所でもあった。入院していてもまだ元気な患者は、ベッド脇での見舞いの面会者との会話が同室の患者の邪魔になってはと気を遣い、このコーナーへと面会者を連れ出した。
毎朝九時半に、看護婦たちがやってきて病室の掃除が始まる。そのあいだ、患者たちは廊下に出たり、病院の地下の売店にその日のためのちょっとした買い物に出かける。コーナーに出かけてボンヤリ掃除が終わるのを待っている者もいる。その日ぼくはコーナーで時間を潰していた。ぼくだけがいた。そのときの出来事だ。
ぼくは聞きたいな。君! 画家たちにさ。
あなたたちが絵を描くとき、たとえば静物画を描くとき、あなた方の眼にもぼくが二台の電話器の輪郭の上に見た《存在》の細流が流れているのだろうか、と。
2
というのも、先程彼を捉えたその印象あるいは感覚というものには、それが或る必然的なものを自分たちに手渡すものだという直観が貼りついていたからだ。敢えていえば、それは啓示なのだ。 そうしたブンの意識はその印象をアイズに伝えたいという欲望と一つになっていた。伝えることができるためには細部が必要であった。否、むしろ細部の提示のみが伝達を可能にした。そういう了解はいわば彼ら二人のモラルであった。流儀だった。彼らは細部を手渡し合うことに熱情を抱いた。それは彼ら各々の誇りだった。彼らは互いの言葉に聞き耳を立て、同時に裁きの耳を立てた。というよりも、細部を手渡す準備がないままに自分が相手に語りだしていることを耳が悟るや、彼らは自分を恥じた。
確かに、彼には新しいコンセプトの誕生が予感されたのだ。アイズに告げるためのコンセプトが。彼女がつねに「やろな!」と呼びかけるもののコンセプト、そしてまた「名づけられないもの」であるべき、その企てのコンセプトが。
「問題は魔術にある。ドストエフスキー的な空間変容こそが問題だ」、ブンはまずそう言葉に出してみた。自分に向かって一つの言葉を与えることは同時に次のことを意味した。つまり、そうすることによって、それをアイズに聞かせるものとするということを。ある思考が言葉となって脳髄のなかで響くということは、とりもなおさず、アイズとの討論のなかへと入ることだった。アイズはたちまちそれを聞きつけ、彼女の思念を形成しだすだろう。
ブンにとってつねに言葉とは距離の創出だった。言葉が与えられる。するとそこには言葉とそれを前にした自分とが、その間の距離というものが誕生した。ブンにとって言葉はつねに前方へと投ぜられるものであった。そして、思考とはこの前方へと投ぜられた言葉を追いかけることであった。猟犬のようにそれを追い、襲いかかり、それに食らいついて、一緒くたになって地面を転げ回ること、それが思考するということであった。それができるためには、だから、その言葉がまず自分の前方へと投げ与えられなければならない。その言葉を掴み取るために走らなければならない距離と速度、それが思考という活動なのだ。
ペテルスブルクの貧民街の廃屋と見紛うほどの、酔いどれの家長マルメラードフの一家の部屋が、ある瞬間神話的な情念と思考の光彩に満たされる。地下室になかば自分を幽閉したようにして住む孤独な青年の、その薄汚れ歪んだ部屋が突如、その呪咀に似た、しかし滑稽なほど健気な熱情に満ちた彼の言葉の奔流とともに一個の啓示的な場に変容する。貧寒な見捨てられた廃屋的な荒廃が突如或る威厳に満ちだし、まるで宇宙との交信が直接その場から始まりだしたかのような崇高さに包まれる。このいわば北極から南極への極性間移動が問題なのだ。有名なあるドストエフスキー論者の言葉を借りていえば、「崇高なる滑稽」が、この一方の極の他方の極への突然の変容が、またその反対の変容が、その絶え間ない往復的な繰り返しが、それを遂行しぬく厳粛な遊戯が問題なのだ。
「アイズ、おまえならそれができるよ。そしてここでなら、この横丁なら、それが」と、ブンは言葉に出した。その言葉を、つまり一個の直観を思考のなかへ、言葉の連なりのなかへと闘い取るために。ブンはアイズとの「《声》に奉げる儚いライブ」について考えていたのだ。その委託されたコンセプトを。
ブンは横丁を出た。出口を入り口に変えるために。再びそこへと入るために。
出る。横丁はその道を明け渡す。新しいもっと広い道へ。急に視界が開ける。光とは解放であったことに気づく。空がブンの上にある。空は光である。そうだ、反対に横丁は昼間でも薄明のなかにあった。
空はアーケードの天蓋に覆われている。パリ風にいえばパサージュ。しかし、プラスティックの天蓋は長い年月の間にすっかり黄ばんでしまった。陽に焼け、雨に曝され、埃が積もり、そして内側には行き交う人間たちのふかす煙草の脂や蒸発した汗の成分、またひしめき合った飲食店が調理の度ごとに吹き上げる油の飛沫、それらの微粒子が薄い皮膜となって貼りつく。この黄褐色の天蓋あるいは油膜によって、横丁は晴天の昼間でも薄明のなかにあり続けることができる。それで、ここでは人々は朝から居酒屋に立ちより酒をあおることが可能だ。
スラム街に隣接したこの横丁の薄明が酔いどれたちを朝の視線から庇護している。横丁が道を明け渡すのはたんにもう一つの別の道にではないことが、そのことからよくわかる。自分を明け渡すのは道にではなく、<世界>になのだ。
逆にいえば、そういうものとしてこの横丁は一つの別な<世界>なのだ。ほんの二百メートルほどの黄ばんだ廃棄されたチューブのような空間。横丁の両脇に肩を寄せあって並び立つ、屋根の上にひしゃげたやぶにらみのような平たい窓の部屋を載せた、二階建ての小さな飲食店の連なり。それらの店はといえば、その奥行きはほんの一間ほどのものだ。コンクリート製の建造物など一軒もなく、みな薄い板張りにモルタルをかけただけの安普請、曖昧で薄ぺったい映画のセットのような模造世界、いかさま世界。架空が建物になった世界。しかし、それは紛れもなく、一つの世界に自分を明け渡すことができるもう一つの<世界>なのだ。
「ここが死につつある世界だということが、消滅の予感に取り憑かれた街だということが重要なんだ」。ブンはそう自分に呟くことでアイズに語りかける。
「消滅の予感に取り憑かれた街」。このイメージのなかに一瞬に閃いた思考を取り逃すまいと、ブンは道端にしゃがみ込み、鞄から彼のいつもの雑記帳を引っぱり出す。急いで、取り逃すまいと次の一行を付け加える。「しかも、この消滅の町が、その周囲に実は新しい生の気配を生み出し、それに包まれていることが」と。
この横丁は夜の八時には店終いする。シャッターがおりる。ただ乳緑色の水銀灯だけが人の途絶えたこの横丁の路面を照らす。夜の歓楽の世界がようやく幕を開けようとする頃、早々とこの世界は自分を閉じ、眠りにつく。青白いブラウン管画面の光のもやのなかで居眠りを始める文化住宅に独り住む老人のように。
かつてはこここそが歓楽の街だといわれた。パリのル・パークが大衆消費社会の到来を予告する万国博覧会のクリスタルハウスの輝きと歩調を合わせるように、世界中に「日曜日」と歓楽都市のモデルを提供した遠い昔、ここはいち早くそのルナ・パークを模倣して最新の歓楽を、「日曜日」を人々に提供した。今から百年も昔の話だ。
だが、今は死につつある街だ。老人の記憶のなかでは日毎に子供時代の記憶が輝きを放って甦るという。死を待ちつつ、現在を眠りのなかで過ごす老人の魂は自分の子供時代の記憶に居を移す。過去へと滑り落ちてゆく老人の眠りのなかで記憶の泉が華麗な時を打ちひろげる。眠りのなかで記憶は秘匿された再生の時を生きる。この横丁もまたその眠りのなかで密やかに記憶の再生の時を生きる。
記憶の再生を生きるべく運命付けられたもう一群の人間たちがいる。移民労働者のゾーンがじわじわとこの消滅の町をドーナツ状に取り巻きだしている。そこには生がある。なけなしの活気と渇望がある。欲望がギリギリと歯噛みしている。奴らは「死の飛び地」からやってきた。家族を抵当に取られたようにして。だが、同時に奴らはもうここに来てしまった人間どもだ。絆は断つことができるんだ。過去を「死の飛び地」に置き去りにして、自分を白紙の何もまだ記されていない未来に投げ込むこともできる。
しかし、この未来もまた恐ろしく脆弱だ。ベニヤ一枚で出来上がっている映画のセットのようなイカモノの未来。その白紙の未来には架空性が、非現実性が、イカモノ性が貼りついている。
奴らのゾーンは、奴らの町はどうしようもなく架空なのだ。
今日それは確かにここにある。昨日からここにあった。しかし、明日それは急にどこかへと流れ出すかもしれない。移民たちは沈むタイタニックの鼠どものようにいずこともなく流出し、町は居抜きになるかもしれない。映画セットのような町。流民の町。誕生が消滅に隣接している町。しかしそれでも、たとえばオオサカのイクノのコリアンたちは図太く一世紀を超えて住み着き定着している。だが、その定着は絶え間なく闘い取られたものだ。誕生と消滅との隣接が醸し出すなけなしのエネルギーによって、ね。この隣接こそが魔術を降臨させるはずなんだ。
白紙だったはずの未来に、いきなり「死の飛び地」に置いてきたはずの全記憶があぶり絵の暗号のように湧き出す。
ブンは手紙を書きたくなった。
もしそこに細い暗い亀裂が走っていたなら、そこに眼を押し当ててみるべきだ。君は見るだろう。クラゲとなった記憶の 透明な原形質が揺らめく、その遊泳のさまを。
アイズ!
