*この訪問記は実際に福森さんに対して著者がおこなった聞き書きに基づいている。だから彼の言葉はほぼ忠実に再現しているが、他の部分は完全な創作である。
遊ぶ眼をもつ人
福森さん、ちょっとせむしだろ。ちっちゃい頃、背骨に結核菌はいってしまって、カリエスだな。背骨曲がって、右膝やられ、びっこになっちまった。福森さん、両手ひろげて幻のちっちゃい文机掴むようにして、右左替わりばんこに肩かしげて、俺の前でそのときの様子真似した。十一歳の子が一生懸命運んできて、机下ろす、両手ばたばた机たたいて、大得意さ。「これからわての噺始まるでぇー、みな聞かなぁー、聞かなぁー!」
そのときの福森さんの眼、ぎらぎら輝やいてた。すごく悪戯っぽく。でもな、可愛いというより、ぎらぎらだぜ。ぎらぎらさ。
あのひとの眼、こういった子がいた。「世界に困ってて、なんか天然にゆっくり回転しているみたい、『なにやろな、世界は? 』って光ってる」。あのひとの顔、こういった子がいた。「鼻はガッシとはって、眼は光り、アマゾンの酋長の顔、縄文系の顔や」。
どれも当たってるけど、このまえは、やんちゃな子供の眼がぎらりと光って、ウフフ、フーと笑いの光の小波が斜めにタッタッタッタ、目尻のほうにたっていったよ。
遊ぶ眼さ!
遊びのことを議論しにいったんよ。前からしたかったんよ。
うちの学校の子がこのあいだ、福森さんのフルート聴いて、そのあと、突然マジになって、文書いたんよ。その子、文書きたい子なんよ。小説家志望? わからん。けど、文書きたい子なんやわ。
こんなん。うちに読んでって渡してくれたんよ。福森さん、そんとき、中村どんどんという人と音のセッション遊びしてたんや。
―――かき消されてしまいそうな、かよわい音、だけどそこにちゃんと在る。空気を吹き込む音が大きくなって、そこにだんだん高い音を混ぜ込んでゆく。音がひっくり返りながら音階をあげて飛んでゆく。私の頭のなかには、ゆらゆら飛ぶ一羽の蝶。そこへ中村さんの体の奥からじわじわ湧いてくるような不思議なサウンドが流れ込んで、鳥の周りを緑の深い神秘的な森が包み込んだ。擦れる音が木の葉の揺れる動きを連想させる。・・・(略)・・・中村さんの音がギターの音だけに切り替わるその手前、福森さんのフルートは激しく唸り、短く高い声が連続的に鳴り続けた。ギターの音がピィーンピィーン・・・と耳を刺すように鳴った。そこに、機械的な空気が生まれたのを感じた。頭の中では蝶はもがいていた。ギターの音が増えていくにつれて、蝶の姿はふらりふらりと右左に傾き、弦をピンッと強く引っ掻くたびに、蝶はちいさな悲鳴をあげてよろめいた。音にあわせて、福森さんも地に這いつくばった。・・・(略)・・・福森さんがふらふらと立ち上がろうとしているなか、中村さんが今度は山びこを起こした。低いヴォイスが反響しながら大きくなっていく。音に音がかぶさり、声に声が重なっていく。拍車がかかる。リズムがあがる。心の隅に巣食った不安感や不快感が発露してきた。因子は聴覚をとおしてますます膨らんでゆく。福森さんの動きひとつひとつがリアルで、鮮明で、切迫して見えた。[i]―――
あの子が書いたとおり、音って風景。でも、それは福森さんのなかの風景なんやろうか? あの子が書いたように、それはうちのなかの風景? 音は福森さんの音、でも風景はうちのなかの風景、でも、それを引き出してくれたのは福森さんの音、どっからどこまでが福森さんの持分で、どっからどこまでがうちの? 二つの問いがうちをとらえたよ!
「問い」だって!
お前の言葉なの、それ? 「問い」なんて。どこから仕入れた? お前の、母ちゃんにいってやれ!「二つの問いがあたしをとらえたよ!」 オヤジにいってやれ!「二つの問いがあたしをとらえたよ!」 お前のだちたちにいってやれ!「二つの問いがあたしをとらえたよ!」
うちゆーた。
あんたたちかて夜が始まるちょっと前の暮れなずむ空の美しさをまさか忘れてはないやろ? 夕日はもう沈んだ。夕映えがほんの少し天と地の境をピンクに溶けていくようなほのかなオレンジ色に明るく染めている。でも夜風がもう道端の草を青くゆすってゆく。上の空はまだ青い。でもそこには夜の墨色が染み込んでゆく。青は次第に暗くなって墨色に変わり、空気は清潔な冷たさを取り戻す。そんときまず一つの星が夜になりかけの中空に点る。その星だけが光を放つ。宵の明星! それが「問い」よ!
うちゆーた! おかあちゃん、天にうちの問いがかかっている、って! おかあちゃん、人生は「問い」のもとに生まれるんよ! そやなかったら、犬猫となんも変わらへん!
うちの「問い」。
一つは、なんであんなにたくさんの音が福森さんの体のなかには眠ってるんやろう? もう一つは、あのフルートの吹き方のどんなところがうちに発見をくれたんやろう?
福森さんは音と遊んでいるみたいやった。曲を吹いてるというより、音と遊んでた。うちはそう感じた。気がついたら、うちも音と遊び始めてた。それは遊びの発見やった。あんな風にうちのなかの音とうちが遊びかけたのは初めてやったから。そういう遊びがあるなんて気つかんかった。
あんたはゆーたね。福森さんは十六のときから三二歳になるまで十六年間寝たきりやったって。うちはなんか変やと思った。福森さんの眼は時々やんちゃな光にぎらりと輝いた。悪戯っぽく目尻を光が揺らした。あの人は音と遊んでた。遊ぶ眼をもった人やった。もし、十六年間寝たっきりやったら、福森さんはいつ、誰と遊んだんやろう? 十六年間寝たきりで遊ばんかった人が何であんな遊ぶ眼をもった人になれるんやろう?
