1
カラスの群の黒帽子
円形劇場にかぶさっている
ちがうよ! それは巨大新興宗教教団の円形ドーム
彼らの本部会館だったはずだよ!
ぼくは一瞬眼をつむる。
さかしまな光の充溢、白光のなかに建物の輪郭は消し飛び
踊り場も、廊下も、階段も、教室の窓も、屋根も、下駄箱も消え
過剰露出の白の砂地に
ただ黒いひん曲がった骨のような、破れた風呂敷のような
輪郭と断片ばかりが散乱していた
おお、爆破されたこうもり傘工場!
人間のたえまなく喋りかける声の奔流がやってくる
カメラ・アイが近づいてゆく
フェリーニの映画「8・1∕2」のようだ
なんというお喋り好きなイタリア人め!
社交界のパーティと思ったのは
群れなす中学生たちの切れ目なしのお喋り
その真ん中に突立っている
ぼくが!
引き裂かれ、ひしゃげて折り重なり、あたりかまわず散乱する黒いこうもり傘たち
制服の中学生、群れて 群れて 群れて
なあ、君! 首都では、中学三年生になると、業者主催の高校受験のための模擬試験がしばしばおこなわれた。日曜日に、何校もの中学生が一カ所に集められた。宇宙のように巨大な円形のドームの会場だった。教団は業者にその日だけ貸与したのだ、円形ドーム本部会館を。「会場」が必要だったのさ。千を超える、万を超える、全首都の中学三年生を一堂に集める、少なくともその半分は、三分の一は、五分の一は、十分の一は、…それを集める「会場」が。そうであってこそ、「偏差値」が可能となる。巨大な母胎の上にのみ客観性の権威が立つ。そうでなかったら模擬試験という商品は誕生しないのさ。だから、君は知ってるかい? この模擬試験は「会場テスト」と呼ばれたってことを。試験が終わって次の試験までの休み時間、会場の廊下、階段、テラス、踊り場は行き場のない黒い学生服の群で埋め尽くされた。
俺はその巨大なカラスの群のような黒い塊のなかにいた。俺は醜い会話に包まれた自分を目撃した。話すことといったら終わった試験のことだけだった。まるで値踏みするように中学生たちは喋っていた。高笑いの脇には卑屈な沈黙やいじけた不安、追従が身を屈めていた。相手を伺う視線や聞き耳を立てる耳があるばかりだった。
俺は独り天を仰いでいた。俺はその自分を目撃したんだ。俺は屈辱の円形劇場のなかで青い無辺の空を見ていた。
なあ、君!
高校に入ったら制服は着ないと俺は誓ったんだよ。
2
ブンがいましがた読み終わった一節だった。
さっきアイズと別れた瞬間、この拾い物について彼女に手紙を書こうという決心がついた。すごく長いやつだ。それはゆうに一つの短編小説ほどの長さになるだろう。そこにはかなり長い引用がなされるはずだからだ。彼はその書簡集のとくに気に入った部分をまずコピーし、そこから引用したい部分を切り抜くだろう。しかも、その切り抜いた引用コピーをアイズに宛てた手紙の冒頭に貼り、そのあとから彼自身の考察が始まれば、手紙は手紙に似つかわしくない膨大な文章を抱えたものになるはずだ。
だが、手紙を書くことが、この数章が彼にもたらした切れ切れのインスピレーションをある決定的なものにまで高めてくれるにちがいなかった。同時にそのことで彼はアイズにポケットから掴みだして、「ほら!」と差しだすガラス玉をもてるのだ。
彼は自分の脳裏に書き上げられた分厚い手紙を幻視した。彼はそのヴィジョンにとらわれた。矢もたてもたまらず書くことを始めたくなった。彼が自分の想念をノートに書きつけるときはいつもそこへいくことにしていた喫茶店に向かった。盛り場の真ん中にある、小さなヨーロッパの王城を模した四階建ての大きな喫茶店。昔のなれの果ての名曲喫茶。まだこの国がいまでは信じがたいほどに貧しく、クラシック音楽好きの学生たちが自分のステレオもレコードももてなかった遠い遠い昔の記憶の残り滓。たいていの場合、その四階はがら空きだった。コーヒー一杯で二時間も三時間も独りノートに向かうことができた。そうやって集中していると必ず何かを得ることができた。一個の新しく生成した観念を。いつものように、彼は小さな飾りの丸窓のそばの座席に身を沈めた。