「ブエノスアイレスのマリーア」というタンゴ・オペレッタを俺は見つけた。そのなかの或る歌詞の冒頭に、「今、その時と なった今」という言葉が。いつか話す。このオペレッタについても、この言葉についても。そこにあるのは予言の調べ。「 時は来たれり、時は満てり」という。
それと同じ昂揚が、この横丁の地霊の声なんだ。いつかそれを説明する。
誤解しないでほしい。俺たちの企ては老人の記憶を甦らせようとするものじゃない。一個のノスタルジーの企てをおこな うことでは、全然ない。潰えた夢の哀悼歌を歌おうとするものじゃない。消滅の予感が秘匿された一切の記憶を蘇らせ、 死にゆく秋が記憶の春を実現するのは、激しい闘志を燃やして現在を生き、この残酷な現在を抱きしめるためなんだ。死 の接吻を送るためなんだ。記憶の再生とは運命の現前なんだ。
「今、その時となった今」、運命の女神が送り届けてくる記憶だけがここでは出現する資格をもつ。そして運命とは使命な んだ。課題を指定するものなんだ。逃げ路を断つものなんだ。それは仕上げられることを待ってる使命なんだ。お前の没 落を賭けて運命を抱けと、呼びかけるものなんだ。
激しく自分を使命に衝突させるために、運命の記憶に総動員令がかけられるのさ。ワルプルギスの闇夜のように、スカー トをたくし上げ箒にまたがったりぶら下がったりしてやってくる魔女の群となって記憶が襲来し、ディオニュソス的乱痴気 騒ぎをやらかすんだ。一つ一つの記憶は一人一人の魔女なんだ。恐ろしい奴も可愛い奴もね。凍結した眼差しの奴も陽 気にけたけた大笑いしてる奴も。淫らな奴も崇高な奴もね。
聖女って一種の魔女だろ。そして魔女は一種の聖女なんだ。奴らはみんな一種の確信犯なんだ。晴れやかに、愛嬌た っぷりに、毒舌を振りまきながら、そして老婆の威厳をもって、自分に殉じるんだ。自分がそれである、その記憶に。
だから君の詩は恐ろしいスピードでこの記憶の襲来を体現しなければならない。魔女たちの襲来を。そして詩を読む君 の声は身体の奥の奥から閃光のようにやってきて、現在という時を一瞬のうちに切り裂くものでなければならない。
それはテロリストのように不意打ちのようにやってくることもできる。地から鳴り渡ってくる呻きのようにも、洞穴の奥から 響いてくる唸りのようにも。瞑想のようにも。吐く息や吸う息のようにも。快楽の泣き声のようにも。怒りの吠え声のように も。いずれにせよ、あの戦慄が実現されねばならない。身体の奥から、紛れもなく自分の声なんだけど、これまで決して あげることのなかった声が、もはや阻止できない速度と鋭さと力をもって自分を突き抜けていってしまう、あの戦慄を。現 在がずたずたに切り裂かれ、この記憶の魔女たちの襲来によって、そう、変容が起きるんだ。空間のドストエフスキー的 変容が。与えられた現在が破り捨てられ、運命的現在が、使命に輝く現在が出現する。
「今、その時となった今」が実現する。
俺たちの希求する空間変容の地霊的保証は、この消滅の町が明日をも知らぬ流民のゾーンでいまや包まれだしている ってことさ。奴らの町には過去がない。そして未来というものはまだ白紙状態に留まっている。ただ現在だけが、過去か らも切り離され、未来からも後続の保証の授与を断られ、完璧な臨時状態のなかに宙吊りになっている。
それでも生のあぶくが渦巻いている。ふつふつと沸きだしている。欲望が歯軋りしている。生きることは悲鳴なんだ、と 人間が叫んでいる。「死の飛び地」が悲鳴となって叫んでいる。奴らの欲望の声のなかで響くもうひとつの声として。《声 》が複数の存在だということが《声》によって証しだてられる。《声》は記憶の声である。何層にもなる記憶がふつふつと沸 く。あぶりだされる。
悲鳴の現実性という蛇の頭が、亡き者にされたはずの記憶といまだ何も書かれていない未来の非現実性という両方の 自分の尻尾を飲み込んでいる。「儚い」という時間が悲鳴の現実性に貫かれている。
この手紙の下書きがいつ本物の手紙へと書き直されアイズに渡されることになるか、それとも永遠にしまいこまれたままになるか、ブンにはわからない。魂は、言い出しかねた秘密の蜂の巣となって夏の陽差しのなかで揺れている。魂は、言い出しかねた秘密の廃屋の、たくさんの小部屋と、それらを繋ぐ廊下の角の暗がりからなる地下室となって夕暮れのなかに沈んでいる。
友達は、心理学の授業で習ったといっていた。カタストローフの体験は人間に《存在》の底が割れる、抜けるという感覚となって体験されると教師がいった、と。
死はマクロであれミクロであれ、みんなカタストローフではないのか、それともちがうのか。カタストローフの死と、そうでない死と、死には二種類あるのかしら。もし、そうだとしたら、叔父にとって自分の死はカタストローフであったのか、そうでなかったのか。祖母にとって、彼女の母の死はそうであったのか、なかったのか。
《存在》の底が割れることと《存在》が姿を現すということと、この反対の二つのことはどこでどう関係しているのか?
少なくとも、叔父や祖母にとって死は《存在》を招き寄せることだった。
もしかしたら、カタストローフも同じかしら。《存在》の底が割れる、抜けるという感覚は、同時にそういう仕方でやはり《存在》を招き寄せていることでもあるんだから。
論理が好きなブンに、こうした問いはまかせておこう。
たぶん私の言葉のなかには大きな言葉は居場所がないかもしれない。カタストローフだとか、《存在》だとか、天だとか、そういう大きな言葉は。ひそやかな言葉が好き。同じ問題につながっているのだけれど、私の言葉を使えば、「それがある」って感覚。「電話器がある」、って叔父がいうとき、それは私の感覚に近い。たぶん。それでも、叔父はいかにも男性的な物の言い方をする。「相対している」って感覚は男性的だという気がする。
私の場合の「それがある」って感覚は慎ましい感覚。遠くから「それがある」と慎ましくいうの。そしてそう私にいわれる相手も、人であれ物であれ、ひそやかに寡黙にじっとしているの。「わたしはいます」って。そこには、そう、私の好きな言葉を使えば含羞がある。距離という含羞がある。
うん。どうかな?