うちはそれが知りたくなった。
中学校卒業のとき、障害者手帳とるために医者に認定してもらいにいって、そこで医者に手術勧められたんや。手術すれば、障害もこれ以上悪うならへんっていわれて。少しだけ希望が湧いてきた。病院のベッドが空くのを待ってた。高校にもいけるし。
ところが、それがわやになってしもうた。喀血したんや。骨に入ってた結核菌が残ってて肺にきた。手術どころじゃなくなった。たぶん、振り返って思うんやけど、精神的に打ちのめされたんやね。希望もった分だけ、落ち込んだんやと思う。十六のときや。家でそのまま寝たっきりの状態になってしもうた。ふつうなら、それでも四、五年すれば起きられるようになると思うけどな。トイレもいかれへんかったし、食事も寝床でした。自律神経がめちゃくちゃ過敏で、ちょっとしたことで動悸が乱れたり冷や汗かいたり、それがその後三二歳まで十六年間の僕の状態やった。
俺は福森さんがその中心メンバーの一人の劇団『態変』の公演を何回か見た。俺はこう思った。あの劇団の芝居はたった一つの主題にだけ捧げられているんだ。
シェイクスピアから取った「真夏の夜の夢」っていう野外にテント小屋立てての公演があった。福森さんはそこで妖精のパックの役をやって素晴らしかった。髪を緑に染めてね、小人の異星人のような福森さんが舞台のあちこちから出現した。まさにパックそのもの! あの劇団で、立って歩ける数少ない役者の一人が福森さん。あの劇団は重度の身体障害者だけでつくってる身体表現演劇の劇団なんだ。劇団主催者の金満里は在日朝鮮人の女の演劇家で、彼女は重度の小児麻痺で両足はぐにゃりとなったままで折り重なり、立つことさえできないんだ。舞台で演じるときは二人の黒子が彼女を運んでくる。
この公演のラストシーンで、テント小屋の舞台の奥が突然抜けて、その向こうに主人公たちの立つもう一つの舞台が、夜の野外の闇のなかに忽然と浮かび上がるという仕掛けがあった。あっと驚く仕掛け。後で知った。この仕掛けは「銀河叛乱‘89」という公演で初めて試された。この公演は劇団「態変」がプロの演劇集団へ離陸するきっかけになった。金さんがいってた。この空間の二重仕掛けを作ることで、「あの世とこの世の境目を通ってくる」という運動の空間をそこに生み出したかった、と。金さんはしきりにいってた。「宇宙に繋がり宇宙と一体となるための身体性としての芸術」を自分たちは追求する、「私にとって、宇宙を意識するということは死を意識することだった」って。
「たった一つの主題」ってさっき俺がいったのは、こんなこと。
俺は福森さんが二〇年近くもベッドに釘付けだったという話を聞いて、思った。生まれる前に胎内で重度身体障害者になっていたか、福森さんのように健常児として生まれ、でもすぐ後でなってしまったか、その区別はあるとしても、そうなるってことは、これまで人間が結んできた《社会》という関係では、ずばりいうと、死に突き戻されるということじゃないのか、って。そして死に突き戻されるってのは、誕生のその以前、つまり宇宙そのものだな、そこに突き戻されるってことでもあるんだ。
でも、同時に確かなのは、そういう絆は、もう一個の、もっと大きなシステムとしての《社会》とか《文明》とかいうものが回転していくとき、その都合・メカニズムと真っ向からぶつかってしまうもんじゃないかなぁー。表立って昔のナチスのように剥きつけにいうか、隠し事として裏に回ってひそひそいうかは別にして、これまでの《社会》の底には人類の初めから暗黙の「優生思想」ってものがあったんじゃないか。「重度身体障害者のような、社会にも文明にも役に立たん、社会と文明の邪魔者、ごくつぶしは、そもそも生まれてくるべきやなかったんや、だから消えてなくなるべきなんや、まして子孫なんかとんでもない」って、本音のとこで《社会》というシステムはそう考えているんじゃないのか? この《社会》の隠し持った情け容赦もない凶暴なリアリティーに比べたら、最初にいった人と人とのかけがえのない絆は、かけがえのないもの、有ることは難しいという意味でほんとうに「ありがたい」ものだけど、めったにないし、人の気持ちだけに支えられていて、柔らかすぎて、あっても、本当のところどこまでそういい続けられるか実はわからん、たちまち逃げられたり、追っ払われてしまうものじゃないのか?
だから思うんだ! 誕生が死に突き戻されるということと一つとなっているというのが、福森さんや金満里さんや劇団「態変」の人たちの根っ子にある経験と違うんかなぁー、って。そこから、俺は「胎内経験」とか「産道経験」の空間とか呼んでみたんだけど、「態変」の舞台っていつもそういう空間のなかでつくられているって気がする。普通の人間だったら、この世に生まれて、「誕生おめでとう!」ってまわりがはしゃいでくれて、「いないいないばぁー」とかあやして、ちやほやしてくれるわけだろ。だから、たいていの俺たちは自分の「胎内経験」とか「産道経験」とかすぐ忘れてしまうし、思い出そうとするモチベーションなんかない。ところが、あの人たちは、そこをどうしたってもう一度たどりなおして、「わてらは何でこんな風に障害もってこの世界に生まれなければならんかったんやろう?」って、生まれる前の入り口の前まで戻って、もう一回そこに突っ立って考えたい、そうやってみないと気がすまん、そういう《世界》を生きるほかない、そういう人たちじゃないのか?
劇団メンバーほとんどが立って歩けないということがあるんだけど、この「胎内経験」とか「産道経験」とかの空間をいくのは、身を転がして、這いながら、胎児に戻って、そこをいくしかないんだ。あの人たちにとっても「胎内経験」が明確に記憶されているわけではないさ。でも、その《明確に記憶されているわけではない経験》を求めざるをえないんだ。そういう矛盾っていうか、もどかしさというか、切なさというか、そういうのは誰にもある。あの人たちは、そういう誰にもある欲望や願いを人一倍抱え込んで、何よりもまずそれを生きないことには自分を生きたことにならん、そういう人たちなんだ。俺の考えでは。
なんだかな、あの人たちの舞台は根っ子のとこで「寄る辺ない」んだ。この世に着地することもできないし、かといって、胎内へ帰り着くこともできない、産道という途上の空間に宙吊りされて、そこから両方の世界を途方にくれて見てるほかない、そんな夢のなかにいるような悲しさがあるんだ。そんなわけで、あの人たちの体の形自体がなんか幼虫的なんだ。それはあの人たちの生きてる《世界》が幼虫的な性格をもってることと呼応しあってるんだ。俺そう思う。