3
家に帰る電車のなかでアイズは考え始めた。昨晩から読みふけっていた本のいくつかの節がふいに甦った。それは、大学の演劇科で舞踊の教師をしているウーナが貸してくれた、舞踊の練習技法についてアメリカ人の舞踏家が書いた本だった。アイズがウーナに舞踊について知りたいというと、彼女は「知りたければ、するしかないね」と素っ気なかった。それでもウーナはとりあえずといってその本を貸してくれた。
舞踊に取り組む者が最初におこなう練習で中心的な役割を果たすのは即興であった。それでこの本の最初の章は即興論として始まっていた。奇しくも、即興ということは以前からブンとの話の中心に置かれたものでもあった。
アイズは即興ということを「料理」をメタファーとして考えることが好きだった。それは、彼女が料理が好きだったからだ。料理は、ブンがつねづねアイズという人間を定義するものとして使う「プレゼント」という言葉を借りるなら、それは彼女にとってはつねにプレゼントであった。料理する楽しさはプレゼントする楽しさであった。そしてアイズのなかではこの贈与の喜びは即興の喜びと切り離しがたく結びついていた。あげるということには放つという喜びがあった。そして放つという喜びは即興ということの本質のなかにもあった。放つことなしに即興はなかった。
そして即興は「瞬時に」ということを要求した。言葉を換えていえば、たとえ外から見れば小さなものであっても、それは爆発を意味した。音であれ、言葉であれ、材料であれ、香辛料であれ、物であれ、人間であれ、自分のもとに飛び込んできたものに対して瞬時に或る感情と直観が爆ぜ、投げ返す。それが放つということだった。直情径行を地でゆくアイズにとって停滞ということぐらい退屈なことはなかった。スピードがつねに問題だった。一瞬のうちに爆発し、投げ返す。
ブンはいつもからかう。おまえがプレゼントするときは、どんなときでもそのプレゼントは大盤振る舞いの過剰包装紙に包まれる、と。アイズにいわせれば、それはプレゼントとは、たとえ小さなものであっても、一つの爆発だからだ。夜空に打ち上げられ爆ぜる花火はつねに彼女にとって感情のメタファーであった。つまり、プレゼントとは一つの花火なのだ。心が即興に踊って放つ喜びに溢れたとき、つまり爆ぜたとき、人はいちばん大きなプレゼントができる。アイズはそう考えた。
しかし、実はこのアイズの観念には一つの逆説、反対の意味が隠れていた。花火のメタファーは爆発のメタファーであると同時に消滅のメタファーでもあった。爆発は消滅と一つになっていた。「放つ」は、実は「捨てる」と一つになっていた。「爆発は消滅に終わる」のではなくて、「消滅させるために爆発させる」という隠れた意味が、「放つ」のは実は「捨てる」ためだという秘密がそこには潜んでいた。アイズは自分の感情の過剰性に舞い上がるや、それを密かに憎んだ。爆発させることは、素寒貧に戻ることであった。相手の手元に贈与された大きな感情の花火は、それをプレゼントした当の彼女のもとではもう消滅していた。彼女自身は空虚に立ち戻っていた。そこには一種の荒廃さえあった。痛みがあった。
ブンはいつも「お前は詐欺師だ」とアイズをからかった。
彼女は次の一節をその本のなかに見つけたとき、ウーナに借りた本であることを忘れて、後で何度も読み返えし、そこからもっと深い自分の即興の思想を創りだそうと、思わずその頁の縁を折ってしまった。著者のこの程度の観察に対して、自分はもっと本質的な即興の思想を産みだすことができると感じたのだ。その一節は著者が彼の尊敬する或る有名な演劇家の本から引用した一節であった。そこにはこうあった。
演出というのは料理に似たところがある。料理人はお客が来る前に、すべての材料を細かくきざんで十分な準備をする。お客が来ると、それをフライパンでいれてさっと炒める。味は料理人が作るのではなく、材料それ自身が他の材料と混ざり合って、熱いフライパンと油の中で作っていくのだ。だから料理人にとっては、味は出たとこ勝負。いくらはじめから計画しても、材料が溶け合ってくれなければどうしようもない。十分な準備、それがあったうえで、しかし、味は料理人が作るのではない。