そうはいいきれないかな。私のなかのもう一人の私はひどく凶暴だからな。荒んだほど凶暴だからな。
そういえば、私がわりとひいきにしている或る授業で教師がジョン・レノンの「ストローベリー・フィールド・フォーエヴァー」の歌詞を引き合いに出して、ジョンは自己分裂の塊だったと解説してたな。
彼はわざわざ自分訳のテキストをプリントして配った。
そこにはこういう歌詞があった。私はそれが気に入ったから覚えてしまった。まず、
No one, I think, is in my tree, I mean it must be
high or low.
That is you can't, you know, tune
in ,but it's all right, that is, I think it's not too bad
どうやら 僕という樹には誰もいないようだ
ハイな僕がいたと思えば、ロウな僕
つまり 誰も僕に波長を合わせられないのさ
でも それでいいんだ
僕にとっちゃ それほど不幸ってわけじゃない
そして、こう続いた。
I think, I know I mean a 'Yes' ,but it's all
wrong, that is, I think I disagree.
いつもだよ、時々ではなく。思うんだ。これが僕だ、と。
だけど 知っての通り、僕にはわかる、そのとき、それが夢にしか過ぎない、と。
「yes」といいたいってことさ。これが僕だ、と。でも、どれも間違い。
つまり 僕は自分に同意できないのさ
だって。
Nothing is real and nothing to get hung about.
Strawberry Fields forever.
僕と一緒に降りて行こうよ、
あのストロベリー・フィールズに行くんだからさ
リアルなものなんて何もないさ、捕われるものさえ何もない
ストロベリー・フィールズよ 永遠に
私もひどく分裂している。ブンはいつもそういう。
ビンがメールをよこした。
俺はむこう三週間、海外レポに派遣される。香港に一週間、テヘランに一週間、ベルリンに一週間。アジア、中近東、ロシアとヨーロッパ、三つのエリアのすべての黒い花が咲き始めたという観光情報が交換されるポイントに。最近俺が正社員採用となった観光代理店のレポとして。アフリカ大陸とアメリカ大陸はその後だ。友人としておまえの役に立つこともきっとあるだろう。もしおまえが「死の飛び地」巡礼に旅立つというなら、そのとき役に立つコネクションのキー・ステーションを俺がプレゼントする。おまえが仲間としてではなく、客として、しかし顔パスで入れるポイントを。かつての十六歳の友情を賭けて。
第三章 秘密
1
移民労働者の初のデモからもう一ヶ月がたっていた。噂に反して何事も起こらなかった。暗殺もなく、火炎ビンもなく、暴力沙汰もなかった。右翼過激派の街宣車は機動隊がデモとのあいだに引いた阻止線を決して越えようとはしなかった。マスコミは拍子抜けした。半世紀振りの街頭での心踊る暴力劇を遅ればせながら我が国もはじめて全世界に発信できるはずだった。だが、移民たちのデモは卑屈なほど礼儀正しく、憐れみを請うがごとく至極従順に平穏に終わってしまった。しかし、その印象は実は眉唾物であった。デモの翌日国家安全保障委員会は緊急記者会見をおこない、移民労働運動への以前から懸念の的であった国際テロ組織のオルガナイザーの潜入は、いくつかの明白な物証により動かしがたい容疑となったという警告声明を発表した。他方、アギ(AGI)周辺では、この国際組織が開設するインターネットサイトの陰に隠されているアギ・レフトの非合法ネットワークの活動がデモ以降急激に顕著になっているという情報が飛び交っていた。デモは始まりなのであった。もとより終わりではなかったのだ。
2
ビンがブンを喫茶店に呼び出した。ブンはビンに会うや笑ってこういった。「おまえが俺たちの前から姿を消したときから、俺たちは笑いものにした。あいつは引きこもった。かなり重症らしい、と。」
「正確にいえば、インターネットのなかに。」
「何に齧りついてた? その果てに、どこへ出て行った?」
「おまえも知ってるだろ。アギにさ。」
「予想通り。しかもレフトだろ、アギの。」
「おまえはわかってると思ってたさ。だから呼び出した。」
「そいつは、おまえの I love you なのか?」
「まあな。俺はおまえを認めている。決して俺の仲間にはならない奴だけど。高校一年のとき、おまえを見て、俺は遠くから恋をしたぜ。」
「そのことは以前おまえの口から聞いた。」
「モト・ハギオのコミック『トーマの心臓』のトーマのように俺の心は打ち震えた、ってな。毎朝おまえを教室のなかで見るだけで。」
「ありがとう。」
「俺は正規メンバーになった、レフトの。党員候補期間が終わって、党員として使えるかどうかの値踏みが完了した。」
「なにしろ位が好きなことは人間の業さ。選抜された、それだけで人間は忠誠心をはりきって発揮しだす。下ができれば、上を向くって道理さ。上に心理的に一体化する。下がいなけりゃ、いつ何時こいつは反抗の音頭をとりだすかわからない。そこそこに能力と根性のある奴だから。だから、下をつくっておいてやろう。そうすりゃ、奴は俺たちに一体化して、その権力欲望のハンドルを切り換える。上に反抗的にそれを向けるのをやめて、下に命令的に行使することを覚える。そもそも反抗から出発したレフトは自分たちのなかでたちまち分解し、分派闘争を繰り広げる。下に立つのが本能的に厭な奴らばかりだからな。長いレフトの歴史はその教訓を生き残りのレフトの幹部の頭に叩き込んだ。
それに実のところ、下がたいしていなくてもかまわない。今は。選抜された、そのことが重要なのさ。キリスト教徒風にいえば、聖別されたってことさ。君の存在は聖なる使命を帯びたものへと今ここで高められた! 心してつくせ! 君の聖なる使命に命をかけよ! 今日の君の新生を讃え、君を同志としてわが腕に抱こう! 人間は二種類に分けられる。使命をもった高貴なる種族と、使命をもたぬ凡百の羊どもの群れに。いま君は使命をもつ人間へと自分を高め、高貴なる存在へと自分をつくりかえた! アーメン!」
「アギ・レフトって、アナキストなのかい? それともコミュニスト?」
「じゃあ、どこに接続するんだよ? レフトのいってきた革命的人民大衆ってのが、たとえ今は潜在的な段階に留まっているにしろ、存在しなければ、レフトはレフトとして成立しないはずじゃないのか? もっとも、俺の見るところ、二〇世紀ですらレフトが生まれた当の欧米世界にはもうそんな革命的人民大衆なんかいなかったわけだし、まだ資本主義すらろくに育ってなかったロシアや中国で、むしろその後進性が抱え込む矛盾の先鋭化をバネに、レフトは奇跡的に国家を手にしたにしろ、今度はその途端に逆に国家に呑み込まれてしまったわけじゃないのか? つまり自分が人民大衆に対する抑圧機関に変身してしまったわけだ。接続どころじゃない。」
「接続するのは死の巣穴にさ。」
「死の巣穴だって?」
「あらゆる革命思想のいわばプロトタイプとなったユダヤ教は、ものの本によればだぜ、ユダヤ人たちのあのディアスポラ、あの世界大の離散、自分たちの国家が消滅させられることによる民族の離散的破裂、そのデラシネ的苦境のただなかでこそ誕生した。
これは歴史の教訓じゃないかな? 偉大な難民的ディアスポラのグローバリゼーションのただなかでレフトの原点回帰が起きる。黒い想念の飛び地として、難民がそこからアリのように這い出してくる死の巣穴の脇にそれが形成される。あるいはこうだ。死の巣穴のトラウマを抱えたまま先進諸国に逃げ込んできて、だからこそ自分が置き去りにしてきた死の巣穴に今も生きる同胞への良心の呵責に苦しむ若者、宗教的な若者のなかに、黒い想念の飛び地となってレフトの原点回帰が入り込む。アギ・レフトが今生きている黙示録的時間とはこの原点回帰の聖書的時間なんだ!