「態変」のリーダーはさっきいったとおり金満里さん。あるとき福森さんのとこに彼女から電話がかかってきて、こういったんだって。「障害者ばっかりで芝居するんやけど、一緒にやれへんかぁ?」って。福森さんが四五歳のときのこと。福森さん、そのときまで特に芝居に入れ込んでたわけでは全然なかったらしい。子供の頃、親に芝居に連れていってもらったことはある。それも、新派とか、松竹新喜劇とか、新国劇だぜ。別に前衛演劇でも、「舞踏」でも、「身体表現」でも、アングラ芝居でも、全然ない。福森さんは、たんにこう思っただけなんだ。「障害者ばっかりで芝居する、それはちょっとユニークでおもろい、自分は詩を書くことも、フルートを吹くことも、ただ自分勝手にもともと資格ゼロでやってきたんだから、別に自分が芝居やったかて、これまでどおりの資格ゼロの自分の流儀や」って。で、もちろん福森さんは電話に「ええでぇー」って答えた。俺、あるとき聞いた。なんで劇団は「態変」って名前になったの、って。
福森さんが金色のレオタードを着て舞台に立つだろ。なんだか不思議な甲虫みたいなんだ。そういう不思議な、なんだかな、幼虫みたいっていうか、命の形の一番原始的なやつというか。な、昆虫ってものもなんか原始生命の形みたいじゃないか、そういう形した異星人が一人突然どういうわけか地球にやってきて、「ほらあそこに! 俺たちの目の前に突っ立ってる」、そういう衝撃なんだ。立ってるだけでだぜ。
福森さん、ちっちゃくて、ちょっとせむしで、けど胸がすごく厚い。肩も首も力がみなぎってる。それが、顔を支えてる。顔はがしっとごつくてでかい。そこにギロっとした大きな眼が光ってる。だけど反対に、足はカリエスのせいで、びっこで、細いんだ。成長が止まってしまったんだな。ひょろっと、危なっかしく、突っ立ってる。杖がなかったら倒れてしまうように。いっててみれば、カブトムシのごつさと幼虫のか細さが不思議なアンバランスのバランスで、福森さんの体のなかで一つになってる。
うち、よう聞かんかった。友達も誰も来えへんと、ベッドに寝たっきりで、小学校からあわせたら二〇年以上も一人ぼっちで、寂しくなかったん? なんて。よう聞かん。絶望せえへんかったんですか? 自殺したいって考えへんかったんですか? なんて。何が支えはったんですか? 家族の愛ですか? なんて。 どんな希望をもたはったんですか? なんて。ようでけん。そんなあつかましいまね。よう聞かん。そんな、嘘っぽい質問、そんなありきたりの聞き方、自分の手の内さらさんで、人の手の内さらさせようとするまねなんか、ニュースショーじゃあるまいし、できへん。
福森さん、こんな風に話してくれたんよ。
僕はな。何をしてたかというと、ラジオを聴いてた。本はな、その頃読めんかった。本を読みだすと不整脈が起きてくるんや。ラジオで聴いてたのは、まずジャズと落語。この二つはほんまに好きでなぁー! それからけっこうラジオドラマ。ほら、僕が寝たっきりの暮らしをしてた時分はまだテレビのない時代やったから、放送劇というのがけっこうあったんや。子供向けであれ、大人向けであれ。
だから、耳から入ってイメージするもの、それはすごいんや。声と音だけが頼りやで。それだけから人物の顔形、服、そんときの表情、店の風景、街の臭い、空の色、樹の形、花の色、ほんまになんでもやでぇ。みんなみんな想像するんや、イメージ探るんやよ。朗読の時間もそやったし、落語でも、ジャズでも、みんなそやね、考えてみれば。みんな、耳から入ってイメージするもんやね。必ずなんかのイメージを僕のなかに産むもんやね。僕動けんかったやろ。僕寝たっきりやったろ。イメージするしかあれへんのや。僕の言葉は、みんなそうやってできてきたもんやないかな。読んで、体に蓄えられて、発酵してきたもんやなくて、僕の場合は、みんな耳から入ってきたもんや。
うちな、前に電車で、若いお母さんが車椅子に自分の男の子乗せて乗り込んできて、その子たぶんなんか知的障害の子やと思うんやけど、こんな場面見た。その子、薄目を開けて、なんか自分の頭の上の電波を追っかけてる感じなんよ。車椅子から半身つっぱらかして、頭でなんか追っかけてる。突然、フフフー・フーって声を立てずに笑うんよ。あっ、この子今なんかキャッチしたんや、なんかすごく気持ちいいこと、笑けてしまうこと、うちそう思った。
そういうこと誰にでもあるやろ。ちっちゃい頃、風邪ひいて、おかあちゃんがあれこれ面倒見てくれて、氷水に浸したタオル絞って額にのせてくれて、漫画枕元に二冊置いてくれて、ついでに氷砂糖五粒に冷やした水をコップ一杯お盆に置いて、そいで他の用事しに部屋出ていって、うち独りになって、寝床から天井見ながら空想してる、次から次に空想の種出てきて、心細かったり、淋しいはずなのに、なんか満足。変に楽しい。友達と遊んでんのもええけど、たまには、こんな感じで空想しながら独りでいるのもええもんやなぁー、って。
福森さんは、うちらのそんな時間が一日中、毎日、そして二〇年間も続いた人なんかなぁー。きっとそうなんよ。うちな、そう想像したら、うちは想像してればええんかなぁー、って。福森さん、なんか話したくなったら話してくれるやろうし、話してくれへんかてええ。
とにかく福森さんはあの遊びの眼をうちらに運んできたわけや。二〇年もベッドに寝たっきりになって。それが結果や。あの遊びの眼は逆算で証明してる。ちっちゃな福森さんが、ベッドに寝たっきりになってても、いつもあの眼をしてたってことを。元気を失わんと、友達一人も二〇年間おらんでも、寝たっきりをやりとおして、後でごそっと友達作って、詩も書いて、フルート吹いて、劇団やって、それやるぐらい、寝たっきりのときもずうっと、ずうっと、実は遊んでたって。
うちわかったんよ。イメージってことやったということが。福森さんのフルートはイメージを探るフルートやったんよ。曲を吹くフルートやない。福森さんの踊りはイメージを探る踊りやったんよ。振り付けのままに踊る踊りやない。ゆっくりゆっくり片方の手が伸びていって、壁をつたう蔦のつるのように体が伸びていて、もう一方の手も追っかけるように伸びてきて、なんか空中にものを探って掴むようにして、すると今度はゆっくりゆっくり両手と一緒に体がかしいでいって、地面に倒れこんでゆく、そんな様子は、ああ、福森さんイメージを探ってるんや、って、わかった。ほら、あんたがいってたやないの。福森さんから聞いた言葉。「耳から入ってイメージするもの、それはすごいんや」って。あの人、寝たっきりの人やったから、一日想像することしかできへん人やった。あの人、想像することだけが生活やった、そんな二〇年を生きた人なんよ! 遊ぶ眼のちっちゃな福森さんがラジオを聴きながらイメージを探す、その心の仕草がね、体の動きになったのが福森さんの踊り! そのイメージを探してるちっちゃな心の散歩や、旅や、冒険が、独り言が、フルート!
いまでも、もう六十半ば過ぎの福森さんは十一歳のちっちゃな福森さんでもあるんよ!