アイズは考え始める。
もちろんそうだわ。そこにお客が来る、この『来る』ということがそこに<場>を開く。<場>は初めてそこで開く。どんなお客が来るか料理人は知らない。いや仮によく知っている馴染みのお客でも、今日のこの日、そのお客がどんな心をもった客として来るかはその場になってみなければわからない。その客に出会って、その客の空気が自分のなかに何を産みだすのか、そのことも料理人はその場になってみなければわからないんだわ。
歌おうとする歌、読もうとする詩を用意する。でも、それをどう歌うか、どう読むか、そもそも用意したそれを捨てることになるかもしれない、その最終地点はまだ決まっていない。お客とのあいだにどんな<場>が開かれるのかも、相方の奏でる音がどんな音として飛び込んで来るかも、まだ決定されていない。お客と、そしてそれら用意されたさまざまな材料たちの出会い、ただこの出会いが実際に起きた瞬間にだけ、最終地点は決定される。
十分な準備は最後の一点でどうしようもなく切断されている。どうやっても準備できないものによって、それは切断されている。十分な準備がその努力の際果てでこの切断に出会ってる。「熱いフライパンと油」、それがこの切断の向こうから、この切断に橋を架けるものとしてやってくる。つまり、その橋が、お客が来て、初めてそこに誕生する<場>なんだわ。たしかに、味は「材料それ自身が他の材料と混ざり合って」誕生する。でもそれは「熱いフライパンと油」のなかで。もちろん、そこに混ざり合うべき材料についての十分な準備がなければどうにもならない。十分な準備があってもどうにもならないけど、
そういうとこまで自分を連れていって、放つ、そういうことなんだわ。そういうことまで、この一節はいってるかしら。そこまでいわなければ、即興と演劇と料理を重ね合わすことはできない。あたしはそう感じる。
4
アイズ!
おまえにまず次の数節のコピーを示す。この数節を、それを含む数十頁の文章を、俺がどんな風に手に入れたかは、会ったときに話す。なぜ、俺がこの数節をおまえに送るのかの理由を、おまえは理解できるだろうか? それは、アイズ! 眼について語っている手紙だからだ。まるで俺がおまえに書くはずの手紙のような。まず俺はそれを抜書きするようにコピーしておまえに示す。
5
今日、ぼくはアリの車でテヘランから砂漠を四〇キロ突っ走って、イランの最大の宗教都市でありペルシア絨毯の名高い産地の一つ、そしてなによりアリたちキアヌリ一族の故郷であるクムに着いた。テヘランに着き、五日間をアリの兄の家で過ごし、そのときから徐々にぼくのなかに蓄積され形を整えつつあった一つの印象が、今日、印象としてのいわば確立を果たした。それはぼくのイランでの「経験」へと高まったのだ。そのことは、君にも大いに関係がある。いや、正確にいえば<ぼくの君>に。眼である君に。だから、ぼくはそのことについて君に書きたい。
イラン人は眼を見つめあいながら話す。ぼくの経験を一言でいえばそのことに尽きてしまう。しかし、もちろんぼくが君にいま書きたいのは、その一言が孕む具体的な内容だ。そして、最後に、君のことだ。なぜって、その経験の具体的な相貌は最後にはぼくを君に導いたのだから。君への想念に。
君は砂漠の都市をまだ見たことがない。都市というものが一つの砦で、周辺世界と厳然として対立しているということの直観的理解は、いまでは砂漠をもつ諸国に行かなければ得ることのできないものかもしれない。イランでぼくが経験したことの一つはそれだ。
テヘランを出る、するとそこからは赤褐色の死の砂漠なのだ。いまは九月。アリによれば春はこの砂漠も緑の平原だったという。広大な麦畑が視界の限りを覆うのだという。そのときあなたを連れてきたかったという。だがいまは夏だ。盛りの夏の間に、しかも、しばしば六〇度を超える灼熱の夏の太陽の下で一切の地表の植物は枯れ果ててしまう。種は地中において自分を保存する。春のために。だが、地表の世界は砂漠と化す。途中、ぼくはアリと連れだって丘を歩いてみた。素晴らしいドライフラワーの丘だった。