大衆ってのは必ずマイノリティーの層を抱えているんだ。どんな地面にも場所にも区域にも『飛び地』っていうもんがあるんだ。そうだろ。死に傾斜した飛び地が。それにはまり込んでもう出れなくなった奴が、実ひっそり自分の片隅にいるんだ。家族の一人かもしれない。親戚の一人かもしれない。隣家の一人、職場の同僚の家族の一人。貧困の穴、身体障碍者、難病者、ネグレクトされたり虐待された子供、DV,何でもかんでも。密かな穴、死の巣穴さ。
小学校で或る奴がいじめのターゲットになる。今日からはもう誰もやつとは口をきいてくれない。二ヶ月して奴は不登校になり、家に引きこもる。つまり、クラスに飛び地が一つできる。死に傾斜した飛び地が。これが大衆的現実の日常性の本質構造なんだ。或る時ふと気づく。死に傾斜した飛び地の穴が自分の脇にあいている、ってね。そして、皆それを横目で見ながら、見ない振りをして暮らすってことが、さ。どんな小学校のどんなクラスにも飛び地がある。
「そのとおり! しかも、それこそが今俺たちが生き始めている黙示録的時間の特徴を説明するものでもあるのさ。蘇ったレフトの今日的な新しい宗教的性格を。
先進諸国では既に何十年も前に破産したことになっている聖なる《党》が、密かに黒い決意となって、死の巣穴の記憶への忠誠を果たすために生まれる。先進諸国の社会科学者は、二〇世紀の革命の妄想を導いた神秘的な《党》観念とレフトの最大限綱領主義の非現実性と非科学性を証明して、いまでも得々としている。
ところがどっこい、なのさ。彼らには舞台が一変したことがわからない。焦点はそんな政策論議や社会科学の学問論争がいまも後生大事にしているテーマにあるわけではない。死の巣穴のなかで毎日死を見つめている人間、毎日仕方なく人殺しをやっている人間、死の巣穴を這い出たにせよ、夢となって現われる毎夜襲ってくる死の巣穴の記憶が刻々と育て上げる我が内なる自殺衝動に苦しんでいる人間、自己断罪の苦しみ、良心の救済をいかに果たすか、己のなかに内化されたルサンチマンのマグマをいかに生きるか、いかに超克しうるか、そういう宗教の場面にあるんだ。焦点は移動したんだ。」「だから?」
「つまりこうさ。とっくに科学は破産した。科学では人類を救済できないことはもう証明済みのことになった。社会科学に裏付けられた適切な社会治療効果を発揮する政治技術、つまり政策なんて存在しえないことが証明された。治療策がない! あとは死を迎えるだけだ! このことに直面することは、科学信仰が抜けきってない頭には衝撃だぜ。パニックがやってくる。治療策がないだって! 対策が成り立たないだって! ただ死を待つしかないだって! それは許せないことなんだ。科学を信じている頭には。
ところが、今やそこに来たんだ、俺たちは。人類は自分の正体にやっと目覚めだした。いかなる救済の対策もなし! カタストローフ! 宗教の時代の再開さ。レフトもまた原点に回帰する。あの神秘的で聖なる《党》の時代に。ただしかつてとは違った形で。だからまた結局は違った原点に」
3
あのフクシマの出来事があった直後のトウキョウで密かに起きた出来事についてだ。あのフクシマが体現したカタストローフの瞬間と、その後その瞬間がこれから人間たちを訪れるにちがいない次のより大なるカタストローフの予示なのだという理解が、他の連中に対してよりもいっそうダイレクトに「破局不安」をもたらした人間たちがいたということを。その友達は「破局不安」という言葉を使った。たぶん覚えたての心理学用語にちがいない。彼女は心理学学科の女子学生だったから。彼女は覚えたての心理学理論の断片を引きずってきて、こんな風に出来事を説明した。
あたし、最近授業で教わったんだけどさ、トラウマをその被害者にもたらす出来事というのはこんな風に特徴づけられるんだって。そこのところだけは、あたし、何か「納得!」って気がしたから、ふだんなら絶対しないのに、ついつい板書を一所懸命写したんだ。そのとき「破局不安」って言葉も覚えたの。
そして、先生はこんな風にも言い換えていた。「世界の安全性にかんする基礎的前提」である「この世界にいて安全であるという感覚」が、突如いわば「底が割れる」、「底が抜ける」、そんな感じで破壊され喪失することだって!
フクシマの出来事にぶつかって、それがいきなり自分に飛び火して、自分はこのトウキョウにいてだよ、確かにトウキョウも既に放射能に汚染されだしているという噂話は行き交っていたにしろ、フクシマのような破局が目の前で起きているわけではないトウキョウにいてよ、だけど、まるでフクシマに今いるように不安で怖くて居ても立ってもいられなくなって、田舎の親や親戚に飛びつくようにすがって、トウキョウを脱出していった若い子が結構いたんだって。そのことは表に出なかったことなんだけど、注目すべきことなんだって!
先生が授業でいったんだけど、何らかの個人的なトラウマ的出来事があってもともと「この世界にいて安全であるという感覚」が揺らいでいた子が、あのフクシマの出来事にぶつかって、いわばそれにシンクロしてしまってさ、自分という存在の底が同じように突然割れた、抜けた、そういう感覚になってしまった。それでしゃにむにトウキョウを脱出していったにちがいない、って。そういうシンクロというものがあるんだって。
それは一種の啓示なんだそう。日常では全然意識してない、だけど本当は自分がいちばん意識の深いところで生きている世界の姿、それが突然目の前に一個の風景として出現する、「これがおまえの世界だぞ!」って突き付けられる、そんな関係がそこにはあるんだって。フクシマで起きたようなマクロなカタストローフと個人を襲うミクロなカタストローフとが突然シンクロしてしまう、そういう瞬間。ついでにいうと、そういう特別な瞬間に詩が生まれたりするんだって。
そのときは、《存在》という最高最大の抽象語が突然生々しい実感となって人間に迫ってきて、その《存在》が「底から割れる、抜ける」という特別な感覚が人間を捉えるんだって。宇宙というマクロコスモスと個人というミクロコスモスが、突然串刺しされたようにつながっちゃう瞬間ってのがあって、そういう、なんていうかな、「自乗化された破局不安」っていうか、そういう瞬間を感じちゃう人間が詩人になるんだって!
あんたなら、こういうことって、すごくわかるんじゃないの?