俺、或る小説家の思い出話読んだことがある。彼、小さい頃外国の小説の翻訳本親父にもらって、それ愛読してた。読んでいて、「キャベツ」というカタカナの言葉が出てきて、その頃の彼の村にはキャベツみたいなしゃれた名前の野菜誰も食べたことなくて、このカタカナの「キャベツ」という野菜いったいどういう野菜なんだろうと、それを一日飽かずに空想してたことあった、って書いていた。たぶんこの小説家もガキの頃はきっと引きこもっていたと違うかなぁー。彼、そのあとでキャベツの本物に出会った、なんだかひどくがっかりして、あの空想のなかでカタカナの「キャベツ」がもっていた不思議なわくわくするような神秘的な研ぎ澄まされたような存在感に比べたら、現実はなんてつまらないんだろうとショックだった、そう書いていた。空想のなかの夢のようなカタカナの「キャベツ」の方がリアルな存在の手応えがあって、反対に、現実のキャベツの方は変に実在感がなくて夢のような掴みどころのないものにひっくり返っていた。あのときの世界が逆さまになった奇妙な感覚は今も忘れられない。今思うと、その奇妙な感覚が与える快感や、謎を掛けられてその答えをどうしても探さなくてはならないといった欲望、これに取りつかれて、結局自分は作家になったんじゃないか。そう書いていた。そんなこと、福森さんに話してさ、「福森さんは《ラジオ人間》だね」って笑った。あの作家の方は《本人間》で、彼のなかで夢・空想と現実界とが逆さまになるのは、近所の子と遊ぶより彼には本を耽読してる方が生きてる心の中心に座ることをとおしてだけど、福森さんの方は、ラジオの耳から入った言葉と音からイメージを創り出そうとして、そのせいで夢と現実が逆さまにひっくり返った人みたいだ、って。
僕、三二歳ごろ心身ともに回復してきて、通信制の大阪府立桃谷高校に通いだしたんやけど、その頃、かなりしばらくや、僕、教室にいてクラスの仲間に囲まれ、前には先生がいて、授業してくれはったんやけど、なんか独りで夢見てるようでな、なんか周り全部が現実感がないんや。寝たっきりでイメージに打ち込んでたときのほうがずっと現実感あったんと違うんか、そんな気がしてきて、変やった。せっかく元気になって現実のなかに出てきたつもりやったのに、そこは夢のように非現実で。そういえば、そのころ好きになった子がおって、デートすることになったんやけど、一緒に話してると、気持がどんどんひいてしまうというか、その子と僕のあいだの距離だけが開いていって、言葉が途切れて、つまらなくなった。自分が想像してたときの彼女との会話と現実の彼女との会話のズレばっかりが僕の意識の前にせり出してきて、そこに僕の意識が集中するもんやから、だんだん何を話していいやら、話す意欲もなくなって、自分の意識がそういう宙吊り状態にあることが嫌でな、もう一刻も早く独りになりたくてな、あれは哀しい思い出や。
うちな、テーマは福森さんのあの遊ぶ眼なんや。うちらの周り、引きこもりの子多いやん。暗い話がうちらを気弱くさせてるやん。うちら、遊んでいるようでも、元気ないやん。思い切りが悪いねん。福森さん、したくてしたわけやないけど、教えてくれてんのやないかな。引きこもるときは、引きこもればいいって。形は、一日ぼけーってテレビ見てたり、ゲームばっかししてるんのでもええかもしれん。テレビが悪いか、ゲームが悪いか、それはまだわからん。うちの経験と突き合わせてしっかり考えたこと、まだない。けど、テーマははっきりしてる。福森さんのように体のなかに溜まって、湧き出るときはちゃんと湧き出てくるように、自分のイメージ、自分があの音この音、あの言葉この言葉、あの風景この風景にもったイメージ、そこから全部自分の感じ方や考えや自分の風景、《世界》の輪郭が出てくるような、そんなことの土台になる自分のイメージ、それを溜め込めるか? ってこと。それがテーマ。そこがポイント。
イメージが溜め込まれてへんかったら遊ばれへん遊びというもんがある。イメージを溜め込む遊びを遊べたら、二〇年寝たっきりでも、寝たっきりをやりとおせる。日々遊び、あるとき起き上がって、その溜めたイメージ全部をもって、うちらに新しい遊びを教えてくれるほどの力で、遊ぶことができる。夢と現実を逆さまに取り違えることはいつもいつも悪いことなのではない。引きこもりはいつもいつも悪いことではない。遊ぶためには、そのことがどうしても必要。
なんでか、説明できへん。そやけど、結果は告げている。福森さんみたいに、うちらを音や体のなかにしまわれた不思議な動きで遊ばせてくれる人は、ほとんどの人があるときはそうやった。引きこもって、夢と現実を逆さまに取り違えていた。
悪いことと善いこととは簡単には区別がつかへん。善いことのためにその悪いことが必要なら、その悪いことは善いこと。悪いことのためにその善いことが必要なら、その善いことは悪いこと。遊ぶことは文句なしに善いこと。いや、そうかな? 人を殺して遊ぶことも、立派に遊ぶことやないの? そしたら、それは善いこと?
無理! そんな難しい問題にうち答えられへん。けど、結果は告げてる。うちのテーマは福森さんの遊ぶ眼。あの眼は人を殺して遊ぶ眼やないわ。人を殺して遊んでたら、あの眼はできへんわ。人を殺して遊んでたら、二〇年間寝たっきりを遊ぶ眼をしてやりとおすことなんか、でけへんわ!
それがうちのテーマ。うちはゆう。宵の明星や!おかあちゃん、人生は「問い」のもとに生まれるんよ! そやなかったら、犬猫となんも変わらへん!