このただ焼けた砂と岩石だけの世界が都市と都市を繋ぐ。イランでは都市とは砂漠という海に浮かぶ孤島だ。死の世界に点々と刻印された生の飛び地だ。都市とはまず第一に砂漠という<絶対他者>に対抗する人間の生の砦にほかならない。人間の生はただそこにおいて可能だ。イランでは水と樹々の緑は富の象徴だ。金持ちたちの屋敷には必ず水が音を立てて縁から溢れるプールがあり、噴水がおかれ、せせらぎがしつらえられる。周囲の目を遮る高い煉瓦塀の内側は樹木に満ちている。そこには鬱蒼とした果樹園が必ずある。そしてそれを可能とするのも水だ。水と緑、まさにそれこそが砂漠にはないものであり、その欠如こそが砂漠を定義するものであり、だからこの二つは生命と富の象徴なんだ。
砂漠における都市、これは恐らく都市の根源的メタファーだ。少なくとも或る一つの、しかし、巨大な広がりをもつ文明圏において。イスラムとユダヤ=キリスト教の文明圏、『旧約聖書』的文明圏においては。というのも、アリは日本に行ったときの印象を笑いながらこうぼくに語ったからだ。――テヘランから北京経由で東京に着き、東京にしばらく滞在してから鉄道にのって熱海という有名な温泉地へ行くことになった。そこは東京から数十キロ離れた地方の都市であると聞いていた。鉄道にのって東京を離れて小一時間がたった。自分は次第に訝しい気分に包まれた。風景は途切れることがない。連続したままだ。だが時間は、自分の理解ではもうとっくに東京を離れているはずなのだ。もうすぐ熱海へ着くという時間なのだ。都市というものは互いに砂漠によって隔絶していると思い込んでいたから、自分には日本の都市のあり方がわからなかったのだ、と。だから、世界には日本のような、むしろ連続性の時空が、なだらかな非切断的な移行が本質的である文明圏というものもあり、そこでの都市は砂漠型の都市とは別な時空性を形成しているにちがいない。
とはいえ、少なくともここでは、都市は砂漠という死の自然、この<絶対他者>に対抗する、絶大な反自然だ。それが都市の根源的定義だ。都市と文化は一つのものだ。この、自然との対立において。しかも、すぐさまこう付け加えるべきだ。この、対自然という根源的次元に、第二の人間にとってのもう一つの根源的次元が引き剥がしがたくかぶさり癒着する。つまり、社会と歴史という次元における<他者>への対抗という次元が。都市は、自然ならぬ、人間の侵略者に向かって同時に身構えている。
ぼくたちは、たいていの場合、暢気にイラン人をアラブ人と同一視する。中近東のイスラムを宗教とする人々と。ぼくだってそうだった。だが、イラン人の民族的アイデンティティーはアラブ民族への激しい憎悪によって支えられている。彼らにとって、アラブは劣等かつ未開な砂漠の遊牧民でしかない。だが、イラン民族は古代ギリシャ文明をすらはるかに上回った古代ペルシャ文明の創造者なのであり、人種的にもアジア人なのだ。アラブではないのだ。その栄光のイラン民族を侵略し、古代ペルシャ文明を産んだゾロアスター教をことごとく破壊し、代わりにイスラム教を押しつけ、ペルシャ語の言葉を次々と駆逐し、その代わりにアラブ語の語彙を押しつけた不倶戴天の敵、それがアラブなのだ。だから近代イランのナショナリズムは、ペルシャ語のなかからすべてのアラブ系語彙を駆逐する国語(ペルシャ語)浄化運動をもって始まる。<他者> 、その根源的経験は言語と宗教を異にし、侵略、破壊、強姦、虐殺の経験によって刻印された、その理解不可能性と敵対性との経験に発する。そこにも、死という契機が厳然として横たわる。<他者>の経験とは何よりもまず死の脅威の経験、絶対的切断性の経験であるはずだ。アリの経験した日本とはその風景の連続性においてばかりか、人間と人間との関係の非切断性においても別な文明圏として把握されるべきなんだろうか?