4
「当面は二つ。いや永遠にそれしかできないかもしれないけど、…」とビンは笑って、こう続けた。
「一つは、インターネットを十重二十重に駆使して、権力が自分を正当化するためには隠しておかねばと考えているさまざまな事実や内部情報を徹底的に暴露しまくる。これには国内部門と国際部門の二つがあって、どちらのエリアも他のさまざまな反体制・反権力の組織と可能な限り最大限の情報交換の協力ネットワークを構築していく。互いのイデオロギーと政治的立場を超えて、合意できる最大限の範囲で、アナーキーな巨大な反権力の情報貯水池を協力して生み出す。もちろん、この情報取集の中核を担うのは《党》とそのシンパだけど、インターネットを駆使することで、この情報貯水池はつねに外に開かれている。つまり、内部告発情報駆け込み寺として。」
「アナーキーな、って?」
「《党》は『権力は絶対的に腐敗する』という歴史の教訓から生まれたんだ。権力を打倒するためには己を権力に変えねばならない。だが、己を権力に変えることは権力に呑み込まれ、反抗者が抑圧者に転換することだ。この権力の二重のリアリズムを《党》は永久革命者として徹底的にクールに生きるんだ。反抗者を徹底的に擁護する情報戦を闘いつつ、反抗者が抑圧者に転じる瞬間を決して見逃さない。抑圧者に転じる反抗者には絶え間なく自己批判を迫る情報戦を展開するし、反抗者が抑圧者に完璧に転化してしまうなら、もはや敵以外の何者でもない。今や新しき抑圧者となってかつての反抗者に対する新たなる反抗者を擁護する情報戦に《党》は移行する。
それに、もう一つ、内部告発情報駆け込み寺の機能は、その情報の客観性についての事前検閲官に《党》が堕さないための自己抑制によって維持される。つまり、提供された情報は無条件にインターネット上に公開されるが、その際には必ず情報提供者に対話的関わってゆく《党》の批判的コメントが添えられる。つまり、その情報の客観性をさらに説得的に説明するためにクリアーすべき諸問題を情報提供者に指摘する批判的コメントが。そういうやり方で情報提供者との対話関係を公開的に維持しながら、あらゆる反権力的情報に対する無条件に開かれたアナーキーな駆け込み寺としての機能を維持する。とにかく、《党》の根底のモチーフは、権力の二重のリアリズムを徹底的に批判的にクールに生きることなのさ」
「加入戦術とスパイ活動、あるいは潜在的対立を暴動という顕在的形態へと高揚させるための陰謀の組織。」
「加入戦術って?」
「聖なる《革命の党》の黎明期、その古代史において、《党》は自分を独立した大衆的な規模をもつ闘争オルガナイザー組織として成立させる力はまだなかった。大衆の闘争組織に密かに潜り込み、それに《党》の良しとする発展方向を植え付けるという試みしかできなかった。またその役割に留まるほうがよかったのさ。出来もしないことをやり始めて、その挙句自己破産を申し出る羽目になるよりも。たとえば、大昔英米のコミュニストはとても独立の政党をつくる力量なぞなかったから、労働党や労働組合に潜り込んでそこの最左派のメンバーになった。彼らは労働党員や社会党員であり同時にコミュニストだった。それが加入戦術。」
「じゃあ、加入戦術をやってどんな方向に密かに引っ張るんだい?」
「それがさっきいった陰謀ってこと。一言でいえば、暴動の組織。潜在的対立を暴動という顕在的形態へと高揚させること。社会主義の夢が総破産した翌日から、社会主義運動の黎明期へと世界を送り返す陰謀が始まる。階級闘争史観の目で見える証明材料が世界中にばらまかれる。一言でいえば、世界は暴動の時代に連れ戻されたという認識に否応なく人間たちを導くための意識的なオルグが始まる。暴動というオルグがね。世界はそのことで自己に覚醒する。さあ、これから暴動の時代が、階級闘争と民族闘争の時代が再開するのだと。
ニーチェはいってるぜ。平和とは、戦争と戦争とのあいだのしばしの休息に過ぎない、って。奴にいわせれば、戦争こそ人間の常態であり本質であって、平和なんてものは自分の本質に倦みつかれた人間がとるしばしの休息、次なる戦争への中休みに過ぎない、って。
社会主義の総破滅とともに消滅したはずの階級闘争史観がバージョンアップして復活する。人間間の諸対立に関するもっとクールでリアルな認識に到達した階級闘争史観。単純なブルジョアジー対プロレタリアートの二元主義ではもはやない、それ。しかし、人類史はその原初以来労働の配分をめぐって闘争の論理に捕縛されているという原理認識に再復帰し、それを現代に即してもっとリアルに展開する闘争史観、その有効性に対する聖なる啓示となる暴動の組織。世界が、実は死の巣穴によってでこぼこになっていることを覚醒するための暴動の組織と煽動。
なあ、俺は昨日旧約聖書の『出エジプト記』を読んだ。第一部『エジプト人の圧制』第一章の結びはこうだった。『エジプト人はイスラエルの子らを苦役をもってこき使い、彼らの生活を粘土や煉瓦つくりのための重労働、またすべての野外労働(苦役をもって果たさねばならなかったすべての労働)をもっていたく苦しめた』と。第六章九にはこうだ。「わたしはヤハウェで、君たちをエジプト人による強制労働の下から導き出し、彼らの労働から君たちを救い出し、伸ばされた腕と大いなる審判をもって君たちを購う。わたしは君たちをとってわたしのための民となし、君たちの神となり、君たちはわたしが君たちをエジプトの強制労働の下から導き出す君たちの神ヤハウェであることを知るであろう」と。
俺は直観したね。ユダヤ人のマルクスが歴史はすべて階級闘争の歴史であると宣ったとき、奴の脳髄には絶対この『出エジプト記』の書き出しの第一章や第六章が木霊していたにちがいない、と。」
「つまり、ある意味ではスパイだな。おまえの《党》は。」
「いいとこ突くじゃないか! そう、自分が雇い主のスパイ。そして協力者を見つけ、彼らを改宗させて、俺たちの秘密結社のメンバーに変え、そして聖なる啓示の働きをする暴動を誕生させる陰謀を内部でたくらむ。これは第一の目標を追求するうえでも重要だ。スパイになってこそ、権力を暴く内部情報をゲットできる。内部告発の地雷を敷設するためには秘密党員があらゆる権力組織のなかにも潜り込む必要がある。あらゆる反体制、反権力の組織の中へ、同時にまたあらゆる権力組織の中へ。でも繰り返しいう。《党》は左翼の総破産の只中から誕生したんだ。黎明期の秘密結社なんだ。そして、そのアイデンティティは権力の二重のリアリズムを徹底的に批判的にクールに生きることにあるんだ。」
「つまり、赤いフリーメーソン? 赤い白薔薇十字騎士団?」
「そうそう。《党》の聖性はその秘密結社性にある。そしてこのことがたまらない魅力となる特殊な人間たちが確実にこの世にはいる。」
「でも、おまえの《党》のアイデンティティっていやにクールだな。千年王国に恋焦がれ抑圧への怒りに身を焦がす実践のホットな闘争組織というより、ひどく醒めてやしないか? おまえ自身がさっきからクールなリアリズムを強調してるわけだけど、さ。理想主義より現実主義、オプティミズムよりペシミズム、シニカルでニヒル、性善説より性悪説、そんなにクールにいこうっていうのに聖別なのかい?」
「逆だよ。おまえ、聖別なしにそこまでクールにいくかよ? スパイをやりとおす聖なる決意なしに、この秘密結社はもたないのさ。」
「つい最近読んだ小説にこんな奴が登場した。そいつは、いつも死の空気を吸って生きたい奴なんだが、そのいちばん適した環境を得るためにさ、信じてもない或る団体の思想を信じている振りをするのさ。そのメンバーになるために。というのは、その団体がいちばん死の危険を自分に引き寄せる条件にあるからなのさ。つまり、奴はその団体の寄生木になる。死の空気を胸一杯に吸うために。」
「気に入ったぜ、ブン。俺の告白に値する奴だよ、おまえは。そう、俺はスパイなのさ。寄生木でもあるな。《党》自体が秘密結社であり、一種のスパイ組織だけど、そして《党》