遊ぶためには、別な道を
公園の広場には散歩する人々
小さな旗を風になびかせ
大きな帽子のアイスクリン売り
公園の噴水を飲むように
夕陽が傾きはじめ
母親の背で少年はむずかる
「アッ こうもり」
母親の声に
ふっと気をはぐらかされ
泣きべその少年は
学校のことを口にしなかった
(「公園に夕日が沈んで」から)
少年はガランとした教室から校庭で展開され
る小麦色の躍動をながめていた。それに厭き
ると鞄の底から小さなノートとちびた鉛筆を
二本取り出し、花柄の赤い座布団のN子の席
に腰をおろした。ノートにはプロ野球のチー
ム名やスコア欄が書き込んである。別の厚手
の紙には(一ー一・ショートゴロ、一ー二・
レフトオーバー二塁打、一ー三・三振)など
と一覧表が丁寧な文字で書いてある。彼は表
をほとんど暗記していて、静脈の透けて見え
る細い腕をせっせと動かし小さな鉛筆で作っ
たサイコロを転がしつづける。乾いた音が教
室に響く。ゲームは六回を終って四対一で阪
神が巨人をリード。校庭ではラウドスピーカ
ーが「オクラホマミクサー」の曲を流し、体
育教師の叱咤する声が響く。
(「体育祭」から)
目ぼしい金目の物を
男たちが運び出していくのを見守るばかり
一人の男が 少年の枕元のラジオに手をかけた時
少年は はじかれたように大声を出した
男は一瞬 躊躇したが
ラジオは別の男の手に渡り運ばれていった
持ち去られた物の目立たぬ所に
小さな紙片が貼ってあるのを
少年は知っていた
ラジオがなくなってからの毎日は
在宅少年の唇から歌が消えた
一日の過し方がわからなくなってしまった
向うの通りをチンドン屋が通る
音程の危っかしいクラリネットが
少年のギプスにからみつく
(「凧の見える窓」から)
夕食の膳に手をつけず
持参のみかんの網袋を頭から被っている
ハトはとっくに姿を消し
検温に来た看護婦が注意をひと言
窓が閉められガラスに映る室内
パジャマの胸をはだけ
検温をしながら少年は
窓ガラスに映る自分と睨めっこをしていた
(「睨めっこ」から)
僕が最初に始めたのは詩を書くことやった。今いくつか抜書きしてみたのは、一九八五年頃かな、僕が出した『かびたランドセル』って小さな詩集からのもの。その十年前ぐらいに『ざくろ』って最初の詩集を出した。寝たっきり状態からだんだん抜け出してきてた。すると何か書きたくなったんや。ずうっとラジオ聴いてたやろ。最初はラジオドラマのシナリオとか漫才の台本、落語の台本、そんなんを書いてみたかった。いろいろやってみたけど、最後まで残ったのは詩やった。
でもな、詩もそんときが始めてやった。俳句みたいなもんは中学校の国語の授業で書いたことあったけど、詩なんか全然書いたことなかった。なんか、僕はみんなそうやな。フルートも芝居も、前からやってたから、本格的に始めたっていうんやなくて、全然やってなかったことやのに、突然始めるってパターン。
元気になって、通信制の大阪府立桃谷高校へいったのは三五歳の時。この高校は通信制っていうこともあって、障害者の生徒が多いんや。障害者の生徒たちが集まって一種のクラブ活動みたいなもん始めて、そのうちそこから「学校の設備をもっと障害者が学びやすいものへ改善しろ!」という運動が生まれてきてな、当時日本中で学生運動が盛んやったから、僕らも刺激受けてますます頑張ったんや。通信制やから、普通卒業に四年かかるやん。でもな、僕この運動に夢中でな、八年も桃谷高校にいることになってしもうた。学校さぼったんと違うでぇ。三日にあけず学校通って、僕らのクラブ室や生徒会室に入り浸って、学校改善や障害者運動ばかりしてたんや。寝たっきりの十六年間全部取り返したるぐらいの勢い、きっと自分にあったんやないかな。自分を主張することも、人と人とが手を結んで何か事を起こすってことも、みんなみんな僕には新鮮やったと思う。高校の授業で学んだというより、そういう活動のなかで学んだことのほうがずっと大きいな。
詩は、桃谷高校に通いだす前に、まだ家で寝てた頃から始まってた。雑誌の詩の投稿欄に投稿して、選ばれたりしだして、それが嬉しくて、また書くって感じ。もうだいぶ記憶は薄れてんねんけど、そんとき自分が興奮してた感じは今も体に残ってる。それから、次に、当時詩人の小野十三郎が校長してた大阪文学学校にいこうと思ったんやけど、授業料が僕には高すぎた。僕の小遣いでは無理やなと、あきらめた。そんな時、「詩の仲間募集してます!」っていう三行ぐらいの広告を新聞に見つけて、そこへいったんや。その同人グループ主催している人、自分でも詩を書くけど、どっちかというと詩人を育てることに一生懸命な人で、来てる人を励まして詩を書かせて、詩集出せ出せってけしかけてくれて、僕もその人に励まされてちっちゃい詩集出したんや。本屋で自分の詩集見つけたときは、嬉しかったな。
あんた、風船がすーっと空にのぼってゆくみたいに、ふっとイメージが飛躍して浮かんでくるところ、けっこう才能あるでぇー。頑張りや、って励ましてくれてな。或ることをずうっとねちっこく掘り下げていくより、ポッと浮かぶイメージを追う、これが僕の気質やないかな。さっきいったように、最初は小説やシナリオ書いてみたかったんよ、でも、寝るのが暮らしの僕には、体起こしてきちんと座って長いもの書くのは大変なんよ。それもあって、詩になったんや。特に影響を受けたって詩人は別になかった。いろいろ読んで、あぁ、こんなにもそれぞれ違うんや、それなら僕は僕や。なんか、こういう「先生なし」っていうのも僕のスタイルやね。フルートのときもそうやしな。
毎週日曜日に梅田の太融寺で開かれた合評会、そこではいろんな仲間との議論で、「あんた自分の障害売り物にしたような詩書いたら、詩として終わりやでぇ」と厳しくやられてな。その批判、でも、僕にとってよかったと思うわ。変に同情されてみいな、それは僕にとっては馬鹿にされたってことやし、詩のいい悪いみな嘘になってしまうやないの、人間として真実の関係やないやん。
そこ毎月8頁ぐらいの『詩鉱脈』っていう詩の投稿誌出してて、そこには会に入って詩を書けばすぐ載せてくれるの、それとは別に年に十回ぐらい出す雑誌があって、そこにはすぐには載らない。最初の一年間ぐらいは載らんかったな。
うちのもう一つの「問い」はこうやった。あのフルートの吹き方のどんなところがうちに発見をくれたんやろう?福森さんはゆーた。「遊ぶためには、別な道をいくことが必要やった」って。
別な道をいくことが必要やった! なんて知恵に満ちた言葉なんやろう!たくさんの言葉を後ろに続けてみることができる言葉やろ。別な道をいくことが必要やった! あんたがあんたのおかあちゃんと仲直りをするためには。別な道をいくことが必要やった! あんたがあんたのおとーちゃんと笑いあえるためには。あんたがあんたの彼女と彼女でありつづけたかったら。うちがうちであるためには。そして、あんたがあんたであるためには。
俺はこういうことを発見した。もし、福森さんがフルートで曲を吹いたとする。一番わかりやすい例は、誰でも一回は聴いたことがある有名なフルートの名曲かなんかを。すると、たいていの場合、俺たちの音に向かう感受性のアンテナは、福森さんの吹く音そのものに向かうのではなく、《或る曲を吹いている音という形にはめ込まれてしまっている音》に向かうことになってしまう。音はつねに無意識のうちにも音がその通りに運ばれなくてはならない曲、もう出来上がっていて、幾多の名演奏というのがやられていて、たくさんの先生がああしなさい・こうしなさいと弟子たちに厳しく教え込んできた、そういうこと全部がそこに沈殿していて、それで「これがあの曲です!」といった形で確立してしまっている曲、その曲というものに照合させられるような形で聴かれてしまうし、聴く方は聴いてしまう。そういう関係性が先にあって、そこに俺たちは簡単に滑り落ちてしまう。そこに閉じ込められて、そういう関係が要求するような形でしか音が聴けなくなっちまう。俺たちの音感覚のあり方というか、音に対する意識の持ち方というか、音に対する俺たちの向かい方というか、そういうものが、無意識のうちにそうなってしまう。