ああ、君、またぼくの話はそれだした。
その砂漠を渡って、恐るべき<他者>の地帯を越えて、ぼくはアリとクムへ、彼の故郷、彼の都市、彼の同胞のもとへとやってきたのだ。はるかにテヘランを後にして、いまや砂漠の果てにクムが浮かび上がる。アリがぼくにいう。高校の同級生に会ってゆきたい。彼は塗料販売店をやっている、悪いけど、少しつきあってくれ。車がクムに入り、その友人の店に横付けする。アリはずかずかと店に入り、彼と激しく抱きあう。
君に見せたかった。二人がどんな風に話すのかを。彼らは小さなテーブルに肘をつき、友人が奥から出してきた缶コーラを時々口に含みながら、眼を見つめあいながら、相手の眼の底を覗き込むようにして、話すのだ。互いの鼻先に互いの顔を据えて。ぼくはそれを脇から見ていた。会話の二つのコンテキストが形成される。まず第一に、口から出た言葉が構成するコンテキスト。だが、もうひとつのコンテキストがそこにまるで陪音のように構成される。見つめあう眼が産みだすコンテキストだ。彼らの会話はつねに、そして意識的に、二重なのだ。あやふやな二重性ではない。誤解しないで欲しい。曖昧性という意味での二義性ではない。明確な、むしろ相互に批判的であり対話的な、いうならば「距離のパトス」に支えられた二重性さ。
こんな印象だ。「景気はどう」。「まあまあ」。「それはよかった」。しかし、そういう言葉のやりとりに、いわば眼による陪音が付き従う。「本当か、俺は心配してるぞ、他のやつから聞いた、遠慮するな、おまえも聞いてるだろ、俺は少し外国でいい目を見た、いつでも多少の工面はできるんだ」。「わかってる、わかってる、だが心配症はおまえの悪い癖、そんなことより、おまえこそどうなんだ、女房と別れるといっていたと、誰かから聞いたぞ」。そんな風なんだ。つまり彼らは二つの回路を使いながら、しかもそれを意識的に対立させることで、喋りあうんだ。だから印象としてはこうなんだ。言葉の強さと見つめあう眼の強さは正確に比例しあっていると。
イラン人の眼はビー玉みたいだ。茶色の眼もあれば、緑や碧眼もある。薄いグレーの眼もある。薄いグレーが混ざったようなブルーアイは、ぼくを見ているときも、まるでぼくを突き抜けて、何かあらぬ彼方を見ているようなのだ。まるでぼくを見ていないように、ぼくを見ている。しかしぼくが彼らの脇にいて彼らを見ていると、彼らはひどく見つめあっている。彼らは、あのぼくを見つめる、透視するようなガラス玉の眼で見つめあっているのだろうか? 相手の眼の底を覗くように見るためには、あのようなガラス玉のような眼が必要なのだろうか?