「おまえ自身。じゃあ、何の欲望がお前をスパイとして《党》に派遣させたんだい? おまえを何が寄生木としてくっつかせたんだい? おまえのなかのどんな欲望が?」
「見たい。たぶんそれだろうな。立ち会って、まじまじと見たい。死の巣穴から何が這い出てくるかを。歴史の絶望から何が幽霊となって立ち現れて来るかを。今おまえが振れた小説風にいえば、俺はその幽霊の霊気を吸って生きたい。
俺にはコミッサールがいるんだ。」
「コミッサールって何だ?」
「コミッサールってのは綽名。そう俺が呼んでいる老人がいる。もうすぐ九十になるっていうのに頭だけはシャンとしてる。いつもジージャンにTシャツにジーパン。首にはたいてい薄桃色のバンダナを巻いている。Tシャツときたらたいていはポパイ風の横縞。海員に憧れてんのかな。もう死んでもいい齢なのに。肩にかかる白髪の長髪。頭は禿げて耳の上からの長髪なのがちょっと残念。いや、それがむしろ格好いい。だってそっちのほうがリアルで嘘がないじゃないか。可愛くもあるし。
あっ、コミッサールってのはロシア語で『政治委員』という意味。昔、ソ連という国があったとき、ソ連はコミュニストの独裁支配する国家で、その軍隊には部隊長の脇に必ず《党》の派遣する『政治委員』ってのがついた。コミュニストの指揮する軍は聖なる革命の軍だから、たんに軍事の専門家が隊長になるだけでなく、その軍の精神性を高め、軍の行動を聖なる革命という使命の見地からコントロールする政治委員ってのが必ずくっついた。」
「じゃあ、そのコミッサール爺さんはアギ・レフトのコミッサールってわけかい?」
「いや、彼はすっかり隠退した、今はご隠居の元コミッサールってとこかな。彼の同世代の友人はあらかた死んじまったが、アギ・レフトのコア・メンバーの幾人かはその友人たちの薫陶よろしきを得た奴らで、彼に敬意を表することを今も忘れない。ノスタルジックな茶飲み話の相手に時々彼を訪ねたりする。しかし、彼はもう一切実践にも党内政治にも関与しない。
「彼はコミュニストだったのかい?」
「そう。しかし、もうそうじゃない。手を引いた。その手の引き方がヒントをくれる。ブン、忘れてた。おまえにやろうと持ってきたものがあった。」
「何さ?」
「そのコミッサール爺さんがくれた本の或る頁のコピー。
奴には昔親友と呼んでもよいと思える男が一人いた。五十になる前に癌で死んだという。その親友君が創作書簡集というのを私家版で五百部作ったそうだ。妻も、自分の唯一のきょうだいの姉も、親類もその存在を知らない一冊の本を。コッミサール爺さんにだけ打ち明け、おまえから、『この男から頼まれた』といって自分の指定するリストに送ってくれと頼まれたそうだ。もちろん、その創作書簡集の著者名はたったその時だけ使われたペンネームだった。つまり偽名だった。親友君はどういうわけか自分の存在を完璧に消してその創作書簡集だけをこの世に残したかったんだそうだ。そしてまもなく彼は死んだ。リスト通り配本したが、数十冊残った。コッミサール爺さんは時々読ませたくなった人間ができると、それを贈呈した。気が付いたらもう五冊しかない。俺に一冊くれるという。」
「その創作書簡集ってのはまったくフィクションの書簡集なのかい?」
「俺も爺さんにそのことを聞いたことがある。彼もわからないそうだ。それは、親友君が恋人とおぼしき女に書いた書簡集なんだが、その相手の女が実際にいたのか、それとも創作なのか、その書簡集は実際に書いた手紙を下敷きにしてそのモディファイとしてできあがったものなのか、まるまる創作なのか、それとも実はまるまる本物なのか、それはわからないそうだ。その親友君は創作書簡集だと言い張っていたそうだけど。」
5
バナールの『黒いアテナ』を読んで知る。
あらゆる神話や伝承の核心には実際の経験の記憶の沈殿や継承が産み出すイマージュが据えられている。旧約聖書の『出エジプト記』にある印象的な世界記憶もその典型の一つだ。バナールが引用している。
「主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人びとは海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入ってきた。朝の見張りのころ、水は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、…(略)…夜が明ける前に海は元の場所に流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。」
この世界記憶・世界イマージュ・世界表象は、バナールの考察によれば、紀元前第二千年紀中期にテラ島(サントリーニ島)でおきた大噴火についてのいわば人類的記憶から誕生したものだ。プラトンが記したアトランティス大陸の消滅の伝承もまたこの大噴火の記憶と結びついてる。それはまた、中国における「天命」の観念、すなわち世界破局として体験される大規模な異常気象は統治秩序の崩壊や革命の予兆であり、「天命」を表すものだとの観念の淵源ともなった。それは殷の壊滅と周の興隆の予示であった。一言でいえば、この大噴火は人類的規模の記憶の範囲で「世界破局」のメタファーとなった。
この噴火のあげる粉塵によって蓋われた空には「影がまったくできない蒼い太陽」が浮かんだこと、夜はまさしく漆黒の「暗夜の帳」に包まれた夜、「人が手に感じるほどの暗闇」となり、その漆黒の帳は天から降りてきたものなのか深淵の底から昇ってきたものなのか解らぬほどの混沌、言いようのない恐怖の夜として体験されたこと、こうしたことをバナールは書き留めている。
いうまでもなく、『出エジプト記』にある「海は乾いた地に変わり、水は分かれた。…水は彼らの右と左に壁のようになった。…」の描写はこの大噴火が引き起こした津波の記憶から由来する。
地震と津波、それは人類に共通した世界破局のイマージュだ。
そのとき、世界の底は割れ、振動は底から地鳴りと共にやってきて、あらゆる統合を揺るがす。太陽は熱と光を失い、夜になれば深淵からの夜の帳と、月も星も消し去る天からの夜の帳とが合流する。
人間という種族の無意識のなかにしまわれていた世界破局の記憶が突然顕在化し、或る種の人間にとってそれは啓示となる。
『出エジプト記』がこの記憶と結びついて語られることは偶然ではない。
カレン・アームストロングという女の宗教学者はこう書いている。「バビロン捕囚の間、流浪はキリスト教における原罪の概念とほぼ同じ意味合いをもつようになった。流浪は罰と同様に罪の隠喩となった。それは恥ずべきほどの弱さのありさま、致命的なまでに弱い状態、明らかに神に見捨てられたこと、自己の最善状態からの転落などを意味した」と。「出」、脱出とはこの拷罰的事態からの脱であり、解放であり、救済だ。「約束の地」への帰還とは、あるいは到着とは撤回不可能な歴史の契約だ。それを妨げる者との闘争は聖戦である。再び流浪という拷罰的事態への回帰は絶対的にありえない。「約束の地」を占拠していて、彼らの帰還を妨げる者との聖戦においては「通常の道徳律の適用は中止された」。それは占拠者と「聖絶」する戦いであり、「約束の地」の獲得において「平和的共存、相互尊敬、平和条約などは問題外であった」云々。
もしこれらのユダヤ教的観念が後のあらゆる革命観念の祖形・プロトタイプであるとしたら、その事情とこの世界破局のイマージュ、さらにいえば世界破局こそ「出エジプト」の、つまり脱支配=解放=革命のチャンスであり条件だというイマージュとの結合は必然的だ。
ユダヤ的流浪、「恥ずべきほどの弱さのありさま、致命的なまでに弱い状態、明らかに神に見捨てられたこと、自己の最善状態からの転落」とは《死の飛び地の経験》である。 そこからの脱出・解放の欲望は、いいかえれば「約束の地」への欲望は、どうしようもなく「聖絶」の暴力へとわれわれを導き、結局そのことで再びの「流浪」へと人間を導くだけのことなのか? 二〇世紀の絶望。
そう叔父は書きつけていた。
その書簡集は或る男が或る女に実際に書き送った書簡の集成なのか、それとも完全なる創作なのか?