模範、一番最高なもの、正解、そういうものがある、こういう前提が無意識のうちに立てられる。そのうえに立って次に、福森さんのフルートの音は、この模範・傑作・正解に対してどこまで近づいているかな? っていう評価と比較の意識のもとに聴かれてしまうことになる。つまり、上手い・下手の意識のもとに聴かれてしまうし、俺たちは聴いてしまう。
聴き手が実際に《模範、一番最高なもの、正解》を聴いたことがあるか、知っているか、ということは実は問題ではないんだ。自分は知らないとしても、「そういうものがある」という意識に知らず知らずのうちになってしまう、このことが問題なんだ。そういうものがある、それなら、そこには上手い下手が当然あるはず、で、このフルートは上手いのか下手なのか? そういう風にしか音に向かう感受性のアンテナが立たなくなってしまう。
それにこういうこともある。そういう風になってしまうと、そこから、今度は自分の好みに合ってるか合ってないか、それの判定だけを問題にする聴き方も生まれてくるんじゃないか? 或る権威の基準にしろ、自分の好みという基準にしろ、とにかく他人の演奏する音へのかかわり方は《基準に照らして判定するというかかわり方》だけになってしまう。
ところが、福森さんのフルートは、端からこういう関係のなかへ俺たちが組み込まれてしまうことを止めにしてまう。そうじゃない、ここでは別な聴き方が問題になってるんだ、相手の出す音にまっすぐ聴き耳を立てることが問題になってるんだ、そのことがすぐにわかるんだ。聴いたことのない音やメロディーが次々と出てくる、するとな、この奇妙な思いもかけない音は何を語りかけてるんだろう、どんな風景を描こうとしてるんだろう、この人の魂のどんなとこから出てきたんだろう、そういう風に自然と俺たちは聴き耳を立てだす。別な聴き方をしたら、別な音が、音の別な響きが、音の別な楽しみ方が、お前への別な入り込み方があることがわかる。そう福森さんのフルートは俺たちに告げる。しかも、これが端から来る。何でも、関係性って端から来るもんだってことが、よくわかる。「これ、聴いたことのない曲や、なんやろ?」と、疑問の前で立ち止まってしまう前に、もう福森さんの音が俺たちのなかに入り込んでいて、俺たちは音のなかに入り込んでいる。初めに関係ありきなんだ。
どんな音が次にやってくるだろう、フルートのはずなのに尺八や日本の昔からのお祭りの音みたいな音がやってくる、きしんだり擦れたり、音が出るというより空気が鳴ったり、福森さんのフルートの音がこんなに色々で思いがけなく、自由で、約束を無視しているってことが、音ってものが実はそもそもそうなんだってことを俺たちに気づかせる。福森さんの体のなかには何ていろんな音が宿ってるんだろう! 俺はその音からどんな風景をつくって遊んだらいい? そのことを発見すべきなんだ。そんな遊びがあったなんて、気がつかなかった。誰も教えてくれなかったから。
で、俺は聞いた。福森さん、いったいどんな道を歩いて、曲を吹かないフルートの吹き方、即興という方法にたどり着いたの? って。
モダン・ジャズの神様みたいなセロニアス・モンクって人がいうたんや。「即興演奏には間違いというもんはないんや」って。僕の大好きな言葉や。「間違い」があるためにはお手本とか先生とか、そういうもんがなければならんやろ。それがあって、初めて「間違い」もあるわけやん。じゃあ、お手本とか先生とか初めからなかったら? 「間違い」もないわけや。即興には、お手本も先生もないやろ。
僕のフルート、初めからお手本も先生もなかった。あったはずやのに、なくなってしまったというのが本当のとこやけど。桃谷高校いきだして四年目かな、その頃家の筋向かいに楽器の卸し屋さんがあって、フルート四万円ちょっとで売ってたんや。表に「フルート教えます」って貼り紙してあって。その頃修学旅行みたいなもんが高校であったんやけど、それにいけなくなったんで、その費用でフルート買ってまえって、それで初めて手に入れた。ところが、「先生病気であきまへん」って。エーッ!て。もうフルート買ってもうたのに!
僕、寝たっきりの最後の頃ギターやってたんよ。ところが左手の人差し指の肉が薄いんや。で、弦を押さえてると痛くなってね。諦めた。でも、なんか楽器が一つ欲しいなって気持ちずうっとあった。高校にフルートの上手い子いて、それを聴いて、僕もやりたいなって気持ちになった。エリック・ドルフィーのレコードでフルートのいいのあって、感激したこともあった。軽いし、持ち運びが楽やし、いいな、って。それが三九歳のとき。
僕のフルートは四〇歳から、それまでなんの経験もなくて、突然始まったフルートなんよ。
でも先生はいなくなった。その頃テレビでフルートを教える番組あったんやけど、どんどん進んでいってしまうんや。追いつけへん。教則本も買ったんやで、一応。でも、読んでもとても根気続かん。
けど、フルートはあるから、捨てるわけにもいかんし、吹いてみたいやん。やみくもに音出してると、自分でも、あっ、これおもろいってフレーズが生まれたりする。即興が自然に始まってるんやね。でも、一方では、もちろん自分の好きな曲をきちんと上手に吹きたいという欲求もすごくある。で、楽譜買ってきたりするんやけど、これがなかなか上手くいけへん。案外僕はフルートと性が合ってたとは思う。音が意外とすぐに出せたからね。それで、とにかく勝手に音を出していた。音が出せるようになると、まあ曲もだんだん自己流やけど吹けるようにはなっていった。曲吹く練習も面白くなってきた。それで自己流なんやけど、一生懸命曲吹いてた。ところが、ここでまた一大事件や。
友達の結婚式に呼ばれてお祝いにそこで吹くことになった。或る有名な曲を。今になって気づくんやけど、その結婚する友達は音大出の人やった。その結婚式に出て、フルート吹くんやから、僕も相当世間知らずというか、音楽知らずやなぁー。その結婚式の演奏でめちゃくちゃあがってしもうてな。もう頭のなかは真っ白。それはそれは惨憺たる結果になったんよ。穴があったら入りたいどころじゃないぐらい、恥ずかしかった。その後ピタッとフルート吹くの、三年間ぐらい止めてしまったもの。それぐらい恥ずかしかった。曲を吹くということに根本的に挫折したんと違うかな、こんとき、僕は。
ところがね、それから数年した頃、宝塚の後で市議さんになった人で女性差別反対運動に熱心に取り組んでいる人がいて、宝塚の橋のたもとに立っている銅像が女性差別の象徴みたいな銅像やから、これに反対する紙芝居をその下でやるから、ついては何でもいいからフルートで音つけてといわれて、作曲されたきちんとした曲を吹かないのでええなら、ええよ、って引き受けた。それがフルート復活のきっかけとなった。
そんときが最初やないかな。作曲された出来上がった曲を吹かないで、そんときの自分の気分を即興で吹く、そういう吹き方で僕は楽しむ、それでいいやん、それが僕のやり方や、って自覚したんは。ジャズの世界でもフリー・ジャズとか、そういう音楽の考え方がはっきり登場してきてたし、セロニアス・モンクのさっきの言葉を再認識したのもその頃。