この二人の男友達の様子を見ていて、ぼくはテヘランを立ち去るときアリの兄の家で見た、その兄とたまたま寄った彼ら兄弟の父との別れの挨拶の場面を思い出していた。彼らもまた、見つめあいながら別れの挨拶を交わしていたのだ。そこにはユーモアと愛情の絶妙な交換があった。眼のコンテキストはつねに言葉のコンテキストの批判者や訂正者や嘲笑者としての位置を、あるいは優雅な冗談屋の位置を獲得していた。たとえていえば、言葉で「俺はもう田舎に引っ込む」ということは、同時に眼で「これから屋敷の大改造に取りかかる、おまえも俺に負けないようにしろ、最後の大事業の余力はいつも俺は自分に残してあるぞ」ということであり、「わかった、まかせた」ということは、「おまえはいま俺の試金石の上にいる」ということなのだ。あるいは、「もう来年までこない」ということは「明日にでも母さんと俺が住むおまえの故郷に子供を連れてやってこい」ということなのだ。彼らは見つめ続ける、底の底まで見通そうとするかのように。微笑み続けながら。
ぼくのなかで、この二つの印象は結合して第三の印象に遡及した。それはぼくが抱いた最初の印象。テヘランの家でテレビを見ていたときに、偶然子供を主題にしたドキュメント番組を見たのだ。イスラム革命後のイランのテレビでは、女が出演する歌舞音曲の番組は禁止されている。出演するのは男ばかりだ。歌謡番組もあるにはあるが、歌うのは重たい口ひげを生やした堂々たる中年の男性歌手と決まっていて、歌もイスラム革命の歌か宗教歌と決まっている。クイズ番組も男たちだけのクイズ番組だ。そのなかで、イランの子供たちをテーマにした、明らかに教育ドキュメント風の番組があった。何か黒々とした印象の、退屈でお仕着せがましいイランのテレビのなかで、子供たちの表情やその姿の小さな優しさは新鮮だった。実際それは高い水準の映像だった。ほとんど詩的だった。才能ある映画人が作ったものにちがいなかった。
ぼくはこんな話も思い出した、なぜイラン映画の現代の俊英キアロスタミの秀作において主人公はつねに子供なのか。それは、女性にチャドル着用を義務づけたイスラム革命が男女の恋愛をテーマに取りあげることを不可能にしたからだ、と。かくて芸術家のエネルギーは子供に集中せざるをえなかったのだと。
だが、この「説明」の是非はこの際どうでもいい。
君に伝えたいのは、イラン人の美意識は眼に集中しているということをぼくは直観したということだ。カメラはひたすらテヘランの街角の子供たちの眼を撮ってゆくのだ。沈黙のなか。音楽は流れていたかもしれないが、覚えていない。印象は、深い沈黙のなかでひたすらに子供の目を見つめていくというものだ。相当の時間が流れた。カメラは子供たちの眼を見つめ、そして子供たちはカメラを見つめ返す。もうそれだけで十分だったはずだ。おそらく。イランの子供がどんな苦痛を抱え、したがって親や良心的教師がどんな苦痛を抱えているかは、語られるまでもなく了解されていたのではなかったか。この革命の歳月、混乱、そしてイラン・イラク戦争のなかで。同時に、そのことは語ることを許されないことでもあったのだ。もし、それが「イスラム革命」の利害を少しでも損なう危険があるならば、決して語ることのできないことだったのだ。現にアリの兄はいまでも地下に潜ったイラン共産党の生き残りのメンバーだが、彼の同志はホメイニ派の下した大弾圧のなかで革命警備隊によって一晩に数百人が即決処刑されたとすらいわれている。ここには「語りえぬこと」の巨大な堆積、鬱屈、痛みがある。成しうる最大限のことは、見つめることであり、見つめあうことであった。それは二重の会話を必要とする者の特権だった。ただその必要だけがあの深い眼を生むのだ。
今日、クムの塗料販売店でこの三つの場面がぼくのなかでぴったり重なった。少なくとも、今、イラン人はぼくたちより素敵だ。彼らは眼を生きている。
君こそ、この眼だ。生きてる眼だ。だから、ぼくはまっさきにこの今日の出来事を君に伝える。