ブンは思い出していた。リルケについて、彼の詩人としての成長にとって決定的な意味をもった二度にわたるロシア旅行の相棒であったルー・ザロメが語っていたことを。彼女の言葉を使えば、リルケは彼の生きた母子関係の欠損性のゆえに「原幼年期と原故郷」を欠如せる人間として成長せざるをえなかった作家であった。この欠如から回復したいという欲望、それが彼を文学へと動機づける当のものであった。
ブンはそれを知って真底驚いた。というのも、彼はリルケの『マルテの手記』を読み、そこに描き出されたマルテと母、ママンとの親愛極まる関係こそがこの作品の芯をなすものだと思ったからだ。ブンは愛した。マルテが幼年期を回想して、ママンと共にした「レース歩き」の美しい思い出を語る場面を。ママンのもっていたイタリアの縁飾りレースの編まれた紋様を、まるでそれ自体の悦びのために歩くあてどない野原歩きの趣で、マルテはママンと共に指と眼で辿る。ママンはマルテにいう。「天国にですって? あの人たちはみんなこのレースのなかにいるように思えるわ。このレースをそんなふうに考えると、これはほんとうに永遠の淨福であるようかもしれないことよ」と。
マルテが幼年期の自分の秘密の習慣を思い出す別な場面がある。かつて少年マルテはひたすら空想の悦びに浸りながら独り野原を歩くことを習慣にしていたのだ。リルケはこう書いた。「そのころ彼が願っていたことは、自分の心の無関心ということであった。こうした無関心さゆえに、彼は朝はやく野原で、しばしば清らかな純粋さにとらえられ、時間と呼吸とをもつまいとして、そして朝が意識にのぼってくる軽やかな一瞬よりもより以上のものであるとして、駆けだしていったのだった。」
このくだりを読んだときブンは直観した。マルテの野原歩きはママンとのレース歩きの再現なのだ、と。
しかし、このブンの直観はその根元において外れていた。ザロメによれば、そこに描き出されたマルテとママンの「レース歩き」の親愛なる関係こそはリルケがまさに熱望しながら得れなかった当のものだった。彼に絶望的に欠けていたものだったからこそ、『マルテの手記』のなかに彼が架空したものだった。
そのことをブンはビンに語った。
するとビンはこう話しだした。
「それと似たことは俺もつい最近経験した。ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』を読んだんだ。チャタレー夫人と恋人の森番メラーズが享楽するセックスの快楽とその快楽についての彼らの哲学は、その哲学そのものはロレンスの思想なんだけど、快楽そのものはまさに彼から奪われた当のものだったんだ。この作品を書いているとき、ロレンス自身は結核が進行し死の瀬戸際に立っていた。インポになってた。しかも妻のフリーダは奴も知っている年若い或る知識人とねんごろになっていたというんだ。ロレンスはそれを知り、嫉妬にのたうちまわっていたそうだ。死の床のなかで、さ。つまり、ロレンス自身は実はこの小説のなかの夫人の夫、つまり性的不能で車椅子生活者で極度に嫉妬深いクリフォードそのものだったんだ。そう翻訳者が書いていた。ロレンスは彼のセックスの哲学を実際に生きることはできなかった。それを実際の人生のなかで生きる可能性は彼から奪われたままだったんだ。彼はその可能性を小説のチャタレー夫人とメラーズに仮託した。しかも妻とその若き恋人への嫉妬のただなかから。つまり、自分の想像力が創造した主人公二人にそれを生きさせることができただけだった。」
ブンは考えた。まるでリルケと同じだ。失われ剥奪された生の可能性をイマジネーションの力で小説の中に創り出し、取り戻す、それが文学である、小説を書くという行為である、そういう風に定義される種類の小説があるということだ。いや、たんにそういう種類のものがあるだけじゃない。多くの場合そうなのだというほどに、文学を書くという行為はそういった種類の想像行為と結びついているにちがいない。そういえば、或る作家はこういっていた。物語を創作するとは、その主人公の人生にとって、それを試してみる以外に他にいかなる選択肢もないような或る仮説を、その主人公の別な、もう一つの生の可能性として創作してみせることだ、と。
ブンは、ビンが語った書簡集も、またブンが偶然手に入れ、それを読むことに熱中している奇妙ないわば片身の書簡集も、その種の創作だったかもしれないと思った。そうだ、人間はいわば片身を現実のなかに浸し、もう半分の片身を夢想に浸して、そのような二重奏の形で自分の生を生きているにちがいない。自分を科学と呼んだマルクス主義にしてから『出エジプト記』以来の「約束の地」の夢想の今に続く形にほかならなかった。そして、この夢想は人類史の欠くことのできない片身だった。夢想は現実の人生から必然的に誕生するその欠如分だから、それ自体現実の片身だ。「約束の地」の夢想が再び「流浪」の悪夢に変換されたにせよだ。しかもその成り行きは人間の宿命だと思えた。
「そのなかの一通をコピーしてきた、後で読んでみてくれ」とビンはそのコピーをブンに渡した。
ブンはそれを受け取ったとき、今彼が読むことに熱中している奇妙ないわば半身だけ拾った書簡集に、一通の追加を受けたような気がした。しかし、ブンは最近彼が奇妙な書簡集を拾ったことをビンに話すことはやめた。秘密を一つ持ちたくなった。急に。
秘密に魅惑されだしている自分をブンは感じた。
どんな人間も秘密を隠している。秘密こそはその人間の奥行だ。夢想は秘密にされ、秘密は夢想のなかで問わず語りに自分を語り出す。
秘密こそは人間を個人に高めるものだ。その秘密が、彼が個人だということの中身なんだ。そう、ここで場違いな言葉を持ち出せば、「秘密は個人の尊厳である」というべきなんだ。
それは人間の素敵なイマージュだった。人間とは秘密人である。
ブンはそのことをアイズに話したくなった。今日手に入れた宝石だ。
ビンは話を転じた。
7
「な、ブン、俺は権力闘争にコミットしたんだ。そうだ、このファクターも俺のスパイ稼業の大テーマだな。三番目にわかっている秘密といってもいい。一番目は俺の《党》は歴史に潜り込んだスパイだってこと。二番目は、俺はこの歴史のスパイのスパイだってこと。死の巣穴から這い出してくる幽霊の見物が俺の欲望だってこと。三番目がこの権力闘争」
「権力闘争って? 権力との闘争っていう意味、それとも権力となる闘争という意味? どっちなんだい?」
「いや、権力との闘争と権力となる闘争とは切り離しがたい。ここにいつも問題の暗部がある。問題はいつも二重になっている。さっきいっただろ。権力の二重のリアリズムの自覚こそが俺の《党》のアイデンティティだって。移民労働運動指導部はアギ・レフトの動向に極度の警戒心を抱きだしている。俺たちが加入戦術を取っていることはもうバレバレなんだ。これまで三〇年間積み上げてきた努力をゼロにしかねない奴ら、それがレフトだ。」
「せっかく営々三〇年間この国の二大政党の双方のリベラルなだんな方のなかに半端じゃない応援者を生み出してきたのに、それを全部ご破算にするつもりか、ってわけだ。世界を覚醒させる啓示となる暴動へとアギの戦闘分子を誘惑し始めた奴らは実はアギの墓堀人だ。指導部はおまえたちレフトに対して極度に警戒的だ。」
「そのとおり。怒りをそのまま暴力に移したら、罠の仕掛け場所にわれわれは導かれる、ってわけさ。ところが、俺たちはこういいだしているんだ。究極の解決、革命なんてありえない。政治は妥協だ。最善の政治とは最善の妥協だ。それは俺たちがまるまる一世紀かけて学んだことだ。俺たちは政治屋になる気は金輪際ないが、だからといって革命と言う夢想とはきっぱり手を切った。俺たちは永遠の虻になることを選んだんだ。権力と言う雄牛にまとわりつく嫌味な虻にさ。で、その虻の観点からいって今必要なのは恐喝だ。妥協に達する前に恐喝が必要だ。恐喝がなきゃ妥協なんてない。ところが、恐喝の精神をわれわれはこの半世紀忘れて過ごした。恐喝する根性の再生が今日の問題なんだ。暴動に打って出て、恐喝の根性を鍛えなきゃ。この国の住人の気分を一気に変える必要がある。まだこれまでの成り行きの惰性で根性が腐ったままだ。闘争が消滅したという錯覚の惰性がまだ続いている。ところが、世界は実黎明期に戻ってるんだ。暴動の時代に入り込みつつある。暴動でわれわれ自身の気分を変えなきゃ妥協だって引き出せない。人間なんてもともと臆病で従順なのさ。声がでかい奴が勝つのは道理さ。暴動でわれわれの声を鍛えるんだ。闘争が当たり前の精神への復帰をはかるんだ。」