そういう方向性を自分のなかで強める経験がその後次々に来た。その頃、ぼくは或る表現を勉強するグループに入ってたんやけど、そのグループの年に一回の忘年会は、その年のいろいろな出来事をネタにして、それを参加者全員で即興劇に仕立て上げて虚仮にするというか、笑いのめして風刺するというか、そういう遊びをしてたんや。グループの主催者が必ず天皇の役に就いて、最後は風刺の嵐に天皇の位から転げ落ちて逃げてゆくという落ちで終わるんやけど、その年の時事ネタから大まかなストーリーと役柄だけを決めて、役を割り振られた人はその場で即興で自分の台詞を喋るというルール、それを即興即興でつないでいって、最後の落ちにいくといったような遊び方。僕はその即興劇にフルートで即興的に音を出し、役ももらって即興芝居をやって参加することになった。やってみて、これは面白いなぁーって、またこのやり方に確信もった。
「態変」の活動が始まって、それから二年後かな、「チンドン通信」の川口さんが「態変」の公演の音楽を担当してくれて、そのとき彼のお琴と僕のフルートとの即興でこの公演の一場面をやった。そんときすごく気が合ったというか、音が合ったというか、ええ気分で、それでその後川口さんの家に遊びにいった。彼の家の土間には、ピアノも、三味線も、バンジョーも、ギターも、いろんな楽器が置いてあって、とっかえひっかえ使いながら、即興の音楽遊びをえんえんやった。あんまり、その音遊びがおもろかったんで、僕のフルートと、同じ「態変」のメンバーでキーボードをやる木村年男さん、朝鮮の太鼓のチャングをやってたイ・チョンミさん、それに川口さんのバンジョーとで、「ポレポレバンド」って即興音楽のバンドつくったほどやった。一九八八年前後かな。その頃、そういう即興音楽のバンド珍しかったからみんなに喜ばれてね。今もあんまりないけどなー。
福森さん、ゆうたんよ。「フルートちょっとできるようになって、名演奏家のレコード聴くやん、すると誰でもわかると思うんや、あぁ、とてもとても及びがつかへん。こんなとこまでいくら練習しても届かんし、もう遅すぎるって。しかも僕はフルート始めたんは三九やもん。テクニックとゆうことだけ問題にしたら、もう勝負はついてる、挫折の道しかないやん。だから、別な道をいくことが必要やった」って。 そんときなんや、「別な道をいくことが必要やった」って言葉、うちが出会ったんは。福森さんはどうあっても「別な道をいくことが必要やった」人や。劇団「態変」の人たちもそうや。そうしないと、自分の生命、守れん人や。自分の生命守りたかったら、誰でもしっかり考えて、自分の必要とする「別な道」いかなあかんねん。自分の生命守れてるか守れてないか、それ見分けるんは、自分の生命と遊んでるかないかや。福森さん、そういうてんと違うかな? 自分の生命と遊ばな、自分の生命守れへんよ! 自分の生命守るために、自分の生命と遊ばな、人生、生きたことにならへんよ!って。 福森さん、二〇年間寝たっきりやったけど、自分の生命と遊び抜いたから、二〇年間寝たっきりをやり抜いたと違うん? 自分の生命と遊び抜くためには「別な道をいくことが必要やった」んよ!
うちも、いつか振り返って、そういいたいなぁー!
おかあちゃん! 別な道をいくことが必要やったんよ、人間は! そやなかったら、犬猫となんもかわらへん!
いのちはセッションのなかに
うち、このあいだ古いビデオ拾ってきたんよ。昔、アフリカの飢餓救済にアメリカのスーパースターのミュージシャン達が立ち上がって、「We are the world」って曲みんなで歌って、それ世界中で売って、救済資金にしたってことあったんやけど、そのメーキングビデオなんよ。クインシー・ジョーンズが総指揮者になって、ライオネル・リッチーとスティーヴィー・ワンダーが補佐役みたいな役割果たして、マイケル・ジャクソンは出るは、ブルース・スプリングティーン、シンディー・ローパー、サイモンとガーファンクル、数え上げたら切りないスーパースターのオンパレード、ハリー・ベラフォンテもレイ・チャールスもボブ・ディランまでも出てというビデオなんや。
うち、ビシッと掴んだ点あんねん。
「歌は声や」、これ痛感した。これがひとつ。もうひとつは、あれは合唱やない、声のセッションや、セッションって文化をあいつらはもってる、これがもうひとつ。
ライオネル・リッチーがマイクの前でそれぞれ三人ぐらい組になったスター達に指示すんのや。あんたの番がきたら、もう一歩前に出て、このマイクにぐっと近づいて歌うんやよ、そやないと、あんたの声みんなの声のなかに沈んでしまうがな、って。「もう一歩前に出て」というのはええやろ? 歌うにしろ喋るにしろ、そんときは引くんやなくて、気持も声も「もう一歩前に出て」というのは。それで次々に番きて歌うやん。それはもうス−パースターやからそれぞれ独特やん。声が違う、そして声が違うたら、歌い方全然違うやん。歌詞は共通してさびの部分は「We are the children, we are the world」やし、基本のメロディーは同じやで。でも、声の高低、間の取り方、言葉の引っ張り方、アクセントの置き方、全然違って、もう完全にそのスターの歌い方以外のなにもんでもない。その声はそういう歌い方しかありえへん、って感じ。同じフレーズとメロディーでも、こんだけバリエーションあるん? ってほんまびっくりする。で、つくづく、歌は声や、声の魅力、声の個性以外にない、って思った。
だから、声のセッションなんや。合唱やないんや。みんなの声が一つに溶け合って、ハーモニーだけが一つの声になってそこに響いてるっていうんやないんよ。声、声、声、みんな独立して、お互いに思いっきし違ってて、その人そのものとなって自己主張してんやけど、不思議に響きあってんのや。全部一つずつ違ってんのに、ばらばらでない。呼応しあっていて、それぞれがその人である、その声である、ってことを励ましあっているんや。みんなもっと自分であろうと助け合っていて、自分であろうとすることが一緒っていう連帯感を生んでるんや。
そういう繋がり方があるってことはええやろ。で、うち、「それセッションやで、なんでも、うちら、これからセッションでいくべきと違うん」っていいたい。
絵を描くことを色のセッションと考えた人の話があって、赤って色が偶然にぽんと置かれたら、その脇に次に黒がくるか、青がくるか、黄色がくるかって、感覚の選択があるっていうこといってたんやけど、音楽でもそうやね。最初、ソの音から入ったとして、ソの音出してるうちにミの音欲しくなるか、ファが欲しくなるか、あるいはドが欲しくなるか、隣のラが欲しくなるか、なんやね。それをずうっと選択していくことで、そこに一つのメロディーができてくる。絵の場合と一緒やね。
で、選択というてもな、隠れてんのが出てくるとこを掴むか掴みそこなうかの、そういう選択とちがうかなぁー。そういうソなりミがやで、いつ出てくるかということ、いつもいつも同じに出てくるのかということ、これも難しい問題やでぇ。僕が感じるのはな、そのソはそっくりそのままの形で隠れているんやなくて、幾つかの条件と一緒になって隠れていて、或るきっかけで幾つかの音と一緒になって出てきて、その幾つかの音と一緒になって僕によって選ばれるやないかなぁ、そんな風にも感じるんや。
俺ときどき「表現」って言葉に疑問感じる。今はなんでも「自己表現」っていう。それが大切なんです!って。それは間違ってない。でもな、そのとき「表現」っていうのが、自分だけの力で自分の内から隠れてるものを外に引き出す・あらわす行為という風に掴まれたら、大切な点が抜けてないかな?