6
アイズ!こんな風に手紙は始まってるんだ。 もう一節だけコピーの切り抜きを送ろう。
今度はこの男がこの手紙を送った恋人の眼について書いてる部分だ。俺は思い出した。昔テレビで見たシャンソン歌手のグレコのドキュメントのなかで、彼女がこういっていたのを。「エロティシズムとは、私にとって、眼で触れることです」と。
7
君と話している。すると突然ぼくは気づく。自分が、君の眼を見るために話しているのだということを。話すために見るのではなく、見るために話している。だから、ふと気づくと言葉を繋ぐことを忘れている。君の眼を見る快楽に我を忘れている。それは恐ろしい瞬間でもある。目眩に似た何かが、落下、吸引、失神、溺死、そんな風な何かが、そこへと連結してゆく何かがそこにはある。君は一瞬眼を伏せる。それでぼくは我に返る。沈黙のなかへと失速しかけた言葉を急いで引き上げる。ぼくは意識へと引っ返す。
君の眼はつねに羞恥を生きている。イラン人の眼の文化には、まだぼくはそれを見いだしてはいない。彼らは見つめあう。眼を伏せることをあたかも拒絶するように。まるで決闘者のように。
ぼくたちはそうではない。少なくとも君とぼくは。ぼくは見つめている。そしてむしろ、君は見つめられている。君の眼は極から極へと激しく移動する。君が眼を瞑る。すると君は信じがたいほど無力になる。悲しみに打ち倒された、置き去りにされた、一人の少女がそこにいる。
しかし、君が眼を開き、君が言葉を探そうとするとき、君は歯を食いしばって君の眼を獲物を狙う獣の眼にする。君は完全に我を忘れている。ぼくが君の前にいて君を見つめていることを完全に忘れる。君の眼は次々と獲物を探す。銃口となって、次々と標的を探す。まるで強制収容所の監視塔のサーチライトのように。物陰に逃げ込もうとする一切のものを憎悪して、剥き出しにして、射殺しようと決意を固めているように。君は、君が是が非でも見つけださずにはおかないと決意したものに取り憑かれる。君はそれに所有されている。いったい君は何をそれほど憎んでいるのか。何をそれほど剥き出しにしたいのか。
だが、次の一瞬、君の眼はその憎悪から解き放たれる。君が、いわば君のオプセッションから取って返し、再びぼくを正面から見つめることができたとき、君は微笑む。ぼくを君の微笑みへと誘い出す君の笑い。悪戯な提案を秘めている誘惑者の微笑み。冒険者の微笑み。そのとき君の眼は無邪気にこの世界での冒険を信じている、悪戯を。そしてぼくが見返すと、君は再び羞恥のなかへと戻る。
そうした君の眼の激しい移り変わりは、ぼくに見つめることがもつもう一つの別な快楽を教える。ぼくは見つめる。君が君のなかに還り、独りになって君が君の憎悪を生き、しかし、その果てに、この世界に帰ってきたとき、「まず、あなたを見つけたのよ」とまるでそういうかのようにぼくに微笑みかけ、そしてぼくを行動へと急き立てるのを。今、この世界に息づき、無邪気な冒険者となって蘇生したその眼をもって。その一続きとなった回転運動を。それが君の眼だ。そのどの契機も欠かすことのできない眼、それが君の眼だ。
今日のクムでの経験は、最後にはぼくを別のところへと連れ出した。君のもとへと。
8
ブンはこの書簡が送られた女を見てみたいと思った。そのように激しく変貌してゆく眼の表情、しかもそれが一つのサイクルをかたちづくっていて、その変貌のそれぞれの段階がすべて経巡られ遂に一つの円を結んだときにはじめて一つの眼となる、そのような眼。瞳のなかに彷徨する孤独の高さと陽気な無邪気さと無防備の痛ましさを宿している眼。それはアイズの眼だった。アイズの眼のような眼がほかにもあったとは! しかも、それをこんな風に言葉にして当の相手に書き送っている奴がいる。表現において俺よりもそれを見事に掴み、しかも俺よりもはるか遠くから大きくいっそう大きく掴むことをした奴がいる。イランの眼だって!