「で、二重ってのは?」
「だけどレフトは昇り竜さ。今や、な。怒りは景気のいいことを喋り散らす奴らの味方さ。どこだって。そして権力の欲望にうずうずしている頭の切れる若手はまず自分を過激派として登場させるってのは、これもどこでものことさ。しかも、若手の欲深い奴らは度胸のある弟分がいつだって必要で、可愛がる、ってのも。つまり、俺たちの加入戦術が有効となる環境が日々刻々整えられつつあるんだ。俺たちの陰謀が作動する基盤が生まれだしてる。過激派の弟分が欲しい幹部候補生がたくさん生まれだしている、ってわけさ。俺たちには過激派の弟分を演じる用意がある。」
「移民労働運動指導部との権力闘争に入るってわけかい?」
「いやもっとでかい。もっとインターナショナル。この国のなかだけではない。国際的に展開しているアギ多数派とのさ。この国の移民労働運動の多数派はアギ・インターナショナル・センターのなかの多数派と連動してる。アギは全世界に展開してる。この国でアギのなかの権力闘争はインターナショナルな権力闘争に連動している。俺は、たった二十歳のガキだけど、インターナショナルな二重の権力闘争に一人前の顔つきで参加できる。」
「アンチ・グローバリゼーションとアンチ・アギマジョリティの二つのフロントで、ってかい。」
「そう。このラインでいちばんドンパチできそうなんだ。権力との闘争が二重に経験できるんだぜ。国家権力と反体制組織権力。いろんな情報が飛び交い、いろんな幹部たちがやってくる。幹部たちは優しい。手下になるやつが欲しいからな。眼をかけてやるから、おまえは俺の弟子であり部下だってわけさ。とりわけ兄貴風を吹かせたい野心家の若手は。
さっきいっただろ。やつらは頭の切れる度胸の据わった弟分が好きなのさ。そのためにわくわくするような上部の秘密を教えてくれる。フラクションがひんぱんに開かれる。陰謀の匂いのむんむんしているやつ。雲の上にいたはずの人物がこっそりやってくる。彼らは本物の秘密を教えてくれる。非合法の世界での。しかもインターナショナルな。俺たちガキは根本的にミーハーだからな。偉いやつが好きなのさ。そいつと親しく口をきくことができれば、俺たちの自尊心はいやがうえにも膨れる。俺たちは自分が彼らのメンバーであると感じる。心理学でいう自我拡張というやつさ。
権力と闘うためには権力がいる。これはリアリズムさ。そしてこのリアリズムが俺たちに権力を経験させてくれる。俺たちは権力の醍醐味を知るために権力との闘争に身を投じてる。奴らを挑発してその凶暴さに自分たちを直面させるスリルだけじゃないぜ。俺たち自身が権力となる経験だ。反権力というのは、自分を権力として経験するための逆さま仕掛けさ。ここはあらゆる復讐心の浄化装置さ。権力になりたくてたまらないくせに、権力から疎外されてきたやつが、最初の復讐を果たし、最初の浄化を経験するのが、ここなんだ。もっと上のクラスの権力闘争が味わえるようになったら、さっさとそこへ鞍替えするさ。国家となった《党》が最初に証明して見せたことがこの真理だった。これは、ニーチェの言葉をもじれば永遠回帰的真理さ。
俺たちの《党》のクールな加入戦術はそこまで見通しているんだ。さっきいっただろ。国家権力だろうと、反体制組織権力だろうと、俺たちのクールなスパイはそこまで潜り込むって。いずれ反抗者が抑圧者に転じる瞬間が来る。そのとき、情報暴露の匕首の一振りができるよう、俺は反権力がいかに裏返しの権力欲望にほかならないかのスパイにもなるのさ。
今はここだ。このレベルだ。ここでなら、二十歳のニヒルなガキでもいっぱしの権力闘争がやれるんだぜ。つまり、現場でそれをスパイできる。それが俺のスタンスさ。
8
「俺は十六のときはナイーヴだった。俺はトーマのようにおまえに恋した。さっきもいったとおり。おまえは俺にとっては特別扱いのやつだから、俺が一人のスパイであるという秘密を教えておく。秘密を打ち明けておく人間が一人は必要だ。コッミサール爺さんが親友君にとって必要だったようにさ。
それに、おまえに告白することはそれ自体俺の自尊心を満足させてくれることだからな。俺は二重底の人間だ。その辺の単純馬鹿とは大ちがいさ。大物ってのはどこの世界でもそうさ。手下がこう感じる人間じゃないとな。あの人は俺たちの大将だけど、俺たちの世界の人ではない。俺たちを超えたところがあって、俺たちの伺いしれないつきあいが、俺たちの伺いしれない世界との間でできる人なんだ、と。
わかるだろう。俺はおまえを認めているんだぜ。おまえが俺の特別の友達になれる奴だってことを。別な世界の友達だってことを。おまえは、俺が二重底の人間であることの証明のようなものだ。おまえはそれを見抜いた奴だからさ。だから俺はおまえを認めている。おまえには俺が掴んだ秘密を全部ばらしてやってもいいんだぜ。そいつは今やごつい秘密だぜ。インターナショナルなでかさをもった。国家安全保障委員会だって鵜の目鷹の目の。」
今日僕はベンヤミンの例の『歴史の天使』というテーゼ風のアフォリズムを読んだ。こうあった。『かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ね、それをかれの鼻先へつきつけてくるのだ。たぶん彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいが激しいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ』。よく知られた一節。
僕はNのことを想っていた。またNを含む僕らのことを。「事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る」、それはNと僕らのことだな、と思う。そうであるのは、あまりにも僕らがおぼこく、理想主義的で、世間知らずだったからだろうか? 連鎖ではなく、敗北があった。連鎖ではなく、犯罪的愚行があった。崩壊があった。すべてを台無しにしてしまった。取り返しようのない敗北と犠牲と愚行が。取り返すことはできない。「死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組み立てる」ことは金輪際できない。ベンヤミンのいう「強風」とは「進歩」とは「未来」とは何だろう? 彼は最後に何をいいたいのだろう?
君にはわかるだろうか?
滞留したい、滞留すべきだ、そういったところで「強風」が僕らを無記の白紙の虚無の「未来」に不可抗に運んでゆく。そういいたいのだろうか? それならわかる。それは事実だからだ。しかし、たんにベンヤミンはこの素っ気ない事実をいいたかったのだろうか?
「進歩」とは彼のアイロニーなのだろうか? プロレタリアート革命の世界史的必然性はあらゆる犠牲あらゆる愚行あらゆる回り道あらゆる退歩を、しかし、最後に凌駕する歴史の「強風」となって己を貫徹する。そういった革命的精神の「進歩」オプティミズムに、アイロニカルに、彼は僕らを死者の傍らに滞留させない「進歩」の非情なる虚無の「強風」を重ねてみせたのだろうか?
それとも、彼は詩人として「強風」に身を委ねていたかったのか?
「強風」はただ「天に届くばかりに高くなる」廃墟の山との拮抗をとおしてのみ己を実現する。この隘路をとおして世界を吹く風はこの隘路でこそ強風となる。ビルの狭間に吹き込む風がビルに圧迫され圧縮され何倍もの風力を得るようにさ。強風となってこそわれわれは不可抗に未来に運ばれてゆける。強風の非人情は僕らの感傷を吹き飛ばし、僕らを素寒貧にさせる。しかし、僕らは過去に忠誠を誓い続ける。連鎖ではなくカタストローフとして歴史が中断したことを僕らは自分の眼に焼きつけながら、感傷を我が身から拭い去って、自分の人生の終わりへと運ばれてゆく。強風は素晴らしい! 強風は無情だが、僕らはそれを愛する。
いったいベンヤミンは何がいいたいのだろう。
ビンが渡したコピーにはこう書かれていた。