セッションの場合は、一緒にやってる他の人の音があって、その音が刺激になって、その音に誘われ促されて自分のなかに隠れていたものが、自分の思ってたよりもっと力をもって出てきたり、こんな展開があったのかと思わせる意外性で出てきたりするわけだろ。そういう自分とは違うもの、別なもの、他であるものからの促し、これが必要なんだ。それで初めて隠れてたものも出てくる。表現といっても初めから自分の内に隠れてるものが全部わかってて、自分が独りの力で好き勝手それを取り出したり取り出さなかったりするのとは違うんだ。このことが考えのなかに入っていないと、リアルじゃない。
だから、ただ簡単に「自己表現」ってことばっかりいわれると、自分とは違うもの、別なもの、他であるものの促しというこの大切な点が見えなくさせられてしまうんじゃないのか? 他のものがやってきてくれるおかげで、こうなる、ってことがもう一つ重要なんだ。自分が自分に向けて頑張るってことのほかに。
セッションということも、文字通り他の人と自分のやるセッションということだけでなく、自分のなかの別な自分と今自分が《自分》と思ってたその《自分》とのセッションってこともあると思うんだ。自分の内に隠れてる別な自分は、それを無視してたり、気づいてなかったり、それから逃げてたりする今の自分から見れば、自分とは別なもの、他のものだろ。そいつと今の《自分》とのセッションっていうことが自分のなかにあるだろ。
ちょうどほら核分裂みたいに、外から飛び込んでくる或る原子のせいで、そこにあった原子が別の電子にいくつにも分かれて、そっから別な電子が飛び出してくる、そういうみたいなもんやな。だから、出てくるもんは確かに隠れてたもんで、僕の持ちもんなんやけど、その外から飛び込んできてくれるもんがないと、有るもんやけど無いもん、僕の持ちもんであって、そうでないもんなんや。
だからまたな、そういう刺激みたいなもんをどう自分の内に入れてくるのかというのも大事な問題となるやん? 恐がって、入れん入れんで頑張ってしまう場合も、恐いけど開くということが何回もの訓練でできるようになってる場合と、これ全然結果違ってくるでぇ。飛び込んでくるもん、飛び込んでこようとしてるもん、それを選びそこなってる状態、選びかねてる状態、これけっこうあるんや。あれもあかん、これもあかん、ってな。そういう選択してしまってるとにっちもさっちもいかへん。とりあえず、入れてしまえ! 後はどうなるか、楽しみということに居直ってしまえー! こういう選択も大事だったりするしね。
だからね、とりあえず始める、これ大事なんと違う? フルート吹くときでも、とりあえずラの音で出発しようって、出発はラの音って錬りに錬って決めてるんやなくて、「とりあえず」それで出発しようってことやね。ラの音出した結果、次に欲しい音絶対あるから。そしたら、そこからは、呼ぶ、呼び出されるの遊び、絶対始まるやん。最初は、「とりあえず」主義や。何で出発するかより、何でもいいからとにかく出発しちまうのが先や、これかな。
でも、こうもいえるわな。最初の一音、俳句連歌の世界やったら発句ってことやね、その一音は「とりあえず」なんやけど決定的でもあるんやね。つまり、そこに無意識になるっていうか、意識としてある自分をもっと大きな体と一体となった大文字の〔自分〕に預けて、待つ、発句が出てくるのを、そういうことがあるんやないかな。たぶん、いい調子のときは、発句がぽんと出てきて、それは頭でこしらえたもん、必死に考えて作り出したもんやなくて、本当にそこに出るべきして出てきた隠れたもんなんやないかなぁ。そういうもんが出やすいように、その出現をブロックしてる要素から自分を解き放って、もっとリラックスして大文字の〔自分〕に自分をもっと自由に預ける、自分を待つってことがあるんやと思うねん。
うちな、結局ノリってことやと思った。福森さんと話してて。福森さん、こうゆうた。遊んできた子はノリがええ。ノルってこと知ってる。遊ぶってノルことやし、ノルこと覚えることや。遊んでない子はノリ悪いな。そうゆうた。
隠れてんねんけど、選ばれたもんや。顔出しかけたやつを、ひょいって選ばなあかんのや、ぐいっと引っ張りださなあかん、それが選択や。福森さんはいってた。「飛び込んでくるもん、飛び込んでこようとしてるもん、それを選びそこなってる状態、選びかねてる状態、これけっこうあるんや」て。選びかねてるんやなくて、そいつを選べなばあかんねん。それ結局ノリやん。選択って、ノリやん。そういう選択できるためには訓練できてないとあかんねん。「とりあえず、入れてしまえ!」主義もノリやね。ぐずぐずしとったら、出発できへんし、出発したら絶対次の音がくるってスピードの確信できへんし。そやろ、そやから、福森さんいってた。遊びは人間の自立性を生み出し鍛えることなんや、って。「遊びって、本人夢中にならんと面白ないし、遊びにならへんやん。誰かのいわれたままに動いてたって楽しくないやん。自分がその気にならんと。それって自立してる状態やんか。それは自分の遊ぼうとするエネルギーにノッテルことやん。自立するってことは、自分にノルってことやで」といってた。
あんたに、これ伝えておくは。福森さんはいってた。ノリは遊びに大事なだけやない、って。音楽やるにも、文章書くにも、ものを考えるにも大事なんや、って。「ノル力なかったら、自分のなかの隠れたもの、次々引き出して、今ある自分の力超えて、それ以上の力で、それ以上のレベルに飛び込んでいくこと、できへんでぇー」って。
俺にな、福森さんこういってたぜ。
僕はな、大阪の文化には可能性があると思う。大阪のボケとツッコミの文化はいってみればセッションの文化やと思う。合唱の文化やなくて。それは可能性があると思う。ただお笑いブームだけに消費されてしまうだけやったらもったいない可能性があると思う。