俺のついぞまだ見たことのない風景、俺のまだついぞ見たことのない人間の眼、俺のこれまで一度も出会ったことのない人間の悲痛や陽気さ、そこからブーメランのように旋回し戻ってきて、たちまち急降下して奴の女に彼は帰っていく。たくさんの獲物を抱え、たくさんの拾い物をポケットに突っ込み、いくつもの宝石を拳のなかに握り締めながら、遠くから帰る。「おまえにやるよ!」のたった一言をいうために。それは男らしいやり方だった。冒険者のやり方だった。それは自由で豪奢な人間だけができるやり方だった。こういうやり方があったんだ!
ブンは一つの方法を発見したと感じた。もっとも、それが何のためのやり方としてそうなのかは、まだ彼にはわからなかった。いや、まずそれが手紙の方法として発見されたことは確かだ。手紙はこういう風に書かれるべきだとブンはまず感じたのだから。だが、たんにそれが手紙の方法の発見だったのか、それ以上のことだったのか、そのことはまだ彼にはわからなかった。だが、もしそれが本当に方法の発見だったなら、たんに手紙の書き方の問題ではなかったはずだ。
9
放つ。本当にあたしは好きなんだな、そのことが。それはあたしの存在することのつねなる目標、理想なんだわ。まるで自分を新しく発見したようにアイズは独りごちた。すると以前ブンがいったことが思い浮かんだ。
「おまえ、以前、吐く息と吸う息ということをいったろ。そして、自分は吐く息が好きな人間の方なのだ、と。」
あのとき彼女はこういった。
そう、吐く息は透明化ということとつながってる。肺が空っぽになりきるまで深く深く吐いてゆく。空っぽになりきるまで。それは透明化っていってもいいわ。あたしは、吐く息と吸う息という二つの息の仕方で世界というものを考えてきた。人が息を吐くときの世界と吸う息のときの世界、それは二つのちがう世界、いえ、一つの同じ世界の二つの顔。息を吸う、それは世界を吸い込むってこと、内部にできるかぎりたくさん。できるかぎり深く。たいてい人は深呼吸ってことをしない。短く浅く慌てて吸って急いで吐く。せかせか呼吸するだけ。世界はちょとしか吸い込まれない。人は世界のほんの表面、その小さい小さい部分を生きるだけ。そして、ちょっとしか吐けないから、人は自分を透明にすることができない。大きく吸うためには深く吐かなければならない。二つは一つのことだけど、でも、それぞれは互いに異なってる。お互いが相手を必要とするけど、でも、それぞれは反対。
ブンはこう応えた。
それで、吐く息で自分を定義する人間と吸う息で自分を定義する人間と二通りの人間がいる、そして自分は吐く息の人間だ、それがおまえの考えだった。俺は以前、おまえの息の吐き方とそっくりな息づかいを一人の黒人の女のジャズシンガーのアルバムに聴いたぜ。ニーナ・シモンのアルバムに。
背後で女たちの手拍子が鳴っている。踏む足の音が鳴っている。黒人の大きな肉厚のピンクに発光している、あの手のひら。肉と肉が打ち合う音。大きな手のひらだけが生む音。リズムの区切りにかけ声が入る。息にかすれた声がきしる。ニーナは女たちと歌っている。まるで部族の祭歌のように。女たちは手と声と、そして息で、そう息で、リズムを取っている。ニーナは歌い、そして最後に彼女の歌もまた息に変わってしまう。
11
アイズが返す。
「そう、あたしは息を吐くときがいちばん好き。自分をどんどん空っぽにしていって、しまいには世界と自分の境が消えてしまうまで自分を空っぽにすることが、あたしの望み。」
だが、俺はそうでない、とブンは胸のなかで呟く。
俺とおまえは元は敵だったんだ、敵同士だったんだ、つねにブンはそう繰り返した。
二人は奇妙な敵だったのだ。少なくともブンにとっては。二人だけで会うことをつねに求める敵だった。ブンは彼らが会う席に他の誰かが同席することを絶え間なく拒絶した。あるいは口実を設けて回避した。他の誰かが同席するなら彼はそこに行かなかった。